犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『知ることより考えること』 第2章より

2007-10-12 15:37:14 | 読書感想文
第2章「悪いものは悪い」 ─ 「毒薬少女に想う」より

川崎市高津区で起きた自殺サイト「デスパ」による殺人事件は、議論が大好きな多くの評論家や国民を困惑させてしまった。悲惨な死亡事件となると、何をどうすべきだ、あれが悪いこれが悪いと熱くなって語る人が多い中にあって、この事件に対する世論の反応は異質である。厳罰化に反対する立場にとっても加害者を弁護する気分が起きないし、犯罪被害者保護を進める立場にとっても被害者に同情する気分が起きない。どうにも後味が悪く不気味で、気持ち悪さと脱力感だけが残される。人間がこれまで作り上げてきた枠組みが役に立たないということであり、パラダイム自体の敗北である。加害者や被害者の近所の人が、例によって「そんな人には見えませんでした。信じられません」というコメントを残しているが、こんな所だけで古典的な手法が体面を保っても仕方がない。

情報化社会の中で多くの人が忘れている事件に、ちょうど2年前の10月、静岡県の女子高生が母親に劇物の「タリウム」を飲ませて殺害しようとし、その病状の悪化をネットで報告していたという事件があった。この事件に際して、池田晶子氏が週刊新潮の連載『人間自身』に「毒薬少女に想う」という文章を残している。時事ネタは苦手な池田氏であったが、それだけに他の事件にもあてはまる普遍性を捉えており、今回の事件にも流用することができる。一部を無理矢理引用して、今回の事件に合うように変形してみる。


p.60~ 一部を引用・変形

こういう場合の定石通りに、ネット世界に詳しいジャーナリストがコメントして言うには、「見ず知らずの人同士を結び付けるネットの特性が現れた事件である。すなわち、誰もが現実の世界とは違う自分になれるという点が問題なのである」。

このような説明がなされても、この行為の不可解さ、この心性の不気味さが解消されたわけでは全くない。不可解なものの不可解さはどう理解されたのだろうか。理解とは何かという根源的な問題である。たいてい人は、ある事柄について理解しようとするとき、このことはこうなのだという解釈を提示されると、それをもって理解したと思ってしまう。

ありきたりの解釈とは、この場合で言えば、「知らない相手とのやり取りでは情が入らず、心理的な負担を感じないため、簡単に自殺を援助してしまう」といった解釈である。それでもうまく説明できないとなると、最後は「ネット情報の特徴や見極め方を学ぶ情報倫理の教育をしっかりと進めて行くしかない」といった先送りでフタをしておしまいにする。見なかったことにする。手持ちの解釈で説明できないものは、ないことにする。説明できないもの、わからないものに対する根源的な恐怖である。

現代の我々は、何もかもわかることなのだと思っている。この世の中に、わからないことなどないと思っている。浅薄な科学的解釈や、大量の情報流通によって、世の全ては白日の下にあるかのように思い、生や自然の根源的な暗さなど完全に忘れ去られているからである。そのために、この種のわけのわからない理解不能の出来事に出合うと、人は一瞬は驚くわけだ。が、その驚きの恐怖のゆえに、たちまち人はありきたりの解釈に逃げ込んでしまう。

しかし、このような異様な出来事に驚かなくなるとは、これまた異様なことではないだろうか。理解不能とは、理解を断念するの意ではない。理解不能を理解不能と理解するからこそ、なお理解しようと試みるのである。考えるのである。「人間とは何か」。

この事件は、ジャーナリズムや社会学、法律学や教育学よりも、むしろ文学によって扱われるべき事柄なのだろう。