犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

居場所がない

2007-08-10 15:39:54 | 国家・政治・刑罰
「居場所」は、現代社会の1つのキーワードである。今の子ども達には、学校にも家庭にも居場所がない。子どもの居場所を作るよう大人達は努力すべきであると言っても、その大人も居場所がなくて四苦八苦している。会社にも地域社会にも居場所がない。社会に馴染めずに自分探しの旅に出て自分の居場所を探しても、そんな居場所はなかなか見つからない。居場所のない不安がさらなる不安を呼び、死の不安を老後の不安と言い換えてごまかす。居場所を失った人間は、必死で自分の居場所を探して苦しむ。

人間はなぜ、「居場所がない」と感じ、その上で不安になるのか。それは、そのように「居場所がない」と感じる場所が存在するからである。Aという学校に居場所がないと言うとき、その人間はAという学校にいる。Bという会社に居場所がないと言うとき、その人間はBという会社にいる。人間は必然的にその場所に居ることによって、その場所に居なければならないと感じるようになる。人間がどうしても逃れられない場所とはこの宇宙であり、宇宙の外には出られない。ここから逃れようとすれば、その方法は死しかない。かくして死を恐れる人間は、この宇宙という場所から逃れられないことによって、宇宙の中の一点である現在の場所から逃れたいと思う誘惑を打ち消さなければならなくなる。

場所に居ることによって「居場所がない」と感じる、この程度のことは古今東西の哲学者がすでに考えている。その中でも、特に「場所」をキーワードにしたのが西田幾多郎であった。西田は、一般には主語的統一と考えられている「自己」について、それは述語的統一であると述べ、そこが「場所」であると述べる。これはヘーゲルの弁証法的世界の具体化であり、認識の根本は主客二元論ではなく、まずは自己の中に自己を映すことに求められる。自己は自己を否定するところにおいて真の自己である、この弁証法の基本は、西田においては「場所的論理」と呼ばれて突き詰められている。

西田幾多郎は難解であるが、無理やり易しく解釈することによって現代社会の問題に役立てることはできる。少なくとも、文献学者によって研究されるだけではもったいない。西田は弁証法に基づいて3つの場所について論じたが、これが実に的を射ている。すなわち、物の世界としての「有の場所」、自己=意識の世界としての「相対無の場所」、そして叡智的自己の世界としての「絶対無の場所」である。人間は生きている限り、この宇宙において一定の場所に立っており、それによって自分という存在の場所を確保している。すなわち、人間が「居場所がない」と感じたときに死ぬほどの苦しみを感じるのは、その居場所がないことによって別の居場所に押しつぶされ、その居場所から逃れられない圧力を感じるからである。すなわち、「居ている」という現在進行形の中に居るしかない。社会全体で居場所作りをすれば問題は解決するといった安易な仮説は、なかなか実現しない。

玄侑宗久著 『禅的生活』

2007-08-09 13:21:07 | 読書感想文
仏教の中でも禅宗は、哲学に非常に近いものがある。宗教における「悟り」という状態は、何らかの神秘体験と勘違いされることが多く、事実そのような体験を声高に語る新興宗教の教祖も多い。これに対して、禅僧である玄侑氏は、悟りの状態を何と脳科学から説明してしまう。その上で、それでも人間の言語表現には限界があることに自信を持つべきだと述べる(p.108)。さらには、悟りによって、現実を「方便」と見る視点を獲得できるとして、最後は常識的なところに戻ってくる(p.88)。

法律の理屈は、すべて特定の価値判断を正当化するためにある。法律構成と価値判断の調和、法的安定性と具体的妥当性の均衡、これが法律学の真髄である。敏腕弁護士とは、黒を白と言いくるめ、白を黒と言いくるめるプロである。裁判の勝敗は、理屈の巧拙によって決まる。それでは、この具体的妥当性やら価値判断とは何なのか。玄侑氏に言わせれば、これは煩悩にすぎない(p.118)。価値判断などというものが単なる「方便」であることを忘れた人間は、自分の価値観を絶対視して、思うようにならない事態に直面すると鬼のように怒ることになる(p.215)。裁判の荒れる法廷などは、この典型である。

法律学の命は言葉である。言葉の一言一句を解釈する。行政事件訴訟法36条に至っては、1ヶ所の「、(読点)」の場所をめぐって大騒ぎしている。禅は、このように言葉や文字によって人間が迷う様子をとことん馬鹿にする(p.51)。人間は言語によって対象を分け、それによって「分かろう」とする。その中でも、法治国家における人間は、大ざっぱな日常言語では飽き足らず、専門用語によって細かく分けなければ気が済まない(p.176)。その結果として、人間は自由を失う。

自由とは、本来はすべての現象を「自らに由る」、すなわち自らに由来すると考えることである。ところが、近代国家における人間は、この本来の意味を忘れた。かくして、自由とは利己主義のことなのか、自由と自己中心とはどのように違うのか、例によって論争を始めることになる。憲法において「自由」という言葉が定められるや否や、人間は自由とは何かを客観的に論じるようになる。憲法における「自由」の真の意味を探り、真の自由とは何かを論じ合う法律学は、それ自体相当に不自由な学問である。

人間とは何か、自分とは何か、これは生きていることによって示されるしかない。すなわち、死ぬまで問い続けなければならない(p.177)。この意味では、憲法や法律の人権規定など、気休めにしかならない。この点を捉えてしまえば、もはや「疑う」哲学と「信じる」宗教との間に差はない。疑うことは信じることであり、信じることは疑うことである。これに対して、唯物論的な無神論がいつの間にか人格神を信じている一神教と似たようなものになってしまうことは、よくある現象である。玄侑氏から見れば、法律家が「憲法の伝道師」と名乗って布教活動のようなものをする行為は、やはり苦笑されるものでしかない。

埋葬の一環としての裁判参加

2007-08-08 17:28:25 | 国家・政治・刑罰
刑法の構成要件においては、殺された被害者は一応法益侵害の客体として登場してくるのに対し、被害者の遺族は全く登場しない。これは、人間の自然な存在様式からすれば、非常に不自然な切り取り方である。家族関係や友人関係は、その関係自体が目的であり、人間の日常的な行動様式である。それ以外の目的は外部に存在しない。これに対して、犯罪行為とは非日常的な出来事の最たるものである。刑法の構成要件とは、非日常の枠組みを日常の枠組みに押し付ける技術である。そして、この無理な押し付けのひずみが、被害者遺族の裁判参加への自然な欲求として表れている。

家族関係や友人関係は、最初から互いの人倫的な意志によって規定づけられている。これも生死の弁証法から見る限り、根底にはお互いの死の不安が作用している。家族の共同性とは、その成員の死を看取る共同性である。これは理屈ではない。現に古今東西の地球上の人類は、このようにしか生きてこなかったし、現に生きていない。この自然の人間の行動様式が人工的な制度によって破られるのが、近代の刑事裁判である。あくまでも主役は殺人を犯した加害者であり、被害者の遺族は法廷の秩序を乱した場合には退廷を命じられる。

ヘーゲルは『精神現象学』において、次のようなことを述べている。死者はそのままでは空虚な個物となり、他に対して受動的に存在するものでしかなくなる。こうした死者の陵辱の行為を防ぎ止めるのが家族であり、家族は自ら行為を起こすことによって、死者を共同世界の仲間に引き入れる。この共同世界は、死者を破壊しようとする自然の力を抑制しする。血縁者のなすべきことは、血縁の死者を破壊から救い出すことである。

加害者は「死人に口なし」とばかりに、被害者の落ち度や正当防衛を主張する。これを目撃したならば、遺族としてはこれを絶対に否定しなければならない。これは感情ではなく、家族の共同性の論理そのものである。その関係自体が目的である家族関係は、お互いの死を自覚している人間の共同存在の本質に深く規定されている。実際に家族の一部が家族の外の人間によって殺されたならば、残された家族は、さらなる陵辱の進行を食い止めなければならない。もちろん復讐という意味ではない。埋葬の手続きの一環である。

遺族が法廷で遺影を掲げることも、加害者に対して直接問いただすことも、ヘーゲルが述べる広い意味での埋葬に含まれる。これは、他の共同態的な関係によっては決してなし得ないものであり、家族共同体の究極的な使命である。近代刑法の理念は、そもそもフォイエルバッハの功利主義であり、ヘーゲルから「人間を動物のように扱う理論である」と批判された理屈である。被害者の裁判参加は、動物ではない人間の自然な行動様式である。法律学から見れば、遺族が感情的になって法廷で暴れているのを理性の力でつまみ出すという構図しか存在しないが、これが行き詰まりを迎えるのは当然である。

丸田隆著 『裁判員制度』

2007-08-07 17:13:45 | 読書感想文
「私の意見は正しい、私の意見に反対する人は間違っている」という典型的な本である。哲学の本を読んだ後に読むと、非常にわかりやすい。丸田氏は、アメリカ留学体験から得た知識をもとに、日本の裁判員制度は欠陥だらけであると主張する。そして、このような間違った制度になりかけているのは、法務省や最高裁の責任であると述べる。丸田氏は、当初の理念を失い、国民の司法参加の理想からどんどん後退していく裁判員制度の制度設計の現実に落胆しつつ、国民に対してあるべき制度を訴えようとする。根拠から主張を導く理論武装としては、データもソースも多く、完璧に近い。しかし、一歩引いた地点から理論武装という行動自体を眺めてみると、非常に虚しい。

丸田氏の主張は、極めて熱い。国民の期待に応える司法制度の構築、司法制度を支える法曹のあり方、国民的基盤の確立、国民の司法参加といった立派な言葉が並び、国民主権を定めた憲法の趣旨を力説する。その反面、8割近くの国民が「裁判員に選ばれたくない」と回答している世論調査の結果には、全く興味がなさそうである。「統治客体意識から統治主体意識へ」、「国民の司法を国民自らが実現する」、「司法に対する国民の信頼を高める」といった抽象論が並ぶが、どうにも理論倒れであり、机上の空論である。

丸田氏いわく、国民が裁判に参加するのは主権者の責務である。それはそれでいいとしても、実際問題として裁判に呼ばれてしまった場合、会社や仕事はどうするのか。同氏によれば、365日間働き続けることも立派であるが、裁判員に選ばれたことを機会に3~4日間休むことも、働きすぎの日本人にとってはちょうど良いとのことである。育児で裁判員などやっていられないという批判も多いため、同氏は裁判所には保育所を置くべきであると提案する。また、裁判員が関係者にストーカーや逆恨みをされないための方策として、毎回駐車場を別のところにしたり、帰り道のルートを変えたりすることを提案している。何が何だか、立派な抽象論から具体論に移ると、最後がギャグになってしまう。理論と実践の調和というパラダイムは、いつでもこのようなところに落ち着くようである。

裁判は、人間が人間を裁く場所である。人生が人生を裁き、実存が実存を裁く。しかしながら、政治的な議論は、どうにもこの点を捉えておらず、緊張感がない。丸田氏いわく、国民の司法参加は、統治客体意識から統治主体意識への転換を促すものであり、今や委託民主主義の時代ではなく、私人が公的なことに関わる決意と責任が求められているそうである。これは、あらゆる統治領域における市民の参加を意味し、市民とは国民主権の担い手として公共的関心を持ち、自己責任を持って社会に参画する人間のことであるらしい。国民、市民、私人、公人、このような文法でしか人生を捉えられない人間が、殺人罪を語ろうとする。これでは、人間が何に苦しんでいるのかわからないのも当然である。

家族とは遺族である

2007-08-06 14:51:16 | 国家・政治・刑罰
このブログにおいても、我が国の犯罪被害者保護法制においても、区別しなければならないとわかっているのになかなか区別しにくい概念がある。それが、「被害者」と「被害者遺族」である。遺族も広く「被害者」に含められるのではないかという定義の問題、何親等の人間までが「遺族」と呼べるのかといった問題は、人為的に決めておけばよい。法律家が得意な分野である。しかし、絶望的に難しい問題は、このようなものではない。「何をどうすべきである、こうすべきである」という主義主張は気楽である。これに対し、「何故だかこうなっている、こうあらざるを得ない」という記述は不気味である。

世の中における社会問題の類は、煎じ詰めれば、「死ぬのが怖い」という一語に集約される。犯罪被害者保護の問題も、このような文脈で捉えられる限り、突き詰めれば「死ぬのが怖い」という点からの逆算によって決められてくる。「被害者への心のケア」と「遺族への心のケア」を同列に論じている議論などは、この逆算の典型的なものである。生死を直視せずに生死を語ると、あっという間に壁にぶつかる。いかに心のケアを充実させたとて、死者は戻らない。残された者は、立ち直っても寿命が来れば死ぬし、立ち直らなくても寿命が来ればやっぱり死ぬ。人間の生死は、心のケアなどでは何ともならない。

社会問題の文脈における社会とは、この日本社会、あるいは国際社会を意味する。情報化の進展によって、世界は狭くなった。しかし、今も昔も、人間はこの社会に生きるという形でしか社会と関われない。その意味では、この世界は絶望的に狭い。現に人間は、会社でリストラに遭えば、それがこの世の中に無数にある会社の1つに過ぎないにもかかわらず、簡単に自殺する。学校でいじめに遭えば、それがこの世の中に無数にある学校の1つに過ぎないにもかかわらず、簡単に自殺する。これは不思議なことではない。世界は、自分と反転するしかない。有史以来、人間は同じことを繰り返してきたが、この自分の人生はこの1回でしかないからである。

「被害者遺族」の問題は、個人主義の枠組みでは、一見して手に負えない。家族を語らずに遺族を語れるわけがないからである。「家制度」を目の敵にしてきた戦後日本の法律学が「被害者遺族」の問題に切り込むためには、やはりヘーゲルの家族論が参考になる。家族とは、遺族である。神や仏を信じない人間も、先祖だけは信じざるを得ない。もし自分の先祖の誰かが欠けていれば、少なくとも自分は今のこの自分としては存在していなかったからである。人間は、一度も会ったことのない曽祖父母の法事をしたり、墓参りをしたりする生き物である。先祖の側も、自分の死後のひ孫になど会ったことがなく、お互いに話したこともない。にもかかわらず、人間は先祖を敬い、その墓参りをする。この不合理が、そのまま存在の論理を示す。その意味において、すべての家族は遺族である。法律による「家制度」の解体など、ほんの一部分の解体であることがわかる。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第14章・第15章

2007-08-05 13:16:46 | 読書感想文
第14章 基本法・第15章 基本計画

被害者参加制度と付帯私訴制度に反対する立場は、このような制度は「真の解決にはならない」「根本的な解決にはならない」と述べる。それでは、真の解決、根本的な解決とは何か。こう問われると、反対派も言葉に詰まるのが通常である。これは政治的な意見の巧拙ではなく、言語の限界である。この限界は、「犯人が処罰されても愛する人は帰ってこない」という言葉において端的に示される。すなわち、真の解決、根本的な解決を実現しようとするならば、これは殺された人を生き返らせること、犯罪がなかった以前の状況に戻すこと、これ以外のことではあり得ない。

形而下におけるあらゆる制度は、開始してみなければそのメリットもデメリットもわからない。被害者参加制度と付帯私訴制度も同様である。始める前からあれこれ反対しても仕方がない。想定外の事態が起きて、後になって慌てて了解の構造を作り上げるのがこの世の常である。当初の制度趣旨はどうであれ、それぞれの被害者がそれぞれの方法によって利用することにより、いかなる制度もそれなりに軌道に乗ることになる。真の解決にならないのは、被害者参加制度や付帯私訴制度のせいではない。仮説と検証のシステムは、もともと真の解決などという概念には馴染まないものである。

被害者参加制度と付帯私訴制度によったとしても、犯罪被害者が求めているものは得られないという見通しは、ある意味当然のことである。それぞれの事件における加害者の対応如何によって、被害者が求めているものに少しでも近づくこともあれば、遠ざかることもある。これは、制度設計のせいではない。もともと裁判制度に必然的に伴う限界である。すなわち、犯罪という容易に語り得ぬ哲学的な現象について、無理やり法律単語で語ったことにしてしまう裁判制度の限界である。法廷が混乱するから反対である、法廷が報復の場になってしまうから反対であるといった意見は、法治国家万能主義の独善にすぎない。

被害者が犯人に対し、「息子を返せ」「娘を返せ」と激怒し、犯人を沈黙に追い込む。あえて真の解決、根本的な解決という概念を用いるならば、犯人をこの沈黙の前まで連れてゆくことが、人間になし得る行為の限界である。これに対し、このような沈黙では真の解決にならないと述べ、心のケアや金銭的な補償を押し進めるべきだと述べるに至っては、頭でっかちの抽象論による逆立ちである。被害者の人生全体に与える効果を見ようとせず、一瞬の法廷の秩序ばかりを見ようとするのは、知識汚染による全体像の見失いである。部分解を全体に広げることはできない。

近代刑法の原則を絶対化する立場からすれば、被害者参加制度や付帯私訴制度は容易に受け入れられるものではないと主張される。そうだとすれば、近代刑法の原則も絶対的なものではなく、単に時代によって異なる相対的な原則だと言うしかない。近代刑法は「被告人が1人の人間として被害者と向き合うこと」を軽視したが、その弊害が目立ってきたならば、それを見直してみようという動きが出るのは当然の話である。被害者が起訴状の中の文字に追いやられ、証拠方法としてしか扱われなかったことの不当性は、近代刑法の原則によって必然的にもたらされたものである。そうであれば、近代刑法の原則のほうを修正すれば済む話である。

岡村弁護士も、もし犯罪被害に遭っていなければ、そのまま近代刑法の原則が絶対的なものであると信じて疑っていなかった。この事実が証明しているように、いかなる制度も客観的、絶対的に存在しているものではなく、個人の主観に還元される。近代刑法の原則を絶対化する立場は、その原則を守ろうとすることによって、その原則が絶対的であると信じている自分自身を守ろうとしているにすぎない。そうでなければ、そこまで必死になって被害者参加制度と付帯私訴制度の導入に反対する理由がないからである。

論理と理屈

2007-08-04 13:19:38 | 国家・政治・刑罰
論理学という分野も、学問の細分化により、技術的な記号論理学を指すものになってしまった。この能力を試す典型的な試験が、法科大学院入学のための「適性試験」である。例によって、10枚のトランプの中で絵札が何枚、偶数が何枚、スペードが何枚、といったクイズであり、事務処理能力がシビアに判定される試験である。現在行われている司法制度改革は、日本の法曹人口を大幅に増やすものであるが、ここでは人間を扱うべき法律学が「論理」ではなく「理屈」に堕してしまった。入口では適性試験、出口では要件事実論、これでは人間が人間であるゆえの苦悩など直視できない。

ヘーゲルの語る「論理」とは、単なる思考の論理ではない。存在の論理である。そして、存在と思考の関係を明らかにするのが論理学である。論理学とは、存在の論理、すなわち存在のあり方を究明する学問である。「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」という有名なフレーズは、何かの主義主張を論証するために必死になってロジックを組み立てる思考方法に対する強烈な皮肉である。理念とは、抽象にすぎないSollenにとどまっているほど無力なものではない。理念と現実とが切り離せないのであれば、結論を先取りして、後からそれを正当化する行動などあり得ない。現実の問題は既に論理的に解決しているのであって、すでに解決しているものは、今さら論理を補強して解決するということが考えられないからである。

ヘーゲルの「論理」とは、論理学をベースとして自然・社会・精神の全体について述べられた壮大な哲学体系である。この論理の核が弁証法であり、事物の展開、発展の論理としては広く理解されてきたが、それを認識する方法としてはあまり理解されてこなかった。ヘーゲルの家族論における「人倫」というキーワードなどは、非論理的であるとの評価がつきまとい、この流れで「絶対精神」という概念を捉えてしまうと、単なる宗教に見えてしまう。これでは存在の論理は見えてこない。論理が理屈っぽいと感じられるならば、それは存在の論理を見落としていることによる。論理とは理屈をもその中にスッポリと含むものである。

法科大学院は、「理論と実践の架橋」という鳴り物入りのコンセプトで開始された制度であり、21世紀の日本の裁判制度の方向性を決めてしまう制度である。しかし、その理論と実践の架橋とは何物なのか。法学者は、人間の現実の苦悩から解放された紙の上の世界で、「1発の銃弾で2人を殺した場合には殺人罪はいくつ成立するか」といった研究に忙しい。実務家は、検察官のほうは有罪判決を取るのに忙しく、弁護士は無罪判決を取るのに忙しい。ここで、理論と実践の架橋などといっても、法律学がますます「論理」ではなく「理屈」に堕するのは当然のことである。実務家は、それぞれ自分にとって有利な理屈を限りなく引っ張り出して、勝つためのロジックを持ち出して勝負をすることになり、法学者はそのために利用される。これでは、いったい何のための架橋なのかわからない。何のための人生なのかわからない。

藤原正彦著 『国家の品格』

2007-08-03 18:45:37 | 読書感想文
賛否両論の大ベストセラーである。このような本は、色々な読み方ができる。日本人は祖国への誇りや自信を失うように教育された結果、世界に誇るべき我が国古来の情緒を忘れ、市場経済に代表される欧米の合理主義に身を売り、国柄を失ってしまった。日本は今こそ、「国家の品格」を取り戻さなければならない。藤原氏におけるこのような主張において、この本を評価する人が多い。また、このような受け止め方において、藤原氏を批判する人も多い。

しかしながら、単に保守的であり、国家主義的である点が評判となったというならば、説明不足であろう。それならば、安倍首相の「美しい国」も、もう少し評判が良かったはずである。この時代、ミリオンセラーはなかなか生まれない。この本が多くの人々の心を引きつけた点は、やはり単なる保守志向に基づくものではない。「論理より情緒」、「民主主義より武士道」、このような従来の常識を逆転させるような本は、これまでにも沢山出ていた。それにもかかわらず、この本だけが異常な売れ方をしたのは、従来の常識に反抗するのではなく、その手前で止まっているからである。その意味で、「国家」よりも「品格」が受けたといえる。

「論理ではなく情緒のみが正しい」ということを実証しようとすれば、色々とデータやソースを集めて大騒ぎしなければならず、挙句の果ては「論理ではない」ということについて論理で証明する責任を負ってしまう。こうなると、いつの間に情緒全開で大喧嘩しているという事態になる。逆説的な理論は、必然的に論理が論理自体を正当化しているものであり、データやソースを集めて論争することを拒む。藤原氏が半ばこのような地点に立ってものを見ているのは、やはり同氏が数学者であり、数学には哲学的な面があるという点が大きい。2+3=5であり、ここまでは小学校で習う。しかし、この世の中で「2」を見たり聞いたりした人は誰もいないということは、なかなか気付かれない。数の美しさに魅せられた数学者の多くは、この点に気が付いている。

藤原氏が批判している「論理」を、ヘーゲルの『大論理学』などにおける「論理」の意味に捉えると、世の中は情緒だけで済むといった安っぽい教訓しか引き出せなくなる。これではミリオンセラーにならない。この本が多くの人々に共感を呼んだのは、同氏が批判していたのが「理屈っぽさ」、「屁理屈」といった類のものであったからである。どんな論理にも必ず出発点があり、出発点が間違っていれば、論理が通っていても結論は誤りとなる。これは、ヘーゲルの『大論理学』などにおける「論理」の意味にも等しい。論理は理屈を嫌うが、論理は情緒と整合し、品格とも整合する。すなわち、人間は、論理をそのまま生きることによって上品になるが、論理を対象化して利用しようとすることによって下品になる。

山鳥重著 『「わかる」とはどういうことか』

2007-08-03 09:53:53 | 読書感想文
「○○がわかる」という軽薄短小な本は数多いが、このようなマニュアル本ほどわかりにくいものはない。マニュアルを読んで、局所的に1つ1つの行為に集中している間は、全体の流れが全くわからなくなる(p.201)。「わかる」とは何かということを突き詰めれば、どうしても人間は言語に操られているという現実に気がつく。この地点に気がついてしまった人間は、「○○がわかる」という種類の本を余裕で無視するようになる。

言葉とは、対象を区別し、あるいは同定するものである(p.30)。言葉は、外在現象のみならず、心の内在状態も記号化することができる。これによって人間は、すべての心理現象を記号に変換する能力を手に入れた(p.50)。何でもかんでも「やばい」「あり得ない」としか表現できない人間は、言葉が貧しいのではなく、世界が貧しい。「セクハラ」という言葉が発明されていなかった時代には、日本にはセクハラ行為は存在していなかった。「ストーカー」という言葉が発明されていなかった時代には、この世にストーカーはいなかった。

人間は、単語を広辞苑によって覚えるのではなく、日常の経験の中で「抜き出して」ゆく(p.94)。定義は、後になってくっついてくるものである(p.87)。ところが、法治国家における法律の条文というものは、これを見事に転倒させ、法的安定性なるものを指向するようになる。その挙句の果てが、年金時効特例法(正式名称は「厚生年金保険の保険給付及び国民年金の給付に係る時効の特例等に関する法律」)である。時効によって消滅したはずのものを特例により消滅しなかったことにする法律であり、論理構成については色々と問題点が指摘されているが、要するにお金が欲しいということである。

法律の専門用語は、ほとんどが抽象名詞であり、数学的な無機質さがある。少なからぬ人間は、この無機質さに耐えられない(p.140)。一番人間的でなければならない言語が人間を疎外し、実際に法的救済を求めている人間を苦しめていることに気がつかない。素人の素朴な疑問とは、端的な異物感である(p.191)。これもやはり、言語を操ることによって言語に操られる人間の宿命である。素人は専門家に聞いて、「世の中はこうなっている」と教えられたところで、どうもわかった気がしない。かくして、専門家は無知な素人を「バカ」と呼び、素人は世間知らずの専門家を「専門バカ」と呼ぶ。

我々の心が扱えるものは心像のみであり、客観的事実ではない(p.15)。法解釈を巡って、多くの政治家が議論しているが、心像が異なる以上、答えが出るわけがない。自衛隊は憲法9条に反するのか。反すると思っている人にとっては反しており、反しないと思っている人には反していない。それだけのことである。自衛隊の合憲・違憲を決めるものは、それまでその人間が生きてきた人生である。「なぜ自衛隊は違憲無効なのに、現に日本に存在しているのか」と悩んでしまう人は、気が済むまで悩み続ければいい。

いじめは犯罪である?

2007-08-02 16:32:15 | 国家・政治・刑罰
「いじめは、れっきとした犯罪である。侮辱罪、名誉棄損罪、暴行罪、傷害罪に該当するという事実を認識すべきである」。一時期、このような主張が盛り上がったことがあったが、主流にはならなかった。それはやはり、いじめが体罰・不登校・校則といった問題と並列され、人権侵害という概念で一直線に並べられていたという構造が大きい。いじめが刑法犯となれば、人権論から演繹する限り、いじめっ子の容疑がかけられた生徒に無罪の推定が働くという捉え方が筋となるからである。この構造が真っ向から浮き彫りとなった事件が、いわゆる「山形マット死事件」である。人権派弁護士は、いじめを受けている側の味方ではなかったのか。「いじめは犯罪である」という命題と、「いじめは人権侵害である」という命題との如何ともしがたい矛盾点が噴出した事件であった。

この矛盾点を努力して解決しようとすれば、当然ながら泥沼にはまる。これに対して、弁証法という考え方は、このような問題を最初から解消してしまうものである。マルクス主義による弁証法的唯物論のパラダイムは、人権論に対しても多大な影響を与えており、弁証法の端的な理解を妨げてきた。しかし、ヘーゲルが国家主義的であるというならば、「国家とは具体的自由の現実態である」という彼の言葉は、一体どのように理解されるというのか。「国家権力は人間の自由を侵害する」という命題は、市民と権力者を分けて、市民だけを人間のカテゴリーに入れようとする。この思考パターンに慣れてしまえば、「国」も「学校」も「教室」も「体罰」も「校則」も「いじめ」もすべて抽象名詞であって、これを直接見たり触ったりすることができない事実を見事に忘れる。

いじめは自殺に直結することからもわかるように、人間の生きる意味にストレートにかかわる。かような問題は、「社会問題」という枠組みで捉えると、肝心な点を見落とす。個人とは、孤独の別名である。どんなに社会全体で政策を実行し、連帯したとしても、人間の生死は孤独である。いじめがこのような構造を含む限り、人生の文法を欠落させたまま、「心の教育」「命を大切にする教育」などと喧伝しても、一見して説得力がないことは当然である。人間は死を恐れて生きがいを求めるが、生は弁証法的に死に依存している。そうであれば、いじめられている子どもに向かって、「死んではならない、生きていれば必ずいいことがある」と励ますことが、いかに残酷なことかがわかる。ヘーゲルの「生きる権利」とは、自己実現といった生易しいものではない。生が死を経由して一回転してくれば、人間は容易に死ねなくなるはずである。

国家とは、権力者という人間において在るのではなく、この自分において在るしかない。「世界は私であり、私は世界である」という弁証法を通して見なければ、いつまでも犯人探し、悪者探しを繰り返すことになる。従来の国家権力=悪という図式は、非行少年の更生を絶対視して被害者を眼中から排除したのと同じように、「いじめっ子も管理教育の被害者である」とのスタンスを取りがちである。こうなると、いじめた側の出席停止や退学、転校や懲罰のほうが大問題とされ、いじめられっ子の苦しみは眼中から排除される。人権論は、いじめ問題を解決するようなキーワードであるとの期待を持たせてくれたが、実際には問題を複雑にさせただけであった。問いを問いとして捉えず、問いの先に答えがあるという図式を前提とする限り、これも当然の帰結である。