犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

『危ない! 共同出版』 尾崎浩一著

2007-10-15 17:16:19 | 読書感想文
自費出版ブームと言われるが、人間社会の宿命として、それに伴うトラブルも増えている。このトラブルは「錯覚商法」「詐欺的商法」などと銘打たれており、一応犯罪被害の問題ではあるが、起こってしまったトラブルの解決には哲学的な深さはない。それよりも、トラブルの起こり方が現代社会特有の形をしており、分析哲学からは面白い視角が得られる。

自費出版(=共同出版)大手の新風舎を裁判に訴えた原告らは、その社員が詐欺(民法96条)をしたと主張している。しかしながら、新風舎の社員は、振り込め詐欺やリフォーム詐欺、フィッシング詐欺といった確信的な詐欺師とは異なることは当然である。社員としては詐欺をしたつもりなどなくても、自費出版を申し込んだ著者は、「詐欺をされた」と感じてしまう。この恐るべき事実は、人間が言葉に使われているという哲学的な真実を示している。すなわち、人間が言葉を使って嘘をついているのではなく、言葉それ自体が嘘をついている。「全国の書店で売れるようにします」という言葉は、社員の側からは「そのように努力すること」を意味するが、著者の側からは「必ず売ってくれること」を意味している。これは双方とも正しく、双方とも間違っている。人間を離れて言葉自身が嘘をついたとしか言えない。

自費出版トラブルは、最後には「言った言わない」の争いに帰着する。それでは、細かくあらゆる場合を想定した膨大な契約書を作れば解決するかと言えば、これは無理である。その契約書を「読んだ読まない」の争いになり、永久に平行線となるだけである。言葉そのものが嘘をつき、人間が言葉に使われているのだから、無理なものは無理である。ところが、法的技術を発達させて説明義務違反という概念を発明した人間は、さらに問題を複雑にしてしまう。ある重要事項が契約書には書いていないが、出版申込書には書いてある。さて、これは説明義務を果たしたことになるのか。これは決着がつかない。言葉を使いこなしていると思っている人間が、言葉から強烈なしっぺ返しを食らっている図である。

新風舎には、著者を賞賛するためのマニュアルがあるそうで、「意識や考えの流れを言葉に置き換える作業は大変なことだと思います」といったフレーズが用意されているらしい。これに対して原告側の著者は、「普通、文章を書くということは意識や考えの流れを言葉に置き換える作業であり、それが大変なことであるならわざわざ文章を書く必要もない」と噛み付いているが(p.151)、どっちもどっちである。言葉を扱う会社と言葉を表現したい著者の争いにしては、一方的に言葉に使われすぎている。

自費出版のトラブルは、言葉を扱うはずの著者と出版社が言葉をめぐって争っている種類のものであり、言葉を完璧に定義して使いこなそうとする現代法治国家のひずみの1つである。広く自分の本を通じて社会に表現活動をしたいのにできなかった被害者の怒りは純粋であるが、このような紛争を防止しようとして説明義務を実際に果たすとなると、想像以上に大変な作業となる。それは、行間の語り得ぬものを語らずに読者に示そうとしている詩人の卵が、人工的な法律に基づく契約書の文言を強制的に読まされるということだからである。

新風舎は詩人の谷川俊太郎氏とのつながりが深く、詩に力を入れているようであるが、詩の言語と契約書の言語とは対極にある。前者は言語によって行間を生み出そうとし、その解釈を読み手に委ねた上で普遍を指し示す。これに対して、後者は言語によって行間を潰そうとし、一義的な解釈によってトラブル発生を予防しようとする。詩人の卵が細かい契約書を読むことにエネルギーを奪われれば、その分だけ詩的な言葉は逃げてゆく。言葉を扱う会社と著者による言葉の大安売り、安易な自費出版ブームは本当に危ない。