お寺さんぽ Ver.03

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真田昌幸 (長野・上田城)

2006年03月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は非公式(笑)にリクエストがありました信州上田は
真田氏について。
真田で言うと圧倒的に幸村(信繁)くんが有名なんですが、
あえて逆らってお父さんである真田昌幸さまのエピソード
を一つ。(まぁ、この方も有名なんですが)

「親か、子か?!」

大阪城合戦の際、真田が入城したという報告を聞いた家康
はそう言って大いに狼狽えたそうです。
子、というのは幸村くんであり、親というのは昌幸さまの
ことを指します。
天下人家康を狼狽えさせた「真田昌幸」さまとはどんな人物
だったんでしょう。


真田昌幸は信州の豪族真田幸隆の三男で、人質がてら武田
信玄の小姓をつとめていました。この時から才気抜群で、
あの信玄をして、「わしの両目のごとし」と言わしめたほ
どでした。
いいですか、”片腕”でなくて”片目”でもなく、「両目」
ですからね。どんだけ気に入られてたか想像できるでしょう。
(ちなみに片腕、と言われたのは板垣信方と甘利虎泰)
また、現在でいう政治秘書(あるいは社長秘書か)だった
彼は間近で信玄の采配ぶりを見ることで、元来もっていた
才能を大いに伸ばせたと思います。

その武田が織田に滅ぼされ、また信長も本能寺に倒れると、
畿内は旧織田家家臣の権力闘争の場となります。
すると、主を失った(直前までは織田家領)信州は周辺大名
の草狩場と化してしまいます。
真田氏は依然信州上田におりました。
そこに遠江の徳川、相模の北条、越後の上杉といった各有力
大名が来襲してくるんですが、昌幸は彼等を相手に虚々実々
の駆引きを展開して、必死に生き残りを図ります。
しかし、領土問題で徳川と決裂すると居城上田城は家康の
攻撃を受けることとなりました。

この際、家康は昌幸とこの地で何度か戦っていますが、兵力
差では圧倒的有利な状況ながら、全て真田の小勢に翻弄され
痛い敗戦を味わうこととなるのです。
ざまーないですね。(注:ひでるさんは家康が大嫌いです)

「表裏比興の者」

それは豊臣秀吉が昌幸を評した言葉ですが、「卑怯(=比興)」
と単語があるためそのまま悪口ととってしまいそうですが、
これは「凄い知略を有した奴だ」というような意味合いであり、
おそらくはほめ言葉だと思います。

そういえば楠正成も「悪党」と呼ばれていたことが当時の資
料にありますが、これも強いというイメージの批評だったよ
うです。小勢で大群翻弄したり、と似てますね。この二人。

まぁ、そんなだから、家康にしてみれば名前聞くだけでも嫌
だった筈です。冒頭の台詞も納得ですね。
そう、家康は三方ヶ原で武田信玄にも完璧に負けてますね。
要は師弟揃って不得意な相手だった訳ですよ。
だから、昌幸が大阪城なんていう秀吉が思案を重ねに重ねた
巨大な城にでも籠城しようものなら、どエライことになりかねん
と思った訳です。


……というか、もし昌幸さまが入城していたなら、まったく
違う歴史になっていたでしょう。
「なんで前もって知らせてくれなかったんだ?」
関ヶ原合戦で石田三成に誘われた昌幸さまはそう文面を返し
ています。当人もそりゃあ自信あったんですよ。
(でも、たぶん三成さまは彼を信用してなかったと思います)
実際、その言葉通りに中山道を行く徳川秀忠の大軍勢を翻弄
する値千金な活躍をするのです。
凄いですねー!
かっちょえーですよ。
「真田の軍略、天下に示せぇ!!」


[住所] 上田城 長野県上田市二の丸3-3


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