僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

五個荘金堂町の町並み~近江商人屋敷~

2018-11-30 20:15:15 | 風景・イベント・グルメ
 近江商人(江州商人)の有名な言葉に「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」がありますが、こういったニュアンスの企業理念を掲げる企業は現在も多いと思います。
近江商人には高島・八幡・日野・五個荘などがあって、それぞれ特色が違うようですが、現在も存在する企業の創業者との関わりが深いようです。

近江商人を琵琶湖の鮎に例える話として、“琵琶湖の鮎は琵琶湖で育つと小アユのまま大鮎には成長しないが、他の地域の河川に放流されると大きく成長して大鮎に育つ”というものがあります。
東近江市界隈をうろうろしていた時にぶらりと立ち寄った五個荘金堂でしたが、程よい観光地としてゆったりと楽しめる街でした。



五個荘金堂の近くには聖徳太子ゆかりの「石馬寺」や西国三十三所札所の「観音正寺」があり、盆地には田園地帯が拡がり、その中に忽然と江戸後期・明治・大正の商人屋敷が並びます。
近江八幡の商人屋敷はいわゆる“うなぎの寝床”が多いのですが、五個荘の商人屋敷は間口が広く、敷地面積の大きさに驚きます。

五個荘の村はもともと稲作をおこなう農村でしたが、江戸中期の頃より農閑期に副業として行商に行くようになったといわれます。
天秤棒で荷を担いで各地を廻り、その地で仕入れた物を売りまわるという“産地廻し”といわれる商法で、徐々に各地に馴染みの客が出来て、収めた商品がその地でカタログがわりになるという地道な商売です。



住居の入り口付近には「川戸(入れ川戸)」が設置されていて、川の水路を引き込んで野菜や鍋釜の洗い場としていたようです。
高島市の「かばた」の井戸とは水源が違って鈴鹿山脈系の伏流水となりますが、洗い流した米粒などが魚の餌となり水質が保たれる自然とのつながりの深い仕組みとなっています。



「外村繁邸」は1901年に建てられた建物で外村宇兵衛の分家になるそうです。
長浜より当家に婿入りした吉太郎の三男が繁という方で、繁は代1回芥川賞候補にもなった作家で、大きな蔵の中には外村繁文学館が作られています。



五個荘の近江商人は近江国で商いをする訳ではなく、近江国外あるいは日本国外で商いをしていることから、主人は不在となりますが、五個荘の本宅では奥さんが家の切り盛りしていたようです。
商用ではない本宅ということもあって、住居は豪農の邸宅といった印象を受けます。



この邸宅では使用人も多かったのでしょう。“おくどさん”も立派なものとなっています。
「幼い頃に田舎の知り合いの家へ行くと小さな土間に“おくどさん”があったね。」と言うと、「そんなの見たことない。」といつも妻に笑われてしまいます。



「子供の頃にどこかの家で五右衛門風呂に入った記憶がある。」と言うと、「自分の親からは聞いたことがある。」ということになり、田舎育ちの自分を実感することになります。
外村邸の土間には井戸があり、風呂にも水が流れ込む造りになっていますが、家の中に井戸まであるのは豪農家屋ゆえということなのでしょう。



庭は公家や武家風の庭園ではありませんが、気候のいい時に寝転がって昼寝でもしたくなるような落ち着きがあります。





外村繁邸のすぐ横には外村本家に当たる「外村宇兵衛家」は呉服木綿類の販売で財を成した方の邸宅で、明治期には全国長者番付に名を連ねるほどの豪商だったようです。
隣り合わせの分家・本家ということがあって2軒の家はよく似た造りになっています。



2軒とも入り口近くに川戸があり、洗い場・魚の水槽・防火用水として役割を果たしています。
今でも農村部に行くと屋外を流れる川と屋内の池がつながっている風景を見ることが出来ますね。



「中江準五郎邸」は昭和8年(1933年)と建築年代が先の2軒より新しいことがあって、造りに違いがあるように思われます。
原風景的な豪農住宅というより、昭和初期の富裕層の家のような印象を受けます。



中江準五郎は大正~戦前まで朝鮮半島に13店舗を数える程の百貨店(三中井呉服店)を開設して「百貨店王」とまで呼ばれた一族の方のようです。
庭園も前栽のような庭の造りではなく池泉回遊式の庭で、池は琵琶湖を形どったもの。
池のまわりにある石灯籠は朝鮮半島から持ち込んだもののようです。





蔵は「小幡人形(おばたでこ)」の展示会場になっていて郷土玩具の土人形が展示されています。
小幡人形は京都の伏見人形の流れを汲むもので、現在の人形師は10代目で創業300年だといいます。



土人形は粘土を人形の型にはめて、乾燥させた後に釜で焼き、彩色する工程があり、約3ヶ月ほどかかるようです。
旧家を訪れると、こういった素朴な土人形を見かけることがあると思いますが、お土産などに使われていたのでしょう。





疑問に思うのは一般的に江戸時代の農民は土地に縛り付けられているイメージがあるのですが、近江商人はなぜ外に向かって行商を行ってきたのでしょう。
中山道に近かったということもありそうですが、この地が江戸時代に飛び地の藩領だったことの影響もあるのではないでしょうか。
江戸時代の初めは幕府領、その後に館林藩(群馬)・郡山藩(奈良)と変遷する中で、外向きの風潮ができていったとも思えます。



金堂町には神社仏閣も多く、本堂が重文になっている「弘誓寺(真宗大谷派)」や聖徳太子にまつわるとされる「浄栄寺(浄土宗)」。
聖徳太子が当地に建立した金堂寺の護法鎮護のため勧請し、その後に菅原道真公を祀るようになった「大城神社」など田園地帯の真ん中に出来た村とは思えないような町並みが続きます。



実は今回、クイズに挑戦したところ懸賞の招待券を頂くことが出来ました。
五個荘金堂町では2月から3月にかけて「商家に伝わるひな人形めぐり」が開催されますので、その時期にもう一度訪れてみたいと思います。
開催中には「にんげん雛(ひな)絵巻まつり」という人間が雛人形に扮するイベントもあるようですので、その人間雛人形も見てみたいものですね。


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大津市滋賀里町~「志賀の大仏」(石造 弥陀如来坐像)~

2018-11-28 06:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県大津市の滋賀里に大きな阿弥陀如来の石像があるといいます。
かつて京都と滋賀(大津)をつなぐ道には“途中越え”や“山中越え”などの山越えのルートがあり、滋賀里の石像は山中越えの大津側の入口にあると聞きます。

京都側の入口となる北白川にも石仏があることから、山中越えを利用した旅人が道中の安全を祈願したともいわれています。
現在の山中越えは整備された道にはなっていますが、カーブに次ぐカーブの道で慣れていないと怖い道になっており、旧道はさぞや難所の山越えだったのではと推定されます。



滋賀里まで行って石仏の近くまで来ているのは分かったが、はてさて所在地が分らない。
集落の間の細い坂道を迷いに迷った末に、「北向地蔵」というお地蔵さんの前で掃除をしているお爺さんを見つけて聞いてみる。

「“志賀の大仏(しがのだいぶつ)”へはどちらへ行くといいのでしょう?」と聞くと...。
「“だいぶつ”ではなく、“おぼとけ”だ。“おぼとけ”さんと呼びなさい。」と注意される。

道は分かりやすく親切に教えて頂きましたのでお礼をいうと...。
「“おぼとけ”さんだからしっかり覚えるように!」と最後にもう一度年を押される。
地元でお守りされている方にとっては、呼び間違えるのは不謹慎なことになりますので気を付けないといけませんね。



“観音様の石仏の前に車を停められるから”と教えていただいた通りに小さな駐車スペースに車を停めて、ここからは徒歩になります。
先に観音様の石仏にお参りしてからとしましたが、かつてこの観音石仏を拝んでから京都までの山越えをされた方も多かったのでしょう。





右に流れる沢を横目に林道を歩いて行くと、ほどなく御堂が見えてくる。
人は誰もいないし、聞こえてくるのは沢の水音。時々野鳥の声が聞こえるがヒヨドリくらいというところ。



この御堂の横の道の先には「崇福寺跡」という飛鳥時代後期から室町時代にかけて存在した寺院の遺跡が残されているそうで、国指定の史跡となっています。
「崇福寺」は668年に天智天皇が大津京の鎮護のために建立した寺とされており、比叡山南麓の3つの尾根にそれぞれ堂宇があったといいますから、かなり広大な寺領を持つ寺院だったようです。
この「崇福寺跡」は、わずか5年程で廃都となった大津京の所在地を探る手がかりとして注目されているようです。



「石造阿弥陀如来坐像」は高さ3.5m・幅2.7mの花崗岩に掘り出した石仏で、阿弥陀如来は高さ3.1mとされます。
時代は鎌倉時代と推定されており、数百年に渡って旧街道で旅人を見守り続けられてきたのでしょう。



石仏はその大きさには圧倒されるものの、威圧感といったものはなく、表情は非常に穏やかで優しい顔をされています。
山中越えをする人は商売や物見遊山の方ばかりでなく、追われるように、逃げるように、またはどん底から再起を図るため、山を越えていく人も多かったのではないでしょうか。
そんな人々を穏やかで優しい表情で見守って送り出し、あるいは受け入れ続け、人々を安堵させてこられたのかと思います。





帰り道に先ほどのお爺さんにまた会ったので御礼を述べて行きましたが、まだお地蔵さんの周辺の掃除をされています。
「志賀の大仏」は旧街道が廃道となった今も、こういった地元の人の日々の奉仕によって守られてきたのでしょう。


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「神仏のかたち-湖都大津の仏像と神像-」~大津市歴史博物館~

2018-11-24 07:11:24 | アート・ライブ・読書
 仏像を拝観するのは仏像が安置されている本来の場所(寺院)で観るのが一番だと思いますが、秘仏として公開期間が限定されていたり、何10年に一度だけの御開帳となっていたりで拝観する機会が限られています。
そういう意味では博物館や美術館での仏像展では普段観ることが叶わない仏像が一堂に会して間近で拝観できるという魅力があり、仏像ファンが足を運ぶのも当然なのでしょうね。

大津市歴史博物館では「湖信会」設立60周年を記念して、湖信会所蔵の仏像を中心として、大津の神社仏閣に伝わる宝物が「神仏のかたち-湖都大津の仏像と神像-」として公開されています。
公開数は50躰以上に及び、そのうちの13躰は今回が初出陳ということであり、博物館での記念企画展ならではの仏像・神像展となっています。



「湖信会」とはどの寺社を指すのかというと、「浮御堂(満月堂)」「西教寺」「延暦寺」「日吉大社」「近江神宮」「三井寺(園城寺)」「石山寺」「建部大社」「岩間寺(正法寺)」「立木観音(安養寺)」とそうそうたる寺社です。
これまで上記10社寺に参拝はしているものの観る事が出来なかった仏像が、今回多数展示されるのは大変魅力的で、通常拝観不可の仏像を拝観出来ることへの期待が高まります。



展示会は「シャカ」「如来」「菩薩」「明王」「天部」「神像」「高僧・羅漢」と仏像の種類ごとに分かりやすく分類された構成になっています。
解説もその仏像の特徴や個性をうまく伝えるように軽やかな文体で書かれているため、特徴を捉えやすく他の仏像展とは趣が異なるのも見所でしょうか。

最初の「シャカ」では、像高わずか7.1cmの「釈迦誕生仏立像(聖衆来迎寺・白鳳時代)」のあまりの小ささにまず驚きます。
またかつて志賀にあった崇福寺(天智天皇の勅願寺)の塔跡から出土された「舎利容器」は瑠璃色のガラス容器は白鳳時代へと引き寄せられるように美しい。

「如来」の分類では10躰近い如来や来迎図が展示されており、中でも目を引いたのは石山寺の多宝塔に祀られている「大日如来坐像(石山寺・鎌倉期・重文・像高101.7cm)」でした。
滋賀県では数少ない快慶作の仏像で、その眼光に魅入られてしまうような仏像です。



如来では、腕前で薬壷を持つ独特の形をした「薬師如来坐像(西教寺・鎌倉期・重文)」や、左右の手の位置が通常とは逆で右手を下げた「阿弥陀如来立像(西教寺・鎌倉期)」など特徴がある仏像が並びます。
下の法楽寺の「薬師如来坐像(平安期・重文)」は12年に一度、寅年に数日だけ御開帳される秘仏で、これが初出陳の仏像だそうです。



「菩薩」では妙傳寺(京都八瀬)の「弥勒半跏像(朝鮮三国時代)」は7世紀頃に伝来した渡来仏とされており、そのアルカイックスマイルと日本的ではない姿に大陸の雰囲気を感じます。
このような仏像は観たことがありませんでしたので、いつまでも目が離せずといった感じでした。

満月寺(浮御堂)の聖観音坐像(平安期・重文)は左右の目の高さが違い、重たそうな瞼をした独特の表情をされています。
あの有名な浮御堂にこのような仏像が安置されているのは知らなかったですね。



岩間山正法寺の「十一面観音立像(平安期)」はスラリとしたモデル体型の十一面ではなく、ずんぐりとした体型をしており、ふくよかさを感じます。
博物館の隣は三井寺ですが、三井寺の十一面観音と同系統の体型のようにも見えます。



「明王」は「不動明王坐像(園城寺・平安期)」、「愛染明王(聖衆来迎寺・鎌倉期)と並ぶ、「比叡山無動寺明王堂」の四明王像は仏像の素晴らしさがよく伝わる迫力があります。
「降三世明王」「軍荼利明王」「金剛夜叉明王」(全て鎌倉期・重文)の中でも「金剛夜叉明王」は何と目が5つあります。顔自体が3面のうえに目が5つとはなんとも不可思議な仏像です。



「天部」では共に平安時代作の安楽寺「四天王立像(像高80cm超)」と比叡山延暦寺国宝館「四天王立像(像高150cm超・重文)」、石山寺「二天王立像(像高160cm前後・重文)が並び、その迫力に圧倒されます。
少し面白いのは立木山安養寺の「三面大黒天像(江戸期)」でしょうか。三面の顔は「大黒天」「毘沙門天」「弁財天」と縁起のよさそうな天像です。



その後も「神像」「高僧・羅漢」と続き、あまり観る機会のない神像が20躰も並びます。
神像は劣化や傷みの激しいものが多いのすが、神像は補修はしないものなのでしょうか。



展示室内は当然撮影禁止ですが、エントランスに置かれた「地蔵菩薩坐像(平安~鎌倉期)」は撮影可でした。
通常は園城寺の境内にある「小関地蔵堂」に安置されているお地蔵さんで、像高135cmの半丈六の大きさを持つ、坐像としては大津市最大の地蔵菩薩のようです。

小関地蔵堂がある場所は大津から京都山科へと抜ける旧街道の入口にあたり、多くの人々が山道を越えていった場所のようです。
この地蔵菩薩は平安~鎌倉の時代から道祖神として旅人の安全を見守っていたのでしょう。





ショップで今回の展示会の図録を購入しましたが、写真と図解をセットにしたとても分かりやすい解説となっており、理解しやすい内容になっていて助かります。
また「神仏のかたち」展については主催社のひとつの京都新聞では学芸員の方が定期的に紹介されており、ネットでの楽しみにして読むことも出来ます。



仏像というと京都や奈良を思い起こしますが、滋賀県は実は仏像が非常に多く残されています。
日本海と古都へ通じる街道や琵琶湖の海運があり、文化が交じり合いながらも独特の仏像文化が築かれていったのかと思います。

最後に大津市歴史博物館から見る琵琶湖の様子です。
左に三上山、右には琵琶湖大橋が見えますが、琵琶湖の南湖は対岸が近いですね。




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「湖北のアール・ブリュット展2018」~長浜 曳山博物館~

2018-11-21 19:53:00 | アート・ライブ・読書
 「アールブリュット」とは広義には“正規の美術教育を受けていない人が生み出した、既存の芸術のモードに影響を受けていない絵画や造形のこと”でありますが、一つの言葉では収まらない奥行や広さのある創造活動だといえます。
滋賀県はアールブリュットに積極的な取り組みがされており、近江八幡市にはNO-MA美術館があり、リニューアル中の滋賀県近代美術館でもアールブリュットが美術館の柱の一つになると計画されています。

長浜市でも毎年「湖北のアールブリュット展」が開催されており、今年は「曳山博物館」で2日間の美術展が開催されました。
街のあちこちにポスターが貼られてはいるものの、湖北での認知度がもう少し欲しいですね。



会場へ入ると壁に絵の展示が並んでいますが、小さな絵をクリアー板で挟んで展示されている作品に目がいきます。
平日を福祉施設で過ごす作者が、金曜日に広告の白紙(裏)を自宅に持ち帰り、月曜日に描いた絵を持って帰って来られるとあります。
絵の他に仮面や刀を作るのが大好きな方とも書いてありましたが、好きな絵を描き見てもらう事にも生きがいを感じておられるのではないかと思います。



大きなテーブルの上には大きな「壺」と丸められた「テープ」の展示がありました。
湖北のアールブリュットでは二人とも馴染みのある作家さんということになりますが、全く違う作品が組み合わさって独特の迫力があります。
2つの作者に共通することは、片や紐状の粘土を積み上げて造り、片やクラフトテープを丸めては積み重ねるというところではないでしょうか。



何ともいえない愛嬌や可愛さがあるのは次の「かっぱ」と「おじぞうさん」です。
「かっぱ」シリーズは「芋掘りかっぱ」「キノコかっぱ」「クリスマスツリーかっぱ」「エリンギかっぱ」「太鼓かっぱ」「おにかっぱ」などの作品があります。
その時々に体験したことが作品に反映されているのかもしれませんね。





「おじぞうさん」も可愛い作品で、合掌しているのでしょうか?手を前方で合わせています。
作品はよく見てみると、大きさ以外にもそれぞれ表情が違います。
おじぞうさんが中央の壺(別の作家)に向かっているようなレイアウトを見ると、壺がモノリスのように見えてしまいます。



大津市の福祉施設からの出展は、施設自体が創立70周年という長い歴史もあって力作が多く展示されていました。
こういった作品がアールブリュット造形の一般的なイメージになっているとも言えると思いますが、それぞれ個性豊かな作品が並びます。



アールブリュット作品を見て思うのは、“障がいのある方が魅力的な作品を作る”のではなく、“才能のある作家に障がいがあった”という言い方のほうが正しいのではないかということです。
そういう作家たちに表現する機会や発表する機会があるのは滋賀県の良さといえます。





障がい者福祉が生んだ特異な作品があります。
作者と職員の共同作業になると思いますが、視覚障がい・聴覚障がいがありながら人とのスキンシップが大好きな方がおられます。

その方とのコミュニケーションは、職員が着たTシャツに作家が手に絵の具を付けて抱きついたり、タッチをしたりして触れ合うコミニュケーションから生まれた作品です。
説明文を読み、その時の様子を想像しながらTシャツを眺めていると何とも言えない感動を覚えます。



長浜では「曳山博物館」以外にも「まちなかArt Brut」として、街の中に数種の作品が展示されています。
下はそのひとつで「かめ」という作品です。



美術としてのアールブリュットには無限の可能性があると思いますし、作家の想像力には無限の拡がりがあると信じています。
誰にも均等に光源からの光が当たったとしても、その光を反射させることは少なくとも自分には出来ないと思います。



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御朱印蒐集~奈良県高市郡 壺阪山 南法華寺(壺坂寺)~

2018-11-18 19:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所札所巡りを続けていますが、未だ満願には遠いながらも巡礼を続けています。
巡礼の札所はほぼ近畿圏に収まるとはいえ、簡単にはいかないのが観音巡礼ですから、一寺一寺コツコツと巡っていくしかありません。

今回奈良の地へ訪れた最大の目的は西国霊場巡りでしたが、この壺坂寺(南法華寺)への参拝で奈良県内は残すところ長谷寺のみとなりました。
西国三十三所札所には参拝すると驚かされるような寺院が含まれることがありますが、この壺坂寺もある意味で変わった寺院でしたので驚かされることとなりました。



壺坂寺は703年、元興寺の弁基上人が愛用していた水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を祀ったのが始まりとされ、その後朝廷より「壷阪山南法華寺」の寺号を賜ったとされます。
真言宗の寺院ですが、日本的なもの・インド的なもの・密教的なものが混在する独特の雰囲気のある寺院だというのが感想です。



カーブが多い道幅は広めの林道を登っていくと駐車場がありますので車を停め歩き出します。
ほどなく仁王門へと続く石段があり、登りきったところに寺標の石柱があり、仁王門へとつながります。





仁王門は1212年の建立とされていますが、大規模な解体修理が行われているようで非常に綺麗な門となっていました。
仁王門で睨みを利かせる金剛力士像の履歴は分かりませんが、近年の製作とは思えない像で痛みもかなりあります。
阿形の仁王さんは右手の手首から先が欠損してしまっていますね。





しっかりした造りの手水舎で清めて境内に入りますが、気になるのはあちこちに見える巨大な石仏です。
日本の歴史のある寺院ながら“いったいこの寺院には何があるのか?”と不可思議な心境になります。



巨大な石仏からはインド的でエキゾチックな印象を受けますが、なぜ壺坂寺にこのような石仏があるかというと、石仏はインドから贈られたものだからということだそうです。

勝憲長老がハンセン療養施設を訪問した時に眼が不自由でハンセン病のために指先の感覚が麻痺し、舌で点字を読まれている姿を見て、救ハンセン病活動を始められたそうです。
1960年からはインドでハンセン病患者の救済活動に取り組まれ、石仏はその活動への感謝の品として贈られたそうです。



「大釈迦如来石像」は身丈10mで台座を含むと15mあり、「十一面千手観音菩薩」「普賢菩薩」「勢至菩薩」「観音菩薩」が並び、両端には「毘沙門天」と迫力があります。
これらの石仏群は21世紀初頭より、世界中で起こった暴力や中傷などによって傷んだ心を癒すために建立されたとされます。

山の崖に佇まれているのは「夫婦観音」。
「壺坂霊験記」には盲目の澤市とその妻お里の夫婦愛の話で、お里の観音への祈り・澤市への思いやり、澤市の感謝の心、壺坂観音による霊験による開眼の話は浄瑠璃や歌舞伎で演じられている話だそうです。



壺坂寺の御利益は“眼病に霊験あらたかな観音様”とされており、インドでの救済活動はもとより国内でも境内に養護盲老人ホームを開設するなど盲老人福祉にも取り組まれているそうです。
壺坂寺ではあっと驚くことばかりなのですが、「天竺渡来大観音石像」と「天竺渡来大涅槃石像」の一角には大いに驚かされます。



大涅槃像は平成11年の安置で全長は8m。
インドハンセン病救済事業のご縁で国際交流・石堀事業の一環として製作されたとされます。
釈迦の最後の説法は“自らを灯明とし、自らをよりどころとし、法を灯明し、法をよりどころとする”とありました。



大観音石像は昭和58年に開眼された石像ですが、全長は20m・全重量は1200tといいます。
この石像もインドハンセン病救済事業のご縁でインドからご招来したものとされ、述べ7万人の石工が参加して全て手造りで製作されたそうです。
この大きさでは日本へ運べないため、66個に分割されて日本で組み立てられたといいますが、とんでもない規模の大事業だといえますね。



さらに驚くのは天竺渡来佛伝図レリーフ「釈迦一代記」ではないでしょうか。
高さは3mですが全長は50mあり、重さ300tという巨大なレリーフです。
延べ5万7千人の石堀師によってインドの石に彫られたといいますが、インドの石堀師の技術には凄まじいものがあります。



レリーフは釈迦の一代記を描いたもので生誕から涅槃までを描いていますが、興味深いのは悟りを開く前の釈迦が苦行を行っていた頃の描写でしょうか。
やせ衰えた釈迦の側には骸骨が死神のように迫ってきています。



レリーフの下には「ガンダーラの仏足石」が置かれており、。これはガンダーラのタクティバハイ僧院にあった仏足石(二世紀)を実物大に再現したものだそうです。
ガンダーラ地方にはインドの文化にギリシャ・ローマ的なものが加味された独特の文化がガンダーラ仏教美術として栄えたとされ、タクティバハイ僧院は荘厳・華麗な美しい寺院だったといわれます。



さて、インド的なものから日本的なものへ転じると、そこには観音を中心とした日本仏教の空間が広がります。
同じ寺院の境内にありながら、この文化が混在する姿には驚きと違和感が溢れてきます。

平安時代の大日如来を本尊として祀る多宝塔は平成14年の落慶といわれます。
年次的にもインド的なものと日本的なものが同時進行しているこの不可思議さには違和感がありますが、それだけ信徒の方の熱意があるのでしょう。



重要文化財にも指定されている「三重塔」は壺坂寺では珍しく感じるほど古色の美しい塔です。
この三重塔は1497年の再建とされており、2010年には再建以来初めて初層開扉内拝が行われたそうです。



平成17年に落慶された「勧請堂」は壺坂寺が真言宗の一流派の道場であったため、その経を伝えるため平安時代に建立されたという説があります。
2度の大火にあいながら再建されてきたものの、15世紀に大火にあって以降は再建されず、平成17年になって再建されたといいます。



勧請堂のご本尊は「十一面千手観音像(室町期)」で両横には安土桃山時代の豊臣秀長公像と本多俊政公像が安置されています。
この本多俊政という方には馴染みがないので調べてみると、元は豊臣秀長・秀保に仕え、秀保の死後は秀吉の家臣になったようです。

関ヶ原の合戦では東軍として会津征伐に従ったため、居城・高取城は西軍に攻められたものの家臣が守りきったため、後の高取藩主になったとされます。
残念ながら嗣子に恵まれなかったため、お家は断絶したそうですが、歴史には名前を残された方のようですね。



壺坂寺で本堂にあたるのは「八角円堂」となり、仕切りなくつながっているのは本尊を拝むための「礼堂」となります。
礼堂は創建当初から建てられていたようですが、その後3度の焼失と再建を繰り返し、江戸時代の大改築では規模が縮小されたといいます。
しかし、昭和の解体修理時の調査によって室町時代の姿が判明し、室町時代の大きさに戻して建てられたとそうです。(重要文化財)



八角円堂は703年に創建されたとされる建築物で本尊である「十一面千手観世音菩薩」を祀っています。
現在の建物は江戸時代の再建とされ、内部は礼堂正面に本尊があり、中を一周することができます。



礼堂でやっと御本尊「十一面千手観世音菩薩」を拝むことになりますが、大きさといい造作といい尊顔の表情といい、息を呑むような神々しさを感じる仏像です。
室町時代の樫材の寄せ木造りとされ、「眼の佛」として信仰をあつめているといいます。



尊顔はふくよかな肉付きとなっていますが、カッと見開いたような目力の強さには拝観する方も目がはなせなくなります。
頭頂の化仏の表情にも同様のことがいえ、その目力から「眼の佛」としての法力を感じて参拝される方が多いのでしょう。



高台にある八角円堂は堂の外の回廊を歩くことができ、そこに「二上山」の案内がありました。
2つのピークは標高517mの雄嶽と474mの雌嶽からなり、「天の二上」として神聖な山と崇められているそうです。

大津皇子は天武天皇の第3皇子でしたが皇位継承の中で謀反の疑いをかけられ、自害させられた皇子と伝わります。
その大津皇子の墓は、二上山の雄嶽の山頂近くにあるようです。





壺坂寺は仏像を始めとする日本仏教の文化と、インドとの国際交流(ハンセン病患者救済活動)による巨大石仏の文化が混在する不思議な寺院でした。
混沌とした境内に圧倒されて寺院の中を彷徨っていたような気分です。


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御朱印蒐集~奈良県高市郡明日香 仏頭山 橘寺~

2018-11-15 05:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 明日香の田園地帯を走行中にふと目に入ってきたのが「聖徳太子御誕生所」と彫られた石柱でした。
思わず車を停めて見に行くと、そこは橘寺への入口となっています。
これは聖徳太子が招いてくださったのかと思い込みたくなるような偶然の出来事です。

さっそく寺院の駐車場まで車を進め参拝といことになりましたが、石標を見落としていたらなかったことだと思うと、縁があったのかと思わざるを得ません。
それとも長年の聖徳太子愛が引き合わせてくれたのかもしれませんが、地図を見返してみても大通りではないこの道へなぜ入ったのか不思議な気持ちとなります。



寺院の説明によると、当時の橘寺は欽明天皇の別宮で、ここで後の用明天皇と穴穂部間人皇女の間の皇子として生まれたのが厩戸皇子こと後の聖徳太子と伝わります。
寺院としては聖徳太子により建立七ヶ大寺の一つとして建てられ、当初は東西八丁(870m)南北六丁(650m)の寺地に66棟の堂舎が立ち並んでいたとされます。



しかし、681年には失火により十房焼いたという記録が残されており、1148年には雷火のため五重塔を焼失するも、文治年間(1185~1189年)に三重塔として再建。
室町時代の1506年には多武峰の兵により焼かれてしまい昔日の面影をなくしてしまったとされます。

江戸時代には僧舎一棟のみであったようですが、1864年に再建され、現在に至るまで聖徳太子を本尊とする寺院として存在しています。
寺院はかつては法相宗の寺院だったそうですが、江戸時代中期からは天台宗の寺院となっているようです。





西門から入山すると見晴らしのいい高台に出て、まずは手水舎で身を清めます。
橘寺の正門は東門のようですが、気が付かないまま入山してしまいました。
ただ西門から入ってすぐに手水舎がありましたので一般的には西門からで良かったのかと思います。



手水を済ませた後は梵鐘を撞かせていただくことにします。
梵鐘には「聖徳太子一度鐘」と刻まれていましたが、その謂れについてはよく分かりませんでした。



橘寺の境内には聖徳太子が御講讃の時に月・日・星の光を放ったとされる「三光石」や太子が造ったと伝わる「阿字池」が残されています。
珍しいのは飛鳥時代の石造物とされる「二面石」で、この石には左右に善相と悪相が彫られてあり、人の心の善悪二相を表したものといわれているそうです。



続いて観音堂へお参り致しましたが、堂の外から垣間見える「如意輪観音像」には驚かされました。
この仏像は藤原期のもので重要文化財に指定されているにも関わらず、開け放たれた御堂に平然と祀られています。





個人的には橘寺で拝観した仏像の中でこの「如意輪観音像」にもっともひかれます。
丸顔で非常に穏やかな表情をされており、繊細優美な美しい仏像だと思います。



本堂の左には屋根の上に宝珠が付けられ、やや小ぢんまりとした「経堂」があります。
堂内には上品下生の九品来迎印を結ばれた阿弥陀如来坐像が安置されていました。
製作年代などの詳細は分かりませんが、大きさがあり見応えのある仏像だと思います。





最後にお参りさせていただいたのは本堂(太子殿)でした。
太子殿は1864年に再建されており、本尊として聖徳太子像を祭っています。



堂内に入り外陣にいると“そこから中へお入りください。”と声をかけていただき御本尊と対面することが出来ました。
御本尊の「聖徳太子勝鬘経講讃像(室町期)」は聖徳太子35歳の姿を現したものとされており、重要文化財に指定されています。



外陣には「聖徳太子孝養像(少年期)」も祀られてありましたので、歴史の中で苦難を経ながらも聖徳太子生誕の寺院・聖徳太子開基の寺院として信仰を集めてきたといえます。
今回の明日香でわずかでも聖徳太子と蘇我氏の痕跡に出会えたのは、“やっと念願叶った。”という思いです。



明日香にはどこへ行ってものんびりした風景に出会うことが出来て気持ちが落ち着く思いがします。
おそらくこの地では何百年も前から同じ風景がみられたのでしょう。この風景を守っていって欲しいですね。


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御朱印蒐集~奈良県高市郡明日香 鳥形山 飛鳥寺~

2018-11-12 05:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 若い頃に山岸凉子さんの「日出処の天子」に夢中になった影響があって、蘇我氏や厩戸皇子が活躍した飛鳥時代に非常に興味があります。
それこそ登場人物の名前を聞けば顔が浮かぶ(山岸凉子画)ほどのフリークでしたが、明日香にある太子や蘇我氏と縁深い寺院を参拝して周るのはこれが初めてとなります。

明日香は田園風景が続く盆地となっていますが、さほど距離のない場所に寺名に聞き覚えのある寺院が集まっています。
当初は西国巡礼の札所にお参りした後、奈良市界隈の寺院に参拝しようと思っていたのですが、結局は明日香一帯をウロウロとして1日を過ごすことになりました。



飛鳥寺は588年に蘇我馬子が発願し、596年に創建された日本最初の寺といわれています。
まさに日本仏教の黎明期となる寺院で開基は蘇我馬子とされています。
当時は蘇我氏の氏寺の法興寺(または元興寺)として建立されたようですが、平城遷都などにより移転された事情等があり、今も残るこの寺院を飛鳥寺と呼ぶそうです。



「飛鳥大仏」と刻まれた標石は1792年に彫刻されたもので、大石は飛鳥寺創建時(588年)の礎石を用いているとありました。
蘇我馬子と物部守屋が仏教伝来を巡って争った丁未の乱が587年ですから、物部市を排除した馬子が仏教の拡がりと共に権力を手中にした時代のものになるようです。



蘇我氏は朝鮮半島からの渡来人との縁が深く、半島からの文化や技術を受け入れようとしていたとされますから、仏教を広めることで大陸からの文化を吸収しようとしたのかもしれません。
一部には蘇我氏が渡来人(百済?)という説まであるくらいですから、蘇我氏と渡来人のつながりは深かったということもいえそうです。



鐘楼は1745年の建立とされており梵鐘も同年に鋳造されたそうですが、昭和18年の戦時供出のため梵鐘は失われてしまったそうです。
昭和33年には勧進・浄財を集めて新鋳されたようですが、製作にあたっては当代の名士によって造られているようです。
音響に至っては理学博士の設計により、1分20秒の余韻を残す設計がされているといい、確かに撞いてみると優しく余韻の響きの綺麗な梵鐘でした。



鐘を撞こうとした時に鐘楼の柱ににイソヒヨドリ♀が留まりました。
イソヒヨドリは本来は海の周辺にいるものですが、海のない盆地の奈良で見かけるのは不思議な気分です。。
なぜか明日香の界隈にはイソヒヨドリが多く計4ヶ所で出会ったのですが、明日香でイソヒヨドリに何度も出会うのは意外でしたね。



飛鳥寺の境内はあっけないほど狭いものでしたので、すぐに本堂へと向かいます。
堂内に入ると人が集まるのを待って寺院の方の説明が聞けますが、視線は飛鳥大仏に釘付けになります。



往時の飛鳥寺は、南大門を正面にして中門からの回廊が周囲を取り囲み、西金堂と東金堂の中央に仏舎利塔、中央に中金堂、回廊の外には鐘楼・講堂・経蔵と並ぶ大寺院だったようです。
本堂内にあった伽藍復元図でかつての飛鳥寺が見られますが、その規模からも蘇我氏の威信をかけた大寺院だったことが分かりますね。



さて、飛鳥大仏(釈迦如来坐像)です。
重要文化財に指定されているこの銅像は605年、推古天皇が蘇我馬子や聖徳太子および各皇子と近いを立てて発願し、鞍作止利によって造られたとされます。
高さ約3mの日本最古の丈六仏の製作には銅15t、黄金30㌔が用いられたとされます。





本堂は887年(平安時代)と1196年(鎌倉時代)の2度焼失の憂き目にあっていて、飛鳥大仏も罹災にあい補修・後補を受けているようです。
補修された部分の方が多いようではありますが、その尊顔には大陸的なものが伺われます。





これだけの金銅仏で、しかも日本最古とされているのも関わらず国宝になっていないのは、補修部の多さということのようですが、忠実に飛鳥仏を再現しているとの話があります。
文化財としての評価は別として、この飛鳥大仏の見事さには惚れ惚れとしてしまい、しばらく椅子に腰掛けて眺めておりました。



飛鳥大仏の右には「阿弥陀如来坐像(藤原期)」、右には「聖徳太子孝養像(室町時代)が安置されています。
聖徳太子像は太子16歳の時に殯で倒れた父・用明天皇の病気回復を祈願する姿を現したものとされます。





後陣には「深沙大将像(藤原期)」「勢至菩薩像(藤原期)」「不動明王坐像(室町期)」などの仏像が安置されてありました。
観る機会の少ない深沙大将が祀られていたのは嬉しい限りですが、典型的な深沙大将の特徴はあまり見受けられない姿です。
仏像には定形というものと製作者による個性というものがあるということなのでしょう。



寺院の中庭には幾つかの石仏や石灯籠が置かれています。
表示された字が読み取れないのですが、なかには南北朝時代のものが見受けられます。



栄華を誇った蘇我氏が凋落への道を進み出すのが乙巳の変(大化の改新)になりますが、その蘇我入鹿の首塚が飛鳥寺の近くにありました。
中大兄皇子と中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂らによって討ち果たされた入鹿の首が飛ぶ有名な絵がありますが、飛鳥板蓋宮(皇極天皇の皇居)から飛んだ首は飛鳥寺まで飛んできたと伝わります。



栄華を誇った蘇我氏も今は蘇我入鹿を祀る首塚が明日香の田園地帯にポツンと残されているのみ。
入鹿の首は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺で手厚く祀られているようです。
血なまぐさい歴史のある首塚は、1400年の時を経て、のどかで平和な明日香の風景の中に溶け込んでしまっていますね。




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御朱印蒐集~奈良県高市郡明日香 東光山 龍蓋寺(岡寺)

2018-11-10 07:18:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 かねてより念願だった奈良の明日香の地にやっと訪れることができました。
奈良にはまだ参拝したことのない寺院は多数ありますが、今回は西国三十三所の巡礼の目的もあって第7番札所の「龍蓋寺(岡寺)」への参拝から始めました。

「岡寺」の正式な山号・院号・寺名は「東光山 真珠院 龍蓋寺」となるようですが、古代から「岡寺」として親しまれていることから現在の宗教法人名も「岡寺」とされているようです。
岡寺(龍蓋寺)の創建は663年、草壁皇子(天武天皇の皇子)が住んでいた岡の宮に義淵僧正によって建立されたとされます。



岡寺のある高市郡明日香には高松塚古墳やキトラ古墳があり、古墳の被葬者は天武天皇の皇子の誰かではないかという説があります。
その説の中に草壁皇子は含まれていませんが、それは27歳で早世していることで被葬された時代が合わないからということのようです。



義淵僧正は元興寺で唯識・法相を学んだ方で、弟子に玄昉・行基・隆尊・良弁などがいるとされ、奈良仏教の先駆者の僧たちの師とされている方だといわれます。
岡寺は江戸時代までは法相宗興福寺の末寺でしたが、江戸時代には長谷寺の末寺となり、現在の岡寺は真言宗豊山派となっています。



仁王門は1612年の再建の建築物で重要文化財となっており、扁額には「龍蓋寺」と刻まれています。
金剛力士像が結界で睨みを効かせていますが、この仁王像は再建当時に祀られたものかとも思われます。





まず手水舎で清めますが、手水鉢には色とりどりの浮き玉が浮かべられ、すぐ横にある小さな池には献花された花々とすでに花期を終えて葉だけが残り、とても情緒のある光景でした。
岡寺は花の寺でもあり、春には約3000株の石楠花やシャクナゲ・牡丹が寺院を彩り、池には天竺牡丹(ダリア)が浮かべられて参拝者を出迎えてくれるようです。



鐘楼へ行き梵鐘(1808年の銘)を撞かせていただきましたが、静かな明日香の地にゆっくりと響くような音色で余韻の長い梵鐘でした。
梵鐘には7つの穴が開けられており、これは戦中に供出のため鐘の材質を調べる為にあけられた穴の跡だとされます。
鐘を供出させられた寺院は多いのですが、岡寺の梵鐘は幸運にも供出を逃れたようです。



義淵僧正の話に戻りますが、かつてこの地には農地を荒らす悪龍がいたといいます。
義淵僧正は悪龍を法力によって小池に封じ込め、多い石で蓋をしたとされます。
その伝説が「龍蓋寺」の原点になっており現在も「龍蓋池」として残されています。





境内には小型の楼門があり奥に古書院などがありますが、そちらは非公開のため楼門から先には入ることが出来ません。
この楼門も仁王門と同様に1596~1615年の建立と考えられていますが、何とも小ぶりな楼門です。



本堂へ行く前にまずは三重塔を目指して進みます。
最初にあるのは大師堂。
昭和の始めに建立されたもののようですが、弘法大師の石像が堂々たる姿で立たれています。



石段を登っていくと三重塔がだんだんと姿を現してきます。
三重宝塔は鎌倉初期にあったとされますが、復興されたのは昭和61年で実に514年ぶりの再建となったようです。
扉絵・壁画・琴などのは平成13年に完成し、現在は年に一度「開山忌」の時にだけ公開されているようです。





最近、寺院へ参拝した時に本堂には最後にお参りする習慣になっており、今回も本堂を通り過ぎて奥の院へと向かいます。
まず瑠璃井という古井戸があり、小さな滝の前には不動明王と地蔵菩薩の石仏が祀られています。

井戸は、弘法大師ゆかりの厄除の湧き水とされていますが、何と横に吊るされたバケツで水を汲み上げるようになっています。
バケツを井戸の中へ降ろして水を汲み上げましたが、想像以上に井戸は深く水量が多いのには驚きましたね。



瑠璃井からさらに奥に進むと鎮守社の「稲荷明神社(如意稲荷社)」と「奥の院石窟」への石段が見えてきます。
「奥の院石窟」は「弥勒の窟」といわれる石窟堂のことですが、ここで境内は終わり後方は山となる寺院の終点となる場所です。





石窟の数m先の奥には「弥勒菩薩座像」が祀られており、独特の気配を醸し出す窟となっていました。
いつの時代かに人力で彫ったと思われる石窟ですが、中は聖域でとても入れる雰囲気ではありません。
石窟の入口から拝んで「弥勒の窟」を後にします。



奥の院は高台になっているため、帰りの道からは本堂の姿が垣間見えます。
現在の本堂は1805年の棟上げで完成まで30年以上かかったと伝わる建築物です。



本堂は西国三十三所巡礼の札所らしい雰囲気が漂い、活力と熱さが感じられます。
しかし、本堂の拝所の奥に見える大きな仏像には圧倒されてしまいました。





高さ4m以上の「如意輪観世音菩薩(重要文化財)」は弘法大師の作と伝わる塑像でインド・中国・日本の土で造られたとされています。
塑像としては日本最古の仏像で、如意輪観音としては日本最大の塑像であることはさておき、圧倒的な迫力のある像でした。

本尊の如意輪観音の右には「愛染明王」、左には「不動明王」。
後陣には右肩から下が欠損している「毘沙門天(平安期)」「不動明王(平安期)」「菩薩半跏像(京都国立博物館所蔵品の分身)」など興味深い仏像が多かったのも良かったことの一つにあげられます。



こういう素晴らしい仏像を拝観すると、薄汚れた自分が浄化されるような気持ちになることができますね。
当日の晴天のように気持ちが晴れましたので、岡寺の高台から望む明日香の風景を撮りました。



明日香の地の不思議なところは、かつて飛鳥京が置かれた都の地でありながら、今は周囲には田園や山々が拡がるのみの閑散とした地となっていることでしょうか。
とはいえ、蘇我氏や聖徳太子との縁の深い明日香の地は、今のままの姿で残されていく方がいいのだと思います。


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ジョウビタキをパチリ!

2018-11-08 18:05:15 | 野鳥
 鳥見に行く間隔がすっかり空いてしまって、先週までオオヒシクイもコハクチョウも見ていない状態でした。
流石にそれはまずいだろうとばかりに久しぶりの湖北巡回に出たみました。

とはいえ、すっかり鳥感を失ってしまっているので、どこへ行けば良いやら迷いながら車を出そうとしていると、あれま!目の前にジョウビタキが留まっている。
ジョウビタキはもうとっくに飛来してきているのに、これが遅ればせながらシーズン初見とは情けないことです。





これは幸先がいいぞと思ってみたものの、実際にフィールドに出るとなかなか野鳥には出会えない。
いや言い方を変えて、晩秋・初冬を感じさせる野鳥に出会えない。

センター前まで行くと、オオヒシクイが休んでいる姿はありましたが、コハクチョウは随分と沖の方で群れている。
まぁそのうちに2種ともに湖北の空を交差するように飛び交う姿が観られるでしょうから、焦ることはないのですけどね。



田園地帯の電柱にはノスリ・チョウゲンボウの姿が見られます。
ノスリは電線がかぶってNGでしたが、チョウゲンボウは何とかパチリ!



上は何か食べているようでしたが、何かは分からず。
別の個体が田圃へ突っ込んでいくのが見えたけど、飛ばれて失敗しておりました。



さて空に雲がかかってきたのでこれで帰ろうとする帰り道。
また別のチョウゲンボウの個体が目の前を飛んですぐ先の電柱に留まる。
心の中で“もういいんだけど...”と思いながらも性別が違うのでもう1枚撮ってみる。



紅葉が終わる頃までには鳥感を鍛えておかないと、肝心なやつが出た時に見落としてしまいそうです。
とはいえ、後悔するほど惜しいやつに出会える鳥運があったらの話ですけどね。


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紅葉とオシドリ~滋賀県東近江市 瑞石山 永源寺~

2018-11-05 16:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 紅葉の見頃はまだもう少し先かと思いますが、見頃の頃になると紅葉狩りの方が激増しますので、まだ早いとは思いつつ永源寺へと向かいました。
朝は雨がシトシトと降っていましたので人の出は少ないだろうと思っていたにも関わらず、駐車場は満車に近い状態で境内入り口の土産物屋付近にも人の数は多い。
やはり早く紅葉を楽しみたいと思っている人は多いのでしょうね。



楓はまだ青々した葉のものが多いとはいえ、一部の楓は真っ赤に色づいています。
葉が真っ赤に染まる楓は、橙や黄色の楓に比べると色付きの時期が早いのかもしれません。
まず「名勝 永源寺楓林」と彫られた石標を横目にして石段を登っていきます。



永源寺は臨済宗永源寺派の本山で、1361年に近江国守護・佐々木氏頼が寂室元光禅師(正燈国師)を開山として開いたのに始まるとされます。
開山後は二千人余りの修行僧が集まり、五十六坊もの末庵を有したとされますが、明応(1492年)永禄(1563年)の戦乱によって寺運は衰退していったようです。

江戸中期になって東福門院(徳川和子)や彦根藩(井伊家)の帰依を受けて再興され、現在は山間の山村にある静かな修行道場といった感じの寺院となっています。
臨済宗の本山の一つとして寺名は有名ですが、一般的には紅葉の名所として親しまれている寺院かと思います。





最初に羅漢坂の石段を登ることとなり、途中には十六羅漢の石像が並んでいます。
羅漢は仏道修行者ですから、厳しい表情をしていることが多いのですが、ここの羅漢は気持ちよさそうに笑っているのが印象的です。
我々もこんな風に笑って過ごしたいものですね。

寺院は縦長な伽藍配置で愛知川に沿うように配置され、紅葉している楓の下に愛知川が流れているのが見えます。
鈴鹿山系から流れてくるこの川の上流には永源寺ダムがありますが、ダムがあるにも関わらず非常に水量豊かな河川のようです。



愛知川から鴨の声が聞こえてきたので見てみると、どうやらマガモのようです。
すると横から何とも怪しいやつが1羽泳いできましたよ。
裸眼では見えないのでコンデジのズームで見てみると、あっオシドリや!



愛知川にオシドリが飛来するのは知ってはいましたが、こんなところで出会うとは...。
寺院参拝ですからデジイチも望遠レンズも持ってきていないため、コンデジの証拠写真ですがこれは嬉しい。

周辺を見ていると岩の上にもオシドリが5羽(♂4♀1)。
少し離れたところにも数羽のオシドリの姿がありましたが、これだけの数のオシドリが揃っているのを見るのは数年ぶりです。



横からもう1羽泳いできたやつを撮り、キリがないのでこれで終了。



さて寺院へはまず総門で参拝志納料を納めて入山します。
永源寺へ参拝するのは2回目になりますが、前回は早く着き過ぎてここで開門時間を待っていたことが思い起こされます。



重要文化財の三門は彦根・井伊藩の援助を受け、7年の歳月をかけて1802年に完工した建築物とされます。
楼上に釈迦牟尼佛・文殊菩薩・普賢菩薩並びに十六羅漢が奉安されており、秋の特別拝観(11/10~)では三門楼上の特別見学が開催されるようです。
まだこの辺りは紅葉が進んでいませんね。



本堂は1361年に創建されたものの、兵火や火災により焼失していたものを、1765年に井伊家の援助により再建されたとされます。
この本堂の外観では茅葺き屋根の立派さが目を引き、重厚ながらもよく整備されている茅葺き屋根です。

本堂では今年発見された井伊直滋(彦根藩二代藩主 井伊直孝の長男)の甲冑が公開されていました。
この直滋という人、徳川将軍・家光に取り立てられ井伊家の世継ぎとされている人物でしたが、直孝との不仲によって晩年は湖東三山の百済寺で生涯を閉じたと伝わります。
寺院の入り口近くには彦根藩四代藩主 井伊直興公の墓所もありますので、井伊家とは縁の深い寺院だったのでしょう。



法堂では「竹燈籠 癒しの灯り」というイベントが行われており、須弥壇に並ぶ三尊の前に竹燈籠が飾られていました。
堂内で三尊を照らすように燈籠の灯火がぼんやりと光っているさまは、とても幻想的でうっとりとしながらも穏やかな気持ちとなれます。





さて紅葉の方は一部見頃になってきているものがありましたので写真を撮ってみました。
ようやく雨は上がってきたものの、紅葉撮影にはいかにも光量不足ですね。





三門の辺りはまだ青々としていた楓は、寺院の境内の一番奥の辺りまでくると紅葉の度合いが増してきます。
後方の山には赤い楓の他にも、橙や黄色の紅葉が見られるためグラディエーションらしい雰囲気は楽しめます。





ところで、紅葉の季節の永源寺では各種の期間イベントが開催されていますので、昼時だったこともあって立ち寄ってみます。
紅葉の期間だけ開店されている「音無瀬(おとなせ)」という麺処では、修行僧(雲水)の方が店の切り盛りや調理をされていました。

今、何人くらい修行されているのかと聞いてみたところ、10人ほどということでしたが、将来和尚を務める末寺の息子さんたちなのかもしれません。
かけ蕎麦を注文して、ふと横を見ると美味しそうなものがあります。
さっそく「ふろふき大根」を注文して、食べてみると冷えた体がじんわりと温まっていくのが心地よい。





お腹が膨れたあとは甘いものということで、こちらも特別公開の「含空院庭園」に面した「標月亭お抹茶席」へと入ります。
歴代住職の住居である「含空院(がんくういん)」の前庭を客殿から眺めながら、ゆったりとした時間を過ごします。

面白いのはお茶菓子にコンニャクが付いてきたことでしょうか。
永源寺周辺は「永源寺こんにゃく」が名産になっていますが、普段食べているこんにゃくとは随分と食感が違います。
すべすべ・ツルツルというよりも、ザラザラとした舌触りで手造り感があり、煮込むとよく味が染み込みそうです。





この日は紅葉狩りがメインでしたので、いつもとは少し違った感覚での寺院参拝でしたが、心休まる参拝になりました。
帰り道に金剛輪寺の近くにある「愛荘町立歴史文化博物館」で開催されている「至高の刺繍絵画展」に立ち寄りました。

長さ2~3m・幅1.5~2mの大きな刺繍絵画は、明治になって精密で写実的な意匠へと変わり、海外への輸出品として発展していったようです。
図案の面白いものもありましたが、これだけのものを精巧に縫って造る技術の高さには驚くほかありません。




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