犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

柳田邦男著 『言葉の力、生きる力』 第6章「2.5人称の視点」より

2007-08-20 12:47:37 | 読書感想文
戦後の刑事司法が被害者を見落としてきた原因を一言で言えば、それは学問の専門化・細分化である。少年法の厳罰化に反対し続けている刑事法研究者にも、当然ながら被害者の存在は目に入っている。ところが、しっかりと見ているがゆえに、それを更にしっかりと見落とす。このような芸当ができるのも、非行少年を保護し更生させるという少年法の精神の研究に関して、あまりに専門化・細分化が進み、そこから漏れる異質な要素を捉える視点がスッポリと消えてしまったからである。

客観性・実証性が至上命題である社会科学の枠組みを揺さぶるカテゴリーとして、生死の人称性の視点がある。1人称の生死は奇跡と恐怖であり、2人称の生死は喜びと悲しみであり、3人称の生死は無関心である。ここで、「2.5人称の視点」という更なるカテゴリーを提唱するのが柳田邦男氏である。賛成反対論の応酬でモヤモヤしたところに明快な補助線を引くものとして、この視点は卓抜である。


p.232より 抜粋

一般人の考えから見るならば、重要な当事者である被害者の親が、どのような人物に如何なる理由で大事なわが子を殺されたのか、その真実を知るために、審理に同席して審理の内容を傍聴し、自らの心情についても語りたいと願うのは、当然の権利だと思うだろう。

しかし不思議なことに、裁判官という法律の専門家は、そういうことは「無駄だ」と考えるのだ。その根底には、少年法がある。少年法は、端的に言えば、非行少年を保護し更生させることをねらいとした法律である。少年事件によって悲惨な状況に追いこまれた被害者の救済については、全く視野に入れていない。

少年法の枠組みを狭義に解釈し、それを金科玉条のように考えて守ろうとする立場に立つならば、家庭裁判所が半世紀近くにわたって貫いてきた被害者排除の原則は、法的に誤っているわけではないし、責められるべきものではない。しかし、まさにそこが問題なのだ。

人間のあるべき姿として、何を優先順位の上位に置くべきなのか、まず誰を救済して支援すべきなのか、加害者が本当に罪を償うには何を知るべきなのか、という視点から問題を考えるなら、法律の専門家とは違う選択肢が見えてくるはずだ。そういうごくあたりまえの人間的な視点と法律の専門家の考える正義の枠組みのずれが、問題なのだ。私はこの問題を、現代の高度な専門化社会のブラックホールあるいは落とし穴と呼んでいる。

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