犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

法解釈と法適用

2007-10-24 22:39:42 | 言語・論理・構造
法律家の間で、しばしば見られる論争の形態がある。それは、条文の意味をどこまで拡張解釈したり類推解釈したりできるかという争いである。そこでは、現実の世の中の動きというものがあって、「古くなった法律をどこまで時代の要請に合わせて解釈できるか」という形で問題が出てくる。そして、「文字に拘泥して現実の社会を無視する法解釈をすべきではない」という意見と、「法解釈を行う者は立法論に踏み込んではいけない」という意見とが激しく争われてきた。これは、具体的妥当性と法的安定性の相克と言われる。

ウィトゲンシュタイン哲学からすれば、まずは「文字に拘泥して現実を無視する法解釈」という表現の誤解が指摘されなければならない。法は言葉であり、言葉そのものである。言葉のない法、言葉以前の法、言葉の外の法はあり得ない。言葉は人間において存在している。存在してしまっている。法における個々の条文も言葉であるが、「法」という語そのものも言葉である。法は言葉に内属し、言葉の存在を前提としている。言葉は法に先行する。法律の文法は、日常言語の文法に逆らうことはできない。

言葉と法がこのようなものである以上、「文字に拘泥して現実を無視する法解釈」という命題は、言語ゲームの階層性を承認してのみ、その意味が通ることになる。「文字」とは部分的言語ゲームの文字と現実であり、「現実」とは日常の言語ゲームの文字と現実である。このように考えなければ言葉の意味が通らず、言語が言語としての機能を果たすことができない。法解釈、法適用と言っても、その「解釈」「適用」といった語そのものが言葉だからである。この言語の網の目に自覚的でないならば、言葉を扱いつつ言葉を忘れるというパラドックスの罠にはまってしまうことになる。

法解釈とは規範の定立であり、法適用とは現実社会へのあてはめであるとされる。このような実体の存在をイメージしてしまうと、それは言葉の一言一句を重箱の隅を突くように扱いつつ、言葉が人間において存在してしまっている状況をスッポリと見落とす。科学主義、客観主義的な習慣をそのまま法律学に持ち込めば、「文字に拘泥して現実を無視する法解釈をすべきではない」という論争はいつまでも終わらない。それは、お互いに客観的な文字の意味を探る体裁を採っていながら、実はイデオロギーの主義主張をしているに過ぎない。

「規範」「定立」「適用」「あてはめ」「現実」「社会」、すべての抽象概念は、言葉であるところの抽象名詞によってしか表現できない。これを見落とした法律学は、条文の一言一句の解釈と新判例を追うことで忙しく、法律が言葉であることを見事に忘れる。高度な技術を追求すぎた理論は、条文の背後に壮大な体系を構築してしまい、その論理的整合性を維持するのに忙しくなる。しかしながら、一度始めてしまったものは容易にやめられない。かくして、法律が人間を苦しめるという本末転倒の現象が生じることになる。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。