a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

ブルデューとパスカル

2012年11月02日 | 理論
 現在、パスカルとブルデューの関係について論文を書いている。以下はその中のアイデアの一つ。パスカルのパンセには、有名な断想がある。

 347
 人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中でもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
 だから我々の尊厳のすべては、考えることの中にある。我々はそこから立ち上がらなければならないのであって、我々が満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
 これは有名な人間は考える葦であるという断想である。これについても、ブルデューの立場が関連している。パスカルは二つの無限を区別する。我々を囲む宇宙の無限と、微少なものに宿る無限を、である。その上で、人間の尊厳は後者にあると述べているのだ。

 348
 考える葦。
 私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、考えることによって私が宇宙をつつむ。

 これは、以下の『パンセ』にある二つの断想である。

パンセ (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論新社


 ちなみにここの「包む」という言葉は、原語がcomprendre。理解するという意味と、包むという意味を持っている。

 このことは、人間の「解放」に関するブルデューの立場にも適応して考えることができる。つまり、ブルデューは。人間の無限の自由を素朴に信奉する「解放主義」よりも、現実の慣習行為をふまえた上で現実的な改革を主張する。我々の持つ自由は、社会的な喫緊から自由なスコラ的理性が夢想するような無限の自由ではなく。我々の思想の規整を変える自由にあるのだ。これは無限の自由をもたらしはしないが、我々が被る現実拘束を変えてゆく手段を与えてくれる。

 で、どうでもいい話だが、山口百恵が芸能界引退の際に出した曲、山口百恵:さよならの向こう側の出だしの歌詞が、この「二つの無限」の話だったよな~、どうでもいいが考えたのだった(笑)。

 見田宗介の『時間の比較社会学』でも、この二つの無限の話から、私たちが現在持っている近代の線形的時間概念が決して客観的なものでないことを説明している(パスカルを引いているわけではないが)。

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店


 山口百恵の歌の作詞は阿木曜子だが、そういう意味では、「二つの無限の区別」というものは、それほど独創的なものではなく、誰でも思いつくものといえるかもしれない。ただ、そこは早い者勝ちで、パスカルのパンセがオリジナルなものであったことは疑いがないが。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。