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御朱印蒐集~岐阜県 大垣市 御首神社~

2018-09-12 18:30:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 古来の日本には、非業の死を遂げた人が怨霊となって祟りをおこすという考え方があったとされます。
なかでも有名なのは『日本三大怨霊』と呼ばれる“菅原道真・平将門・崇徳上皇”となるのでしょうか。

人々は怨霊と化した魂を鎮めるため、道真は天満宮、崇徳は白峰神宮、将門は神田明神等で神として神社に祀ってきたといわれます。
怨霊の一人の平将門には関東地方で勢力を誇ったことや荒俣宏の小説の影響もあって、帝都・東京のイメージがありますが、意外なことに関東以外にも将門を御祭神として祀る神社がありました。



平清盛は平氏の一族として下総(千葉県北部)を拠点としていた豪族で、一族との抗争を経て関東の武士勢力をまとめ、自ら「新皇」と名乗って関東の独立化をはかった方とされます。
いわゆる朝敵・逆賊となった将門は「承平天慶の乱(平将門の乱)」で平貞盛と藤原秀郷に討たれたと歴史に残ります。



平貞盛にとっては父である平国香(将門からみると伯父)の仇討ちとなり、藤原秀郷は別称・俵藤太として近江三上山のムカデ退治の伝説を残す方です。
ではなぜ平将門を祀る神社が岐阜県にあるのかが不思議に思えてきます。



将門は平将門の乱で討ち取られた後に首だけが京都へ送られ、さらし首にされたといいます。
しかしその首は故郷恋しさのあまり、首だけが飛んで関東へ戻ろうとしたという伝説が残されているようです。

美濃の「南宮大社」では将門の首が関東へ戻ることを阻止しようと矢を放ち首を射落したとされ、その首が落ちた地に「御首神社」を創建し、御祭神として鎮魂したのが縁起とされています。
なぜ将門が怨霊として祟ることになったのかは分かりませんが、京都に対する関東の守護神として畏怖されたのかもしれませんね。



ところで平氏といえば、この将門と清盛の名が思い浮かびますが、この2人に関連はあるのでしょうか。
調べてみると共に桓武天皇の子孫となる系統にあたり、将門の父の兄弟の一族に清盛がいるようです。
将門が打ち取られたのが940年といわれており、清盛が生まれたのが1118年とされることから、平清盛の200年近く前の一族が平将門ということになりそうです。



本殿への石段の前には小さな御饌田があり、数本の稲が植えられています。
この稲は、境内より汲み上げられる真清水にて育てられているということですので、新嘗祭などの神事の際に奉納されるのかと思います。
井戸の横にある手水も水量が多く、気持ちよく清めさせていただくことが出来ます。



本殿へと向かう参道には“御首大神”の幟が立ち並んでいますが、御首神社は“首から上の大神様”として首から上の祈願に霊験あらたかな御利益があるとされます。
その御利益からシーズンになると受験生が大勢詰めかけて身動きできないくらい混雑するようですね。





本殿には主祭神として平将門を祀り、相殿社の南宮神社には金山彦命(同じ大垣市内にある南宮大社と同じ)と西宮神社に蛭子命(恵比寿神)を祀ります。
境内社は鍬山神社(豊受大神)と神明神社(天照大神)、末廣稲荷神社(宇迦之御魂神...稲荷神)の3社が祀られていました。



御首神社は国道21号線を走行する時に大きな看板があることから気になってはいた神社でしたが、平将門を祀り、将門の首についての縁起があるとは参拝して初めて知ったことです。
社務所には複数の禰宜の方と巫女さんの姿があり、神社としての神事や参詣者が多い神社のようでもありました。
関東へ帰ろうとする将門の首をあえて岐阜で射落して創建された神社ということは、それだけ平将門の影響力が強く鎮めようとする気運が高かったということなのでしょう。



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