犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者の意見陳述は「ガス抜き」である

2007-10-30 11:35:51 | 言語・論理・構造
平成12年の刑事訴訟法の改正によって、被害者が法廷で意見陳述ができるようになった。早くも7年になるが、裁判実務の現場では、この制度はどのような扱いを受けているのか。司法関係者の本音では、単なる被害者の「ガス抜き」である。良い悪いではなく、「ガス抜き」というメタファーがしっくり来てしまうということである。有罪か無罪か、量刑はどうするのかを決定する部分的言語ゲームの中において、被害者の陳述という異質なものは簡単に処理できない。これがシステムの恐ろしさである。

過失犯の処罰は、近代刑法においてはあくまでも例外と位置づけられており、旧過失論(結果予見義務中心)と新過失論(結果回避義務中心)の長々とした論争もあって、実務上も過失犯の扱いは非常に難しい。業務上過失致死罪も、自動車運転過失致死罪も、検察官にとってはその法的構成が大変である。ここでは、そもそも「何を過失とするか」という観点から公訴事実(訴因)を確定する作業が精密に行われることになる。これも、単なる抽象名詞にすぎない「過失」を実体化した挙句に人間が振り回されるという部分的言語ゲームの負の面である。そもそも「過失がある・ない」という文法は、物質的に語れるものではないが、司法関係者は、これが語れるものだと思い込んでしまう。そして、「直近過失の理論」というさらなる部分的言語ゲームを作り出して、迷宮にはまって行く。

車の運転手が、歩行者の発見が遅れてブレーキをかけたが間に合わず、轢いてしまったという単純な事故ですら、過失犯の理論は大変な問題を提起する。まず、「ブレーキをかけたこと」を過失だとすれば、その時点ではブレーキをかけるという最善を尽くしたことになり、避けられなかった以上は無罪だという話になってしまう。そこで「歩行者の発見が遅れた」ということを過失にしようとすると、これまた大騒ぎになる。車の破損状況と遺体の損傷状況から自動車の時速と歩行者の時速を推定し、加害者の供述とブレーキ痕から自動車工学的な空走距離と制動距離を推定し、無数の計算とシミュレーションをせざるを得なくなる。そして、「この時点で歩行者の発見は可能であり、その地点でブレーキを踏んでいれば事故は起きなかった」という数学的な因果関係が明確に法律用語に言語化されて、検察官はようやく公訴事実(訴因)が確定できることになる。

検察官がこのような過失犯の構成で悪戦苦闘し、煮詰まっているときに、遺族が検査庁に「悲しみの心情を聞いてほしい」と言って訪ねてきたらどうなるか。検察官としては、うるさい、邪魔だ、後にしてくれというのが偽らざる本音である。これは裁判の場でも同じである。裁判官が何よりも悩んでいるのは、近代刑法における過失犯処罰の例外性であり、その意味では鑑定書や実況見分調書の証拠価値に比べて、遺族の意見の証拠価値はゼロに等しい。検察官も儀式として早く終わらせたいと思っており、裁判官も判決に影響がないものは早く終わってほしいと思っているのが率直なところである。これは部分的言語ゲームのシステムの必然であり、検察官や裁判官個人の力ではどうにもならない。まずはこの絶望を絶望として見つめなければ先に進まない。「心のケア」で誤魔化してはならない。