犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 16・ 加害者と被害者は対立しているか

2008-04-10 01:01:48 | 実存・心理・宗教
対立とは、二つのものが反対の立場に立つことであり、互いに譲らないで張り合うことである。すなわち、対立させれば対立していることになるし、対立させたくなければ対立させないことができる。客観的な世界の存在を前提とすれば、人間の意志を離れて「対立状況」なるものが存在することになる。しかしながら、客観存在は幻想であり、すべては主体的意志による解釈であると考えるならば、対立とは人間の欲求の産物にすぎなくなる。これは、ポストモダンの哲学においては広く採られている視角である。ここでは、対立していることを前提に妥協や調整を図るのではなく、なぜそのような対立軸を設けたのか、その問題設定自体を問題とする。人権論を基調とする法律学では思いも及ばない視点の採り方である。

加害者と被害者は、一般社会においては対立するものとして捉えられている。これは読んで字の如くである。Aが加害者と呼ばれ、Bが被害者と呼ばれるとき、その行動はコインの裏表となる。すなわち、Aが殴ればBは殴られたことになり、Aが盗めばBは盗まれたことになり、Aが殺せばBは殺されたことになる。どう見ても完全な対応関係である。しかしながら、近代刑法の理論からは、この両者を対立させてはならなかった。国家権力と市民を対立させた以上、その各論として、捜査機関(警察官・検察官)と被疑者・被告人を対立させなければ説明がつかないからである。そして、意図的に加害者という呼称を避けた上で、「本当に加害者かどうかを決めるのが裁判手続きであるから、被告人は加害者とは限らない」との理屈を考え出した。これも、誰と誰を対立させたいのか、結論を先取りした上での逆算である。

国家権力による取調べや刑罰から被疑者・被告人の人権を守るという刑事弁護の活動は、伝統的に左翼イデオロギーとの親和性がある。いつの時代も、青年の血気やロマンティシズムは、権力に逆らう形で発現しようとする。今や安保闘争などの学生運動、国会前のデモなどはなくなってしまったが、刑事弁護活動は、現在も青年のロマンティシズムの典型的な受け皿として機能している。無罪や死刑廃止を求めて戦う人権派弁護士は、どんなに歳をとっても「青年」である。それは、一方では絶対に凡人の枠に収まろうとしない若々しさであり、他方では危ないところに自分を追い込んで試したいという幼稚っぽさである。この破壊的な衝動は、単に反権力的、反道徳的というだけでなく、この構図から外れた存在を無視しようとする。これが、国家権力から被告人の人権を守る過程における被害者の見落としである。

刑事弁護活動が人権論として成立するためには、常に国家権力と被疑者・被告人との対立軸が存在しなければならない。従って、捜査機関が温厚で和気藹々とした取調べをしていては困るし、被疑者が自白して反省してばかりでは困る。捜査機関は強引な取調べをして定期的に誤認逮捕や冤罪を発生させなければならないし、被疑者にはどんな弁解を弄してでも否認してもらわなければならない。この両者の相互依存関係がなければ、国家権力と被疑者・被告人という対立軸の設定が怪しくなるからである。そして、加害者と被害者という一般的な対立軸のほうが目立ってしまうからである。「被害者と被告人は対立する存在ではない」と主張し、犯罪被害者の問題を「心のケア」に押し込めようとするのは、警察・検察権力と闘いたいという欲望にとっては単に邪魔だからである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。