犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司・玄侑宗久著 『脳と魂』

2007-10-23 21:22:30 | 読書感想文
西洋型の考え方は、あらかじめ神の視点を設定していることにより、必然的に息苦しくなってくる(p.105)。自由、民主主義、個人の尊重など、美しい概念がその美しさを強制する限り、それは息苦しさに直結する。「自由に反対する自由はない」、この命題は、唯一客観的な現実の存在を押し付ける信仰をもたらす。現代社会では、人間は何かを表現している限り表現の自由を享受していることになってしまうため、表現の自由に反対することは論理的に自己矛盾となる。しかし、何かを表現する上でこんなに不自由なことはない。人権は国家権力に対するものであって私人間には直接適用がないといったところで、公立学校の先生と私立学校の先生のストレス溜まり方が異なるわけでもない。

科学の思想は、便宜上数値的に無視してもいい部分は全体性から切り落として考える方法であるが、この「便宜上」という点を忘れると、様々なひずみを生む(p.265)。人間は脳である、遺伝子であると決め付ければ、途端に現実に目の前で生きている人間が見えなくなる。患者を見ずにパソコンの画面のデータしか見ない医師がその典型である。社会科学の実証主義は、この自然科学の欠点までも忠実に真似し、追従してしまった。「近代刑事裁判とは被告人の人権を保障する場である」と言ってしまえば、被害者の存在は全く目に入らなくなる。戦後60年にわたる被害者の見落としは単なる過失ではなく、完全な故意である。

近代国家における個人の尊重の思想は、理性的な人間の個の確立、すなわち個人の人格が変わらないものであることを大前提としている。それでは、殺人罪の刑期を終えて、15年ぶりに社会に戻ってきた人間が改善更生しているという理論はどこから出てくるのか(p.165)。個人の人格が変わらないならば、罪を償うなどといった行為はあり得ないのではないか。個人の人格が変わらないというならば、少年には可塑性があって、少年法の厳罰化は個人の尊重の理念に反するという理論はどこから出てくるのか。このような切り口で物事を捉えてみると、既成の考え方では何かが直感的に「変だなぁ」と感じられるところの源泉が見えてくる。養老氏や玄侑氏に人気があるのは、あくまでも自分の実感から自由に発想し、生のリアリティに着地しているからである(p.288)。

現代社会の個人の尊重の理論は、安楽死や尊厳死についてまで自己決定権の文脈で語ろうとするが、これも結局は何が何だかわからないことになる。人間について権利という概念が生じるのが生きている間に限られるのであれば、安楽死や尊厳死についての権利も、生きている間にしか生じない。しかしそれでは、一体何の権利なのか。人間は死んでしまえば自己決定権も糞もなく、遺言を書こうと書くまいと、葬式以降のことは本人にはどうしようもない(p.187)。自分の希望通りに安楽死できずに苦しんで死んだところで、もはや抗議はできない。安楽死や尊厳死の権利について大騒ぎする暇があれば、そもそもこの世に生まれない権利を主張したほうが手っ取り早いに決まっている。法律家が、日本人にはなかなか権利意識が広まらない、理想の人権大国の到来は遠いと嘆いているのであれば、養老氏と玄侑氏はその主犯格である。

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