犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

田村裕著 『ホームレス中学生』

2007-10-31 12:41:26 | 読書感想文
お笑い芸人・麒麟の田村裕さんの自伝であり、大ベストセラーとなっている本である。自らは芸人本ブームに乗ったと謙遜しているが、この本の内容はそれに止まらない。扱われているのは人間の倫理の問題であり、生死の問題であり、そして倫理の問題が生死の問題と切り離せないことである。楽して金儲けをする方法論、簡単に幸せになるマニュアル本ばかりが目立つ中で、この本が大反響を巻き起こしているのを見ると、現代の日本も捨てたものではないという気持ちにさせられる。

田村さんは中学2年生にしてホームレス生活を強いられ、空腹に耐えかねて、コンビニでパンを盗もうかどうか悩んでいた。現在の価値基準であれば、多くの人がそのまま万引きを実行する状況であり、また多くの人がやむを得ないと言って理解を示すような状況でもある。ところが田村さんは、生死にかかわる空腹の状態でありながら、これを思いとどまった。その理由は、「そのときお母さんの顔が浮かんだ」「お母さんが止めてくれた」ということだけである。単純でありながら、これ以上説得力のある言葉はない。田村さんの母親は、田村さんが小学校5年生の時に亡くなっている。

死後の生があるか、来世はあるか、死者は地上を見ることができるのか、このような理屈は我々の思考を極めて不自由にする。田村さんが「もしお母さんが見ていて、そんなことをしようとしていると知ったら、どんな顔をするだろうか」と考えてパンを盗まなかったのであれば、それは端的にそれである。その瞬間には、それ以外の言語は存在していない。心理学の用語によるもっともらしい説明は、すべて後知恵である。少年法がどうの、規範意識がどうの、可塑性がどうの、専門家の小難しい理論よりも、田村さんの一言のほうがなぜか説得力がある。田村さんは「もしパンを盗んでいたら、僕の人生がどうなっていたかを考えると、ぞっとする」とも書いているが、これは実際にその可能性が高く、1つの分岐点であったのだろう。

田村さんがパンを盗まなかったのは、「盗んではいけない」という強制ではなく、「盗みたくない」という自由意思によるものであった。これは倫理の本質を突いている。そして、それが「お母さんが見ていてくれた」という現実から必然的にもたらされたことは、倫理の問題が生死の問題と切り離せないことを示している。死者が自分を見ているという表現は、現代の客観的な科学主義の下においては、非科学性を前提とした比喩としか受け取られないことが多い。しかしながら、そのような比喩的な言葉が語られる源泉のほうを見つめてみれば、これ以上正確な表現もないことがよくわかる。

田村さんは自ら文章力がないと謙遜しているが、実際には文章力は非常に高く、そもそも倫理や生死の問題は文章力の問題ではない。「いつかお母さんが帰ってきたときに喜んでもらえるように」「死んで、お母さんに会ったときに、褒めてもらえるような死に方をしたい」、これらの表現の中で語られないことによって語られていることをいかに読み取れるか、これは読む側の問題である。「何もかも当たり前であった。従って、当たり前だった事を当たり前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる」(小林秀雄著『感想』)。田村さんの文章は、小林秀雄の名文にも匹敵すると、私は思う。

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