お寺さんぽ Ver.03

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歴史に残る戦術家 (楠木正成)1

2009年12月10日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
現在は南北朝時代を勉強中です。
前にいきなり息子さんをやりましたが、有名どころもさして詳しくないので、本日はこちらにしてみました。
調べて驚きましたが…この方、非常に活躍した期間が短いんですね。


北条氏の支配していた鎌倉時代。
武士の時代は各一族の繁栄がために御恩と奉公というシステムが崩れ、また第十四代執権「北条高時」も政治から離れるなど、急速に幕府への不満が高まっていました。
一方、朝廷では「後醍醐天皇」が即位。
野望に燃える彼は”公家政権”の復活を目指し、打倒幕府の行動を取るのでした。

しかし、正中(1324)・元弘(1331)の倒幕計画はどちらも失敗。
「後醍醐天皇」は隠岐(※島根県ね)へと配流になってしまうのです。
それでも、北条氏の支配に不満をもっていた武士たちが各地にて蜂起し、ついに倒幕となったのでした…。

その最大の立役者こそが、”悪党”とも呼ばれる「楠木正成(くすのき・まさしげ)」その人だったのです。
ほぼ無名であった彼がぱっと歴史の表舞台に登場
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧ください

とりあえずは朝廷の混乱について。
八十八代「後嵯峨天皇」には、兄「後深草(天皇)」、弟「亀山(天皇)」という二人の皇子がおりました。
(※ややこしくなるので、名前は統一してます)
慣例どおりに兄「後深草」へ譲位し、院政を開始。
しかし、弟「亀山」を愛していた「後嵯峨」は早々に兄「後深草」を退位させ、「亀山」を即位させてしまったのです。
院政が行われていたため、実権はほとんどなかった様子なんですね。
一時的に天皇にはなったものの、どうにも面白くないのが兄「後深草天皇」
しかも、「亀山」の跡目も彼の皇子「後宇多天皇」が継いでしまうのです。

本来であれば…自らの息子「伏見(天皇)」が天皇となる筈だったのに……

こうして、納得できない「後深草」は、鎌倉幕府の実力者、八代執権「北条時宗」を頼りました。
(※ちなみに時宗は元寇を防ぎきった人物です)
自らの子孫も即位できるよう、取り計らってもらったのです。

時宗の決定した妥協策は、交互に皇位へつくというもの。
ごく妥当な案ですね。
しかし、当の本人らにしてみれば、”独占できたかもしれない皇位をとっかえひっかえする”というのは、面白い事ではありませんでした。
こうして、「亀山天皇」の血族である”大覚寺統”、「後深草天皇」の血族である”持明院統”の対立が始まったのです。
さらに、公卿たちの勢力争いも絡まり、両陣営の対立に拍車をかけていったようなんですねー。

⇒ つづく。
  次回は「倒幕計画を練る後醍醐天皇」 (2/16)


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※さすが正成さま!
 小説などもいっぱいありますよ!!