犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

語りえぬものを語れない世界人権宣言

2007-10-28 23:33:07 | 言語・論理・構造
近代の自然権思想に基づく天賦人権論は、中世における神への信仰から脱却し、人間の尊厳に絶対的な価値を置いた。神の地位にとって代わったのは、人間の理性である。世界人権宣言第1条にも、次のように定められている。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」。

さて、この人間の理性というものは一体何なのか。理性とは、考えることであり、疑うことであり、信じないことである。すなわち理性の機能とは、「理性とは何か」ということ自体を理性によって考えることである。そして「人間は本当に理性と良心とを授けられているのか」ということを、信じずに疑うことである。そうだとすれば、条文において人間の理性を掲げ、それを絶対視することは、理性という機能それ自体において矛盾が生じる。

人間は理性と良心とを授けられているというのであれば、それを授けたのは一体誰なのか。ここで神であると言えないならば、人間自身であり、理性自身であるというしかない。しかしながら、理性が理性自身を裏付けていることは、それを明文化するや否や、理性とは対極にある信仰に陥る。理性とはそれ自体が否定の作用であり、条文において明文化されることを性質上拒むはずである。この点に自覚的でないならば、単に中身を神から人間の理性に入れ替えただけであって、近代は中世を見下せるほどのものではない。

語りえぬものを語ろうとする、それは理性以前のものを感知した理性が、理性の言語によってそれを語ろうとすることである。すなわち、理性とは「理性」という文字によっては語れず、理性の言語によって語られる言葉の、それが出てくる源のほうを感じたときに、初めて語らずに示されるものである。その意味で、いかなる条約も、憲法も、法律も、理性を語ることはできない。語ろうとすればするほど、それは示されにくくなる。