犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

日垣隆著 『刺さる言葉』 その3

2007-10-08 18:18:18 | 読書感想文
世の中の建設的でない議論は、定義のレベルでのすれ違いが大きい。辞書的に唯一客観的な定義があるとの思い込みが、そのすれ違いを助長している。いかに辞書的に定義をしても、その単語は無数の単語のネットワークの中に存在するしかなく、その体系を使っている個々の人間によって解釈されざるを得ない。そこでは、「単語を正しく定義しなければならない」との論理が、かえって大混乱をもたらす。自分が正しい、あなたは間違っている、なぜなら正しくないものは正しくないからだ、このようにお互いに怒鳴り合っているのでは世話ない。客観的な定義を信仰した結果である。

日垣隆氏は、40代になっても、「戦争」というものがよくわかっていなかった(p.200)。これを笑うことはできない。誰しも戦争というものが何なのか、よくわかっていないからである。それを正直に「わかりません」というか、知ったかぶりをするかの違いである。同氏は、これを納得できる形で知りたいと切望し、長い間にわたって遠回りを続け、何年にもわたって本を書いてきた。実は、これが一番の近道である。世間的なわかり方をしたところで、自分が他人の人生を生きることはできないからである。


日垣氏による定義(刑法学者が聞いたらビックリするもの)

● 動機(p.46)・・・・ 犯行の動機とは、その犯行を問い詰める官吏(警察官や検察官や裁判官)がいるから初めて語られるもの。事後に問い詰める者がいなければ、犯人は手記でもあらかじめ書こうとしているのでないかぎり、事前に動機を言葉にする必要などあるわけがない。官吏がああではないかこうではないかと問い続け、世間一般にわかる言葉が出てきて初めて安心し、これまた世間を安心させるために、わかりやすい動機を発表するわけだ。あらかじめ犯罪と犯人が客観的にそこにあって、その行為の前には必ず動機がある、という前提で、その動機を裁くのは非常にヘンだ。

● 復讐(p.50)・・・・ 大切なものを奪われたことに対する代償を相手に求める行為。ここでいう代償とは、「他人に与えた損害の償いとして相応するものを差し出させること」である。被害には、回復しうるものと、しえないものがある。回復しえないダメージに対する「代わりの償い」が、まさに代償である。

● 子育て(p.140)・・・・ 子育ての要諦は何か、と問われれば、羞恥心を教えることだ、と私は答える。羞恥心とともに肝要なのは、責任とは何かを教えることである。およそ責任を問われる行為には、取り返しのつかないものと、取り返しのつくものとの2種類があることを、骨の髄まで知らしめる義務が大人たちにはある。言うまでもなく、取り返しのつかない行為の筆頭が人の命を奪うことだ。

● 賭博(p.71)・・・・ 複数の人が財物を賭け、偶然性の支配する勝負によって財物をとりあう行為を賭博という。自分や家族が早く死ぬほうに賭ける生命保険も賭博の一種と言える。日本は刑法上「賭博非合法」国家であるが、日本ほどどこでも賭博ができる国はほかに見当たらない。日本政府はパチンコを賭博ではなく「遊技」だと強弁し続けているのである。冗談が好きなのかもしれない。