僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

湖北の田圃でシギチを探せ!

2017-04-30 22:10:10 | 野鳥
 すでにゴールデンウィークに突入されている方も多いかと思いますが、今年はカレンダーの巡り合わせが悪く当方は大連休とはいきませんでした。
3日からが連休スタートとなってしまいますので、例年に比べるとちょっと損した気分も少し致します。

さて、“湖北の田圃でシギチを探せ!”とばかりに田圃巡回をしていましたが、一般種ばかりとはいえ種類と数は増えてきているように感じました。
かつてのように次から次へとシギチが登場するなんてことは期待出来なくなってきていますので、チョボチョボと拾っていくしかないようです。



まずはタカブシギからですが、この田圃にはタカブシギが5羽。
“タカブシギの多い春はシギチがたくさんやって来る!”のジンクスが今年こそは当って欲しいところです。



先週は姿はあれども数が少なかったチュウシャクシギも、今週は数がふた桁になって軽く20羽オーバーとにぎやかになってきた。
チュウシャクシギは到着が早めで、消える時期の遅い鳥ですから当分の間は楽しませてくれそうです。





アオアシシギもやっと到着。
3羽の姿があって何やらエサを発見したようでしたが、それは食べ物ではなくゴムのようなゴミだったようです。



ムナグロも相変わらずカウント出来ない数が入っています。
水田部にいるやつなら数えられるけど、未耕田にいるやつは見にくすぎてとてもじゃないけどカウントなんて出来ませんね。





渡りの鳥とは言えないかもしれませんが、同じ田圃にタシギが1羽。
しばらく見ていたけど、ずっとお休みモードで座ったままでした。



こいつも渡りの鳥とは言い切れないコチドリをパチリ!
足でトントンとグッド・バイブレーションで地面を叩いて獲物を探している姿が見られます。



シギチの田圃にはアマサギが1羽来ていました。
少し前に見たやつと同じかどうかは分かりませんが、1羽だけということで同じ個体なのかもしれませんね。



田植えが終わった田圃もありますが、連休中に大方の田圃で田植えが済みそうです。
田植えの時期が終わって田圃が落ち着いてくれば、また違ったシギチが見られるかもしれませんね。


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御朱印蒐集~近江八幡市 比牟礼山 願成就寺~

2017-04-28 18:15:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八幡市にある「比牟礼山 願成就寺」は飛鳥時代・推古天皇が在位していた619年に聖徳太子により開基された寺院と伝わります。
勅を賜った聖徳太子が近江国内四十八箇所の寺院の建立を達成した際に、願いが成就したとして開基したのがこの願成就寺とされています。

願成就寺では49年に一度ご本尊である大光普照十一面観世音菩薩が御開帳されるとあって、参拝に訪れました。
近年の寺院・秘仏ブームもあってか、参拝客は想像以上に多く、世話役の方々も大勢動員されているようでしたが皆さん大忙しの様子でした。



当日は、10時より開扉法要が勤修されるとのことで少し遅れて到着したのですが、寺院へと続く商店街を歩く人の足は全て寺院へ向けられています。
駐車場から数分歩くと石段が見えてきますが、まずこの門構えがいいですね。





門の手前には「本尊十一面観世音菩薩」の石碑が建ち、「御開帳大法要」の看板が掲げられています。
石段を登りきってすぐに見えてくるのは「願かけ涅槃岩」という巨石です。かなりの大きさの岩でしたので、磐座ということになるかもしれません。
願成就寺は、明治の廃仏毀釈まで“日牟禮八幡宮を願成就寺が社僧として管理していた”と記録されているようなので、元は神仏習合の寺院だったと考えられます。



涅槃岩の先には鐘楼があり、鐘堂の大黒柱に修復の記録と思われるものがありました。
昭和に鐘堂を修復された時のものかと思いますが、釣鐘は市指定文化財になっているため歴史があるものかと思われます。





本堂では開扉法要に続いて式典が続いており、やっと御開帳になった時には既に堂内は満員で外にも行列が出来ています。
秘仏・十一面観世音菩薩は本来は49年に一度の御開帳ということでしたが、期間が長すぎるため中開帳として25年に一度の御開帳になっているそうです。
いずれにしても次回の御開帳に来れるかどうかは分かりませんから、これが最初にして最後の拝観になると思います。





本堂では脇陣に日牟禮八幡宮の本地仏である「阿弥陀如来像」が祀られており、内陣の須弥壇には「四天王像(持国天・不動明王・多聞天・増長天)」が本尊を守護するように左右に2躰づつの配置です。
願成就寺では「天台形式」で不動明王が安置されていたのですが、天台形式とはなんぞや?でよく分かりません。
さらに脇陣には西国三十三観音の諸仏が安置されていました。

ということで本尊までの行列が中々進まず悶々としていたのですが、秘仏ファンの方々は小道具を持参しての拝観に余念がありません。
小道具とは単眼・双眼のスコープやペンライト・小型ライトのことになりますが、そういう道具を利用して拝観されている方が多いのには驚きです。

大光普照十一面観世音菩薩は平安時代の作とされ、カヤの一本彫で顔はやや厳しい表情に見え、裳はシンプルといった印象。
薄暗い厨子に安置されてある仏像を見た感じですので、ライトアップして見られた方とは印象が違うかもしれません。



本堂を廊下でつながる護摩堂(不動堂)には五大明王像が並んでいました。
中央に「大日大聖不動明王」が「矜伽羅と制吒迦」の2童子を従えて構えており、左側に「大威徳夜叉明王」と「軍荼利夜叉明王」が安置されています。
右側には「金剛夜叉明王」と「降三世夜叉明王」が安置され、さらにその右には「役行者像」と迫力のある須弥壇になっていました。





さて、願成就寺には重要文化財の「木ノ中延命地蔵大菩薩」を祀る木の中地蔵堂があります。
「木ノ中延命地蔵大菩薩」は鎌倉時代の作とされ、6尺(182cm)と長身の仏像で、1本の木から3体切り出された真ん中の部分で掘り出された仏像であることから「木ノ中地蔵」と呼ばれているとされています。



お前立ちの仏像は「満願寺地蔵」で、こちらの地蔵様は平安時代後期の作とされており、何故かお前立ちの方が歴史が古いという少し変わった状況になっています。
元々は満願寺というお寺の本尊だったそうですが、廃寺となってしまいお前立ち仏として安置されているそうです。

2躰の地蔵菩薩が前後に並ぶちょっと不思議な姿ではありましたが、2躰の地蔵菩薩の比較はしやすかったと思います。
尚、須弥壇には他にも閻魔像と眷属2躰も安置されています。



参拝客には「散華」と「身代わり御守」が配布され、入れ物の袋には「秘仏 拝観の証」のシールが貼られていました。
25年に一度の御開帳という記念行事ということもあって準備されたものと思いますが、頂くと嬉しい気分になるのは確かです。



寺院や檀家の方にとっても一生に2~3度しかないハレの大行事だったのだと思います。
晴天の中で参拝出来たことにも感謝いたします。


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御朱印蒐集~近江八幡市 村雲御所瑞龍寺門跡~

2017-04-26 06:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八幡市にある標高272㍍ほどの八幡山の山頂に瑞龍寺という門跡寺院があります。
山頂まではロープウェイで上がることが出来て、山の麓には日牟禮八幡宮やロケ地で有名な八幡掘りがあり、和洋菓子のたねや・クラブハリエの近江八幡日牟禮ヴィレッジなどが立ち並びますから、近江八幡の観光ゾーンということになりますね。

八幡山にはかつて八幡山城が築かれており、1582年の本能寺の変から3年後の1585年に後の関白 豊臣秀次が築いたといいます。
秀次は諸説ある方のようですが、八幡山城も築城5年後の1590年に城主が京極高次に変わり、秀次切腹の1595年には廃城となった短命の城だったとされます。



秀次本人も享年27歳だとか32歳だとかいわれていますので短命な方だったようです。
秀次の自害については、“関白を継いだが、秀吉の正統な後継者である秀頼が生まれたため、正統な系譜を守るために自害させられた”、“「殺生関白」と呼ばれる暴君だったため、秀吉に高野山へ追放・切腹させられた”などいろいろ言われています。
実際のところは何が真実か分かりませんけどね。





秀次は秀吉の姉「智(とも)」の長男とされていますから、その時点で後継者のいなかった秀吉は甥を養子(跡取り)としたのでしょう。
結局、秀次は切腹して自害ということなりましたが、秀吉は秀次の一族処刑までしてしまいます。
この動機にも諸説あるようですが、豊臣家のその後の悲劇の運命に影響する事件だったのかもしれません。





寺院は、智が出家後に日秀尼として京都の村雲に秀次の菩提を弔うために創建したことから村雲御所と呼ばれ、後陽成天皇より「瑞龍寺」の寺号を賜って門跡寺院となったとされます。
瑞龍寺は日連宗では唯一の門跡寺院とされ、代々皇女や公家の娘を貫首(かんじゅ)に迎えていた格式高い門跡寺院だとされます。
地図がありましたが、二条城の少し北の辺りにに当時は建てられていたようですね。



江戸時代になると同じ京都の西陣に移転されますが、1788年に全焼してしまったようです。
再建後の瑞龍寺が秀次ゆかりの八幡山の地に移築されたのは1961年のこと。
尼僧が続いてきたといわれる瑞龍寺でしたが、現在の15世住職は男僧の方だそうです。



滋賀県には天台宗・浄土真宗の寺院が圧倒的に多いように感じているのですが、日蓮宗の寺院に参拝するのは県内では初めてとなる寺院です。
外陣に大きな太鼓がふたつあったのは少し変わっているかもしれません。

廊下を通って奥へ進むと、宮御殿「雲の間」と呼ばれる京都時代に「貴賓の間」として使われていた御座所があります。
派手な襖絵などはなく、しっくりと落ち着いた部屋に造られています。



廊下を進むと「妙法の庭」という庭があり、石で描かれた妙法の文字が見えます。
この庭は戦時中は防空監視所があったといい、戦後取り壊された瓦礫の山を整理して現在の「妙法の庭」となったそうです。
写経石は現在も奉納することが出来、文字の書けるよう石と筆記具が室内に準備されていました。



奥の部屋の廊下には悲運の関白・豊臣秀次の像があります。
八幡山の山麓にある八幡公園に豊臣秀次の銅像があるようですが、瑞龍寺の像はその原型となった像とありました。



本堂の一番奥には仏間があり、見ているとお寺の方(女性)がお茶を上げにきて、短い経を唱えられています。
小さな厨子に祀られていたのは「妙見菩薩」でした。妙見菩薩は北極星を神格化した菩薩とされていますが、祀られている場所からして、どちらかというと念持仏のような祀られ方なのでしょうか。



八幡山の山頂へは日牟禮八幡宮のすぐそばにあるロープウェイで登ることになります。(歩いても登れる)
少し旅気分になってロープウェイを撮ってみました。ロープウェイの駅の裏側に日牟禮八幡宮が見えますね。



琵琶湖側を望めば姨綺耶山と琵琶湖。対岸の山にはまだ残雪が残る3月下旬の景色です。
対岸の山はおそらく比良山系だと思いますが、湖西の山は雪深そうですね。
琵琶湖を挟んで見る湖西の残雪の山は見るたびに美しいと感じてしまいます。



安土山・錣山を望む東方面に広がる湖は琵琶湖ではなく西の湖。
その手前にある入り組んだ水路は水郷めぐりの水路のようです。
奥には霊仙山と鈴鹿山系になるのでしょうか。



ところで、よく見てみると西の湖の向こう側から煙が上がっています。
望遠最大で見てみると、どうやら葦焼きをやっているようです。



これは面白いものをみつけてしまいました。
寄り道して立ち寄ってみよう!と思ったのは当然の成り行き。
“行くまで焼き尽くさないで”と願いながらでした。

 『西の湖の葦焼きは不動明王の火炎光背のようだった!』


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チュウシャクシギとムナグロをパチリ!

2017-04-24 18:38:38 | 野鳥
 滋賀県の湖北地方は“田植えの時期が早い”と言われることがありますが、先の土日には既に田植えをされている田圃がいくつかありました。
田植えがピークになるのはゴールデンウィークの頃になると思いますが、季節が進んでいくのはホント早いですね。

田圃仕事とは無縁の当方も、水田チェックの方は熱心にやっております。
水田にはボチボチとシギやチドリの仲間が見られるようになってきていますが、まだ開幕前夜といったところでしょうか。



土曜の朝にはチュウシャクシギが2羽見られ、当方にとってこの春のシギチ第1号となりました。
シギの仲間に多い、長いクチバシの鳥は毎春見ているとはいえ、淡い感動を感じてしまいます。



ムナグロも膨大な数が入ってきていて、巨大グループと小グループのいる田圃がありました。
巨大グループの方は数の推定すらつかず、何か別のやつが混じっていないか探すだけで精一杯でしたが、ムナグロ以外は発見出来ず。



愛想のいいやつが何羽かいて、どんどん寄ってきたのが嬉しいところ。



田圃の奥の方で抱卵しているケリがいたけど、これは逆光のうえに距離がありすぎて何ともならず。
来週にはヒナが見られるかもしれませんね。



さて、桜の花が散って葉桜の時期になりましたが、葉桜の定番といえばコムクドリ。
桜の木陰でチョロチョロする鳥がいたので見てみると...残念ながらツグミでした。



全く人騒がせなやつです。
というかツグミさんはいつまでいるつもりなんでしょうね。



今の季節に田圃から聞こえてくるのは“無数のカエルの唄”と“ヒバリの囀り”。
少し違う声が聞こえてきたので探してみると、それは“ホオジロの囀り”。



気がついてみると、やや日陰の場所にはシャガの花が咲いている。
近くにある群生は今が見頃になってきています。



おまけで最近よく囀りが聞こえてくるイソヒヨドリをパチリ!
こいつはよく見かける♂や♀とは違う個体に見えます。
もしかすると若鳥?それとも新参者?




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御朱印蒐集~長等山園城寺 三井寺②~

2017-04-23 06:03:03 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山延暦寺の話になりますが、延暦寺の東塔エリアと西塔エリアの間を徒歩で歩いて行くと「山王院堂(法華鎮護山王院)」という千手観音を祀っている伽藍があります。
元は比叡山延暦寺の第5代座主の智証大師こと円珍の住房だったとされますが、円珍の死後に延暦寺と三井寺で紛争が起こり、円珍派の僧が円珍の木像を背負って三井寺へ移住したとの説明書きがあったのが記憶に残っています。

比叡山延暦寺には、第3代座主の円仁(慈覚大師)と第5代座主の円珍(智証大師:三井寺別当)の2派があったようですが、円珍の死後に両派は激しく対立して、円珍派は比叡山を降りて三井寺へ移ったと伝わります。
抗争の原因は、宗教上の相違か権力闘争なのかは知りませんが、比叡山衆徒による三井寺の焼き討ちは50回にも及ぶとされていますので、まるで「仁義なき戦い」のような話ですね。

 



しかし三井寺は50数回の焼失にも関わらず、その都度再建されて蘇ってきたのですから非常にエネルギーのある寺院と言えます。
今の世でも根っこは同じところにありながら、僅かな違いにより争いが起こることがありますから、人は中世から同じことを繰り返しているのかもしれませんね。



唐院といわれるエリアには大師堂・潅頂堂・三重塔が並ぶゾーンとなっていますが、残念ながら内部拝観は出来ないようです。
三重塔は、室町時代の建築物で1600年に徳川家康が伏見城から三井寺へ寄進したものだとされていますが、すっきりとその全景を観ることが出来る場所がないのは残念。
大師堂・潅頂堂はそれぞれ桃山時代の建築物として重要文化財指定を受けています。



さて、境内には三井寺の別所とされる微妙寺があり、開基は994年、本堂は1776年に再建された寺院といいます。
微妙寺は、水観寺・近松寺・尾蔵寺・常在寺と並んで、園城寺(三井寺)五別所の一つとされており、秘仏の「十一面観音立像」を本尊に祀っています。



微妙寺には「十一面観音立像」・「不動明王像」・「毘沙門天像」・「千手観音像」が安置されているのですが、重文指定の「十一面観音立像」は寺院には安置されておらず、向かいにある収蔵庫に安置されてありました。
さっそく収蔵庫へ行きましたが、屏風絵が多かったとはいえ、展示されていた仏像は素晴らしいものが多かったと思います。



平安時代に作られた十一面観音像は、スマートでモデル体型の十一面観音とは程遠く、あまり見たことのない独特のプロポーションに驚いてしまいました。
顔は大きく、寸胴で下半身が短く、ふくよかなというよりもでっぷりとした像には違和感と共に、妙に気持ちが引かれてしまう仏像です。


ポストカード

収蔵庫には他にもやや反り返った姿勢で立つ「吉祥天立像」(鎌倉時代・重文)や、半跏の姿勢で幼児を抱く「訶梨帝母倚像」(鎌倉時代・重文)などの仏像が並びます。
迫力があったのは掛け軸になっていた「不動明王二童子像」(鎌倉時代・重文)。絵の全体に広がる炎の赤々さが印象に残ります。


ポストカード

三井寺は「西国三十三箇所観音霊場」の第十四番礼所となっており、境内の一番奥にある「観音堂」が三十三ヶ所巡礼の札所となります。
ご本尊は「如意輪観音坐像」ですが、特別開帳の時期にだけ拝観できる平安時代作の一面六臂の像で、この日は残念ながら拝観叶わずでした。
趣のある石段を登っていった先には1686年の火災の後の1689年に再建されたという観音堂がありました。





ここは観音巡礼の地ということもあって巡礼装束の方の姿をチラチラと見かけます。
観音堂の外陣の拝所は、いかにも巡礼の寺院らしい雰囲気が漂っているのが嬉しいところ。



境内を歩いて戻ってくると「百体堂」がありました。
「坂東三十三箇所」(関東を中心とした三十三観音霊場)、「秩父三十四箇所」(埼玉県秩父地方の三十四観音霊場)に「西国三十三箇所」と合わせて百体の各寺院の本尊が祀られているそうです。
札所巡礼を一つの寺院で簡略的に行えるようになっている寺院はあちこちにありますから、その信仰によるものと思われますが、江戸時代の1753年に建てられた建築物ですから簡易巡礼の魁となった堂宇の一つかもしれません。



百体堂の横には「観月舞台」があり、月見の絶好の場所といいます。
こので月見をするとしたら、“春の桜”・“秋の紅葉”のライトアップの季節になるのでしょうか。舞台に登れたかどうかは記憶にありませんけど...。



最後に参拝した水観寺は、微妙寺同様に三井寺の五別所寺院のひとつとされ、開基は1028年で本堂は1655年に再建された建築物だとされます。
本尊は「薬師如来像」で脇侍に「日光・月光菩薩像」が安置され、左右で「十二神将」が薬師如来を守護しています。



ところで、三井寺は大津絵の地元に当たることから、境内や周辺で大津絵を見かけます。
大津絵はこれまで絵面は見ただけでしたが、じっくり見てみるとなかなか面白そうです。大津絵は元々は江戸時代に仏画として描かれたそうですが、世俗画や風刺画へと変わっていったようですね。
また大津絵は大津絵10種として定型があって、それぞれ護符としての意味を持ち、効用があるようです。

 

左は「鬼の寒念佛」といい、魔を祓う護符であるとともに“慈悲ある姿とは裏腹な偽善者を諷刺”した絵だそうです。
右は「雷公の太鼓釣」といい、雷除けの護符であるとともに“どんな熟達者でも時に失敗することもある”という意味が込められているようです。
今回は大津絵博物館へは立ち寄ることは出来ませんでしたが、一度ゆっくりと大津絵を見てみたいと興味が湧いてきます。



三井寺の観音堂からの石段をどんどん降りていくと長等神社がありますので、こちらにも参拝してきました。
天智天皇が近江大津京へ遷都した際に都の鎮護として祀られたことを起源として、円珍が園城寺の守り神として祀ったと伝わる神社で、楼門の美しさが魅力的な神社です。


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御朱印蒐集~長等山園城寺 三井寺①~

2017-04-21 19:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 三井寺(園城寺)は西国33所観音霊場の札所として、また近江八景の「三井の晩鐘」として知られ、桜の名所・紅葉の名所としても有名な寺院です。
近江大津京は667年に天智天皇により開かれていますが、天智天皇の死後に勃発した壬申の乱に敗れた大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)の息子である大友与多王が父の霊を弔うために寄進して圓城寺を創建したことが始まりとされています。

その後、天台宗の僧・円珍により寺院は再興され、天台別院として「東大寺・興福寺・延暦寺」と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」に数えられる大寺院となったようです。
円珍は弘法大師空海の姪の子供とされる説があり、比叡山の僧侶として籠山修行の後、入唐して密教の奥旨を伝授されて帰国したとされています。
また円珍は、三井寺の別当職となり、その後は比叡山延暦寺の第5代座主にまでなった方で、「智証大師」の諡号を賜るほどの高僧であったとされています。

 



さて、三井寺ではまず大門(仁王門)から入ることになりますが、この門は寺の記録によると、滋賀湖南にある常楽寺の門であったが、豊臣秀吉によって伏見に移された後に、徳川家康によって現在地に建てられた(1601年)とされる重要文化財に指定された門です。
迫力のある仁王像が左右から睨みを効かせていますが、線径の太い金網越しなのでちょっと見にくい感じなのが残念です。





大門を抜けると釈迦堂(食堂)へ参拝することになります。
室町時代に建立されたとされる重要文化財の建築物で、同じく室町時代の作とされる釈迦如来立像を本尊として祀っています。
仏像は本尊釈迦如来立像の左側に十一面観音像と智証大師像、右側には延命地蔵が祀られていて、名称が釈迦堂(食堂)と()が付いていますので、かつては食堂(じきどう)として使われていたのかもしれません。



近江八景の「三井の晩鐘」と呼ばれるこの大鐘は、1602年に作られたもので参拝客が撞く鐘の音色が絶え間なく境内に響き渡っていました。
鐘には108の乳が付いていて人間の煩悩の数になっていますが、108乳が作られるようになったのは室町時代末期から江戸時代といわれますから、鋳造年代も合っていますね。



金堂は国宝に指定されている建築物で、1599年に秀吉の正室・北政所(ねね)によって再建されたもののようです。
建物は正面7間・側面7間と大きな建物ですが、特に屋根の大きさと反り軒の見事さに圧倒されます。



金堂の正面には「堂前灯籠」があり、これは天智天皇(中大兄皇子)が大化の改新で蘇我氏を滅ぼした罪障主滅のため、自らの左薬指を切って灯籠の台座の下に納めたと伝えられているそうです。
この灯篭は別名「圓城寺金堂無名指灯篭」とも呼ばれていますが、無名指(むめいし)を奉納した話は初めて聞きます。
「薬指」は薬師如来に由来するという説もありますから無名指には法力があると考えたのでしょうか。



金堂内部は内陣の横から脇陣・後陣をぐるっと一回り出来て、その4面全てに仏像が祀られていました。
左側の脇陣には、まず室町時代作の「大黒半跏像」が祀られていましたが、この大黒さんはかつて見たことのないような憤怒の表情の仏像でしたので、かなりの違和感を感じます。

さらに江戸期の「閻魔像」・「愛染明王像」、鎌倉期の「毘沙門天像」・「地蔵菩薩立像」と続き、南北朝期の「地蔵菩薩坐像」がもう1躰安置されています。
美しい顔の「毘沙門天像」の左目の下には傷があり、その傷がまるで涙を流しているかのように見えるのは大変印象的です。

驚いたのは最後に祀られていた「尊星王立像」でした。
北極星を神格化したものとも言われますが、月輪の上に片足で立っているさまは、まる球技するピエロのようにも見えます。しかも頭の上には鹿の姿まである不思議な仏像です。


ポストカード

後陣には室町期の「聖徳太子立像」が2躰、室町期の「宝冠釈迦如来座像」・「帝釈天」と続き、江戸期の「円空仏」が7躰・室町期の「釈迦如来坐像」と安置されています。
「宝冠釈迦如来座像」は少し変わった雰囲気がする仏像で。宝冠をかぶった釈迦像ということになるのですが、非常に中国風というか、渡来仏のイメージのある仏像です。


ポストカード

さらに平安末期の作とされる「大日如来坐像」が安置されています。
金剛界大日如来と胎蔵界大日如来は結んだ印によって見分けるとされており、智拳印を結んだこの「大日如来」は金剛界大日如来ということになりそうです。

後陣には続いて、室町期の「大黒像」、平安期の「不動明王像」と「毘沙門天像」、室町期の「阿弥陀如来坐像」、鎌倉期の「阿弥陀如来坐像」と数多くの仏像が並びます。
ここにあった大黒像はよく見る感じの穏やかでふくよかな大黒さんで脇陣にあった憤怒の大黒半跏像とは随分印象が違います。
「阿弥陀如来坐像(鎌倉期)」の横の脇侍2躰は、文殊と普賢かと思われますが、今にも動こうとするような前傾姿勢だったのが魅力的です。


ポストカード

内陣の右側の脇陣には、江戸期の「役行者」、平安後期の「十一面観音立像」が2躰、更に江戸期の「聖観音立像」、室町期の「不動明王と2童子」、江戸期の「千手観音像」、江戸期の「阿弥陀如来坐像」と「普賢菩薩像」と大きな仏像はないものの数多くの仏像が祀られていました。
尚、金堂の御本尊は「弥勒菩薩」で、この仏像は絶対秘仏とされて見ることは出来ないそうです。

金堂を出ると「閼伽井屋」という霊泉を祀った建物がありました。
この霊泉は天智・天武・持統天皇の産湯に使われた「御井(みい)の寺」という逸話があり、三井寺の名前の由来となったとされています。
有名な話ですが、この井戸の近くで耳を澄ましていると、本当にボコッボコッという音が聞こえてきます。



ところで、三井寺には「三井の晩鐘」の鐘とは別にもう一つ有名な鐘で、「弁慶の引き擦り鐘」という鐘があります。
この梵鐘は奈良時代の作とされますが、三井寺と延暦寺の争いで弁慶が三井寺から鐘を奪って、比叡山へ引き擦り上げて撞いてみると“イノー・イノー(帰りたいの意味の方言)”と響いたので、弁慶が怒って比叡山の谷底へ投げ捨ててしまったという伝説がある梵鐘です。





三井寺前半の最後は「一切経蔵」という経典を安置するお堂になります。
室町時代の建築物として重要文化財に指定されており、1602年に毛利輝元によって移築されたものとされています。
元は毛利家のお膝元の山口市にあった禅宗寺院(国清寺)からの移築で、造りも禅宗の雰囲気のある建物です。



内部には「八角輪蔵」という回転式の経典を安置する輪蔵がありますが、これがなかなか見ごたえがある美しい輪蔵です。
現在も中に経典が収められているのかは知りませんが、元は版木の一切経(仏教のすべての経典)が収められていたとされます。



圓城寺(三井寺)は、創建から1300~1400年の間に何度も焼失し、その度に蘇ってきた寺院だといいます。
境内には特徴のある伽藍が多く、観光寺としての一面もあるとはいえ、見所の多い寺院ですね。


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満開の桜にメジロをパチリ!

2017-04-20 06:03:33 | 野鳥
 今年の桜は、満開の時期や週末の天気予報との関係で、見頃を逃してしまうかも?と心配していましたが、なんとか先週末まで持ちこたえてくれました。
湖北の平地の桜は、近畿地方でも見頃の時期が遅いのが幸いしましたね。

野鳥を見る趣味のある方だと分かると思いますが、“何となくあの木は怪しいかも?”と野鳥の来そうな雰囲気を感じる時があります。
この桜の木も“場所といい、雰囲気といい、メジロが来そうや”と狙いを定めてみると、やはり数羽のメジロが来ておりました。



しかし、メジロの姿は見え隠れするものの、花が満開ゆえに中々全身を見せてくれない。
やっと体が見える花の隙間に出てくれたところをパチリ!





メジロが蜜を吸い始めると、ヒヨドリが邪魔をしにきてメジロが移動する。
枝の間でメジロがチラ見えしているが、よく動くのですぐに枝かぶりならぬ花かぶりになってしまう。
そんな風にあくせくとメジロの動きを追っているのも楽しい時間です。



ところで、少し前からシロバナタンポポも開花してきましたが、相変わらず不思議な感じを持ってしまいます。
地域によってはどこにでも咲いている野草ですが、湖北では咲いている場所はそれほど多くはないと思います。
子供の頃には白いタンポポがあるなんて知らなかったこともあって、毎年この時期になると不思議に思って見てしまうのですよ。




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ギフチョウとカタクリの花をパチリ!

2017-04-18 18:36:36 | 花と蝶とトンボと昆虫
 今年こそは“カタクリの花とギフチョウ”のバッチリ写真を撮りたかったのですが、如何せん時期が遅すぎました。
結果をいうと『ギフチョウがやって来るカタクリの群生は花期が終わってしまっていた』。
そのかわり『ギフチョウの来ないカタクリの群生は満開だった』ということです。

『ギフチョウがやって来るカタクリの群生』で近くにいた人に聞いてみると...
“今頃来たって遅すぎるわ。もう実が付いてるよ!”と一笑に付されてしまいました。
せめてギフチョウの姿だけでも!と探してかけると、ギフチョウはすぐに見つかったので一安心。



地面留まりばかりでしたが、数は3頭。
そのうちの2頭は繁殖行為をやりそうな雰囲気はあったものの、結局その姿は見られずです。



周辺を散策していると、テングチョウ・ルリタテハ・モンキチョウが舞っていましたから蝶の季節も開幕しているようですね。
今シーズンはぜひライファーの蝶に出会いたいな。



さて『ギフチョウの来ないカタクリの群生』はちょうど花が見頃でした。
それほど広い群生ではありませんが、どのカタクリも開花中でしたので地域によって開花時期に大きな差があるようです。



桜も満開でしたから、ここのカタクリは花期が遅いようです。
季節のものは時期を読むのが難しいですね。



余談になりますが、ギフチョウの場所には先客の方がおられて“2羽いて繁殖活動も見られるよ”と教えて下さいました。
でもこの方は本格的な猛禽仕様のカメラをお持ちでしたので“もしかして野鳥の話?”と会話に迷ってしまいました。

ギフチョウ撮影の方って、“ギフチョウが・・・”で始まる主語がないんですよね。
でも当方も後から来た人に“もうすぐ飛んできますよ!”と教える。これまた主語がない!


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チョウゲンボウもしばらくお別れかもね!

2017-04-17 18:28:58 | 野鳥
 冬の間はあちこちの電柱などに留まっているノスリやチョウゲンボウ、たまにハヤブサを見ることがありましたが、そろそろ姿を見かけることが少なくなってきています。
ノスリより先にチョウゲンボウの姿が見られなくなっていたように思いますが、この日は2羽のチョウゲンボウに出会いました。

最初のやつは電柱留まりでしたので流してしまいましたが、次のやつは桜の木に留まっています。
残念ながら留まり位置がイマイチだったうえに空には雲がかかっていましたので、シーズン最終としては寂しい写真になってしまいました。



何とか桜に絡めてみたかったのですが、こればかりは生き物相手ですから望むようにはならず。
おそらく当分の間は会えないでしょうでしょうから、晩秋までサヨウナラというところです。



田圃にはツバメの姿が多くなってきて、巣作りの資材を集めにやってきます。
ツバメに巣を作られるのを糞の問題もあって嫌がられる方もおられますが、ツバメが来るってことは繁栄の兆しと思って見守って欲しいようにも思います。



しかし、ツバメも資材のある場所をよく知っていますね。
巣材に適した藁のある場所で使い勝手のよさそうな藁を物色しています。



田植えの近い田圃ではトラクターの後を追うユリカモメの集団が見られました。
桜も今週末には葉桜になっているでしょうから、この光景が見られるのは1年後になりますね。



ユリカモメの集団にまぎれてカモメの姿も見えます。
カモメの仲間も湖北に何種かは入ってきていますが、うっかりしていると見落としてしまいそうです。



証拠写真にしかなりませんが、まだ冬のカモさんも少し残っていました。
カワアイサが悠々と泳いでいましたが、こいつは♀タイプ。



ミコアイサの♀タイプもいましたが、愛想が悪かったですね。



これからのひと月程の季節にどんな鳥で出会えるかは運次第かもしれません。
“やっと出会うことが出来ましたよ!”なんて野鳥に出会えたらいいのですけどね。


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ノビタキ・アマサギ・チュウサギをパチリ!

2017-04-16 11:38:18 | 野鳥
 湖北の風景もこの週末は春が進んできて美しくなってきましたね。
まだ桜は充分に鑑賞できますし、菜の花の黄色とのコラボが何とも綺麗で春満開の気分になります。

湖岸ではノウルシも咲き始めてきていますし、空にはツバメが飛び交う情緒豊かな春が来たといったところです。
野鳥もそろそろ夏鳥や渡りの鳥の姿が見られるようになってきましたから、春の鳥見が楽しい季節となりました。



春の新入りさんは、まずはノビタキ!
冬が始まる頃にジョウビタキと入れ替わるように姿が消えましたが、ジョウビタキが消えると同時に入ってきました。
まだ数は少なく2羽だけしか見つけられませんでしたが、これからあちこちで見かけるようになるのかと思います。



田圃が始まる頃から稲刈りが終わる頃まで姿を見せてくれるのは亜麻色のアマサギ。
1羽だけでしたけど、耕運機が耕し中の田圃に姿を見せてくれました。



アカサギが見られる期間はそこそこ長いので出会う機会は多い鳥ですが、シーズン初見はやはり嬉しいもの。
当分の間は水田から目を離せないですね。



水を張った田圃にはチュウサギの姿もありました。
白いサギは1年中見られますが、実は季節によって入れ替わっているのが面白い。





田圃ではまだ冬鳥のツグミの姿が多く見られますし、カモもわずかに残っている奴がいます。
目を凝らして田圃を眺めてみましたが、タシギの姿はあったものの渡りのシギチはまだみたいですね。


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