犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

画期的な判決

2007-10-16 15:56:10 | 実存・心理・宗教
昨日、製薬会社の「日研化学」の当時35歳の男性社員が自殺した事件の裁判で、東京地裁は上司の暴言が自殺の原因であるとして、労災を認める旨の判決をした。原告代理人の川人博弁護士によれば、パワーハラスメント(地位を利用した嫌がらせ)を原因とした自殺を労災と認めた司法判断は我が国史上初とのことである。川人弁護士は、この判決につき「画期的な意義がある。国内では上司の嫌がらせの規制が立ち遅れており、改善を求める」と述べている。さて、人間はこのような判決が画期的であると喜んでいることができるのか。これは、近代社会のニヒリズムに冒されているか、1つの試金石になり得る。

もちろん、労働者の権利の確立という視点からすれば、昨日の判決を見ても喜んでばかりはいられない。この判決はゴールではなく、スタートであると叫ばれるだろう。そうだとすれば、このゴールに達するためには、その理論はあと何人の自殺者を必要とするのか。これは、厳罰を主張する人が凶悪犯罪を目にすると怒りながらも何となく熱くなって盛り上がり、冤罪撲滅を主張する人が冤罪を目にすると怒りながらも何だか嬉しそうにゾロゾロと集結してくるのと同じ構図である。歴史の積み重ねによる理想の世界の確立には、それ自体として必然的に死者の発生を期待する。「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」(ニーチェ・権力への意志)。

労働者の権利の確立を訴える地道な理論が、会社を動かし、裁判所を動かし、ついには国を動かした。しかしながら、この世のどこに会社という実体が存在するのか。裁判所も国も同じである。抽象名詞が乗り物のように動くことはない。ところが、人間はこの比喩的表現を実体化して、個々の人間を見落とす。そして、個々の人間を見落とせば、人間の生死を見落とし、肝心の問題の起こりを見落とす。すなわち、男性社員の自殺である。日本国では上司の嫌がらせの規制が立ち遅れており、改善を求めるべきであるという政治的な主張の中身は実に正しい。しかし、自殺をした人にとっては、もはや「改善」という文法は存在しない。彼の死は無駄ではなかったという評価は、あくまでも生きている人間の側の文法である。「多く考える人は党員には向かない。というのは党派などを突き抜けて考えてしまうからである」(人間的な、あまりに人間的な)。

画期的な出来事というものは、これまでの時代を区切り、新しい時代を開くものとされる。そうであれば、この時代の究極の区切り、すなわち両端は何か。これは永遠であり、永久であり、かつ無であるとしか言えない。いずれにしても、わずか80年前後の有限の生を生きている人間が扱い得る概念ではない。昨日の判決が判示した我が国史上初の事実とは、人間の生死そのものの話ではなく、人間の死を金銭に換算する際の基準の話である。日本は欧米より何十年遅れているといった議論は、永久の時間軸の下では意味がなく、自らが80年前後の有限の生を生きていることを大前提としている。労働者の権利の確立、それに基づいた理想の社会の建設、この崇高な目的はそれ自体が近代社会のニヒリズムの象徴であり得る。「世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである」(反時代的考察)。