犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 エピローグ

2007-08-11 11:54:21 | 読書感想文
エピローグ 永遠の闘い

東氏は次のように述べている。「人間の社会がある限り、犯罪もまた完全になくなることはないであろう。一生の間犯罪被害者等とならずに過ごすことのほうが困難であるのが、今の現実である。だとすれば、犯罪被害者のための施策を勝ち取る闘いもまた、『永遠の闘い』であるはずだ。その闘いを、私たち一人ひとりが自分のものだと考えて、『犯罪被害者の尊厳と権利』を確立する制度、社会を、どうしたら築いていけるのか」。

被告人の権利と被害者の権利は矛盾するものではなく、両立するものであると言われることがある。しかし、現実に被害者参加制度をめぐって賛成反対の議論が起きている以上、抽象的に両立するという原則だけを述べても何の役にも立たない。「犯罪被害者の声が聞こえますか」というこの本の題名は、この問題の所在を示している。被告人の権利と被害者の権利は両立するという安易な結論に安住するならば、それは犯罪被害者の声を聞くことが怖いこと意味している。怖いのは、被害者の怒りもさることながら、その問いに答えがないからである。被告人vs被害者の対立構図は、市民vs人生のパラダイムの対立構図である。犯罪被害者の声とは、誰に対してもあてはまる声であり、人生の難問の前で途方に暮れたときに自然とこぼれてしまう声である。

被告人と被害者の衝突を避けようとする立場からは、被害者に対しては医療や福祉、自助組織など別の分野の充実こそが必要であると主張され、被害者による「永遠の闘い」には積極的な評価が与えられない。そして、被害者参加制度によっては根本的な解決にならず、被害者はますます傷を深くするだけであると主張される。ここでは、岡村弁護士が述べるとおり、「犯罪被害者の権利」ではなく「犯罪被害者の支援」になってしまっている。犯罪被害者自身が永遠の闘いに臨むと言っている以上、第三者がそれを真の解決にならないと言ったところで、余計なお世話でしかない。

医療や福祉、自助組織など別の分野の充実は、論理的に被害者参加制度と並行して実施することができる。二者択一ではない。被害者は心のケアを受けられないことによって、その怒りのやり場がなくなり、その感情を法廷にぶつけたくなって被害者参加制度を主張しているのだという捉え方は、犯罪被害者の声を正面から聞いていない。聞こえない理由は、1つには政治的な耳しか持っていないという点であり、もう1つは自分自身の生死の問題に触れることを避けたがっているという点である。犯罪被害者の声は、哲学的な難問を含んでおり、従って生死の問題を避けることができない。「いつになったら問題は解決するのか、早く解決しろ」と他人に対して要求する前に、まずは自分に対して「なぜ人を殺してはいけないのか」を問い詰めて途方に暮れることのほうが順番としては先である。

この世から犯罪が完全になくなることがない以上、今後も犯罪被害者は日々新たに生じることになる。誰が被害者になるのか、それは事件が起こるまでは誰にもわからない。その被害者が生じる以前から、被告人と被害者の権利は両立するという結論だけを先に出しておいたところで、一度きりの人生を生きている人間が納得するはずもない。法律的なものの考え方は、あるべきゴールを設定して、そこからの距離によって物事を測ろうとする。しかしながら、犯罪被害者の抱える哲学的な問題は、そのような枠組みでは手に余る。永遠の闘いにゴールはない。ゴールがないことがゴールであり、答えがないことが答えである。

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