犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

なぜ人を殺してはいけないのか?

2007-08-14 12:49:10 | 国家・政治・刑罰
私がいつも愛読しているqeb氏のブログに、「主観と客観」という素晴らしい文章があった(http://qeb.jp/blog/20070814-190.html)。客観的事実があろうがなかろうが、世界は何事もなく続く。人間には主観しかないし、さらにそれは不確かであるが、それを知った後と知る前で世界の何かが変わる訳ではない。客観は主観であり、主観は客観である。もしくは「主観も客観もない」と言った方が、より正確である。主観は確かでも不確かでもなく、唯一絶対である。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」。この問いが古典的でありながら、多くの人が避けて通るのは、この問いを客観的に捉えているからである。主観・客観二元論を信じている限り、この種の問いは解けない。社会問題一般を解決するための視点から、何らかの解答を導き出そうとすれば、「被害者の家族が悲しむから」「刑法199条で禁止されているから」といった凡庸な理由づけを持ち出すしかなくなる。何か説得力のある答えはないかと糞真面目に悩んでいるのでは、入口からして間違っている。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、少しでも正解に近付こうとすれば、それはqeb氏のブログの文章のようになるだろう。

この自分は宇宙の中に存在する。自分が生まれる前にも宇宙はあったし、自分の死後にも宇宙はあるだろう。これが弁証法の「一即多」である。しかし、それを認識できるのは、自分が生きている限りのことである。自分がこの宇宙に存在していなければ、宇宙が存在していることはわからない。これは、自分と宇宙の存在が一致している、すなわち自分が宇宙を存在させているに等しい。これが弁証法の「多即一」である。

被告人の目には裁判所の建物が見える。法廷の様子も、裁判長の顔も、傍聴席でにらんでいる被害者遺族の顔も見える。そして被告人の耳には、裁判長の声や、遺族のすすり泣く声も聞こえてくる。被告人には、この宇宙が認識できるからである。これに対して、死んでしまった被害者には、これらの光景が全く認識できない。被害者には目もなければ、耳もない。他でもない被告人の行為によって、それらは火葬場で灰になってしまったからである。

被告人がこの単純な事実と正面から向き合ったとき、それは戦慄をもたらす。人間の存在と宇宙の存在は一致している、これが「多即一」である。自分は被害者を宇宙から消してしまったことは、被害者にとっての宇宙を消してしまったことと同じである。すなわち、宇宙を1つ潰してしまったことになる。被告人がこの地点に気付いてしまった時、そしてその地点からはどうにも逃れられないことを知った時、それは被告人に狂気と絶句をもたらす。黙秘権の行使などという寝ぼけた話ではない。

現実の裁判では、この地点に至る被告人など稀である。しかし、遺族が救われるとすれば、被告人が人生を賭けてこのような地点に至り、苦しみと格闘することしかない。この地点を捉えようとしない犯罪被害者対策など、どのように推し進めたところで、最後には人間に違和感を残したまま終わる。

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2 コメント

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Unknown (qeb)
2007-08-14 14:23:23
私もこの「犯罪被害者の法哲学」を愛読しています。この通り、何というレスポンスの早さでしょう。
一点お願いがあるのですが、本文中のhttpから始まる部分を下のように修正していただいても宜しいでしょうか。

修正前:http://qeb.jp/blog/20070814-190.html
修正後:http://qeb.jp/blog/20070814-190.html

世の為、人の為になりますので、宜しくお願いいたします。
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Unknown (qeb)
2007-08-14 14:25:20
度々ですいません。
上のは無視をしてください。

何をお願いしようとしたかというと、URLをリンクにして欲しかったのです。
もし可能でしたら、宜しくお願いいたします。
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