犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岩崎武雄著 『哲学のすすめ』

2007-10-29 21:51:31 | 読書感想文
この本は、昭和41年に初版が発行され、現在まで76刷を数えている。今から42年前、昭和40年12月に書かれたまえがきを読んでみる。「現代の社会をながめると、わたくしはなんだか、社会全体がどうも『考える』ということを忘れつつあるのではないかという感じがしてなりません。テレビなどの普及によって、人々が受動的な態度にならされてしまって、自発的に『考える』ことをしないようになったのかも知れません。しかし何といってもいちばん大きな原因は、社会全体がただ直接実際に役立つもののみを求めて、どう生きるべきかという根本的なことがらを、それが直接役に立たないという理由で無視しているところに求められるのではないでしょうか」(p.3~)。

42年経って見てみると、この「テレビ」というところに妙に説得力がある。その時代に、テレビが人間に与える影響について実証的に論じた本は、今の時代では何の役にも立たない。ところが、岩崎氏の文の「テレビ」というところを「インターネット」「電子メール」「携帯電話」「ウェブサイト」「オンライン」に置き換えてみると、ますます説得力が上がる。「直接実際に役立つもの」というところにも、金儲けの話ばかりの現代社会から見てみれば、妙な説得力がある。これは先見の明などという次元ではない。哲学的思考は、時代から隔絶しているように見えて、なぜか常に時代の先端を走ってしまっていることがわかる。

憲法9条についても、岩崎氏は42年前にこのように書いている。「条文の解釈の相違は、もはや人々の立つ世界観の相違によるとしかいえないのではないでしょうか。われわれの解釈の幅にはむろん制限があります。しかしその一定の幅の中で、われわれの条文の解釈は事実相違しているのです。そしてこの相違は、世界観・哲学の相違によっているのではないか、と思われます」(p.147)。42年後も同じように条文の解釈をめぐって喧々諤々の議論をしている様子を見ると、岩崎氏の説明は非の打ちどころのないほど正しいことがわかる。そして、この間に生きていた人間はかなり恥ずかしいこともわかる。

社会学は「社会」を研究する学問であり、数学は「数」を研究する学問であるが、哲学は「哲」を研究する学問ではない(p.14)。すなわち、その内容は生きることそのものであって、生きている限りは自然に生じてくる。ここが、他の学問との質的相違である(p.20)。実証的な社会科学も、その根底においては、深く哲学と関係していることを免れない(p.148)。この点についても、42年前の経済学や法律学の本(特にマルクス主義に立脚したもの)がほとんどゴミになっていることと比してみれば明らかである。社会全体が『考える』ということを忘れているのであれば、単に『考える』ということを思い出せばいい。それだけの話である。