僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都 北野天満宮 「終い天神(しまいてんじん)」~

2016-12-30 18:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 天満宮や天神社と名の付く神社は全国に約1万2千社あると言われています。
地域によってバラツキがあるのかどうかは分かりませんが、滋賀県には何ヵ所か名前の付いた神社がありますし、神社名は違っても菅原道真を祀る神社は非常に多いと思います。

菅原道真は簡単にいえば平安時代のエリート中のエリートで出世頭の方でしたが、讒訴(ざんそ:他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)されてしまい、太宰府に左遷。
失意の中で2年後に死亡した後は平安京の祟神(怨霊)と畏れられたことから、神として祀ることでその祟りを鎮めたとされています。

 



北野天満宮は当初は祟り封じの「天神様」信仰で始まったとされていますが、道真が優れた学才の人物だったことから現在では「学問の神様」として信仰を集めています。
「北野天満宮」は天神様の総本山で合格祈願で参拝する受験生も多く、当方も「十三詣り」で参拝した記憶がありますが、学業開眼とはいかず...でした。



参拝したのは「終い天神 (しまいてんじん)」の日でした。
北野天満宮では毎月25日を縁日としていますが、12月の縁日は最大の恒例神事になるそうで、一の門の前から凄い人の数です。
午後4時に到着したにも関わらず、参道には溢れんばかりの人でしたから午前中は更に凄かったことでしょう。



当日はクリスマスの日でしたが、神社に大勢の方が参拝するのは日本の文化やなぁと思いながら歩いていくと、外国人の方が多く見受けられたりもするのが面白い。
“師走の終わりに自分にお疲れ様!”、“来年もヨロシク!”とでもいうような人々の熱気・活気の盛り上がりにワクワクして活力が湧いてくる思いがします。



楼門までの参道には露天が続いますが、縁日の定番の“たこ焼き・広島焼き・土手焼き・りんご飴”等と並んで“古着物や骨董・園芸品”などがあり、懐かしいスマートボールに興じる方もおられます。
生鮮の新巻鮭まで売っている店まであるのは師走ならではの風景ですね。



楼門好きの当方は参道の先に楼門が見えてくると嬉しくなってしまうのですが、楼門には来年の干支の酉のジャンボ絵馬がかかっており、晴れやかな正月が待ち遠しくなってきます。



本殿前には重要文化財になっている三光門があり、左右には本殿まで長い回廊が続いています。
三光門は豊臣秀頼が1607年に造営されたとされますが、「三光門」とは本来は「日・月・星」の彫刻があるはずにも関わらず、「星」だけがないために「星欠けの三光門」と呼ばれ天神さんの七不思議になっているようです。
残念ながら人の波に押されてしまい、七不思議をじっくり見ることは出来なかったのですけどね。



本殿(社殿)は本殿・拝殿・石の間がつながった権現造の建物で、日本最古の権現造りの建築物として国宝に指定されています。
創建以来何度か火災にあったそうで、現在の建物は1607年に豊臣秀頼が造営したものということです。



本殿の裏側には「裏の社(うらのやしろ)」があり、そちらからも拝めるようになっていました、ここには道真の先祖・祖父・父の三柱の神様が祀られているそうです。
この角度からでは分かりにくいですが、言われてみれば権現造りの様式にも見えます。



境内には50以上の摂社があり、道真ゆかりの梅の木も多く見られました。
全部で約1500本の梅があるそうですので春には圧巻の風景になるのかと思われます。
「地主社」という摂社の横には季節外れの梅の花まで咲いていましたから、暖冬で梅も目が覚めてしまったのかもしれませんね。



御朱印は1枚目と2枚目が北野天満宮の朱印で、2枚目の「和魂漢才」は道真の精神である“自国の歴史と文化にしっかりとした誇りを持ち、他国の文化も受け入れる寛容さ”という意味だそうです。
3枚目は境内にある「東向観音寺」の御朱印で、元は北野天満宮の神社寺だったそうですが、現在は真言宗泉湧寺派の寺院になっています。



にぎやかな境内に戻ると、猿回しの大道芸の真っ最中で愛嬌抜群です。
見物客の顔を出してしまいましたが、みんな微笑んでいる和みのひとときです。



歩き回って少し疲れたので茶屋で一服。
この「長五郎餅」は秀吉の時代に創業の起源に持つお店で、北野天満宮には毎月25日の縁日の日だけ出店しているそうです。



それでは皆様、どうぞよいお年を!


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ナンキンハゼに集まる小鳥たち!

2016-12-29 17:52:22 | 野鳥
 年の瀬が迫ってきて少し冷え込みがきつくなってきたようですが、いっこうに雪が降りませんね。
“夜の間に積雪して、晴れた翌朝から鳥見!”なんて鳥見が出来るのはいつの事になるのやら。

最近になってやっとシロハラの姿を見ることが出来るようになりましたが、今年は数が少ない感じがします。
例年なら数㍍おきに見られたシロハラも2羽を確認出来たのみ。まだこれからなんでしょうかね。



朝のうち天気が良かったので公園を歩いてお散歩探鳥会をしてみましたが、まだあまり変化はなさそうです。
ナンキンハゼの実を求めて集まってくる小鳥は留鳥ばかりだったけど、入れ替わり立ち替わりやってくるので飽きが来ない。



見ていて面白かったのは鳥によって実の食べ方が違うところでした。
エナガは木に生ったままの実をちっちゃなクチバシで啄くようにして食べていました。



ヤマガラは実を獲ってから安定した場所で実を足で押さえて啄いています。
それぞれ食べ方が違うようですね。



ちょっと以外なのは、メジロは何と一気飲みで飲み込んでしまうところ。
花に蜜を吸いにやってくるイメージが強かったのでこれは以外でした。





ジョウビタキも近くにはいましたが、ナンキンハゼには留まらずで、カッカッカッと囀っているだけ。



ツグミやイカルは数が多いのですが、ちょっと変わったツグミはまだ来てないのか姿はありません。
仕方がないので普通のツグミをパチリ!



ムクドリの集団の中にはホシムクドリが混じっていましたので、こいつもパチリ!



しかし、冬になると身近な場所にお約束のように入ってきていた小鳥たちはどこへ行ってしまったんでしょうね。
定位置についてくれないと勘が狂っちゃうよ。


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御朱印蒐集~滋賀県長浜市 如意輪山 小谷寺~

2016-12-27 20:35:35 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 小谷城は「浅井長政とお市の方の悲劇」として、戦国時代の織田信長や豊臣秀吉を描いたドラマに必ずと言ってほど出てくることから、広く名前を知られた城ではないかと思います。
現在の小谷城は城跡しか残っていませんが、かつて城のあった小谷山の麓には、浅井氏の祈願寺であった小谷寺がひっそりと続いています。

寺のリーフレットには「浅井家の尊崇が深かったので、お市が浅井三姉妹を連れてたびたび詣でたことでしょう」と書かれていますが、位置的には充分ありうる距離にあります。
「お市」にしてもそうですが、豊臣家へ嫁いだ淀君こと「茶々」・京極家へ嫁いだ「初」・徳川家忠に嫁いだ「江」とそれぞれ数奇な運命をたどった親子の平和だった時代に過ごした寺院と言えるかもしれませんね。



小谷寺の歴史は古く、奈良時代の728年に泰澄上人が白山から伊吹山までの峰々に修験道場を開いた時に小谷山に建てられた坊舎の中の一つであったとされています。
開山当時は常勝寺の名で、室町時代の1429年には後花園天皇より『如意輪山』の勅願を賜り勅願寺となったとされています。



その後、浅井氏により小谷城が築かれた際に、山上にあった常勝寺は山の麓に降りてきて浅井家の祈願寺となったそうです。
その際に寺号を『小谷寺』と改められたそうですが、当時は6坊が連なる境内を持つ大きな寺院だったようで、かつての配置図と現在の周辺の土地を見比べるとその頃の様子が伺われます。



しかし小谷寺は、浅井長政と織田信長による小谷城の戦いによって小谷城落城と同時に焼失してしまいます。
この時、長政は享年29才で亡くなっていますので、浅井三姉妹は幼少の頃になりますね。



小谷寺は、1542年頃に当時の長浜城主・豊臣秀吉によって再建され、真言宗豊山派の寺院(総本山は奈良の長谷寺)として現在まで続いているそうです。
本尊は『如意輪観音半跏像』で小谷城の戦いの戦火を逃れた仏像といわれていますが、秘仏とされているため通常は見ることが出来ない仏像です。
ただ不定期に開帳されることがあるようですので、情報を聞きつけて念願の拝観が叶いました。


(リーフレットより)

一説には奈良時代の作とも言われる「如意輪観音半跏像」は渡来仏の特徴が見られますが、お寺の方に聞いても時代は詳しくは分らないということでした。
像は金銅製の22cmの美しい仏像で、すぐ間近で拝見できましたので右から左からその表情の違いなど見ることができました。

逗子は2層となっており、外側の逗子の中にもう一つの逗子が収められていて、2層の内側の逗子に本尊が安置されていました。
外側の逗子はお市の方が柴田勝家へ嫁ぐ時に逗子を奉納したとされており、内側に収められた逗子は鎌倉時代の作とされています。
内側の逗子の内部には、「如意輪観音半跏像」が洞窟の中に安置されたような造作があり、苔の花の文様まであることから仏像の美しさを更に引き立てていました。



境内にある梵鐘は江戸時代初期の1655年の年号と蒲生郡八日市釜座の名が刻まれていると言われています。
他の寺院でも滋賀の蒲生地方の鋳物師集団の梵鐘を見たことがありますが、この時代の蒲生の鋳物集団の活躍の跡がここにもありました。

また境内には老朽化して、朽ち果てそうな堂がありましたので、お寺の方に聞いてみると「金毘羅宮」とおしゃっておられました。
廃宮になってしまっているようでしたが、痛ましく風化した姿を見るのも忍びなく、すぐに折り返してしまいました。



本堂の中でお茶を頂きながら各仏像の説明をして頂くことが出来ましたが、廃仏毀釈などによって廃寺になってしまった湖北の寺院にあった仏像も一緒に保管されているようです。
須弥壇に安置されている江戸時代作の多数の仏像についてメモを見ながら一生懸命説明してくださったのは檀家の方です。
聞いてみると小谷寺の檀家は10軒しかないとのことのことで、御開帳の期間は檀家の方々が交替で寺に詰めて参拝者の世話をされておられるようでしたが、このまま寂れていってしまう危惧があるとすればあまりにも惜しい寺院です。


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御朱印蒐集~大津市 比叡山延暦寺 横川 元三大師堂~

2016-12-24 17:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山延暦寺の横川エリアは見所の多い場所で、横川中堂・恵心堂の他にも興味深い堂宇がありました。
それは、元三大師という異色の高僧を祀る四季講堂という堂宇のことになります。

四季講堂(元三大師堂)は第18代座主として19年間在職された慈恵大師・良源(元三大師)の住房であった定心房の跡をついでいる堂だとされています。
良源が天台座主についたのは966年とされており、火災などで荒廃していた堂宇を再建していった比叡山延暦寺の中興の祖といわれていますが、数々の伝説を持った異色の僧でもあるようです。

 

慈恵大師・良源こと元三大師は、「角(つの)大師」と呼ばれるように権化の人(仏や菩薩が衆生救済のため相手に応じていろいろな身体を現すこと)として強烈な霊力を持った僧として信仰されています。
また、おみくじの考案者としても有名で、四季講堂(元三大師堂)はおみくじ発祥の地ともされています。
元三大師信仰は、滋賀県の湖南三山の善水寺や良源の生誕地である長浜市虎姫の玉泉寺など県内に元三大師を祀った寺院がありますから、信仰深いものがあるのかと思われます。



この「角大師」のデザインはうまく作られているなぁと思いますが、最初にこの絵柄を考案された方は恐るべし才だと思います。
山門の右側の石碑には「おみくじ発祥之地」と彫られてあり、他にも「角大師」の画と由来の書かれた石碑がありました。



山門には額がかかっており「元三大師自讃文」とありますが、どういう意味が書かれているのでしょうかね。



元三大師堂は正式には「四季講堂」と呼ばれていますが、これは967年以降、春夏秋冬の4回に法華経の議論がされることが由来となっているようです。
現在の建物は江戸時代初期の1652年の建立になるようで、滋賀県指定文化財となっています。



堂内の須弥壇に数点の仏像が安置されていますが、内部が暗くてよく見ることが出来ませんでした。
一番右に安置された不動明王だけはよく見えましたので、線香を上げてしばし眺めていました。
外から“ドーン”という音が何度か聞こえてきましたが、これは屋根から雪が落ちる音。明王様のお告げかと勘違いしてしまいましたよ。



ところで話が前後しますが、横川エリアの入口近くにある「龍ヶ池弁財天女」には元三大師の逸話が残されているようです。
“昔この池に大蛇が住みつき村人達に害を与えていた。 これを聞いた元三大師が観音様の念力により祠に閉じ込めた。大蛇は弁天様のお使いとして龍神になり、訪れる人の道中安全と心願成就の助けをされている”と伝えられているそうです。



さて、四季講堂では「元三大師」の御朱印と「箸塚弁財天」の御朱印の2枚を頂くことが出来ましたので事後になりましたが「箸塚弁財天」にお参りにいきました。
「箸塚弁財天」は、西塔の「箕淵弁財天社」・東塔の「無動寺の弁財天」と共に「比叡山三弁財天」と呼ばれているそうです。



四季講堂と横川中堂の間の道中にも鐘楼がありました。
延暦寺には行く先々に鐘楼がありましたが、除夜の鐘や定刻に撞かれる時は各鐘楼で一斉に撞かれるのでしょうか。



横川エリアには「西国三十三所観音石仏」が道々の順路に沿って鎮座していました。
西国三十三所の各霊場の観音様の石仏で、他の寺院にもあるところがありますが、延暦寺にもあったとは知らなかった。
でも本格的な雪の季節にはほとんど雪の中に埋もれてしまうのかもしれませんね。



最後は、ドライブウェイから見た琵琶湖の姿です。
右の真ん中辺りに見えるのは琵琶湖大橋。左の真ん中辺りに見えるのは近江八幡市にある琵琶湖最大の島で有人島の沖島。
琵琶湖も南湖だと巾が狭いね。では琵琶湖大橋を渡って帰りましょう。  




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御朱印蒐集~大津市 比叡山延暦寺 横川中堂・恵心堂~

2016-12-22 18:18:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山延暦寺の横川(よかわ)エリアは東塔や西塔エリアから北方向にある区域になります。
紅葉の季節が終わり、比叡山の中心部からやや離れていることもあってか、静寂の寺院といった感のある区域でした。
比叡山は都(京都)の鬼門とされていた山になりますが、その比叡山の鬼門にあたるのが横川地区になるとされていて、言うなれば“都の鬼門のそのまた鬼門”という位置づけになるのでしょうか。

 

駐車場に車を停めると、まず門から入ることになりますが、すっかり葉の落ちた樹木に雪がかぶっていて比叡山はもう冬景色です。
比叡山は夏でも平地に比べて気温が5℃低いといいますので、師走中旬の比叡山が冬景色になるのも当然なのかもしれませんね。



すぐに龍ヶ池という小さな池と池の中央に祀られた「龍ヶ池弁財天女」が見えてきて、池を横目にして進むと舞台づくりの「横川中堂」がありました。
この角度の横川中堂は写真などでよく見かける光景ですが、実際のところこの位置からしか全景が見える場所はなかったですね。



横川中堂は、平安時代の848年に慈覚大師圓仁が入唐求法の旅から帰国して創建したとされています。
しかし、1942年に落雷によって焼失し、現在の堂は1971年の再建だそうです。
このお堂は遣唐使船をモデルにしたとされていますが、比叡山延暦寺(天台宗)の開祖である最澄と真言宗の開祖の空海が同じ遣唐使船団に乗って唐へ渡ったのは804年のこと。最澄38才(空海31才)の時だったとされています。



本尊は平安時代作の聖観音菩薩(重要文化財)ですが、姿を見ることは出来ませんでしたので正面入口の聖観音像を見ることになりました。
堂内の回廊には小さな観音像が全面に祀られていて少々怖い感じもしましたが、熱心な信者の方の奉納ですので祈りの回廊ということです。



横川中堂の手前方向に石段があり、その先には「根本如法塔」がありました。
「根本如法塔」は、第三世天台座主慈覚大師円仁が、自ら書写した法華経一部八巻を納める宝塔を建てたのが起源とされ、横川発祥の聖跡とされています。
現在の塔は1925年に再建されたもので比較的新しいものではありますが、美しい多宝塔だと思います。



さて、御朱印は横川中堂のものと「恵心堂」の2枚を頂きましたが、前回比叡山に訪れた際に根本中堂で「恵心僧都1000年御遠忌」が営まれていた縁もあって恵心堂まで足を運びました。
恵心僧都こと源信は、この恵心堂(現在の建物は再建)で『往生要集』や『二十五三昧式』などを書かれたと伝えられています。
また源信は、琵琶湖の畔にある“堅田の浮御堂を建立した方”といった方が馴染みがあるかもしれません。



恵心堂には本尊の阿弥陀如来が祀られていて公開されてはいませんが、阿弥陀如来とご縁を結ぶ五色の紐が張られていました。
当方は赤色の紐を結んで縁をつなぎましたが、寒さでかじかむ手で握る雪で濡れた紐の冷たさが記憶に残ります。



以前に大津市の琵琶湖沿いを日が暮れてから車で移動していた時に、山の上の方向に明々と光が差している場所がありました。
不思議に思って見ていたのですが、あれは位置からして横川区域から発せられていた灯りだったのか...今でも気になる出来事です。


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御朱印蒐集~大津市 比叡山延暦寺 東塔・国宝殿~

2016-12-20 18:42:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 延暦寺の東塔エリアを再訪したのは「国宝殿」を見るためでした。
不思議なもので半年前に東塔へ来たときには“ミュージアムで仏像を見る”ことに興味がなかったのに、半年ですっかり仏像ファンへの道を歩いてしまっています。

「国宝殿」には比叡山延暦寺に伝わる64件の国宝:重要文化財と数百点の寺宝があり、適宜入れ替えながら展示されています。
展示場所は何と3階まであり、平安~鎌倉期を中心とした多様な仏像を拝観することが出来ました。



せっかく東塔エリアまできましたので境内を歩いてみましたが、根本中堂は大改修の工事中でクレーン車や工事車両が並び、半年前とはすっかり様変わりしていました。
前回は偶然「恵心僧都1000年御遠忌」の法要が営まれていましたので特に印象に残っていたのかもしれませんが、この変わりようには驚きました。
大改修は今年から10年をかけて行われるそうですから、生まれ変わった根本中堂が見られるのは2026年以降ということになりそうです。



西塔エリアや横川エリアは静寂感がありますが、東塔エリアは参拝客が多く、年代の新しい堂宇や土産物屋があったりしますので観光化とまではいいませんが、かなり違いは感じます。
もう師走も半ば過ぎですから大晦日の除夜の鐘まであとわずか。少し早いけど鐘を突かせていただきました。



比叡山の山門にあたる文殊堂にも立ち寄ってみました。
文殊堂の中では急勾配の狭い梯子を登って上層へ上がるのですが、階段に付けられている滑り止めの木が土踏まずを刺激して痛いのは相変わらずです。



さて国宝殿には入館した瞬間から隙間なく並ぶ仏像群に目を奪われてしまいます。
織田信長の比叡山焼き討ちという惨事があったにも関わらず、よくこれだけのものが残っていると思います。
逆に焼き討ちがなかったらと考えると膨大な数の国宝や重文が残されていたかもしれません。


千手観音立像(平安時代作 重要文化財)・・・リーフレット

千手観音立像は像高51.2cmと想像していたより小さかったのですが、ガラス越しとはいえ、間近に見られるのは嬉しいことです。
阿弥陀如来像や薬師如来像にもひかれるものがありましたが、やはり密教系の寺院では四天王や明王像に魅力を感じます。

 
大威徳明王立像(鎌倉時代 重要文化財)、降三世明王立像(同左)・・・リーフレット

明王など激しい感じの憤怒の仏像に気持ちがひかれてしまったのですが、五大明王像は迫力のある仏像でした。
特に降三世明王立像で足の下に大自在天(シヴァ神)とその妃である烏摩(ウマー)を踏んでいます。
インド密教にはバラモン教やヒンドゥー教の神々との関わりの歴史があるとされていて、日本の密教に影響があるようですが、これは踏み込むとかなり難しい話になるのかもしれません。


不動明王二童子立像(鎌倉時代 重要文化財)・・・ポストカード

不動明王二童子立像も非常に激しい感じの仏像で、眷属である八大童子のうちの2名が脇を固めています。
憤怒の表情の明王とは反対に吉祥天女像は、柔らかい感じの美しい像で“美女の代名詞”といわれるだけのことはある仏像だと感じます。


木造吉祥天女立像(平安時代 重要文化財)・・・ポストカード

ところで、東塔と西塔の間の道中にもいくつかの堂宇があります。
ちょうど東塔地域と西塔地域の境目にあるのは伝教大師の御廟がある「浄土院」は、比叡山中で最も清浄な聖域とされているようです。
この浄土院には侍眞(じしん)と呼ばれる修行僧が今も霊前のお給仕をされ、12年の間、山に籠ったまま一度も山を降りない籠山修行を務められているそうです。



この日も庭の砂を掃き清められておられましたが、既に終わった場所を見ると見事な枯山水が出来上がっていました。



西塔から東塔への道は、東塔エリアの近くまでくるとドライウェイへ出るのですが、その手前に「山王院堂」がありました。
山王院堂は、正式には法華鎮護山王院というそうで千手観音を祀っている堂宇だそうです。
元は六祖智証大師圓珍の住房だったそうですが、圓珍の死後に学僧間で紛争が起こり、圓珍派は圓珍の木像を背負って大津三井寺へ移住したとされています。



しかし、この道中にある石段は場所によって、とにかく段差が高くって歩きにくいことこの上ない。
小雪のパラつく道中で出会う人はなく一人きりでしたが、何度か出会ったルリビタキ(冬の小鳥)の綺麗な姿を見つけながら歩き続けることになりました。



なんとか西塔から東塔への往復が終わりましたので、今度は車で横川エリアまで移動しました。
横川までは徒歩で片道70分の道のりになりますから、徒歩での往復だと戻った頃には日が暮れてしまいますからね。


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御朱印蒐集~大津市 比叡山延暦寺 西塔~

2016-12-18 16:39:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「比叡山延暦寺」は天台宗の大本山で、比叡山中にある150といわれる堂塔の総称とされています。
大きくは「東塔」「西塔」「横川」の三つのエリアに分けられていますが、今年6月に拝観した時は「東塔」エリアのみ拝観したため、残る「西塔」「横川」へ訪れました。

とはいっても「東塔」エリアにあって前回見れなかった「国宝殿」の仏像を見たかったこともあって、結局は3塔全てを拝観することになったのですけどね。
今回は奥比叡ドライブウェイを利用しましたが、12月中旬にも関わらず比叡山には雪があり、ドライブウェイはスノータイヤ・スタットレス規制となっていたのには困りました。
ドライブウェイの係員の方から“スノー?”と聞かれたので、“はい!”と微笑んで通過しましたが、これは“嘘も方便”ってやつですね。

 

薄化粧ではありましたが、道路脇や山々には積雪が見えて粉雪まで舞っていましたから、なんだか嬉しくなってしまい思わず顔がほころんでくるのが分かる。
ドライブウェイの道中で対向車はなかったのでニコニコした嬉しそうな顔を人に見られなかったのは幸いでしたが、この天候じゃさすがに参拝客もわずかで駐車場には当方の車1台だけがポツンと駐車されているだけでした。



西塔エリアで最初に目に入ってくるのは、常行堂と法華堂の2塔と塔をつなぐ廊下が特徴的な「にない堂」でした。
“弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担った(になった)”という言い伝えから「にない堂」と呼ばれているそうですが、同じ形の2堂をつなぐ渡り廊下は天秤棒のように見えます。



向かって右側にあるのが普賢菩薩を本尊とする「法華堂」になります。
内部は非公開ですが、閑散と静まり返った西塔エリアに法華堂から聞こえてくる読教の声が響いていて、霊山に来ている感が高まります。



左側にあるのが阿弥陀如来を本尊とする「常行堂」ですが、こちらは勤行が既に終わったのか無音の堂でした。
この常行堂・法華堂は重要文化財に指定されていて、西塔エリアは渡り廊下の下をくぐって更に奥へと進むことになります。



西塔の本堂にあたるのは「釈迦堂(転法輪堂)」になります。
本尊は、釈迦如来立像(重要文化財)ですが、比叡山に現存する堂宇で最古のものだそうで、非常に大きな建築物でした。
もとは園城寺(三井寺)の金堂(1347年建立)でしたが、信長の比叡山焼き討ち後の1596年に秀吉が移築したとされていて重要文化財に指定されています。





「釈迦堂」の横の道から裏側に「みろく石仏」があると書かれてありましたので、山道を少し行くと「みろく石仏」が祀られてありました。
樹木に積もった積雪の前に安置された石仏の何とも神々しい姿には感嘆してしまいます。



ここから先にも堂宇はあるのですが、“雪もあるし、この石段を登るのは無理!”と諦めます。
回峰行の僧はこの程度の道中は苦もなく歩かれるのでしょうが、すぐに心折れる当方には無理でした。



釈迦堂まで戻ってくると、今度は鐘楼への石段を昇ることにしました。
比叡山を歩いていると、いくつかの鐘楼を見ますが、全山でいくつの鐘楼があるのか気になるところです。



釈迦堂の参道の横には「恵亮堂」という恵亮和尚(800~859年)を本尊として祀った堂宇がありました。
恵亮和尚は大楽大師と称されて、京都の妙法院を創建された方だそうです。



西塔エリアの釈迦堂地域の出口付近には「椿堂」という千手観音菩薩を本尊とする堂宇もあります。
この堂宇には、“聖徳太子が比叡山に登られた時に使われた椿の杖をこの地にさして置かれたところ、その椿が芽を出して大きく育った”という逸話があるそうです。
お堂の傍に聖徳太子の逸話に因んだ椿の大木があるそうですが、樹木に雪がかかっているため残念ながらどれがそれかは分かりませんでした。



さて西塔では「釈迦堂」と「箕淵(みのふち)弁財天社(聖光院跡)」の御朱印を頂いたのですが、「箕淵弁財天社」へもお参り致しました。
「箕淵弁財天社」は比叡山三弁財天の一つだそうで、この日「横川の箸塚弁財天」へも参拝出来ましたので、残りは「無動寺の弁財天」ですが、少し場所が離れているようですね。



釈迦堂の方に“東塔まで徒歩で行きたいのですが、どの道を行ったらいいでしょうか?”と尋ねると、“灯篭沿いに歩いて行けば20分くらいです。”と教えてもらい歩くことにしました。
軽快に歩き出したのは良かったけど、途中の石段で息も絶え絶えになってくる。とはいっても石段上りのしんどさがたまらなく楽しくもあるのが不思議です。
帰りも徒歩で戻って来ないといけないのを忘れてしまいそうでしたよ。


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御朱印蒐集~長浜市 唐喜山 赤後寺~

2016-12-16 06:28:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 寺院拝観の時に電話予約して行かれる方はおられるでしょうか?
湖北の寺院には無住の寺院が多いため、事前予約をしておいて地域の世話役の方に寺院を開けていただかないと拝観出来ない寺院が多数あります。
しかし、わざわざ世話役の方へ連絡して都合をつけてもらってまで拝観するのはどうにも気が引けてしまいます。

この日、訪れた赤後寺も無住の寺院で世話役の方々が交替で管理されている寺院です。
近くを通ったので、どんな感じの寺院かだけでも見ていこうと思って立ち寄ったら、運良く世話役の方に招き入れて頂くことが出来ました。



実際はこの時間帯に予約されていた方がおられ、その方々を世話役の方が待っている時にひょっこりと当方が現れたというわけです。
予約をしていないにも関わらず、快く応対していただき感謝です。



赤後寺のある滋賀県の北部には豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賎ヶ岳の合戦の舞台となった賎ヶ岳がありますが、その南方に湧出山(ゆるぎやま)という標高206mの小さな山があり、その麓に赤後寺はあります。
寺院の歴史については定かではないのですが、山号を「唐喜山」といい、日吉神社の境内に観音堂がありましたので、これは神仏習合時代から続いているのかもしれません。



日吉神社の鳥居をくぐり石段を登ると、左に赤後寺があり、中央に日吉神社、そのまた右には浄土真宗の長照寺がありましたので、やはり神仏習合そのものの境内でした。
天台宗系の寺院が浄土真宗に改宗されていく過程で観音様は観音堂などに祀られることで、湖北に多い浄土真宗信仰と観音信仰が両立してきたのかもしれません。
国宝「十一面観音像」を祀る渡岸寺も浄土真宗の寺院の外部に観音堂が設けられてありましたので、そのような折り合い方があったということかもしれませんね。



赤後寺は、過去に3度の焼失をしており、最初は地元の豪族の争いではなかったかと言われており実態は定かではないそうですが、次が姉川の合戦(織田信長vs浅井長政)での焼失で、更には賤ヶ岳の合戦での焼失と説明されていました。
平安時代の810年の作とされる「千手観音立像」や同じく平安時代の930年の作とされる「聖観音立像」は、その度に村民の手によって土の中や水の中に埋めて守ってきたとされています。

賎ヶ岳の合戦の際には舎に火がついたため、村人が仏像を背負って逃げ、水中に沈めて難を免れたと伝わるそうです。
沈めた仏像に大小の岩を並べ、柳の枝で覆ったとされていますが、その際に仏像の枕にしたという由来があるのがこの御枕岩とされています。



観音堂は冬囲いのホロがかぶってしまっており、外観を見ることは出来ませんでした。
ここで偶然、世話役の方に声を掛けて頂き、本堂の右側から中へ入れていただいたのです。



内陣に入ると、立派な厨子に大きな南京錠がかかっていましたが、世話役の方がその南京錠を外して逗子を開いて御本尊を拝ませて頂くという幸運です。
申し訳ないと思いつつも、こういう場面は初めての経験でありますから、何とも嬉しくも緊張する御開帳の時でした。

さらに世話役の方は、蝋燭に火を灯し、線香を焚いて頂き、10分以上かけて寺院の事・仏像の事などを丁寧に説明してくださったのは本当にありがたかった。
結局、元々電話予約されていた方がみえられるまで、存分に拝観させていただきました。

厨子の中におられるのは、重要文化財に指定されている2躰の仏像で「千手観音立像」と「聖観音立像」です。
この仏像は戦災の時に運び出されて水中に沈められていた時に洪水で部分的に流されてしまったことがあったらしく、千手腕の腋手が十二本しかなく、残された腕も手首から先がなく、頭上にあったはずの十一面も消失してしまっています。
聖観音像も両手首とつま先が失われていますが、不思議と痛々しい感じよりも逆に包容的なイメージを持ちます。


(左から「千手観音立像」「聖観音立像」ともに重要文化財・・・パンフレット)

「千手観音立像」は桧の一本造で高さは173.6cmで中はくり抜いてあるとされ、「聖観音立像」も同じく桧の一本造で高さ182.2cmで、こちらの仏像の内部はくり抜いてはいないとのことでした。
“「聖観音立像」を持ち上げようとしても重すぎて一人じゃ無理だよ。”とおしゃってましたので、持ち出した時は数人がかりで持ち出したのかもしれませんね。

過去、この2躰の仏像は村人でも年に一度しか開帳されていなかったそうで、事情によりどうしても拝みたい村人のために三十三体の自念仏を替わりに持ち帰って拝んでいたそうです。
厨子の中に何体かありましたが、大半は残念ながら行方不明になってしまったとのことでした。


(「千手観音立像」 平安中期作 重要文化財・・・購入写真)

厨子は古いもののようでしたが、2躰の仏像が本来の姿だったとすれば安置するにはサイズが小さいため、本来は別の仏像が安置されていたのかもしれません。
“この厨子は、東照宮を連想される造りになっている”とのことでしたが、大津市にある日吉大社には日光東照宮のモデルとなった日吉東照宮がありますので赤後寺と同じ境内にある日吉神社との関連がありそうですし、実際に日光東照宮を造った宮大工が造る前にこの厨子を観に来たという話もあるようです。


(神木の後方にあるのが日吉神社の拝殿と本殿)


(神木の後方に稲荷神社)

湖北地方は観音信仰が高い地域であるといわれますが、無住で檀家もないような寺院(観音堂)が大半であるにも関わらず、村で守り続けられてきたのは凄い話ですね。
信仰とともに「うちの村の観音さんが一番!」という自負に支えられている部分もあるのかもしれません。
最後になりますが、赤後寺は「コロリ観音」として名を知られており、「コロリ」の本来の意味は『厄を転じて、利を施す』の「転利=コロリ」だったそうですが、現在は長患いせずあの世へ行けるの意味の「コロリ」とされているようです。


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御朱印蒐集~長浜市 己高山 石道寺~

2016-12-13 19:19:19 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県湖北地方の東に位置する己高山(こだかみやま、923m)は近江国の鬼門にあたることから、古代より霊山・修行場であったとされています。
寺伝によると、元々の石道寺(しゃくどうじ)は己高山の山中にあり、奈良時代の726年に延法上人が開基。
その後、さびれるものの平安時代初期の804年に伝教大師(最澄)により再興されて、比叡山の別院として栄えたそうです。

「己高山仏教文化圏」として栄えた己高山一帯にはかつて多くの寺院が存在したとされ、奈良の興福寺の資料(1441年)には、己高山五箇寺として「法華寺」、「石道寺」、「観音寺」、「高尾寺」、「安楽寺」が存在していたようです。
紅葉で有名な「鶏足寺」や「飯福寺」は、「観音寺」の別院であったとされているそうですから、この地に大きな仏教文化圏が栄えていたことが分かります。



その後、再び荒廃していってしまいますが、1354年には京都護国寺の僧源照上人が、山門・三十六坊を興して再興し、真言宗豊山派に改宗したそうです。
戦国時代になると1575年に織田信長の兵火により全焼してしまいます。1605年の再興後、明治時代の中頃まで寺院は名刹として維持されてきたそうです。



しかし、明治の後半になると、焼失・大水などの災難が続き、ついに無住の寺となってしまったようです。
大正3年(1914年)に里人の手により、ここより東1㌔の己高山山中にあった旧石道寺を現在地に移築して現在の石道寺となったそうですから、里人の方々の労力には恐れ入るものがあります。



ところで、石道寺は、距離数百mに隣接する鶏足寺と並ぶ紅葉の名所ですが、すでに紅葉シーズンが終わってからの参拝でしたので人気(ひとけ)がないかと思いきや、かなりの方がわずかに残る紅葉見物に訪れておられました。
この界隈は、紅葉のシーズンに一時的に観光客は増えるようですが、駐車場のすぐ近くを大きな猿(ボスザル?)が悠々と歩いていたり、川縁にはカワガラスの姿が見られたりと自然の豊富な場所です。
『クマ注意!』の看板もありましたが、大勢の人が歩いていましたから、さすがにクマも出てはこれませんね。



そんな経緯があって石道寺は移築された本堂だけになっていましたが、現在も石道寺は無住の寺で地域の住民の方によって管理されているようです。
本堂に入った時は、ちょうど前の方々への説明が終わってしまった後で、一人で仏像を見ていると、次の団体の方(大阪からのバスツアー)が来られて、一緒に説明を聞かせていただくことが出来ました。
堂内は人で満杯状態でツアーの方の中でポツンと座っているのは微妙な気分でしたが、説明は非常に丁寧なもので分かりやすく話して頂けたと思います。





石道寺で見たかった仏像は「木造十一面観音立像 (平安時代中期・重要文化財)」だったのですが、唇に紅をさしたかのような穏やかな表情の観音様でした。
仏像は、欅の一木造りで像高173.2cmとされ、右足の親指が上を向いていますので、本当に歩きだしそうな感があります。
また十一面観音の修復時に、胎内仏として金剛界大日如来一万躰の印仏(200体×50枚)が収められているのが見つかり、修復後に胎内に戻したそうですが、その中の1枚だけは堂内に展示されていて来場者の注目を集めます。


(十一面観音立像 平安中期作 重要文化財・・・購入写真)

作家の井上靖は、『この十一面観音様は村の娘さんの姿をお借りになって、ここに現れていらっしゃるのではないか。
素朴で、優しくて、惚れ惚れするような魅力をお持ちになっていらっしゃる。 野の匂いがぷんぷんする。』 とこの像について評されているそうです。


(十一面観音立像 平安中期作 重要文化財・・・購入写真)

逗子の中の十一面観音立像の右隣には旧高尾寺の「十一面観音立像」(藤原時代)が並び、さらに厨子の外側には「多聞天」と「持国天」(ともに平安時代作・重要文化財)が安置されていますので、四天王2躰の迫力と十一面観音像3躰の柔和さに見惚れてしまうこととなりました。
やはり仏像は内陣に入って、近くから厨子や須弥壇に安置された仏像を見ることが出来ると感慨が深まりますね。


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ヘラサギが飛んで行く!

2016-12-10 17:03:03 | 野鳥
 鳥見に行く時に“漠然と行く”時もありますが、希望的に“まずはA鳥かB鳥狙い。次にC鳥かD鳥を拾って、あわよくばE鳥...”とか何とか妄想しながら出かけることってありますよね。
結局、出るやつは出るし、出ないやつにはカスリもしないのが現実ですが、全く想定していない鳥に出会えたりすることがあるのが鳥見の面白さですね。

今朝も全く想定していなかったヘラサギに出会ったのには驚きましたよ。
湖北に飛来しても不思議ではない鳥だとはいっても、“ヘラサギが来ているかもしれない”なんて思って鳥見している人ってまずいませんよね。



ヘラサギを見つけた時には既にカメラマンが3人ほど居られましたが、大砲ユーザーの方々でしたから山本山から移動されてきたのかも?
曇っていたので写真数枚撮って帰ろうかなと思っていた時、雲の隙間から日が差してきて、その瞬間、飛んだ~!って感じです。





どこへ行ったかは見失ってしまい分かりませんが、しばらくどこかへ落ち着いてくれる期待もありますね。



観察出来た時間は15分程度といったところでしたが、こういう偶然の出会いがあるので鳥見はやめられません。
 飛ぶまでのヘラサギはゆったりムードでしたけど、近くでやってる工事音には警戒している感じでした。





いつから湖北に来ていたのかなど情報がないので分かりませんが、湖北サプライズの始まりになるかもしれませんね。


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