犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 18・ 修復的司法はなぜ沈黙せざるを得ないのか

2008-04-11 00:59:04 | 時間・生死・人生
1人称の死は絶対不可解であり、2人称の死は悲しみであり、3人称の死は無関心である。身内同士の殺し合いや心中は別として、光市母子殺害事件のように赤の他人によって殺人が行われた場合には、2人称の死と3人称の死とが対立する。加害者が心底から反省しているか否かは、人を殺したことの意味を問い詰め、その意味がわからないということがわかり、その前で苦しんでいるか否かが試金石になる。これは、3人称の死が2人称の死を飛び越え、1人称の死の前で立ちすくむことができるかということである。将来的な自らの死を捉えることにより、それは死一般に反転し、その一瞬において人称性は消失することになる。「人の命の重さ」などという手垢が付いた表現で満足しているのであれば、それは死の怖さから目を逸らしているにすぎない。

殺人事件となると、決まったように「遺族の赦し」がテーマとして掲げられ、修復的司法の可能性が探られる。しかしながら、本村洋氏のように非の打ち所がない正論で攻められた場合、修復的司法にはなす術がない。修復的司法は、「遺族の赦し」として、愛する人を奪われたことの固有の悲しみに対する赦しを捉えるのみである。しかしながら、これは生きている遺族の固有の赦しであって、2人称の死に対する赦しにすぎない。死の本質は、1人称の死である。そして、それは絶対不可解であり、修復不能である。遺族は死者自身の悔しさや無念を代理で主張できるのかという問いの立て方もあるが、これは例によって何親等かという民法の相続法の話となり、あまり意味がない。問題なのは、遺族の悲しみとは無関係に、殺人犯が被害者自身の死という絶対不可解の前に絶句できるかどうかである。2人称の遺族に赦しを請うよりも、1人称の死者に向かい合うほうが論理的に先だからである。

1人称の死は「無」であり、2人称の死は「不在」である。存在論的に区別すると、「不在」はその時間の長さを数えることができる。初七日、四十九日、一周忌、三回忌などと死後の長さを測っているのは、あくまでも生きている人間である。時の経過によって悲しみが和らぐこともあれば、逆に時を重ねるごとに悲しみが増すこともある。これが不在の期間である。修復的司法が扱っているのは、この2人称の死がもたらす悲しみの変化である。これに対して、「無」はその長さを測ることができない。無を捉えてしまったら、それは無ではないからである。これは、殺された人の身になってみればわかる。殺される直前の瞬間までは何とかその身になることができるが、その後はどうしてもその身になれない。その身になるということの意味すらわからない。無は絶対不可解であり、ゆえに1人称の死も絶対不可解であり、その論理性は修復というフィクションを厳しく拒絶する。

客観的・物理的世界観が浸透した現代社会では、自分自身の死も他者の死に近づけて理解されることが多い。自分自身の死は絶対的な「無」でありながら、他者の目を通して、永遠の「不在」として理解される。とりあえず現代社会では、遺言書や遺書を書くという行為も普及しており、この誤解は普通は特に問題が生じない。しかしながら、殺人事件においては、この誤解による軋轢が先鋭化する。無を修復しようとしても、そのようなものは初めから無理だからである。殺された人はどこへ行ってしまったのか、元少年にはこの難問を考えてもらわなければ話にならない。洋さんの中には「弥生さん」が生きている。それでは、弥生さんの中にいる「洋さん」はどこへ行ってしまったのか。遺族からここを厳しく問い詰められると、修復的司法はお手上げである。2人称の死の悲しみは修復できても、1人称の死の不可解性が消えることはないからである。

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