犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

人の命が失われている

2007-10-07 20:39:09 | 実存・心理・宗教
大相撲の時津風部屋で力士が死亡した事件をめぐっては、珍しく「人の命が失われている」という哲学的な命題が広く持ち出された。ところが、「他人の命が失われている」と言えるのは「自分の命が失われていない」限りのことであるという構造を見落とせば、事態はあっという間に実存不安をごまかすための政治的な主義主張合戦となる。こうなれば、「人の命が失われている」という事実は、社会から死を遠ざけるために利用されるしかない。「人の命が失われている、だから相撲協会は体質を改善して改革を進めるべきである」という軽薄な解答や、「人の命が失われるような部屋になっては双葉山(昭和43年死去)も泣いている」といったよくわからない批判をして満足する方法は、近代のニヒリズムの象徴である。

「人の命が失われている」という哲学的な命題は、来るべき自らの死の実存不安を遠ざけている社会においては、深く掘り下げることに耐えられない。しかし、事実として存在するしかない人間にとっては、「人の命が失われている」という問題がもたらす不安は、その深いところに絶えず存在し続ける。地下鉄サリン事件を初め、最近では場外乱闘の激しい山口県光市の母子殺害事件、福岡市東区の飲酒運転死亡事件における弁護団の方針に批判が集まるのも、この「人の命が失われている」という哲学的な命題を絶対に消すことができないからである。多くの国民の弁護団の主義主張に対する本質的な違和感は、偽らざる実存不安に基づいている。せめて弁護団が「人の命が失われている」という現実を直視した上で、その後にあえて「人の命を失わせる」死刑制度について哲学的に議論しようとするならともかく、目的達成のための手段として小手先の幼稚な弁解を弄するのでは話にならない。

ニヒリズムの支配する近代社会のシステムでは、そもそも裁判制度そのものが「人の命が失われている」ことを絶対的な基準に置いていない。この世には「人の命がなくなっている」以上の大局的な見地はなく、一切の理屈は降参するはずであるが、近代社会の論理はそこからは必死に目を逸らそうとする。近代裁判のシステムにおいては、殺人既遂罪と殺人未遂罪の裁判の間には何の差もない。あえて言えば、前者には医師の死亡診断書と死体検案書が添付され、後者には被害者の供述調書が添付されているだけの違いである。そこでは人命よりも、システムそのもの存続が重要となる。裁判所においては、そもそもの殺人罪よりも、殺人罪の逮捕状の印鑑を忘れたほうが大問題となる。システムそのものを維持しようとするニヒリズムは、被害者はもちろんのこと、被告人の存在すら忘れる。そして、執行猶予を付けてはいけないのに付けたこと、勾留更新を忘れてしまったことなどの職務過誤につき、「あってはならないことであり国民の信頼を失わせた」として、国民に向かって謝罪をする。

しかしながら、「貴重な人命が失われている」という圧倒的な事実の前には、実存的に見れば、すべての裁判所の書類の過誤は些細なことである。ましてや、被告人の重箱の隅を突くような弁解は些細なことである。山口県光市の母子殺害事件において、被告人の元少年は本当にドラえもんがなんとかしてくれると思っていたのか否か、このような争いも些細なことである。ところが、近代裁判は、これをまともに取り上げて議論をしている。すなわち、「人の命がなくなっている」という絶対的な基準を最上位に置かないとのシステムを採用したことに他ならない。このような制度を確立してしまった後では、「人の命がなくなっている」という絶対的な事実を正面から見据えてしまうと、現代社会はあちこちで辻褄が合わなくなってくる。そこでは、「貴重な人命がなくなっている」にもかかわらず、厳罰だけでは問題は解決しないとして、被告人の更生と社会復帰が求められることになる。これが、死を語りつつ死を遠ざける現代社会のニヒリズムである。