近江商人(江州商人)の有名な言葉に「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」がありますが、こういったニュアンスの企業理念を掲げる企業は現在も多いと思います。
近江商人には高島・八幡・日野・五個荘などがあって、それぞれ特色が違うようですが、現在も存在する企業の創業者との関わりが深いようです。
近江商人を琵琶湖の鮎に例える話として、“琵琶湖の鮎は琵琶湖で育つと小アユのまま大鮎には成長しないが、他の地域の河川に放流されると大きく成長して大鮎に育つ”というものがあります。
東近江市界隈をうろうろしていた時にぶらりと立ち寄った五個荘金堂でしたが、程よい観光地としてゆったりと楽しめる街でした。
五個荘金堂の近くには聖徳太子ゆかりの「石馬寺」や西国三十三所札所の「観音正寺」があり、盆地には田園地帯が拡がり、その中に忽然と江戸後期・明治・大正の商人屋敷が並びます。
近江八幡の商人屋敷はいわゆる“うなぎの寝床”が多いのですが、五個荘の商人屋敷は間口が広く、敷地面積の大きさに驚きます。
五個荘の村はもともと稲作をおこなう農村でしたが、江戸中期の頃より農閑期に副業として行商に行くようになったといわれます。
天秤棒で荷を担いで各地を廻り、その地で仕入れた物を売りまわるという“産地廻し”といわれる商法で、徐々に各地に馴染みの客が出来て、収めた商品がその地でカタログがわりになるという地道な商売です。
住居の入り口付近には「川戸(入れ川戸)」が設置されていて、川の水路を引き込んで野菜や鍋釜の洗い場としていたようです。
高島市の「かばた」の井戸とは水源が違って鈴鹿山脈系の伏流水となりますが、洗い流した米粒などが魚の餌となり水質が保たれる自然とのつながりの深い仕組みとなっています。
「外村繁邸」は1901年に建てられた建物で外村宇兵衛の分家になるそうです。
長浜より当家に婿入りした吉太郎の三男が繁という方で、繁は代1回芥川賞候補にもなった作家で、大きな蔵の中には外村繁文学館が作られています。
五個荘の近江商人は近江国で商いをする訳ではなく、近江国外あるいは日本国外で商いをしていることから、主人は不在となりますが、五個荘の本宅では奥さんが家の切り盛りしていたようです。
商用ではない本宅ということもあって、住居は豪農の邸宅といった印象を受けます。
この邸宅では使用人も多かったのでしょう。“おくどさん”も立派なものとなっています。
「幼い頃に田舎の知り合いの家へ行くと小さな土間に“おくどさん”があったね。」と言うと、「そんなの見たことない。」といつも妻に笑われてしまいます。
「子供の頃にどこかの家で五右衛門風呂に入った記憶がある。」と言うと、「自分の親からは聞いたことがある。」ということになり、田舎育ちの自分を実感することになります。
外村邸の土間には井戸があり、風呂にも水が流れ込む造りになっていますが、家の中に井戸まであるのは豪農家屋ゆえということなのでしょう。
庭は公家や武家風の庭園ではありませんが、気候のいい時に寝転がって昼寝でもしたくなるような落ち着きがあります。
外村繁邸のすぐ横には外村本家に当たる「外村宇兵衛家」は呉服木綿類の販売で財を成した方の邸宅で、明治期には全国長者番付に名を連ねるほどの豪商だったようです。
隣り合わせの分家・本家ということがあって2軒の家はよく似た造りになっています。
2軒とも入り口近くに川戸があり、洗い場・魚の水槽・防火用水として役割を果たしています。
今でも農村部に行くと屋外を流れる川と屋内の池がつながっている風景を見ることが出来ますね。
「中江準五郎邸」は昭和8年(1933年)と建築年代が先の2軒より新しいことがあって、造りに違いがあるように思われます。
原風景的な豪農住宅というより、昭和初期の富裕層の家のような印象を受けます。
中江準五郎は大正~戦前まで朝鮮半島に13店舗を数える程の百貨店(三中井呉服店)を開設して「百貨店王」とまで呼ばれた一族の方のようです。
庭園も前栽のような庭の造りではなく池泉回遊式の庭で、池は琵琶湖を形どったもの。
池のまわりにある石灯籠は朝鮮半島から持ち込んだもののようです。
蔵は「小幡人形(おばたでこ)」の展示会場になっていて郷土玩具の土人形が展示されています。
小幡人形は京都の伏見人形の流れを汲むもので、現在の人形師は10代目で創業300年だといいます。
土人形は粘土を人形の型にはめて、乾燥させた後に釜で焼き、彩色する工程があり、約3ヶ月ほどかかるようです。
旧家を訪れると、こういった素朴な土人形を見かけることがあると思いますが、お土産などに使われていたのでしょう。
疑問に思うのは一般的に江戸時代の農民は土地に縛り付けられているイメージがあるのですが、近江商人はなぜ外に向かって行商を行ってきたのでしょう。
中山道に近かったということもありそうですが、この地が江戸時代に飛び地の藩領だったことの影響もあるのではないでしょうか。
江戸時代の初めは幕府領、その後に館林藩(群馬)・郡山藩(奈良)と変遷する中で、外向きの風潮ができていったとも思えます。
金堂町には神社仏閣も多く、本堂が重文になっている「弘誓寺(真宗大谷派)」や聖徳太子にまつわるとされる「浄栄寺(浄土宗)」。
聖徳太子が当地に建立した金堂寺の護法鎮護のため勧請し、その後に菅原道真公を祀るようになった「大城神社」など田園地帯の真ん中に出来た村とは思えないような町並みが続きます。
実は今回、クイズに挑戦したところ懸賞の招待券を頂くことが出来ました。
五個荘金堂町では2月から3月にかけて「商家に伝わるひな人形めぐり」が開催されますので、その時期にもう一度訪れてみたいと思います。
開催中には「にんげん雛(ひな)絵巻まつり」という人間が雛人形に扮するイベントもあるようですので、その人間雛人形も見てみたいものですね。
近江商人には高島・八幡・日野・五個荘などがあって、それぞれ特色が違うようですが、現在も存在する企業の創業者との関わりが深いようです。
近江商人を琵琶湖の鮎に例える話として、“琵琶湖の鮎は琵琶湖で育つと小アユのまま大鮎には成長しないが、他の地域の河川に放流されると大きく成長して大鮎に育つ”というものがあります。
東近江市界隈をうろうろしていた時にぶらりと立ち寄った五個荘金堂でしたが、程よい観光地としてゆったりと楽しめる街でした。
五個荘金堂の近くには聖徳太子ゆかりの「石馬寺」や西国三十三所札所の「観音正寺」があり、盆地には田園地帯が拡がり、その中に忽然と江戸後期・明治・大正の商人屋敷が並びます。
近江八幡の商人屋敷はいわゆる“うなぎの寝床”が多いのですが、五個荘の商人屋敷は間口が広く、敷地面積の大きさに驚きます。
五個荘の村はもともと稲作をおこなう農村でしたが、江戸中期の頃より農閑期に副業として行商に行くようになったといわれます。
天秤棒で荷を担いで各地を廻り、その地で仕入れた物を売りまわるという“産地廻し”といわれる商法で、徐々に各地に馴染みの客が出来て、収めた商品がその地でカタログがわりになるという地道な商売です。
住居の入り口付近には「川戸(入れ川戸)」が設置されていて、川の水路を引き込んで野菜や鍋釜の洗い場としていたようです。
高島市の「かばた」の井戸とは水源が違って鈴鹿山脈系の伏流水となりますが、洗い流した米粒などが魚の餌となり水質が保たれる自然とのつながりの深い仕組みとなっています。
「外村繁邸」は1901年に建てられた建物で外村宇兵衛の分家になるそうです。
長浜より当家に婿入りした吉太郎の三男が繁という方で、繁は代1回芥川賞候補にもなった作家で、大きな蔵の中には外村繁文学館が作られています。
五個荘の近江商人は近江国で商いをする訳ではなく、近江国外あるいは日本国外で商いをしていることから、主人は不在となりますが、五個荘の本宅では奥さんが家の切り盛りしていたようです。
商用ではない本宅ということもあって、住居は豪農の邸宅といった印象を受けます。
この邸宅では使用人も多かったのでしょう。“おくどさん”も立派なものとなっています。
「幼い頃に田舎の知り合いの家へ行くと小さな土間に“おくどさん”があったね。」と言うと、「そんなの見たことない。」といつも妻に笑われてしまいます。
「子供の頃にどこかの家で五右衛門風呂に入った記憶がある。」と言うと、「自分の親からは聞いたことがある。」ということになり、田舎育ちの自分を実感することになります。
外村邸の土間には井戸があり、風呂にも水が流れ込む造りになっていますが、家の中に井戸まであるのは豪農家屋ゆえということなのでしょう。
庭は公家や武家風の庭園ではありませんが、気候のいい時に寝転がって昼寝でもしたくなるような落ち着きがあります。
外村繁邸のすぐ横には外村本家に当たる「外村宇兵衛家」は呉服木綿類の販売で財を成した方の邸宅で、明治期には全国長者番付に名を連ねるほどの豪商だったようです。
隣り合わせの分家・本家ということがあって2軒の家はよく似た造りになっています。
2軒とも入り口近くに川戸があり、洗い場・魚の水槽・防火用水として役割を果たしています。
今でも農村部に行くと屋外を流れる川と屋内の池がつながっている風景を見ることが出来ますね。
「中江準五郎邸」は昭和8年(1933年)と建築年代が先の2軒より新しいことがあって、造りに違いがあるように思われます。
原風景的な豪農住宅というより、昭和初期の富裕層の家のような印象を受けます。
中江準五郎は大正~戦前まで朝鮮半島に13店舗を数える程の百貨店(三中井呉服店)を開設して「百貨店王」とまで呼ばれた一族の方のようです。
庭園も前栽のような庭の造りではなく池泉回遊式の庭で、池は琵琶湖を形どったもの。
池のまわりにある石灯籠は朝鮮半島から持ち込んだもののようです。
蔵は「小幡人形(おばたでこ)」の展示会場になっていて郷土玩具の土人形が展示されています。
小幡人形は京都の伏見人形の流れを汲むもので、現在の人形師は10代目で創業300年だといいます。
土人形は粘土を人形の型にはめて、乾燥させた後に釜で焼き、彩色する工程があり、約3ヶ月ほどかかるようです。
旧家を訪れると、こういった素朴な土人形を見かけることがあると思いますが、お土産などに使われていたのでしょう。
疑問に思うのは一般的に江戸時代の農民は土地に縛り付けられているイメージがあるのですが、近江商人はなぜ外に向かって行商を行ってきたのでしょう。
中山道に近かったということもありそうですが、この地が江戸時代に飛び地の藩領だったことの影響もあるのではないでしょうか。
江戸時代の初めは幕府領、その後に館林藩(群馬)・郡山藩(奈良)と変遷する中で、外向きの風潮ができていったとも思えます。
金堂町には神社仏閣も多く、本堂が重文になっている「弘誓寺(真宗大谷派)」や聖徳太子にまつわるとされる「浄栄寺(浄土宗)」。
聖徳太子が当地に建立した金堂寺の護法鎮護のため勧請し、その後に菅原道真公を祀るようになった「大城神社」など田園地帯の真ん中に出来た村とは思えないような町並みが続きます。
実は今回、クイズに挑戦したところ懸賞の招待券を頂くことが出来ました。
五個荘金堂町では2月から3月にかけて「商家に伝わるひな人形めぐり」が開催されますので、その時期にもう一度訪れてみたいと思います。
開催中には「にんげん雛(ひな)絵巻まつり」という人間が雛人形に扮するイベントもあるようですので、その人間雛人形も見てみたいものですね。