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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

戦略と戦術2

2008年09月08日 | 理論
 前回のエントリーで、戦略と戦術の話をしたが、今回はそのつづき。

 ちなみに前回のエントリーはこちら

 ブルデューの戦略概念について少しだけ話をしたが、今回はサッカーの話(笑)。

 今は、日本代表の監督は岡田監督に代わってしまったが、病気で倒れる前のオシム監督時代の話をしたい。彼は「考えて走るサッカー」を提唱していたが、それは、複数の選手が動くことで、複数の選手がボールに絡む状況を作り出すためだ、というのがジェフ千葉時代からオシムを観察してきた西部謙司氏の見解。つまり、複数の選手がボールに絡むことで、多対多の状況を作り出す。すると、プレーの選択肢が必然的に増える、というわけである。(ちなみに、これは、次のコラムで述べている→こちら)。
 ただし……。ここが、氏が述べる問題なのだが、プレーの技術が伴わなければ、多対多という状況を作り出してもプレーの選択肢が増えるわけでもないし、またプレーのアイデアも技術が伴わなければ生まれてこないのが、その時の日本代表の問題である、と指摘している。
 40メートル先の選手にパスを出すという戦術は、それに伴う技術があって初めて可能になる。まあ、これはあたりまえのことだが。ただ、西部氏が指摘しているのは、40メートル先に性格にキックする技術がなければ、40メート先の選手にパスを出すという「アイデアそのもの」も生まれてこないということである。ここでの「アイデア」を、「戦術」と言い換えても良いと思うが、40メートル先の選手にパスを出すという戦術が可能なのは、それを可能にする技術があるからであり、その技術と戦術が伴わなければ、多対多の状況を生み出す「戦略」があっても、決して良好に機能しない、こう言うことができる。

 こう考えると、「戦術<戦略」という一般的な考えにも修正が必要になってくると言うこともできる。

 つまり、大局的な局面における作戦を意味する「戦略」に先だって、具体的な局面における作戦である「戦術」が(正確には、戦術を可能にする基礎的技術が)、決定的な要因として横たわっているというわけである。このように考えると、戦術の方が戦略よりも、大局的な局面に関係していると言うことができる。具体的に言えば、戦略は試合ごとに毎回変えることができるが、40メートル先の選手にパスを出すという戦術(とそれを可能にする技術)は、一試合で取得することはできない。すると、戦術は戦略に先立って決定されていると考えることもできるだろう。

 ブルデューであれば、このような「40メートル先に正確にキックする基礎技術」を資本と呼ぶであろう。こう考えれば、ブルデューが戦術という概念を用いずに文化資本、教育資本などの用語を用いて、それに基づいて戦略が決まるという立場をとったことにも納得がいく。

 などと言ったが……。これはあくまでサッカーの話であり、現実の社会にそのまま応用できるモデルではない。また、ブルデューが立てるモデルとも違っている点も意識しておくべきだろう。
 というのも、サッカーというのは結局、勝つという共通の目標が設定されている上での話。これに対して、現実社会の中で共通の目的が共有されている場面というのは、どれぐらいあるだろうか? まあ、ブルデューなどは、distinctionという目的を各個人が持っているという前提から、市場概念を導入しているので、上の話とは類似性があると言うこともできなくはないが、そうであるが故に現実のあり方からは少し離れてしまうのではないかという気がしないでもない。

 「戦術<戦略」という図式を「戦術>戦略」へとひっくり返す新しいconceptionがブルデューの中に内包されているという議論とその後の展開は、上のようなネックを抱えていると、思われる。


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