犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『考える日々』 第Ⅰ章より

2007-10-27 00:32:24 | 読書感想文
第Ⅰ章「考える日々」・「空疎な言葉につき合う暇はない」より

池田晶子氏の死去後、再び『考える日々』シリーズが売れ始め、増刷が続いている。10年前の週刊誌の連載をまとめた本であるにもかかわらず、このような現象は流れの速い現在の日本において異例中の異例である。これは、池田氏の死去という契機ではあるが、万人において妥当する非人称の言葉の力がじわじわと浸透し始めた結果である。慶応義塾大学の斎藤慶典教授は、『哲学がはじまるとき』のあとがきの中で、池田氏の訃報に接したことを「よい」知らせであると述べているが、実際そのとおりであろう。

10年前の社会問題をめぐるその当時の評論家諸氏の激しい議論など、今となっては雲散霧消である。その中で、自ら時事ネタは苦手だと述べており、その当時には見向きもされなかった池田氏の文章が、その10年後に新鮮な驚きをもって迎えられている。時事ネタが苦手なゆえに末永く読まれる、これもごく当然の帰結である。裏を返せば、現在世間をにぎわせている時事ネタをめぐる議論は、10年後には跡形もないということである。朝青龍から時津風部屋、沢尻エリカから亀田大毅、白い恋人から赤福、姉歯建築士から遠藤建築士、世間を一色に染めた問題もすでに風化が始まっている。後世に教訓を残そうと思うのであれば、池田氏のような視点を持つしかないということでもある。

アカデミズムからは「ポスト構造主義すら古くなっている時代に今さらソクラテスで止まっていては話にならない」と揶揄され、世間からは「語調が傲慢で主張が幼稚だ」と非難されながら、池田氏はその中でもそうとしかできない自分の人生を淡々と生き続けた。やはり、「お前らとは覚悟が違う」ということだったのだろう。


p.124~ 抜粋

「日本の危機」と誰もが騒いでいる。しかし、この「誰もが」というのは、マスコミとその周辺の人々だけであって、本当に危機にある人々は、騒いでいる暇などない。必死で生きているはずである。また、マスコミとその周辺の人々が騒ぐと、「誰もが」騒いでいるように見える、ここにもまた陥穽がある。

論説委員とか大学教授とか、立派な肩書の人々が、「日本の危機」を憂えている。政治が悪い、教育が悪いと人を責め、ではどうするべきなのかという肝心のところにくると、「それは今後の課題である」「急ぎ解決が求められる」。それなら、なんのために、言葉なんかを語っているのか。自分がそれを語るのでないなら、なんのための言葉なのか。

で、ページを繰ると、その裏では、中年男女の不倫願望に関するアンケートなどがなされていたりするわけである。人を甘く見るでない。私は強くそう感じる。自分たちが人生を甘く見ていることに気づかないのは、自分たちが甘やかされたところに居るからで、いったいどの口から「日本の危機」なる言葉が出てくるのだ。

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