犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『14歳からの哲学』 第Ⅰ章 第2節・第3節より

2007-10-21 14:54:22 | 読書感想文
司法試験の合格者を大幅に増員する政府の基本計画に対して、弁護士会から反対の決議が相次いでいる。反対論の理由としては、弁護士の競争激化や、人材の質の低下が起きることが挙げられている。このような意見に対しては、競争が激化すれば人材の質が向上するはずだとの再反論もなされている。人間に対して「質」という言葉を使うのは「人質司法」だろうという突っ込みは措くとして、このような争いを見せられれば、弁護士会の考える犯罪被害者対策など高が知れていることが暴露されてしまう。やはり人は14歳以降、一度は考えておかなければならないことがある。


『14歳からの哲学』 第Ⅰ章 第2節「考える②」・第3節「考える③」より p.11~23 随所を変形して抜粋

増員反対派の人たちは、こんなふうに主張するだろうか。「合格者の人数が増えれば、それだけ優秀でない人も増えて、人材の質が低下すると思います」。増員賛成派の人たちは、こんなふうに主張するだろうか。「合格者の人数が増えれば、それだけ切磋琢磨して、人材の質が向上すると思います」。

この議論の場合、それぞれの人が、それぞれ自分の思ったことを人に言っている。どちらも自分の思っていることが正しいと思っているからだ。人は、自分の思っていることが間違っているとわかっているなら、それを人に言うということはしないものだ。人は、自分が正しいと思っていることしか主張しないんだ。

増員反対派の人も、増員賛成派の人も、意見は対立しているけれども、どちらもともに「合格者の人数について問題としている」ということでは共通している。そして、「人材の質の向上について問題としている」ということでも共通している。けれども、共通しているその「合格者」「人数」「人材」「質」ということについては、どちらもともに考えてはいない。考えないで、ただ自分が思うことを、自分が思うのだから正しいと思って口にしている。意見が対立するのはそのためだ。

増員反対派の人は、つい、こう言いたくなるよね。「人数が増えれば質は低下します。だって私は本当にそう思うのだもの」。こう言われたら、増員賛成派の人は、やっぱりこう言い返すはずだよね。「人数が増えれば質は向上します。だって私は本当にそう思うのだから」。たぶん議論はこれ以上続かないな。売り言葉に買い言葉の喧嘩になるかもしれない。

「自分がそう思う」というだけなら、それが正しいか間違っているかは、まだわからない。本当のことを知るためには、正しく考えることが必要だ。「正しい」ということは、自分ひとりに正しいことではなくて、誰にとっても正しいことだ。誰にとっても正しいことならば、お互いの正しさを主張し合って喧嘩になるはずもない。

「合格者」が「合格者」であり、「人数」が「人数」であり、「人材」が「人材」であり、「質」が「質」であることは、誰にとっても正しいことだ。でも、人数を増やせば人材の質が上がること、これは誰にとっても正しいということではない。同じように、人数を増やせば人材の質が下がること、これも誰にとっても正しいということではない。それなのに、それを自分では絶対に正しいと思っていて、大きな声でそれを主張しているとしたら、これはすごく恥ずかしいことなんじゃないだろうか。

「罪と罰」は実存の問題である

2007-10-20 20:28:24 | 実存・心理・宗教
犯罪者が自ら犯した事実を否認したくなる心情は、極めて実存的なものである。自白することは辛い。それは、赤の他人である警察官や検察官の取調べを受けることにより、実存の主体としての自分が否定されるからである。これは、犯罪者は被害者に対しては悪いことをしているが、警察官や検察官に対しては何も悪いことをしていないという構造に伴うものである。これに対して、否認をするならば、犯罪者はそこで実存を回復することができる。嘘をつけばつくほど、人生は主体的となる。そして、権力に逆らえば逆らうほど、人生は自律的となる。

権力に逆らう被告人は、「裁判を受ける」とは言わず、「裁判を闘う」と言うことが多い。これも、実存的な心情を率直に表している。自らの意思に反して裁判の場で裁かれることは、実存の主体としての自分が否定されることであり、人間はこれにはなかなか耐えられない。これに対して、自らの意思によって裁判を闘うという気持ちを持っているならば、被告人の実存は安定する。正義の闘いに挑むことは、人間的に楽しいと感じる経験である。期日と期日の間に詳細な戦略を練って、自己実現の場として裁判を楽しんでいる被告人の例は枚挙に暇がない。

ここで、被告人の実存を揺るがせる最大のものは、犯罪被害者の声である。赤の他人である警察官や検察官の取調べは、大上段に押し付けられるものであり、被告人自身の実存の反発を招くものでしかない。これに対して、他でもないこの自分の行為によって関係を生じた犯罪被害者の声は、そのような押し付けではない。1人の人間としての偽らざる実存の声であり、それはこの世に現に在る。被告人がこのような声を聞くならば、この世の中には自分1人が生きているわけではないという当たり前の事実を嫌でも認識させられる。他者の実存の声は、自己の実存の絶対性を不安定にさせる。

犯罪被害者の裁判参加によって、公平な裁判が害される危険性が生じると言われている。この立論は、法律学の理屈からは当然であるが、それ以上は深まらない。人間の実存的な部分を消して、「公平な裁判とは何か」という大上段の視点を取ろうとしても、「罪と罰」の問題は実存の相克でしかあり得ないからである。近代刑法による単純な人権論は、結果的に被害者の実存の声を消しつつ、被告人の実存の絶対性のみを主張させるという制度を招来した。これは、被害者の自然な行動を無理に抑制するのみならず、被告人の自然な行動としても不自然である。被告人は、赤の他人である警察官や検察官の取調べの前では「自白させられる」しかないが、犯罪被害者の前では「自白する」しかないからである。

中野翠著 『この世には二種類の人間がいる』

2007-10-19 21:50:53 | 読書感想文
中野翠氏の本を1冊でも読んだ人ならばすぐにわかるが、この題名は逆説的である。すなわち、「この世には二種類の人間がいる。それは、『この世には二種類の人間がいる』と決め付ける人と決め付けない人だ」という意味である。もちろんこの命題については、さらにそのこと自体を決め付ける人と決め付けない人に分けることができるので、これはメタ言語による無限後退となる。中野氏はもちろん、そのことがわかっている。わかっている人とは、中野氏の言うところの「キメツケに怒る人」であり、「マニュアルを読まない人」であり、「ヘチマのような人」であり、「政治家になれない人」であり、「この本を買う人」である。

この本の表紙には「キメツケ人間二分法」と書いてあるが、これも恐らく「キメツケ人間二分法」は不可能であるという逆説である。実際のところ、50通りもの分け方をしているので、二分法になっていない。それどころか2の50乗、すなわち1125兆8999億0684万2624パターンに分けられることになるが、これも恐らく計算済みである。とかくこの世の政治的な議論は、何でもかんでも善と悪、正と誤に分けた上、自分を正義の側に立たせないと気が済まない。しかし、中野氏によるふざけた二分法には、頭の良い人々の真面目な二分法を笑い飛ばす余裕がある。別にどちらに分類されても大して困らない分類ばかりだからである。

弁証法とは、初心者向けの哲学のテキストを見ると、三角形をイメージして描かれることが多い。正-反-合という動きからすれば、それも下手だとはいえない。しかしながら、最初から三角形が図として見えてしまうと、正-反-合という動きがかえって見えにくくなってしまう。正と反がぶつかりあう時点においては、「合」ないし「成」が見えていてはならず、三角形の図は邪魔になる。皮肉にも、プラトンがイデア論で述べた三角形を捉え損なって、実物の三角形に振り回されている状態である。弁証法とは対極にあるような二分法が、実は弁証法のスタートである。ところがこの世では、二分法からは妥協案、折衷説が探られてしまうことが多く、弁証法の動きがなかなか認識されにくい。

「この世には二種類の人間がいる。それは、『この世には二種類の人間がいる』と決め付ける人と決め付けない人だ」。これは自己言及の矛盾を見事に示しており、端的に弁証法を指摘している例である。何でもかんでも差別だといって争う人に対しては、「あなたは差別をする人と差別をしない人とを差別している」と言えばいいし、少数派の権利を訴える人に対しては、「あなたは少数派を尊重する人を多数派にしようとしている」と言えばいい。このような弁証法の核心を指摘すれば、恐らくは「ふざけるな」と言って怒られるが、実際にふざけているのだから仕方がない。

言い返さずにはいられない

2007-10-18 20:25:26 | 実存・心理・宗教
日常的な喧嘩においても、メールにおける悪口やネットの煽り合いにおいても、古典的かつ最もメジャーなのが「死ね」という言い回しである。掲示板の「2ちゃんねる」の思わぬ影響で、「氏ね」「市ね」というバリエーションまで登場してしまった。どんなに小中学校で先生が一生懸命に教育をしても、この言い回しは消えない。それは言うまでもなく、「死ね」という悪口が効果的だからである。そして、それが効果的な悪口であると知っているからには、少なくとも生命の重さを前提としているからである。

言葉の暴力は実際の暴力よりも苦しい。これは実際に比較できる話ではないが、このような実感はもっともである。その中でも、「バカ」や「アホ」と比べて、「死ね」のインパクトは格段に大きい。「バカ」や「アホ」ならば、そのまま受け流しても大して問題はないが、「死ね」と言われれば、誰しも黙っていられない。死にたくないからである。生死の問題は人間の実存そのものであって、「死ね」と言われて言い返せなかったり、我慢してしまうことは、端的に実存不安を呼び起こす。すなわち、人間が「死ね」と言われて反射的に言い返すことは、生の衝動である。

誰しも「死ね」という言葉について、簡単に口にできる割には大きな打撃を与えることを知っている。これも実存不安を避けていることの裏返しであり、死を語らずに死を語っていることの表れである。だからこそ、人間はひとたび煽り合いとなれば、効果的な「死ね」を乱発したくなる。そして、それを聞かされた人間は瞬時に言い返さずにはいられなくなり、泥沼にはまる。ネット社会の到来により、このような争いは匿名化し、毎日毎日際限なく繰り広げられることとなった。このスパイラルは、言いかえれば実存不安と実存不安のぶつかり合いであり、実存不安を解消しようとして解消できないという空回りである。自らの死を遠ざけようと思って他者に「死ね」と言ったところが、それがそのまま自分に返ってしまい、引っ込みがつかなくなっている状態である。

戦争は国と国との争いであり、宗教と宗教の争いであるが、具体的に争っているのは人間である。個々の人間が実存不安を国家や民族への帰属によって解消しようとし、あるいはイデオロギーや宗教への信仰によって解消しようとしたとき、その実存不安が耐えきれなくなったところに紛争が起きる。その意味では、大きな戦争もネットでの煽り合いも、その根本は同じである。実際に殺すか否かの差にすぎない。人間が「死ね」と言われれば反射的に言い返したくなること、それゆえに人間は「死ね」と言いたくなること、「死ね」という悪口がこの世から消えないこと、すべては同根である。哲学的視点のない「心の教育」などでどうなるものでもない。

椎橋隆幸・高橋則夫・川出敏裕著 『わかりやすい犯罪被害者保護制度』

2007-10-17 17:45:01 | 読書感想文
典型的なマニュアル本である。表題どおり、非常にわかりやすいことは確かである。犯罪被害者保護制度を「易しい問題」と「難しい問題」に分けていることを自覚した上で、易しい問題を解決するためのハウ・ツー本として使う分には有用である。しかし、このマニュアル本が万能であり、これに沿って仮説を実行していけば社会問題は解消するといった甘い見通しは、それを超えた現実に直面すると手も足も出ない。お役所や学者の考える細かい制度は、完全にお手上げである。

「難しい問題」の所在を常に的確な形で国民の前に提示しているのは、やはり山口県光市の母子殺害事件における遺族の本村洋さんをおいて他にはいない。本村さんの深い洞察を含んだ一言一句の前には、このようなハウ・ツー本はお手上げである。「被告人の権利と被害者の権利とは決して矛盾するものではなく、これをいかにして両立させるかが今後の課題であり、詳細な研究が待たれる」と言ったところで、屁のツッパリにもならない。本村さんが被告人に対し、「あまりにも身勝手な主張が多く、亡くなった者への尊厳のかけらも見えなかった」と冷静かつ論理的に述べる姿は、修復的司法の輝かしい未来を推進してきた立場からすれば、実に苦々しい光景であり、自らの無力さを見せつけられる光景であった。

犯罪被害者保護制度を進めれば問題は解決するという仮説からすれば、以下のような事実が認められなければならない。すなわち、国から金銭的補償を受けられれば本村さんの怒りは収まるはずであり、本村さんに対してはカウンセリングで心のケアをすべきであり、本村さんはそれを受けることによって心の傷は癒されるはずである。これによって少年の人権も守られ、たとえ死刑でなくても、本村さんは納得するはずである。このようにならなければ筋が通らない。しかし、「易しい問題」のツールは「難しい問題」に切り込むことができなかった。これは本村さんという人称を超える論理の力であり、強靭な論理の力が脆弱な論理の力を破ったまでの話である。加害者の権利と被害者の権利は両立するといった安易な政治的な仮説は、哲学的な大問題の前には木っ端微塵である。

被害者や遺族の感情的な泣き叫びを世論が支持することは多いが、このレベルにおいては弁証法的な運動は起きない。近代刑法の原則は、このような世論の迎合を大衆のポピュリズムだと批判することによって、そのロジックを守ることができるからである。しかし、本村さんは論理的で冷静だったからたまらない。誰でも自分が被害者になった時には直面するであろう、万人に共通の地点を指し示してしまったのが本村さんである。これは弁証法の「正」でも「反」でもなく、それ自体が「合」である。この世から犯罪が消えない限り、このようなマニュアル本は確かに必要である。しかし、それは「易しい問題」を解決するのみであって、「難しい問題」を解決することはできない。

画期的な判決

2007-10-16 15:56:10 | 実存・心理・宗教
昨日、製薬会社の「日研化学」の当時35歳の男性社員が自殺した事件の裁判で、東京地裁は上司の暴言が自殺の原因であるとして、労災を認める旨の判決をした。原告代理人の川人博弁護士によれば、パワーハラスメント(地位を利用した嫌がらせ)を原因とした自殺を労災と認めた司法判断は我が国史上初とのことである。川人弁護士は、この判決につき「画期的な意義がある。国内では上司の嫌がらせの規制が立ち遅れており、改善を求める」と述べている。さて、人間はこのような判決が画期的であると喜んでいることができるのか。これは、近代社会のニヒリズムに冒されているか、1つの試金石になり得る。

もちろん、労働者の権利の確立という視点からすれば、昨日の判決を見ても喜んでばかりはいられない。この判決はゴールではなく、スタートであると叫ばれるだろう。そうだとすれば、このゴールに達するためには、その理論はあと何人の自殺者を必要とするのか。これは、厳罰を主張する人が凶悪犯罪を目にすると怒りながらも何となく熱くなって盛り上がり、冤罪撲滅を主張する人が冤罪を目にすると怒りながらも何だか嬉しそうにゾロゾロと集結してくるのと同じ構図である。歴史の積み重ねによる理想の世界の確立には、それ自体として必然的に死者の発生を期待する。「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」(ニーチェ・権力への意志)。

労働者の権利の確立を訴える地道な理論が、会社を動かし、裁判所を動かし、ついには国を動かした。しかしながら、この世のどこに会社という実体が存在するのか。裁判所も国も同じである。抽象名詞が乗り物のように動くことはない。ところが、人間はこの比喩的表現を実体化して、個々の人間を見落とす。そして、個々の人間を見落とせば、人間の生死を見落とし、肝心の問題の起こりを見落とす。すなわち、男性社員の自殺である。日本国では上司の嫌がらせの規制が立ち遅れており、改善を求めるべきであるという政治的な主張の中身は実に正しい。しかし、自殺をした人にとっては、もはや「改善」という文法は存在しない。彼の死は無駄ではなかったという評価は、あくまでも生きている人間の側の文法である。「多く考える人は党員には向かない。というのは党派などを突き抜けて考えてしまうからである」(人間的な、あまりに人間的な)。

画期的な出来事というものは、これまでの時代を区切り、新しい時代を開くものとされる。そうであれば、この時代の究極の区切り、すなわち両端は何か。これは永遠であり、永久であり、かつ無であるとしか言えない。いずれにしても、わずか80年前後の有限の生を生きている人間が扱い得る概念ではない。昨日の判決が判示した我が国史上初の事実とは、人間の生死そのものの話ではなく、人間の死を金銭に換算する際の基準の話である。日本は欧米より何十年遅れているといった議論は、永久の時間軸の下では意味がなく、自らが80年前後の有限の生を生きていることを大前提としている。労働者の権利の確立、それに基づいた理想の社会の建設、この崇高な目的はそれ自体が近代社会のニヒリズムの象徴であり得る。「世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである」(反時代的考察)。

『危ない! 共同出版』 尾崎浩一著

2007-10-15 17:16:19 | 読書感想文
自費出版ブームと言われるが、人間社会の宿命として、それに伴うトラブルも増えている。このトラブルは「錯覚商法」「詐欺的商法」などと銘打たれており、一応犯罪被害の問題ではあるが、起こってしまったトラブルの解決には哲学的な深さはない。それよりも、トラブルの起こり方が現代社会特有の形をしており、分析哲学からは面白い視角が得られる。

自費出版(=共同出版)大手の新風舎を裁判に訴えた原告らは、その社員が詐欺(民法96条)をしたと主張している。しかしながら、新風舎の社員は、振り込め詐欺やリフォーム詐欺、フィッシング詐欺といった確信的な詐欺師とは異なることは当然である。社員としては詐欺をしたつもりなどなくても、自費出版を申し込んだ著者は、「詐欺をされた」と感じてしまう。この恐るべき事実は、人間が言葉に使われているという哲学的な真実を示している。すなわち、人間が言葉を使って嘘をついているのではなく、言葉それ自体が嘘をついている。「全国の書店で売れるようにします」という言葉は、社員の側からは「そのように努力すること」を意味するが、著者の側からは「必ず売ってくれること」を意味している。これは双方とも正しく、双方とも間違っている。人間を離れて言葉自身が嘘をついたとしか言えない。

自費出版トラブルは、最後には「言った言わない」の争いに帰着する。それでは、細かくあらゆる場合を想定した膨大な契約書を作れば解決するかと言えば、これは無理である。その契約書を「読んだ読まない」の争いになり、永久に平行線となるだけである。言葉そのものが嘘をつき、人間が言葉に使われているのだから、無理なものは無理である。ところが、法的技術を発達させて説明義務違反という概念を発明した人間は、さらに問題を複雑にしてしまう。ある重要事項が契約書には書いていないが、出版申込書には書いてある。さて、これは説明義務を果たしたことになるのか。これは決着がつかない。言葉を使いこなしていると思っている人間が、言葉から強烈なしっぺ返しを食らっている図である。

新風舎には、著者を賞賛するためのマニュアルがあるそうで、「意識や考えの流れを言葉に置き換える作業は大変なことだと思います」といったフレーズが用意されているらしい。これに対して原告側の著者は、「普通、文章を書くということは意識や考えの流れを言葉に置き換える作業であり、それが大変なことであるならわざわざ文章を書く必要もない」と噛み付いているが(p.151)、どっちもどっちである。言葉を扱う会社と言葉を表現したい著者の争いにしては、一方的に言葉に使われすぎている。

自費出版のトラブルは、言葉を扱うはずの著者と出版社が言葉をめぐって争っている種類のものであり、言葉を完璧に定義して使いこなそうとする現代法治国家のひずみの1つである。広く自分の本を通じて社会に表現活動をしたいのにできなかった被害者の怒りは純粋であるが、このような紛争を防止しようとして説明義務を実際に果たすとなると、想像以上に大変な作業となる。それは、行間の語り得ぬものを語らずに読者に示そうとしている詩人の卵が、人工的な法律に基づく契約書の文言を強制的に読まされるということだからである。

新風舎は詩人の谷川俊太郎氏とのつながりが深く、詩に力を入れているようであるが、詩の言語と契約書の言語とは対極にある。前者は言語によって行間を生み出そうとし、その解釈を読み手に委ねた上で普遍を指し示す。これに対して、後者は言語によって行間を潰そうとし、一義的な解釈によってトラブル発生を予防しようとする。詩人の卵が細かい契約書を読むことにエネルギーを奪われれば、その分だけ詩的な言葉は逃げてゆく。言葉を扱う会社と著者による言葉の大安売り、安易な自費出版ブームは本当に危ない。

役に立たない発見

2007-10-14 14:16:49 | 実存・心理・宗教
哲学者とは、科学者とは別の意味で「発見」をする人のことである。哲学者の行う発見とは、それまで人々に見えなかったものが、ある人物によって見えるようになることである。但し、それが役に立つ発見であるとは限らない。特に、ニーチェは役に立たない発見ばかりした人物であるとの評判が高い。ニーチェは人間心理の奥底まで、この世のほぼ全員があえて見ないようにしている場所に目を凝らし、観察を続けた。このようにして発見された事実は、それ以降はあるものは社会常識となって誰もが簡単に理解できるようになり、またあるものは触れてはならないタブーとして隠蔽されて忘れられる。

ニーチェの言っている役に立たないことの典型に、『曙光』の中の次のような一節がある。「他人の体験の場合それを眺めるのを常としているような眼で、われわれ自身の体験を眺めること、これはわれわれの心を極めて和らげるものであり、推奨するに値する薬品である。これに反して他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め、受け取ること――同情の哲学の要求であるが――、これはわれわれを破壊に導くであろう、しかも短時間のうちに。まあそれを実験してみるがよい」。これは、人間のコミュニケーションが無意味だと言っているに等しいが、実に当たっている。

人間が自分の経験を熱心に語れば語るほど、その言葉は主観的になり、多くの人には関係のない話になる。そうかと言って、万人に妥当するように客観的に物事を語ろうとすれば、それはその人でなくても構わないことになり、ましてやその人の経験など無用の長物になる。民主主義や表現の自由は、いつもここで苦しんでいる。万全の準備をして選挙に立候補して落選した人は、いつも「時間が足りなかった」と言って悔しがる。これは本音の実感であろうが、法律で選挙期間を延ばせば他の候補の期間も増えるわけであり、時間不足は理由にならない。声をからして街頭演説をした挙句に落選した人は、いつも「有権者に伝わらなかった」と言う。これも有権者が演説を聞いた上で別の選択をしたわけだから、やはり理由にならない。多数決とはいつもこの程度の話であるが、何十年も飽きずに繰り返している。

犯罪の問題を民主主義や表現の自由の延長線上で語れば、必ず破綻する。これを明らかにするという点では、ニーチェの発見も少しは役に立つ。法律の文脈は、被害者は加害者に謝罪してもらえれば幸福であり、謝罪してもらえなければ不幸であるとの単純な論理から抜け出せない。しかしながら、謝罪されたらされたで、その先にもっと大きな不幸がある。加害者は被害者にはなれないし、被害者は加害者にはなれない。加害者は、どう頑張っても被害者の身になれないがゆえに、「私は被害者の身になろうとして努力しています」というポーズを見せればそれで済む。法治国家の論理はこの辺りが限界であるが、刑の量定に際してはこの程度の理屈で済んでしまう。しかし、ニーチェの洞察はここから始まる。この世のほとんどのトラブルは、自分は他人にはなれないことに基づく実存の絶望に端を発している。

池田晶子著 『知ることより考えること』 第2章より

2007-10-12 15:37:14 | 読書感想文
第2章「悪いものは悪い」 ─ 「毒薬少女に想う」より

川崎市高津区で起きた自殺サイト「デスパ」による殺人事件は、議論が大好きな多くの評論家や国民を困惑させてしまった。悲惨な死亡事件となると、何をどうすべきだ、あれが悪いこれが悪いと熱くなって語る人が多い中にあって、この事件に対する世論の反応は異質である。厳罰化に反対する立場にとっても加害者を弁護する気分が起きないし、犯罪被害者保護を進める立場にとっても被害者に同情する気分が起きない。どうにも後味が悪く不気味で、気持ち悪さと脱力感だけが残される。人間がこれまで作り上げてきた枠組みが役に立たないということであり、パラダイム自体の敗北である。加害者や被害者の近所の人が、例によって「そんな人には見えませんでした。信じられません」というコメントを残しているが、こんな所だけで古典的な手法が体面を保っても仕方がない。

情報化社会の中で多くの人が忘れている事件に、ちょうど2年前の10月、静岡県の女子高生が母親に劇物の「タリウム」を飲ませて殺害しようとし、その病状の悪化をネットで報告していたという事件があった。この事件に際して、池田晶子氏が週刊新潮の連載『人間自身』に「毒薬少女に想う」という文章を残している。時事ネタは苦手な池田氏であったが、それだけに他の事件にもあてはまる普遍性を捉えており、今回の事件にも流用することができる。一部を無理矢理引用して、今回の事件に合うように変形してみる。


p.60~ 一部を引用・変形

こういう場合の定石通りに、ネット世界に詳しいジャーナリストがコメントして言うには、「見ず知らずの人同士を結び付けるネットの特性が現れた事件である。すなわち、誰もが現実の世界とは違う自分になれるという点が問題なのである」。

このような説明がなされても、この行為の不可解さ、この心性の不気味さが解消されたわけでは全くない。不可解なものの不可解さはどう理解されたのだろうか。理解とは何かという根源的な問題である。たいてい人は、ある事柄について理解しようとするとき、このことはこうなのだという解釈を提示されると、それをもって理解したと思ってしまう。

ありきたりの解釈とは、この場合で言えば、「知らない相手とのやり取りでは情が入らず、心理的な負担を感じないため、簡単に自殺を援助してしまう」といった解釈である。それでもうまく説明できないとなると、最後は「ネット情報の特徴や見極め方を学ぶ情報倫理の教育をしっかりと進めて行くしかない」といった先送りでフタをしておしまいにする。見なかったことにする。手持ちの解釈で説明できないものは、ないことにする。説明できないもの、わからないものに対する根源的な恐怖である。

現代の我々は、何もかもわかることなのだと思っている。この世の中に、わからないことなどないと思っている。浅薄な科学的解釈や、大量の情報流通によって、世の全ては白日の下にあるかのように思い、生や自然の根源的な暗さなど完全に忘れ去られているからである。そのために、この種のわけのわからない理解不能の出来事に出合うと、人は一瞬は驚くわけだ。が、その驚きの恐怖のゆえに、たちまち人はありきたりの解釈に逃げ込んでしまう。

しかし、このような異様な出来事に驚かなくなるとは、これまた異様なことではないだろうか。理解不能とは、理解を断念するの意ではない。理解不能を理解不能と理解するからこそ、なお理解しようと試みるのである。考えるのである。「人間とは何か」。

この事件は、ジャーナリズムや社会学、法律学や教育学よりも、むしろ文学によって扱われるべき事柄なのだろう。

ロストジェネレーション

2007-10-11 16:43:57 | 実存・心理・宗教
1972年(昭和47年)生まれから1983年(昭和58年)生まれの2000万人の若者が「ロストジェネレーション」と称されている。日本が最も豊かな時代に生まれたものの、少年期にはバブル崩壊を経験し、社会に出た時には戦後最長の経済停滞期に直面し、「失われた10年」の煽りをまともに食った世代である(私もこの一員である)。2002年(平成14年)から回復し始めた日本の景気が過去最長の上昇を続け、雇用が増え、大学新卒の求人倍率が16年ぶりに2倍を超えたとなれば、ロストジェネレーションの一員としては心中穏やかではない。しかし、このような怒りのやり場のない怒りは、そのやり場を冷徹に見つめることによって、労力の無駄遣いを防ぐことも可能である。

ロストジェネレーションは何に対して怒っているのか。一見すれば社会的な怒りである。政府は景気回復策を怠り、「失われた10年」をもたらしたのであるから、その被害者を救済すべきではないのか。経済界も1984年(昭和59年)生まれ以降の若者を優遇している暇があったら、ロストジェネレーション救済をするのが社会的責任ではないのか。それはその通りである。しかしながら、この世代に属さない人々からは社会問題でも何でもないことからも明らかなように、この怒りは個々人の深い実存不安に端を発している。人間は誰しも生まれる時代を選べない。自分はなぜこの国の昭和47年から昭和58年の間に生まれてしまったのか、この運命に対する絶望が根底にある。そして、その世代に属さない次世代の若者への羨望がある。この怒りは、社会的な要求の最初の根源でありながら、社会的な要求というカテゴリーの設定により、一瞬にして見えなくなってしまう。

経済的な生存の問題の多くは、根底に哲学的な実存の問題を抱えている。これは別に、わざわざ問題を難しくしているわけではない。人生は一度きりであり、自分がこの世にこのような形で生まれてしまったことは取り返しがつかず、生まれ直すことができず、取り返しがつかないという端的な事実である。ある世代が他の世代を羨んだり、見下したり、嫉妬したり嫌悪したりするのも、自分では世代を選択できないことに基づく。大学新卒の若者に求人が殺到する一方で、30歳前後の人間はワーキングプア、ニート、ネットカフェ難民として苦しんでいるのは、極めて哲学的な問題である。ただ、そのような人生をすでに生きてしまっている個々人には哲学的な問題であるが、政治的な対策を要求するとなると、哲学的な問題は見えなくなる。そして、政府に対する怒りを表明する個々人にも見えなくなる。もちろん見えなくなったからと言って、消えるわけではない。

自分はなぜこの時代のこの国に生まれたのか。この文脈における「自分」は、近代的自我としての1人称代名詞ではない。「もしも父親と母親が出会っておらず、それぞれ別の人と結婚していた場合、自分はどうなっていたのだろうか」という文脈における「自分」と同じである。他人事のように「失われた10年」と言われたところで、この現に存在する人生はどうしてくれるのか。こんな問いは、社会学や経済学、政治学や法律学には扱えない。昭和○○年に日本に生まれた、戸籍と住民票によって確定できる「自分」を扱うのが精一杯である。世代論の格差の絶望が巻き起こす怒りを正面から受け止めるという作業は、やはり哲学という思考にしか扱うことができない種類のものである。もちろん、扱ったところで何の実効性もなく、ワーキングプアが減るわけではない。