犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

で、どうすればいいのか。

2007-10-22 21:25:01 | 言語・論理・構造
犯罪被害者保護対策はどうすればいいのか。問題はどうすれば解決するのか。高度に専門化した社会科学は、ああでもない、こうでもないと苦し紛れの解答を出しているが、どれもこれも解決には程遠い。それでは、万学の祖である哲学からはどのように答えられるのか。哲学は、「そんなものわからない」という最強の答えを持っている。それだけに、わからないことを前提として、半分冗談で色々な解答を出すことができる。例えば、ソクラテスは「よく生きる」と述べているし、ハイデガーは「死を見つめる」と述べた。

もっとも、「よく生きることが犯罪被害者保護につながる」と言っても、普通はチンプンカンプンで何だかわからない。その意味では、犯罪被害者保護に直接につながる哲学論としては、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論が最強であろう。言語を厳密に定義して日常言語と一線を画そうとする法律学の手法は、言語ゲームの階層性を表している。逃れられない1次的言語ゲームの網の中で、1次的言語ゲームへの自己言及によって言語に囲まれつつ、部分的言語ゲームを人工的に作って閉じられた体系を完結しようとするのが法治国家である。このような説明を経てみると、犯罪被害者の疎外感に基づく二次的被害の発生原因が正確に捉えられる。

実際に罪を犯した者が否認をし、身の潔白を主張することは、近代刑法に基づく法治国家においては正当な権利である。憲法や条約で認められた正当な権利であるから、何ら後ろめたいことはない。堂々と無実を主張する権利がある。これが法律学を学んだ者の常識であり、法律を学んでいない者の非常識である。このような常識の相反が生じるのはなぜか。それは、その言語ゲームが部分的であるからに他ならない。実際に罪を犯した者における正しい行動とは、深く反省し、真実を語り、被害者に謝罪をすることである。これが我々にとってなぜか自然であり、腑に落ちる結論である。正義という語を用いるに相応しいとすれば、これが1次的言語ゲームにおける常識であろう。1次的言語ゲームの存在自体は、1次的言語ゲームでは語れない。

犯罪被害者保護にとって有用な視点は、法治国家の理論はあくまでも2次的言語ゲームであって、それを1次的言語ゲームに広げることができないという点である。閉じた体系が開いた体系を説明できるわけがない。近代刑法の理論においては、法廷で自己弁護を繰り返して被害者に責任を転嫁する者は、自らの行為を深く反省して謝罪する者よりも正しい行動を選択していると評価される。しかし、これは1次的言語ゲームにおいては正しくない。1次的言語ゲームの網の目の中に生きている人間において「正しくない」と感じられるならば、それは「正しくない」としか言いようがない。これに形而下的な実証性を求めるのは野暮である。

被告人の防御権は人類が過去の刑事裁判の歴史の中からその叡智をもって生み出した最重要の権利であり、どんな凶悪犯人であっても反省する義務などなく、それが人権思想に基づく近代刑法の大原則であり、条約や憲法でも保障されている。それはその通りである。しかし、哲学的にものを考えるという作用は、それ自体が否定の作用であって、自分の足元に足払いをかけるようなものであり、近代刑法の大原則を信じるような思想とは覚悟が違う。条約も憲法も、すべては部分的言語ゲームである。「犯人の謝罪の言葉を聞きたい」という被害者の言葉が譲歩するいわれはない。ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論からは、近代刑法の大原則など恐れるに足らない。

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