お寺さんぽ Ver.03

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室町時代 (歴史さんぽ)

2006年03月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
今日は各時代で最も不人気な(と思うけど、どう?)室町時代についてです。

実際、私もあまりやりたくはないんですが、京都のお寺を語る上で欠かせな
い応仁の乱や戦国時代の説明をするのにどうしても避けては通れない時代
なので……やります。
学生の方には(見てないか)とっつきやすいよう、大人の方には軽く説明がで
きるよう、なるたけ簡潔に書いてみたいと思います。

天皇・貴族が支配していたのが平安時代。
武士が台頭してきて、はじめて武家政治がおこなわれたのが鎌倉時代。
で、ここからが本題。

源頼朝の妻、北条政子の流れで北条家が政治を取り仕切っておりましたが、
元寇などの事件もあって北条家に対する武士の不満が蓄積。
さらに、二系統に分裂していた天皇家も皇位を交互につくよう強制されていた
ことに強い不満を持っていました。

結果、後醍醐天皇を中心とした反幕府勢力が立ち上がり、鎌倉幕府を滅ぼし
ます。
後醍醐天皇は名前そのまま、故醍醐天皇時代(注)の「天皇中心の政治」を
目指していましたから、当然倒幕に活躍した武士には不満が広がり、足利尊氏
を中心として離反。
尊氏は分裂していたもう一方の天皇家を担ぎ、幕府を開きます。これが北朝。
(ちなみに、足利尊氏は当時の武士に人気があったらしく、武士は彼のもとへ
結集しました。後醍醐天皇側には新田義貞という人がおりますが、この人なぜ
かいまいち人気ないのです)

足利尊氏の勢力に敗れた後醍醐天皇は京都を脱出し、吉野(奈良県南部)で
こちらが本物とばかりに吉野朝廷を開きます。これが南朝。
ああ、つかれた。
その後、北陸で三つ目の朝廷が開かれるだの、優位だった北朝で内乱が起き
るだのと、当時は離反・寝返りが当然と考えられていた時代なので、あっちつい
たり、こっちついたりと国内がわちゃくちゃな時代は六十年近くも続くのです。
(これが南北朝時代)

そして、皆が歴史で学習したように、最終的には足利氏の北朝が日本を統一。
武家中心の室町幕府を開きますが、それまでの流れ↑を受けてか、軍事・財政の
基盤は非常に脆いものでした。

①鎌倉幕府で各地に設置されていた「守護」は単に軍事・警察機能のみでしたが、
色々あって領地支配と経済なども任された「守護大名」となっていました。
これにより、各地の守護大名が力を有することとなり、土地と人民増強のため各
地で争いが頻発するようになってしまいます。

②将軍にしても、それになるためには「管領家」など、補佐する有力者のバックアッ
プが必要不可欠でした。
五代足利義量の死去後にはくじびきで後継を決める(本当)など、将軍の影響力は
みるみるうちに脆弱なものとなっていきました。
そのため、リーダーシップを発揮できない将軍は単なるお飾りに。
政治に関心を持ちすぎる将軍は危険な存在として厄介者になってしまうのです。

③将軍は守護大名に対して家督の干渉権を持ち、力をつけた有力守護大名にわざ
と分裂させるよう家督干渉をし、内乱を起こさせて(時には暗殺したりしてる)その勢
力を抑えていました。
これは一見いいように見えますが、自ら土台を崩すのと同じで、不安定な情勢をさら
に助長させることとなるのです。

まぁ、だいたいこんなもんですかね。
そんなんなので、幕府と名がついていても鎌倉・江戸の幕府と違ってほぼ戦国期の
ような不安定さが常につきまとっていたんですね。
将軍の権威はなくなり、能力のある者が台頭する「下克上」の思想はこうして全国に
浸透していくこととなるのです。



(注)年代は890年くらい。当時は1334年だったので、いかに理想とした政治
   が古臭い、時代に合致しないものであったかが分かるでしょう。


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