犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

関根眞一著 『となりのクレーマー』 その2

2007-10-10 17:49:42 | 読書感想文
これまで、職場うつや過労死、過労自殺などの問題は、社内の経営陣や上司との関係でのみ論じられてきた。過酷なノルマ、サービス残業、同僚のいじめといった問題である。そこでは、民法や労働法の安全配慮義務の理論も細かく展開されてきた。しかしながら、ここまで現代の「苦情社会」が避けられない情勢となると、社外からのクレーマーに端を発するうつ病や自殺も問題とせざるを得ない。ここでは、クレーマーに安全配慮義務など期待できるはずもなく、従来の理論では完全にお手上げである。「部下にクレーム対応を押し付けた上司の責任を問う」などと言って内輪もめをしていれば、クレーマーはそのまま放置される。パラダイムの転換期だなどと言っている暇もないほどの泥沼である。

こう言ってしまっては身も蓋もないが、クレーム処理という仕事には一見して意味がない。生産性もない。ゆえに人間は、そこに意味や生産性を求める。さらには、クレームを受けることにこそ意味があり、そこに生産性があるのだと言い張られる。これがニーチェによるルサンチマンの洞察である。本当はクレーマーなど来ないに越したことはないが、ルサンチマンに冒された人間は、クレーマーを歓迎するようになる。それはニヒリズムの回避でもあり、「事実ではなく解釈だけがある」との法則の証明にもなっている。

関根氏は、「お客様相談室長」として、いつもクレーム処理に全身全霊を注いでおり、最後には楽しいと感じるようになったと述べている。そして、「人と人だからこそ、いつかは分かり合える」という未踏の地を求めて、今もクレーム対応の世界を前進している。「お客様相談室」に配属された新入社員は、プロの室員となるべく毎日鍛えられ、個人情報保護法や消費者基本法など、沢山の法令を覚えて努力しているらしい。ルサンチマンによる期待値の低下の操作が何とか保たれているうちは、このシステムは維持される。しかし、桁違いの自己中心的なクレーマーが登場すれば、そのあおりをまともに受けた社員には一気に人生の文法が降りかかり、うつ病と自殺の危機にさらされることになる。

「自分はクレーム処理のために生まれてきたのか」。クレームの対応の小手先のマニュアルの確立は、この根本的な問いを見えにくくする。それゆえに、見えてしまった時の絶望は大きくなる。クレームは宝の山であり、営業改善の提案の一環であり、新製品の開発のヒントであり、企業の社会的信頼を得るための不可欠な仕事である、このような美辞麗句は脆弱である。そもそも「お客様のために」というルサンチマンの構造は、すでに自分自身を客のために殺しているのだから、その客が自分の手に余れば、そろって討ち死にするしかないからである。苦情社会の到来によって、人間がさらに軽くなってきた。職場うつや過労死、過労自殺などの問題を考えるならば、この点はまず避けては通れない。