犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

他人の気持ちに共感できるわけがない

2007-10-09 16:01:32 | 実存・心理・宗教
警察庁は10月から、「少年対話会」という新制度を始めた。これは、補導少年が被害者と対面し、自分が犯した行為や動機などについて説明する場を設けるものである。加害者は被害者と対面することで罪の重さに気づき、反省と償いの念を深めることができる。そして、被害者は、加害者の口から謝罪の言葉を聞くことによって心が癒やされる。このような思想に基づく加害者の更生の取り組みは「修復的司法」と呼ばれているが、現代の実証的な議論の中で抽象名詞だけが浮き上がっているという感じである。法律家は、一方では企業の敵対的買収防衛策などに走り回っているが、ここで「買収された会社の従業員の心の痛みへの共感を求める」などと主張すれば、一笑に付されて終わりである。これだけ厳密に、具体的に、実証的な議論が確立している法律学の中で、犯罪被害の問題だけは古典的で雲をつかむような話が大真面目に行われている。「○○君の気持ちを考えなさい」という小学校低学年の先生のお説教レベルを脱していない。

第一希望の大学に合格した人は、不合格になった人の身になって悲しむことができるのか。逆に、第一希望の大学に不合格だった人は、合格した人の身になって喜ぶことができるのか。これは無理である。マンションの建設反対派の周辺住民は、建設会社の社員の身になって、絶対に建設したいという熱意に共感できるのか。逆に建設会社の社員は、反対派の周辺住民の身になって、何が何でも建設を阻止したいという活動に共感できるのか。これも無理である。ところが、犯罪という桁違いのレベルが問題になると、人間は「他人の身になって考える」という抽象論に一気に回帰することになる。まずは、この構造そのものが、人間の無力感から生じる逃避であることを認識しておかなければならない。

修復的司法においては、まずは加害者に自分が傷つけた相手の言葉に耳を傾けさせることが出発点とされる。そして、加害者が「自分が考えていたよりも相手は悲しんでいて驚いた」という気持ちになり、反省と償いの念を深めることができれば、この試みは成功であるとされる。しかし、一見してどうにも地に足が着いていない感じである。そもそも補導少年は精神的に未熟であると言っても、「○○君の気持ちを考えなさい」という小学校低学年レベルのお説教をされるほどの未熟さではない。それでも厳罰化だけでは生産性がなく、何とか前に進みたいというならば、無理だとわかっていてもこのような試みをしてみるしかないようである。日本では修復的司法はまだ手探りの段階であり、その効果は未知数であると言われているが、要するに何をどうしたらよいのかわからずにオロオロしているだけである。

罪の重さに気づくことは、人間は他人の身になれないことに気付くことによってしかもたらされない。反省と償いの念は、人間は絶対に他人の身にはなれないことに気付いて、その存在の形式に驚くことの中にしかあり得ないからである。人間が他人の身になれないことは、文字通りそのままである。他人の身になったら気持ち悪い。人間はどう他人の気持ちを考えようとしたところで、「自分が『人の気持ちになって考える』ことを考えている」ことしかできない。人間はこの存在の形式を逃れられない。この一回転の思索を経なければ、何をやっても堂々巡りである。その意味で、「他者の気持ちがわからない」と述べる非行少年は正直である。そして、この少年を何とか立ち直らせようとし、他人の身になることを一生懸命教えようとする善良な大人は、無力感からくる焦りで空回りを続けるしかない。