犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 7・ 国家による殺人だから意味がある

2008-04-05 17:48:22 | 時間・生死・人生
死刑は、憲法36条の「残虐な刑罰」に該当するのか。すべて条文から出発する憲法論としては、まずこのような形で問題が立てられる。しかしながら、このような問いを立てるならば、答えもそれに応じた形に限定され、それ以上議論が動かなくなってしまう。残虐な刑罰に該当するという立場と、該当しないとの立場が延々と議論し、いつまでも決着が付かないことになる。残虐な刑罰に該当するという立場は、死刑執行の現場を詳細に再現し、人間は絞首刑にされるとどのような状態になるのか、克明に描写されることになる。さらには、死刑を執行する拘置所の職員の苦悩まで持ち出されることもある。

このような意見に対しては、当然ながら「最初の殺人行為の残虐さはどこへ行ったのだ」との疑問が起きる。そして、それに対してはお決まりのように、「一私人の殺人は刑罰ではない。国家による殺人行為は質が違うのだ」との反論がなされる。通常の場合、被害者の殺され方のほうが悲惨で残虐であり、死に顔は苦痛と無念で歪んでいるはずである。従って、人権論がいかに死刑執行の現場の残虐性を訴えても、多くの場合には説得力がない。

つい先ほどまで生きていた人が死刑執行によって徐々に死んでゆく現場の描写は、この上なく非常に具体的であり、どのイデオロギーによっても否定することができない。これに対して、国家権力による殺人と他の殺人との異質性については、イデオロギーによって重視することもできれば、軽視することもできる。死刑の残虐性を叫ぶ立場に説得力がないのは、この点に原因がある。「残虐さ」という形容詞を持ち出せば、まずは必然的に最初の殺人行為が範疇に捉えられることは当然だからである。

「一私人による殺人行為と、国家による殺人行為は質が違う」との命題は、全く異なった意味で捉えることができる。すなわち、最初の殺人事件における被害者の死は、何の罪もない理不尽な死である。これに対して、死刑執行における死は、罪を償うものとしての死である。これは、国家権力の濫用の危険性というフィルターを除いてみて、初めて得られる視点である。殺す側の論理から殺される側の論理へ、視座の転換と言ってもよい。死刑執行の場面においては、死刑囚も殺される者としての「被害者」である。そして、通り魔による被害としての死には「理」がないが、その犯人の被害である死には「理」がある。このような視座は、憲法論においては全く採られていないが、多くの人間の倫理観に合致する。死刑に賛成する多数派の考え方も、おそらくはこの常識に立脚している。単なる人殺しと、罪を償うものとしての死が同列に並べられるわけがないからである。

近代社会では国家において刑罰権が独占され、自力救済が禁止された以上、加害者が罪を償うに際しては、国家権力が登場せざるを得ない。それによって、私人による殺人と国家による殺人の差異の議論は、特定の型にはまってしまった。最高裁の判例では、大真面目に「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでは残虐な刑罰だが、絞首刑は残虐な刑罰ではない」と判示されているが、これがその典型である。国家権力は悪であるとのイデオロギーからは、死刑囚はいつ死刑を執行されるか毎日おびえており、明日の命があるかわからない状態で死と隣り合わせに生きていることの悲惨さはよく見える。他方で、平凡で幸せな毎日を送っており、明日の命があると信じ込んでいた人が、何の心の準備もなく突然人生を終了させられることの悲惨さは見えなくなる。

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2 コメント

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お邪魔します (ブロガー(志望))
2008-04-06 18:12:22
お邪魔します。

>通り魔による被害としての死には「理」がないが、その犯人の被害である死には「理」がある。

 お言葉ですが死刑廃止論者は死刑「そのもの」に
「理」が無いと考えているのではないでしょうか。
自分は「殺人者には裁判と言う『死(刑)を回避する手
段』が与えられているが、犠牲者の側には回避(対
抗)する手段が与えられていない。」と思います。薬
害エイズの安倍英は「高齢のため裁判に耐えられな
い」として裁判が打ち切られましたが(その後ほどな
く死亡)、オウムの麻原こと松本智頭夫も彼の精神状
態如何によっては死刑を免れる可能性があります(本
人がそれを喜べるかは知りませんが)。回避(対抗)す
る手段を与えるには「自力救済」を認めねばなりませ
んが、それは米ルイジアナ州で日本人留学生服部君が
射殺されたような「罪無くして殺される」可能性を受
け入れねばならないでしょう。
 それと「残虐」というのが相当「恣意的」なもので
ある事は、日本の調査捕鯨に対する嫌がらせ行為をす
るシー・シェパードとそれを黙認するようなオースト
ラリア及びチベットの人達が教えてくれた事です。
返信する
ありがとうございます。 (某Y.ike)
2008-04-06 19:07:03
ご丁寧なコメントをありがとうございました。おっしゃる通り、問題はまさにそこにあると思います。
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