犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ロストジェネレーション

2007-10-11 16:43:57 | 実存・心理・宗教
1972年(昭和47年)生まれから1983年(昭和58年)生まれの2000万人の若者が「ロストジェネレーション」と称されている。日本が最も豊かな時代に生まれたものの、少年期にはバブル崩壊を経験し、社会に出た時には戦後最長の経済停滞期に直面し、「失われた10年」の煽りをまともに食った世代である(私もこの一員である)。2002年(平成14年)から回復し始めた日本の景気が過去最長の上昇を続け、雇用が増え、大学新卒の求人倍率が16年ぶりに2倍を超えたとなれば、ロストジェネレーションの一員としては心中穏やかではない。しかし、このような怒りのやり場のない怒りは、そのやり場を冷徹に見つめることによって、労力の無駄遣いを防ぐことも可能である。

ロストジェネレーションは何に対して怒っているのか。一見すれば社会的な怒りである。政府は景気回復策を怠り、「失われた10年」をもたらしたのであるから、その被害者を救済すべきではないのか。経済界も1984年(昭和59年)生まれ以降の若者を優遇している暇があったら、ロストジェネレーション救済をするのが社会的責任ではないのか。それはその通りである。しかしながら、この世代に属さない人々からは社会問題でも何でもないことからも明らかなように、この怒りは個々人の深い実存不安に端を発している。人間は誰しも生まれる時代を選べない。自分はなぜこの国の昭和47年から昭和58年の間に生まれてしまったのか、この運命に対する絶望が根底にある。そして、その世代に属さない次世代の若者への羨望がある。この怒りは、社会的な要求の最初の根源でありながら、社会的な要求というカテゴリーの設定により、一瞬にして見えなくなってしまう。

経済的な生存の問題の多くは、根底に哲学的な実存の問題を抱えている。これは別に、わざわざ問題を難しくしているわけではない。人生は一度きりであり、自分がこの世にこのような形で生まれてしまったことは取り返しがつかず、生まれ直すことができず、取り返しがつかないという端的な事実である。ある世代が他の世代を羨んだり、見下したり、嫉妬したり嫌悪したりするのも、自分では世代を選択できないことに基づく。大学新卒の若者に求人が殺到する一方で、30歳前後の人間はワーキングプア、ニート、ネットカフェ難民として苦しんでいるのは、極めて哲学的な問題である。ただ、そのような人生をすでに生きてしまっている個々人には哲学的な問題であるが、政治的な対策を要求するとなると、哲学的な問題は見えなくなる。そして、政府に対する怒りを表明する個々人にも見えなくなる。もちろん見えなくなったからと言って、消えるわけではない。

自分はなぜこの時代のこの国に生まれたのか。この文脈における「自分」は、近代的自我としての1人称代名詞ではない。「もしも父親と母親が出会っておらず、それぞれ別の人と結婚していた場合、自分はどうなっていたのだろうか」という文脈における「自分」と同じである。他人事のように「失われた10年」と言われたところで、この現に存在する人生はどうしてくれるのか。こんな問いは、社会学や経済学、政治学や法律学には扱えない。昭和○○年に日本に生まれた、戸籍と住民票によって確定できる「自分」を扱うのが精一杯である。世代論の格差の絶望が巻き起こす怒りを正面から受け止めるという作業は、やはり哲学という思考にしか扱うことができない種類のものである。もちろん、扱ったところで何の実効性もなく、ワーキングプアが減るわけではない。