僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

磯山と琵琶湖の烏帽子岩~琵琶湖の水面から山頂三角点まで!~

2023-09-28 18:03:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 “海抜ゼロmから山頂の三角点まで”というのを一度やってみたいと思って、琵琶湖の水面タッチから磯山の山頂三角点タッチというのをやってみました。
しかし無知なのは恐るべし、琵琶湖の水面標高は海抜ゼロmではなく、海抜でいうと水面標高は約85mの高さにあるのだといいます。

海抜85mという琵琶湖の表面標高は、なんと大阪城天守閣の高さに匹敵するらしく、そんなに高い場所に水面があるのかとびっくりしている次第です。
水は高い所から低い所へ流れますから、琵琶湖が高く大阪湾が低いのは当然のことなのですが、日常そんなことは考えたことはなく見ている世界の狭さを痛感します。
従いまして、海抜ゼロmから山の山頂は諦めまして、琵琶湖の水面タッチから山頂三角点タッチになりました。



礒崎神社は米原市の南端、彦根市との境にある琵琶湖に面した磯山の麓にあり、御祭神に日本武尊を祀ります。
この神社には日本武尊にまつわる伝説が伝わり、下記のような伝説が残るそうです。

・日本武尊が伊吹山の神を討伐するため伊吹山に入った時、神の使いである白猪の毒を受けて瀕死の状態となる。
・醒井の居醒の清水で正気を取り戻したものの、再びこの地で倒れ亡くなり、磯山に陵を築き葬られた。



そんな伝説があるせいかちょっと怖い感じのする石段を登っていくと、石段の途中に金毘羅社が祀られている。
境内社は6社あったと思いますが、村社としては非常に立派な神社で、「磯武者行列」という奇祭が行われます。
隣村の筑摩神社では「鍋冠まつり」という奇祭が同日に行われるといいますので、歴史深い曰くのある地域といえます。



さらに石段を登って行くと稲荷社の鳥居が並ぶ場所に出る。
麓の鳥居の近くに祀られていた大祓社から始まり、金刀比羅神社・後宮稲荷神社・日本武神社・佐太神社・幸福神社に本殿と社が多い。



境内社の祠が3つ並ぶ奥に拝殿と本殿が祀られ、左に御神木、右に磐座が祀られる。
磐座は本殿を包むかのように、あるいは琵琶湖方向に向かってせり出すような形の大きな磐座です。





礒崎神社の本堂があるやや広い場所からは琵琶湖の景色が一望でき、琵琶湖の彼方には長浜の市街地や山本山や奥琵琶湖の山が見られます。
手前にある岩場は「烏帽子岩」といい、日本武尊が磯山の近くで亡くなって葬られた時に墓印に置いた岩が烏帽子岩とされています。



ベタ凪の琵琶湖の水は透きとおるように綺麗で、山の上から見ても湖底が見える。
烏帽子岩の辺りは元々は半島の先端だったといい、湖岸道路の開設によって消滅したものの、「磯崎古墳群」と呼ばれる複数の古墳が存在したようです。
古墳の形状から渡来系氏族との関係が考えられているといい、かつて琵琶湖の湖水運を使って渡来人が行き来して交流していたことが伺われます。



磯の突き出した部分にだけ巨石群があるのは不思議な光景ではあるものの、本堂にも大きな磐座があったことを思うとそういう地盤の土地なのかもしれない。
琵琶湖の水質も随分良くなったので、山の上から見ても湖底が見えるほど水は透きとおっている。



烏帽子岩と呼ばれる岩のもっとも北側には男岩・女岩の2つの岩がひとつに重なっているように見える岩があり、「結びの岩」とも呼ばれている。
岩の左側にはシラサギがいて、右側にはアオサギが留まっているのが見える。

岩は大きな方の岩がおんぶされているようにも、後方からのしかかっているようにも見えます。
琵琶湖を見降ろすことができる山は多いですが、直下に琵琶湖が見降ろせる山は珍しいですね。



本殿・拝殿・境内社が祀られる境内にある鳥居から先は、磯山の山頂である虎ヶ城跡元宮方向へ進むことができます。
鳥居から先は、稜線沿いに磯山城跡や礒崎神社の奥宮へと通じており、稜線歩きが楽しめる。
磯山城は浅井氏に従った松原氏の居城だったといい、六角定頼が北近江侵攻の際に陣所にしたといいますので、浅井氏と六角氏の戦いの最前線だったといえます。



歩くのが勿体ないような苔の道をしばらく歩いていくと、磯山城の主郭(北城)と礒崎神社の奥宮がある山頂に辿り着く。
尾根を進むと南のピークに南城があるようだが今回は北城の山頂のみ散策する。



超低山とはいえ山ですから山頂までの道は木段登りになります。
木段登りとはいえ上方の空がひらけており、山頂は近い。



木段を登り切った山頂広場にはコンクリート製の奥宮がひっそりと祀られています。
周辺が草ぼうぼうではなく、よく整備されているので定期的に草を刈ったり掃除に来られる氏子さんや世話方がおられるのでしょう。



磯山の三角点は奥宮から北東に進んだところにあり、人が歩ける程度の幅で草が刈られているので助かります。
三角点のある場所から見えるのは鎌刀城跡や醒ヶ井や霊仙山のある方向だと思います。





山頂表示も掛けられています。「磯山 159.5m」。
標高からしても超低山なんですが、琵琶湖の表面標高を85mとすると、海抜75mの山になるのでほぼ岡みたいな山です。



北側の展望の良い場所から見えるのは、手前に入江集落、左後方に伊吹山があり湖北の山々が連なっている。
琵琶湖のこの辺りは極端に湾曲していますので、連なる山々は奥伊吹や金糞岳や小谷山の辺りなのでしょうか。



では山頂から琵琶湖岸まで戻って、烏帽子岩のある砂浜に下りて水面タッチ!
烏帽子岩は北から見ると烏帽子に見えると言うが、さて如何に。



山頂からと同じアングルの写真を湖岸からも撮ってみた。
湖面は穏やかで波もほとんどない。空も琵琶湖もブルーで思わず水に浸かりたくなりますね。



この烏帽子岩は1291年に描かれてその後複写されたという絵図にも描かれているといいますが、当時の地形と現在の地形とは随分と違います。
絵図には琵琶湖側に2つの集落が描かれているが、1325年の大地震で湖底に沈んでしまったと伝わり、尚江千軒遺跡と呼ばれて湖底には遺物が沈んでいるという。

琵琶湖には約100の湖底遺跡があるとされ、湖辺にあった村が突然湖底に没したと伝えられる「水没村伝承」が約12村あるとされます。
人間の生活の痕跡が確認される時代の遺物が湖底から発見されるのですから、琵琶湖は生きながら変化し続けているということになります。




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「三上山」を表登山道~裏登山道周回の定番ルートで登る!

2023-09-21 06:39:39 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 野洲市にある三上山は標高432mの低山ながら「御上神社」の神体山として崇められ、その山容から近江富士と呼ばれてランドマークになっています。
御上神社は第7代天皇・孝霊天皇(伝承の時代)に、天之御影命が三上山の山頂に降臨し、三上山を神奈備として祀ったのが始まりとされている。

三上山の登山ルートは、表登山道・裏登山道・近江富士花緑公園からのルートがあり、今まで登った経験から楽しいのは表参道~裏参道の定番ルートになります。
三上山には当方のように年に何度か登りにくる人もいれば、日課のように登られる方がおられ、この日に出会った方は“ここはホームマウンテン!”とおっしゃっていました。



暑くなるまでに登り始めたいので朝早めに到着しましたが、7時過ぎにも関わらず車はかなり停まっており、靴を履き替えたりスプレーしたりと山登りの準備をしている人もチラホラ。
実際に登山口に向かって歩いて行かれる方も見受けられ、幅広い層に人気のある山なのが実感できます。



集落の中を歩いていくと表登山道と裏登山道の分岐がありますが、これから登ろうとする人が登りたい道に分かれていくのが面白い。
当方が登る表登山道の登山口は民家の隙間から登るような場所にありますので少し特殊な場所にある登山口だと思います。



登山道を登り始めてすぐの場所には「魚釣岩」があって、昔々琵琶湖の水位がここまであった時に神様がこの岩の上から魚を釣っていたという伝説があるという。
琵琶湖には湖中に沈んだ場所や内陸まで湖が広がっていたという話はいくつも残りますし、目の前に野洲川が流れていますのであながち作り話でもないような。



御上神社の鳥居から妙見堂跡という寺院跡までは15分くらいですが、急登や石段が続きますのでまずは体を慣らしながら登ることになります。
妙見堂跡には御堂はもう残っていないものの、手水や石灯籠は残っており、大きな寺院があったことが伺われる場所です。



三上山は1時間もあれば山頂に着けますので気楽に立ち寄ってしまいますが、時間や距離はともかくとして表登山道は中々しんどい道が続きます。
表登山道は途中までは急登が多く、後半は岩場を登っていくことになり、巨石の間をすり抜けたりと変化に富んだコースで楽しめるとはいえ楽ではない。



樹林帯の中を通る裏登山道から登る方も多いですが、岩のゴロゴロした道をひたすら登るのみの道で、歩きにくいので楽勝で登れますって感じではなさそうです。(下山時の感想)
表登山道も途中まではどちらかというと単調な坂を登ることになりますので、「割岩」という巨石に到着するのが待ち遠しくなってきます。



ということでお待ちかねの「割岩」に到着。
この岩場の左上(スギの木の裏)に割岩があり、岩場を登って岩の裂けめまでチェーンを頼りに登ることになります。



チェーンが吊るされているのでこの岩の上まで登って、最後は岩の間を通り抜けます。
迂回路があるので迂回することも可能で、岩の上から後続の方を確認したら迂回されていきました。



岩の下には「肥満度確認可能」の看板があり、肥満の人は通れない。
この割岩は、初めて来た時は無事通れて、次は購入したばかりのジャケットとリュックが汚れたり擦れたりするのが嫌だったので迂回。
夏の間に当方は4㌔ほど減量したので今回はあっさり抜けられるか?と思い挑戦です。



途中までは順調にすり抜けたものの、最後の方にあった極狭の場所でつっかえてしまいます。
ズリズリと体を揺すりながら通り抜けることが出来ましたが、リュックを背負ったままというのに無理があったかも。



岩の隙間からエイヤ!と抜けたら先に登られていて割岩を迂回された方が休憩中。
抜けれました!と思わず声をかけ、先を進む当方には気を付けて!の声。ありがとうございます!と登り始める。山はマナーが大事です。

さてここからは岩場の連続ですが、岩場に分岐点。
左楽、右急坂の看板がありましたので、急坂を選択して右にコースを取ります。



岩場の急坂を少し登るといきなり景色が広がる場所がありましたので、ここで水分補給の休憩。
当方は湖東の山を登ることが多いので、近江盆地の田園風景と琵琶湖の風景、対岸の山々(比良山系)がおなじみの光景になっています。
吹き出すように滴る汗、息を切らしつつ足を止めずに登る、3点支持要注意の場所などを越えていく辛さもこういう風景で一瞬で癒されますね。



...と癒された後は山頂まで露岩の岩場登りが続きます。
急な岩場には岩を削って足場が確保されていたり、手すりが付けられている場所があり、特に危険さは感じませんが、気温が高い中で全身を使って登りますので汗が凄い。



汗は吹き出すものの岩場登りの楽しさを満喫しながら登ることになり、先行する人とも後続の人とも距離は縮まらず、みな同じくらいのスピードで山頂を目指す。
ゆっくりながら同じペースで登っていくのが急登や岩場では有効なのかと思います。



そして下界に向かって平たい一枚岩の巨石がある展望台に到着です。
心地よい程度の風が汗だくの体に気持ちよく、しばし休憩です。



ここから御上神社の磐座や奥宮、三上山の山頂は目と鼻の先です。
巨大な岩の上に磐座が祀られ、その奥には鳥居と祠が祀られています。



登り道の途中で情報交換しながら話をした人が岩の上に腰かけて祠の裏の方を指さして山頂はあそこだよと合図を送ってくださいます。
表登山道~裏登山道で周回すると通り過ぎてしまう場所にありますので、知らないと可哀そうということで合図を送ってくださったのでしょう。



山頂には眺望はありませんが、休憩したり食事したりするのにいい場所です。
展望台の方だと人の出入りが多くなって混雑することがありますので、あまり長居はせず入れ替わった方がいいのかもしれません。



では裏登山道を使って下山しますが、裏下山道から登って来られる方も結構多く、下るだけなのに岩が多くって歩きにくいためスピードは出ませんでした。
近江富士とも呼ばれる三上山は、富士山のようにお椀を伏せたような円錐型ですが、御上神社側から見るとピークが2つあります。
右の低い方の山のピークは「女山(雌山)」(標高260m)で、裏登山道の途中の分岐からすぐに山頂まで登れます。




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猪子山(北向岩屋十一面観音)~伊庭山~瓜生山(雨宮龍神社)の稜線をピストンで歩く!

2023-09-15 18:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 夏は冷房がないとやっていけず、夜も冷房を付けっぱなしにしたりしていましたが、冷やし過ぎたのが悪かったのか扁桃腺炎で熱を出して寝込んでおりました。
3日ほど寝ていたら熱は平熱に戻ったものの、どうにも調子が戻らずゴロゴロして休日を過ごすことになっていました。

何とか体調が戻ってきましたので、そろそろ外遊びに復帰ということで猪子山へ行ってみました。
猪子山は繖山(観音寺山)にあるピークのひとつで、今回は猪子山~伊庭山~瓜生山まで行ってピストンで下山を予定しました。



上山天満天神社の鳥居がある猪子山公園の駐車場に車を停めてスタートして「北向岩屋十一面観音」まで登ります。
道はアスファルトの林道と登山道がありますが、アスファルトの坂道は苦手ですので登山道を登っていきます。
駐車場にはトレランの会のような方々が集まっておられて、出発寸前のようでこれから林道を何往復かされるようでしたね。



猪子山(繖山)は整備された登山道が続きますが、ひたすら木段の登り下りが続く木段地獄といった感じの山です。
体調不良明けでウォーキングもサボっていましたので、どこまで体に負荷を感じるかのお試しの意味もありましたが、やはり体が慣れてくるまでの登り始めの頃はしんどく感じました。



上山天満天神社の境内までは20分くらいだったでしょうか。
もうひと登りすると稜線に出て、木段のアップダウン+一部平坦な道を繰り返しながら進んで行くことになります。



稜線は木段を登って、やや高い緩やかな道に出て、再び木段を下るの繰り返しになります。
やや高いピークのような場所には「P〇」の看板があり、「P〇」はそこがピークであることを示しているようです。

P1~P12まで確認しましたが、後で確認するとこのP6が「伊庭山(標高336m)」の山頂だったようでした。
「P〇」の看板で唯一撮ったのがP6(伊庭山)でしたので何か閃くものがあったのでしょう。
尚、猪子山は稜線への合流地点の反対側にありますから下山時に立ち寄ることになります。



この山にピークはたくさんありますが、名称の付いているのは北から「猪子山(標高267.5m)」「伊庭山(標高336m)」「瓜生山(標高330m)」となります。
山名となっている繖山(観音寺山)は一番南にあり、標高は432.5mです。
また、「瓜生山」の山頂には「雨宮龍神社」が祀られており、神社の本殿の辺りが瓜生山の山頂になるようです。

「雨宮龍神社」の境内と呼べる場所に入ると大きな巨石群があり、その名の通り降雨明神・雨明神と称えて雨乞いの霊験があるという。
神の出現の地は当山の麓の伊庭荘湖水の辺とされ、社壇は湖面に向かっているといい、聖徳太子が当峰に安置したと伝わります。



大干ばつで飲料水にも事欠く次第だった時、石馬寺住僧が大般若経理趣分真読すると、一匹の小さな白蛇が出てきて、僧が白蛇を社殿に投げつけると盆を覆すように降ったと伝わるという。
石馬寺他九ヶ村を雨氏子として氏子800戸によって祀られているといい、毎年7月には雨乞祭が斉行されているといいます。



急な石段を登った先には本殿が祀られ、ここが瓜生山の山頂ということにもなります。
山の中にありながら本殿の彫り物などは精巧な造りとなっており、氏子各位の信仰の篤さが伺われます。





社の右奥には御神木が祀られており、特異な雰囲気の空間になっています。
御神木はヤマモモの木ということのようで「湖国百選 木編」にも指定されているそうです。



玉垣の中には磐座が祀られていて、一番大きな岩は舟形をしている。
猪子山の麓近くにある岩船神社の磐座も舟形であり、当地には舟形の磐座に対する信仰があるようです。



参拝を終えてそのまま繖山まで進もうかという考えが一瞬頭をよぎりましたが、戻ってくるのが大変ですので思い直してここで折り返します。
少し戻ったところに行先表示はないけど入れる道があったので寄り道してみます。
そこには見晴らしの良いテラスのような絶景の隠れスポットがあり休憩させてもらうことにします。



目の前には西の湖でしょうか。
岩場に腰かけたり、やりたかったら寝転んだりできる場所で、貸し切りお昼ご飯を楽しまれる方なら最高のテラスになると思います。

もう少しで猪子山の山頂という所まで戻ってくると、そこにも素敵な展望台があります。
眼下に見える湖は伊庭内湖。八大龍王が降臨した場所とされています。



体調不良から復帰発の山行でしたが、低山とはいえ見える下界の景色は素晴らしく、汗をいっぱいかきながら登り下りする山道はやはり気持ちがいいですね。
最後になりましたが、スタート後に稜線に出た時に目的地とは反対方向だった猪子山の山頂に立ち寄ります。



猪子山には四等三角点があり、この山系の三角点は繖山にある二等三角点と2つになると思います。(多分)
ここまでの山歩きでシャツはびっしょり汗をかいて頭からも水を被ったように汗が流れています。
気持ちよく汗をかくことが出来て、すっかり体の不調を忘れて全快モードです。



猪子山の山頂と「北向岩屋十一面観音」とは目と鼻の先にあり、観音を目指して歩くと最初に磐座のひとつである「玉祖神命」の横に出ます。
「雨宮龍神社」もそうですし、麓の「岩船神社」も同じなんですが、この山の神社仏閣にはそれぞれ複数の巨石信仰岩神群が見られます。





最後に「北向岩屋十一面観音」へお詣りしようと順番待ちがてらベンチに腰かけて風景を眺めていると、叫び声と激しい足音がしてきます。
何ぞや?と見ると、朝に集まっておられたトレランの方の一部の方でした。

首・肩・腕・足に水滴が玉ののように浮いたような大汗をかかれていて、息も荒く激しい。
近くで休憩されていた方との会話を聞いていると、猪子山の麓からトレランで観音正寺まで走って、今戻ってきたとのことです。

おそらく当方と同じくらいにスタートして、同じくらいに戻ってきたことになりますが、雨宮龍神社で折り返した当方より4㌔以上は距離が長い。
急な木段続きの登山道を10キロ以上走る体力も凄ければ、走り切る気力も凄く、亀のスピードで歩く当方にはとても真似できそうにはありません。



観音堂から眺める光景はすっきりと晴れていたおかげで絶景が拝めます。
こういう風景を眺めながら、少し歩き疲れた体から汗がひいていくのを待ちながら、のんびりとくつろぐのはホント気の晴れる時間です。



気候が涼しくなったら繖山の全ピークを縦走してみたいと思いますが、その場合はJR琵琶湖線の能登川駅と安土駅を利用することになると思います。
電車・バスを使っての山登りの経験はない当方ですが、一度電車を利用して山登りというのも経験してみたいですね。


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「スティーヴ・ライヒ/ドラミング~湖国が生んだ打楽器奏者の協演~」-滋賀県立文化産業交流会館イベントホール-

2023-09-12 17:30:30 | アート・ライブ・読書
 米原市にある滋賀県立文化産業交流会館では、開館35周年を記念して「スティーヴ・ライヒ/ドラミング~湖国が生んだ打楽器奏者の協演~」が開催されました。
「スティーブ・ライヒ」は現代音楽の巨匠のひとりであり、ミニマル・ミュージックを代表するアメリカの作曲家で、「ドラミング」はライヒの初期の代表作とされています。

演奏するのは滋賀にゆかりのある打楽器奏者17名と声楽家2名、ピッコロ1名の総勢20名による演奏です。
滋賀県出身やゆかりのある打楽器奏者がそれだけ多人数の方がおられて、音楽の世界で活躍されているのは知らない世界だけに少し驚きました。
尚、今回の「ドラミング」の演奏は滋賀では初演、日本では6年振りの公演だそうです。



現代音楽は一般的にはクラッシック音楽の流れを汲むもので、クラッシックをキリスト教の宗教音楽やバロックなど宮廷音楽の伝統的な作曲技法や演奏法による音楽と仮にする。
対する現代音楽は、従来の音楽様式を否定・更新した先鋭的な音楽を指すことが多く、そこは19世紀末から20世紀以降のアートの世界と似ています。

スティーヴ・ライヒに代表されるミニマル・ミュージックは、最小限の音の動きを繰り返し反復させる音楽で、有名なところではフィリップ・グラスやテリー・ライリー、マイケル・ナイマンなど。
マイケル・ナイマンは映画「ピアノ・レッスン」などの音楽で認知度が高くなり、数々の映画音楽で有名になりました。

そのマイケル・ナイマンは、ブライアン・イーノのオブスキュア・レコードからデビューしており、「ディケイ・ミュージック」という傑作を残しています。
イーノはその後アンビエント・ミュージック(環境音楽)を提唱していきますが、その背景にはエリック・サティの「家具の音楽」の影響があったのかもしれません。



さて、開場時間を見計らって、会場へ到着すると第一駐車場は既に満車。
隣の施設の駐車場に駐車した人が会館に向かうのが見え、電車組が駅の方からも人が歩いてくる。中には新幹線での来館組もいたかもしれませんね。
ホールの中は開演の頃には9割近く席が埋まっているように見えました。当方は舞台中央の前から3列目で前後左右が空席という奇跡の席に座ります。

演奏は全4楽章構成で演奏されます。
第一楽章はポンゴの演奏でイメージとしてはアフリカの先住民の宴のような演奏で、ポンゴ奏者は4名。
ポンゴの演奏は故意にズレながら微妙なバランスを保って再び元の反復に戻っていく。

第二楽章はマリンバと声楽の演奏で海を連想されるような作品で、4音くらいで構成される主旋律に強弱を付け、何度も反復しながら音が増えていき重厚さを増していきます。
最大時は9名のマリンバが共鳴して、声とマリンバが同じ旋律をユニゾンを奏でます。


(滋賀県立文化産業交流会館)

楽章間はフェードアウト・インでつながり、第三楽章はブロッケンの演奏となり、金属製の音板の高音の反復と声楽者2名の声や口笛が絡み合う。
さながら静かな朝の森に陽が差し込み始めて、小鳥の囀りが聞こえてくるような早朝の心地よい森の中での目覚めといった印象です。

第4楽章では全打楽器と歌とピッコロという編成になり、交互に繰り返される声とピッコロとポンゴのリズムがうねるような迫力があり、とても心地よい。
近くには体を揺すりながらリズムを取って聴いている人が複数いて、現代音楽をホールで聴くのが初めてだった当方にはこれも衝撃でした。

演奏が終わると会場は拍手の渦です。
アメリカ人ならスタンディングオベーションとなるところ、日本人ばかりなので座っての拍手なものの、手が痛くなりそうなくらいの熱く強い拍手です。
3度、4度とカーテンコールが続いても客席からは割れんばかりの拍手が鳴り止みませんでした。


(開場直後のイベントホール)

こうして生で見ると、現代音楽のファンの多さ、特にライヒのファンが数多く世の中に存在していて、みな今日の日を楽しみにしていたことが感じられます。
終わってからもいい意味での余韻が残るコンサートでしたが、たしか家にライヒのCDがあったはずと押し入れの中を探してみたら何と5枚もライヒ関係のCDが出てきました。
何十年もしまい込んだまま、再び聞き返すことなく忘れ去っていましたが、昔はそこそこ熱心なライヒ・ファンだったんだなと記憶を思い返す。



今の感性で改めてライヒを聴いてみて、ライヒの音楽にはアイデアや技巧・要素、先進的な手法など聞くものに表現の可能性を訴えかける音楽なんだなと実感しました。
おそらく影響を受けた人で、現在も活躍中の音楽家やアーティストは多いのではないでしょうか。
繰り返しますが、演奏が終わった後、自分を含めた観客の感動と熱狂ぶりは、演奏と音楽の素晴らしさを感じさせてくれるものでした。


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「金華山」馬の背登山道から瞑想の小径(水手道周回)で登る~タイワンリスのペアに遭遇!~

2023-09-07 17:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「美濃を制すものは天下を制す」と称された岐阜城(稲葉山城)は、美濃の大名・斎藤道三の居城として整備され難攻不落の城として知られたという。
その後、1567年に織田信長に城を攻略され、信長は地名を「岐阜」に「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたとされます。
岐阜市の市街地に入ると「金華山」と山頂に再建された「岐阜城」が視界に入り、山頂に建つ岐阜城は金華山と共に岐阜市のランドマークになっています。

金華山に登るには最初に岐阜公園の中を横切って登山口まで行くことになりますが、岐阜公園は桜や紅葉の名所でもあり日々のウォーキングが楽しそうな所です。
公園内には滝があり、早朝に通った時は水が流れていなかったのに、下山してきたら勢いよく滝が流れ落ちていて不思議に思う。
歩いている地元の人らしき人に聞いてみると“昔は金華山からの滝だったが今は池の水を汲み上げて流している。”とのことで、滝が流れたり消滅したりする謎は解明です。



池の対面に巨石の壁があって驚きましたが、金華山はチャートという硬い岩石で出来ていて、約2億6000万~2億3000万年前に南半球の赤道付近に堆積してできた地層だという。
チャートは放散虫というプランクトンの遺骸で出来ているとされ、プレートの移動によって北上して大陸の縁にくっついたと考えられているそうです。



岐阜市内から見える「金華山」は聳えるように見えますので標高が329mしかないのが不思議ですが、山頂まではロープウエ-が通じており、10の登山道が整備されているようです。
10の登山道は、小さな子供を連れた家族連れ向けから、四つん這いになって登らないといけないような健脚向けのコースがあります。
今回は「瞑想の小径」から「馬の背登山道」で山頂まで行って、「瞑想の小径」で下山するという周回コースにしましたが、「馬の背登山道」はなかなか楽しませてくれましたよ。



「瞑想の小径」コースはあまり傾斜のない九十九折の道が続く登山道としては最長ルートになります。
登山コースが多いので山頂までの分岐で別の道から登ってこられる方もいて、既に全コースを歩き切った方もおられるのではないかと思うほど、地元の人の憩いの山の印象を受けます。



山麓に「伊奈波神社」という大きな神社があるのですが、中世以前の稲葉山(金華山)は伊奈波神社の社地でこの「烏帽子岩」のある場所には昭和初期頃まで社殿が存在したといいます。
神社が遷されたのは斎藤道三の稲葉山城築城の際にということらしいのですが、現在も「烏帽子岩」のある丸山では例祭が行われているようです。



「烏帽子岩」まで登ってくるといよいよ「馬の背登山道」の分岐があり、本日のお楽しみの岩の馬の背を登っていくことになります。
【注意】の看板には“(健脚向き)この道は、途中断崖や難所が多く危険です。”とあり、“老人・幼児には無理です。”と言い切ってあります。



「馬の背登山道」は途中からワクワクしてくるような岩場が続き、四つん這いで登らないといけない場所があるものの、ルートは確保されています。
ただ困ったのは、岩場になってから運動量が増えて汗が吹き出してくるようになり、何度も汗を拭いながら登ることになったこと。



急斜面ではあるがロープやチェーンがないのは手を使えば登れるからですが、どこまで続いているのか終わりが見えないのは不安になります。
下りてきた人にもう半分くらい来てます?と聞いてみると、“まだ1/3にも満たないよ。この辺は序の口だ。”と言われ少し気が遠くなる。



こんな猛暑の中でなければもう少し余裕が持てたと思いますが、やはり真夏の暑さに体力を奪われてしまいます。
上へ行くに従って木の根が剥き出しになっているので足がかりにはなるものの、足の置き場を考えないと滑ったり引っ掛かったりしそうなので要注意。



金華山は観光地ですので観光ハイキングかと思いきや、随分とハードな道なのに驚きます。
これでは繁華な市中の観光の山や公園ではなく、人里離れた山を一人登っているような感覚になります。



結局、3人ほどに抜かれて当方が抜き去った人はなかったが、時間的にはコースタイム通りに岐阜城に到着しました。
岐阜城前で休憩している人が多かったのですが、みなさん暑さに負けず自力で登ってきた人ばかりなので茹で上がったような顔色になっていました。

岐阜城は鎌倉期に砦があったようですが、斎藤道三が稲葉山城を築き、その後織田信長が侵攻して岐阜城に改め、天下統一の足がかりにした話が有名です。
現在の天守閣は1956年に彦根城を参考に設計したとされたため、本来の城とは形は違うといいます。



天守閣はまだ開城されていない時間ですので周辺を散策してみると天守閣を正面に見られる場所がありました。
平たい感じの天守閣は、言われてみれば確かに彦根城の天守と似た印象を受けます。



山頂には基本天守閣しか残っていませんが、一部石垣や巨石列の巨石が残されており、天守閣と上台所を結ぶ通路の石垣は信長の入城後に築造されたものという。
谷の下から天守閣のあるエリアを見上げると、攻略の難しい城だったことが伺われます。



石垣の下には本丸井戸として貯水用の井戸が残されており、命をつなぐ水がここにあったようです。
金華山の山頂周辺では水の豊富さをあまり感じませんでしたので、貯水井戸は貴重な水資源の場所だったのでしょう。



ところで金華山には「宮三角点」が3つと「二等三角点」が一カ所あるということでしたので、国家基準点の「二等三角点」を探してみました。
「宮三角点」は明治時代に御料林とされ皇室所有の土地としたときの標石とされ、「〇等三角点」は三角測量によって地球上の位置(経緯度)が定められた点とされています。
金華山の二等三角点はかなり分かりにくい場所にありますので、見つけるのに悩んでしまうかもです。



お城の下には長良川と岐阜の山々が見えます。
霞んでしまっていて奥の方は見えませんが見晴らしの良い日には御岳山なども見られるのかもしれません。
山頂部には御嶽山と思われる方向に「金華山御嶽神社」の祠があり、御嶽信仰が伺われる。





では下山することにしますが、下山は「瞑想の小径」ルートで下ります。
「瞑想の小径」は距離が「馬の背登山道」のちょうど2倍になりますが、九十九折で歩きやすいとされています。ただし頂上付近は急坂・岩場が続きます。
途中のビューポイントでは鷺山・百々ヶ峯、遠くに伊吹山や養老山脈がみえるといいうものの、霞んでいて見えない。



この日のサプライズはタイワンリスとの出会いでした。
金華山には野生化したタイワンリスが生息していて餌付けしている人もいるとかでリスに出会える可能性ありと聞いていましたが、そんなに運のいい偶然はないだろうと思っていました。
ところが突然、あれっ?リスやん!といった感じで2頭のリスと会えたのは“ないだろう”と思っていただけにラッキーでした。



金華山のタイワンリスは1936年に岐阜公園で行われた「躍進日本大博覧会」の会場から逃げ出して野生化したとされ、エサを撒く人がいるので警戒心は薄い。
自然の中で出会うニホンリスはかなり警戒心が強いのですが、このタイワンリスは目の前の木を行ったり来たり、登ったり下りたりでした。



愛想が良かったので動画でも撮ってみました。
やぶ蚊が多く手に蚊が留まっているのが見えていましたが、撮り終えるまではひたすら我慢して献血です。



金華山山麓に建つ岐阜公園三重塔は、木々の緑の中に朱色がひときわ鮮やかに映え、岐阜公園のランドマークとして市民に親しまれてきました。
この三重塔は、大正天皇の即位を祝う、御大典記念事業として企画され、市民から寄付を募り、大正6年に岐阜市が建立したものです。
タイミングが良ければロープウエーとのコラボ写真も撮れるかもしれませんね。





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『並行世界の歩き方 上土橋勇樹と戸谷誠』展~ボーダレス・アートミュージアムNO-MA~

2023-09-03 14:33:33 | アート・ライブ・読書
 近江八幡市のボーダレス・アートミュージアムNO-MAで『並行世界の歩き方 上土橋勇樹と戸谷誠』展が開催されています。
NO-MA美術館は、昭和初期の町屋をリノベーションした美術館で、障がいのある人の括りにはとらわれないアールブリュット作品を紹介してくれる美術館です。

今回の『並行世界の歩き方』展では上土橋勇樹さんと戸谷誠さんの全く個性も手法も違う2人の作家が紹介されています。
上土橋 勇樹さんは2022年1月から3月に滋賀県立美術館で開催された『人間の才能 生みだすことと生きること』展で初めて紹介された方で、インパクトの強い美術展でしたので記憶に新しい。
片や戸谷誠さんは実際に作品を見るのは初めてだと記憶しますが、NKKの「no art, no life」という番組でも紹介されていたシュールな世界観の作家です。



上土橋さんは手書きでの描画、PCのWordやPower Pointなどのデジタルツールを使って本の表紙・DCVのジャケット・映画のエンドロールやカリグラフィーを自由に創作されます。
タイポフェイスの面白さを巧みに使って創作される架空の本や映画からは西洋的なものの印象を受けますが、書かれた文字は上土橋さんだけが分かる言語で書かれています。


上土橋 勇樹「カリグラフィー」

会場では上土橋さんの作品群が展示されたパネルに、「やまなみ工房」で上土橋さんが創作に使用しているPCとを結び、作品が生み出される瞬間をライブ配信(録画あり)されています。
作品としての面白さに合わせて、PC画面から伺える無機質にタイピングされていく創作光景がリンクしていくところは、現代アートのインスタレーションとしても斬新なアイデアだと思います。


上土橋 勇樹「Bock Logo Paper」

PC画面では膨大な作品のデータが長いタイトルで次々と保存されていく様子が見えましたので、“この長いタイトルがどの作品のことか把握されているのでしょうか。”と会場の方に聞いてみる。
するとデータ自体はほぼ正確な英語で保存されていて、英語は理解しているようだがアフファベットを作品にする時は新しい言語に変わる、とのこと。


上土橋 勇樹「Bock Logo Paper」

本の表紙などのデザインやエンドロールの興味深いところは、実際には本のストーリーや映画のストーリーは存在しないにも関わらず、既視感とまではいわないが存在するもののように思えてしまうこと。
本だったら書店の輸入本の専門コーナーに並べられていても違和感はないだろし、エンドロールも何かの洋画のエンディングとして違和感がない。
輸入本の並ぶような大きな書店や映画館で見流しながらもエンドロールを見ているような心地よさも感じます。


上土橋 勇樹「Bock Logo Paper」


上土橋 勇樹「Video(エンドロール)」

コラボのアーティストのもう一人は戸谷誠さんで、1944年生まれといいますから現在79歳になられる方です。
多摩美術大学を卒業された後、1970年に初の個展を開催されて以来、60年以上にわたって絵を描き続けてこられたといいます。

作品は女性を描いたものが多かったように感じましたが、エロティックな印象を受けるものや、背景には人なのか何かを象徴するものか得体の知れない生き物も描かれています。
作品は何年もかけて複製や加筆修正を繰り返しているといい、描いても描いてもやめられない、永遠に終わりのない絵には、描き続けることで生き続ける姿が写し出されているのでしょう。



絵にはタイトルはなく、あるのは最初に描いた年と加筆した年、さらに加筆した年がタイトルとして、あるいは絵の履歴を表すかのように付けられている。
NO-MA美術館の2階の和室は全て戸谷さんの作品の展示会場となっており、壁や障子側・床の間などに絵が吊るされ、和室の中央には絵巻が広げられています。



絵に描かれる女性はみな笑みを浮かべていて朗らかな感じの女性で、後方には奇妙な親父のような生き物。
もしかして戸谷さん本人のことを描いているのかと思うほどお茶らけているが、女性の視界には入ってはいないようです。



「no art, no life」に戸田さんが取り上げられた時、過去の絵を複製したり加筆修正している理由のひとつについて以下のように述べられていました。
「自分が気に入りように過去を修正したり、自分の記憶そのものも修正したりするような作業をしているんじゃないかな。」と絵の中で人生を生き直すようにおっしゃっておられました。
自分が生きた人生を否定されてはいませんが、「絵を描いているから救われているという気持ちがある。書いてなかったら死んでますね。もう。」と描く事に救われているとのの想いは強いようです。



絵巻物は、過去に描いた図柄を部分的にトレースすることを繰り返し、トレースした図柄と図柄の隙間を別の要素でつなぎ目なく馴染ませるという手法で描かれるという。
これまで61巻の絵巻物が制作されているといい、その絵は描いても描いても終わることのない絵となっているという。





ところで、NO-MA美術館で今年の2月~5月にかけて開催された美術展「林田嶺一のポップ・ワールド」の図録が販売されていたのを見つけて購入。
社会的に粗末な扱いを受けたり、嘲笑されることがあったとしても、我関せずで好きな事に没頭していくことに意味を見出すことも大事かと思います。




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