のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)※写真」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。
実権を取り戻すべく、精力的に活動する「後醍醐天皇」
元弘元年(1331)の計画は事前に発覚してしまいましたが、京都を脱出した彼は遂に笠置山にて挙兵したのです。
付近の土豪ばかりが集合する中、スピリチュアルな体験(笑)から”楠木多聞兵衛正成”という武士に出会いました。
しかし、籠った笠置山は幕府勢の猛攻を受け、約一カ月ほどで陥落。
山中をさ迷った「後醍醐」は捕えられてしまったのです…。
「後醍醐天皇」は京都へと送られ、六波羅探題に幽閉されました。
笠置山を無事に陥落させた幕府勢。
続いて、「楠木正成」ほか五百の兵が籠る赤坂城を包囲しました。
ようやく登場した今回の主役ですが、いきなり大ピンチです。
正成が籠ったという、有名な赤坂城。
こちらは”四町四方に足りぬ”という小城だったようです。
しかも、彼が籠城した際は、まだ築城最中の未完成な状態であったとされています。
完全ではなかったんですねー。
びっくりです。
「足なんて飾りですよ」と言ったか、言わなかったか。(←それは別の話)
笠置山が彼の予想以上に早く陥落してしまったため、正成は工事半ばにして幕府の大軍を受けることとなるのです。
ここでちょっと気になったのが、”四町四方に足りぬ”という大きさ。
※四町四方:
四方は東西南北の四つの方角のこと。
一町は三〇〇〇坪、約109.09メートルなのだとか。
そうすると…一万二千坪以下?
東京ドームが約一万四千坪らしいので、城としては小さい…のかな。
よく分かんないですが。
なお、寺院での四町四方の場合は大伽藍という説明でした。
さて、赤坂城は総勢一万という幕府の大軍によって包囲されました。
第四軍までで構成されていたようですが、後に活躍する「足利尊氏」は、その第四軍を率いる大将として参加していたようです。
ちなみに、赤坂城は正成というより、「後醍醐」の息子「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」が身を寄せているという情報がありました。
そんな訳で、取るに足りない程度の小城でも、幕府にとっては”捨てておけない存在”だったのでした。
すっかり侮っていた幕府勢。
しかし、ここで正成の得意とする縦横無尽な奇策に対し、さんざんに翻弄された…と、伝わっています。
当初の予想に反してしぶとく抵抗したものの、城は未完成で兵糧の蓄えも少なかった赤坂城。
だいたい一週間ほどにて、落城してしまうのでした。
元弘元年十月 赤坂城 落城
⇒ つづく。
次回は「護良親王・吉野山に挙兵」 (6/16)
[関連記事] 【歴史・その他】
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度
⇒ 「軍師」について
⇒ 海賊大将・藤原純友「承平・天慶の乱」[1 2 3 4]
⇒ 晴明神社 (京都)
⇒ 行こう!八王子城址 [ 前編 中編 後編 ]
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
⇒ 箱根石仏群・記念館 (箱根)
⇒ 行こう!「関ヶ原ウォーランド」 (岐阜)
⇒ 三河武士のやかた 家康館 (愛知県・岡崎公園)
⇒ 源氏夢回廊 (滋賀・石山寺)
⇒ 石橋山古戦場・与一塚 (神奈川)
⇒ 河村城址 (神奈川)
⇒ 戦国武将・動物愛称いろいろ(調査中)
⇒ お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺・京都編)
⇒ お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺・京都外地域編)
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
※そんな訳で元ネタはこちらです。
でも…足あっても勝てたかどうかわかんないですね。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)※写真」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。
実権を取り戻すべく、精力的に活動する「後醍醐天皇」
元弘元年(1331)の計画は事前に発覚してしまいましたが、京都を脱出した彼は遂に笠置山にて挙兵したのです。
付近の土豪ばかりが集合する中、スピリチュアルな体験(笑)から”楠木多聞兵衛正成”という武士に出会いました。
しかし、籠った笠置山は幕府勢の猛攻を受け、約一カ月ほどで陥落。
山中をさ迷った「後醍醐」は捕えられてしまったのです…。
「後醍醐天皇」は京都へと送られ、六波羅探題に幽閉されました。
笠置山を無事に陥落させた幕府勢。
続いて、「楠木正成」ほか五百の兵が籠る赤坂城を包囲しました。
ようやく登場した今回の主役ですが、いきなり大ピンチです。
正成が籠ったという、有名な赤坂城。
こちらは”四町四方に足りぬ”という小城だったようです。
しかも、彼が籠城した際は、まだ築城最中の未完成な状態であったとされています。
完全ではなかったんですねー。
びっくりです。
「足なんて飾りですよ」と言ったか、言わなかったか。(←それは別の話)
笠置山が彼の予想以上に早く陥落してしまったため、正成は工事半ばにして幕府の大軍を受けることとなるのです。
ここでちょっと気になったのが、”四町四方に足りぬ”という大きさ。
※四町四方:
四方は東西南北の四つの方角のこと。
一町は三〇〇〇坪、約109.09メートルなのだとか。
そうすると…一万二千坪以下?
東京ドームが約一万四千坪らしいので、城としては小さい…のかな。
よく分かんないですが。
なお、寺院での四町四方の場合は大伽藍という説明でした。
さて、赤坂城は総勢一万という幕府の大軍によって包囲されました。
第四軍までで構成されていたようですが、後に活躍する「足利尊氏」は、その第四軍を率いる大将として参加していたようです。
ちなみに、赤坂城は正成というより、「後醍醐」の息子「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」が身を寄せているという情報がありました。
そんな訳で、取るに足りない程度の小城でも、幕府にとっては”捨てておけない存在”だったのでした。
すっかり侮っていた幕府勢。
しかし、ここで正成の得意とする縦横無尽な奇策に対し、さんざんに翻弄された…と、伝わっています。
当初の予想に反してしぶとく抵抗したものの、城は未完成で兵糧の蓄えも少なかった赤坂城。
だいたい一週間ほどにて、落城してしまうのでした。
元弘元年十月 赤坂城 落城
⇒ つづく。
次回は「護良親王・吉野山に挙兵」 (6/16)
[関連記事] 【歴史・その他】
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度
⇒ 「軍師」について
⇒ 海賊大将・藤原純友「承平・天慶の乱」[1 2 3 4]
⇒ 晴明神社 (京都)
⇒ 行こう!八王子城址 [ 前編 中編 後編 ]
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
⇒ 箱根石仏群・記念館 (箱根)
⇒ 行こう!「関ヶ原ウォーランド」 (岐阜)
⇒ 三河武士のやかた 家康館 (愛知県・岡崎公園)
⇒ 源氏夢回廊 (滋賀・石山寺)
⇒ 石橋山古戦場・与一塚 (神奈川)
⇒ 河村城址 (神奈川)
⇒ 戦国武将・動物愛称いろいろ(調査中)
⇒ お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺・京都編)
⇒ お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺・京都外地域編)
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
MG 1/100 ジオング MSN-02バンダイこのアイテムの詳細を見る |
※そんな訳で元ネタはこちらです。
でも…足あっても勝てたかどうかわかんないですね。