犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

八木秀次著 『反「人権」宣言』

2007-10-25 22:19:26 | 読書感想文
八木秀次氏は保守系の論客としてテレビにもよく登場している人物である。同氏が日本国憲法の条文に真っ向から逆らうような「反人権宣言」をなし得るのも、自分の中の違和感を手放さず、「社会はこうなっている」という形式の押し付けに流されていないからである。保守系と言えば、古い道徳を押し付けるだけの考え方だと捉えられやすい。しかしながら、古いものとは「古くて現在も残っているもの」であって、「古くて現在は消えたもの」は、そもそも古いものとして現在に現れることはない。その意味で、何でもかんでも現状否定を主張し、しかも自らの立場も将来的には古くなる事実を失念する革新系に比べれば、保守系のほうが哲学的には深みがある理論が多い。

イギリスで1628年に「権利の請願」を執筆したエドワード・コーク(1552-1634)は、次のように述べている。「我々はいわば昨日生まれた者に過ぎず、父祖から学んで光と知恵を与えられなければ、無知のままにとどまっていたであろう。往昔の日々、過ぎ去りし時を顧みれば、この地上における我らが日々など陰の如きものに過ぎない」。さらにイギリスの思想家エドマンド・バーク(1729-1797)は、「権利の請願」は抽象的な人間の権利を述べているわけではなく、祖先から引き継いだ相続財産について述べているのだと指摘している。これは、誰しも人間が自分の力でこの世に生まれてきたのではなく、祖先が存在しなければ自分も存在しなかったという単純な事実を忘れなければ、ごく当然の帰結だとして納得できる話である。あえて賛成や反対を表明するほどの話でもない。

フランス人権宣言によって確立された人権概念とは、超越的原理を想定せずに、人間がただ人間であるということのみに基づき、人間は尊厳性を有するというものであった。そこでは共同体も宗教もなく、歴史も伝統もなく、人間がそれ自体で尊厳のある存在であるとされている。すなわち、人間それ自体が自己目的であり、それ以外の理由を外部に求めることをしない。しかしながら、このような自己目的の理屈は、それを疑うことが許されなくなるため、必然的にその概念自体が一神教の教祖様となる。ここには、哲学的な深さなどない。かくして世俗化された人権概念は、容易に政治的な主義主張のための道具として用いられることになる。アメリカの思想家であるM・J・サンデル(1953-)は、自己決定権に基づく孤立した自我には、道徳的深みがなく、移ろいやすく、全体主義的衝動に駆られやすいと述べている。

本来、人権という概念には、実存や生命の重さを読み込むこともでき、哲学的な自問自答の契機にもなりうるものであった。しかしながら、自己決定権の名において政治的な主義主張がなされれば、それは原理主義同士の神学論争となるしかない。人間の尊厳を自己目的とする人権論が、いつの間にか社会全体を思想統制するようになり、ごく当たり前の違和感すら押しつぶす作用を有するようになっている。「あなたは人権感覚がない」、「あなたは人権意識が薄い」、面と向かってこのような批判を受けた場合のことを想像してみれば、その恐ろしさは容易にわかる。一方的に悪であるとレッテル貼りをされて、正義の人物からお説教を受けること、これがどうして「人間はそれ自体で尊厳のある存在である」との思想から演繹的に導き出せるのか。やはり実存や生命の重さを語るのであれば、端的にそれを捉えれば済む話であって、人権を経由してくることは無用なトラブルの原因となる。

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