犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

古東哲明著 『ハイデガー = 存在神秘の哲学』

2007-08-13 21:02:35 | 読書感想文
ハイデガーの「死の哲学」は、それが死の哲学であることによって、そのまま存在神秘の論拠を指し示している。ハイデガーは、存在不安やニヒリズムを否定するわけでもなく、存在への驚きが存在の不可解さを解消すると述べているわけでもない。これを述べてしまえば、凡庸な宗教である。存在の不思議に驚き続けることによって、存在の無根拠性は消え去ることがなく、それによって存在は神秘となる。これを時間との関係性で述べれば、存在は刹那の念々起滅現象であり、まさしく存在と無は同一である。

哲学は役に立たない学問の代表のように言われているが、現代日本に蔓延する閉塞感を打開するために、ハイデガーの哲学は何かの役に立つのか。哲学のお勉強として客体化すれば全く役に立たないが、日々の生活を生きる上で膨大な情報に惑わされず、深く考える際の先人の知恵として参考にすれば、これほど役に立つものはない。21世紀初頭の現代人の閉塞感を端的に指摘する概念として、ニヒリズムは避けては通れない。すなわち、一切の目的が失われていることを認めまいとして手段を目的化し、目的喪失状態を隠蔽するのが、現代の不完全なニヒリズムである。20世紀前半に生きたハイデガーは、21世紀の人間が携帯電話に携帯され、お金に使われて精神を病んでいる姿をまるで予言していたかのようである。

日本では平成10年以来、年間3万人の自殺が一向に減らず、自殺対策が急務となっているようである。ここでハイデガーの「死の哲学」など持ち出せば、縁起でもないと言われそうである。政府は自殺対策を総合的に推進するため、「こころの健康科学研究事業」なるものを行い、「生きていれば必ずいいことがある、死んではいけない」と訴えているからである。このような自殺に関する総合対策、緊急的な推進活動をしている横から、「自殺を思いとどまっても、いずれ寿命がくれば死ぬでしょう」などと言えば、不謹慎だといって怒られるのがオチである。ハイデガーの述べる反転の論理、一瞬の永遠、実存転調なるものは、現に借金や職場の人間関係で悩んでいる人にはなかなか通じない。

ところが、最大の自殺防止対策が、この不謹慎な指摘の中にある。「自殺を思いとどまっても、いずれ寿命がくれば死ぬ。だから、今ここで急いで死ぬ必要はない」。かなり不謹慎だが、これは万人にとって正しい。不謹慎であろうがなかろうが、正しいものは正しいからである。これに対して、「生きていれば必ずいいことがある、だから死んではいけない」という理屈は、確かに励ましにはなるものの、確率的に正しいとは言い切れない。それが故に、この建前を信じて自殺を一旦思いとどまった人は、「やっぱり生きていてもいいことなど一つもない」という現実に直面してしまえば、やはり自殺することになる。こうしてみると、ハイデガーの死の哲学は、それが死の哲学であることによって、人間に自殺する動機すら不可能にしてしまう。そして、そのまま人間に生の希望をもたらすことがわかる。

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