僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~甲賀市信楽町 秋葉山 玉桂寺~

2018-10-27 15:39:39 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県内の各地域に点在する神社・仏閣へは随分と参拝していると思いますが、なぜか甲賀市の社寺には縁がありませんでした。
国道307号線は年に数回通る道ですので、全く不慣れな地域ではないにも関わらず、通過するばかりでゆっくり訪れる機会はなかったと思います。

「甲賀市」といえば聖武天皇が造営した「紫香楽宮」、信楽町の「信楽焼(タヌキ)」、鎌倉から江戸にかけて暗躍した「甲賀忍者」、「土山宿」「水口宿」などの「東海道の宿場町」が有名でしょうか。
参拝した「玉桂寺」はタヌキの焼き物の街・信楽から国道を外れ、大戸川に沿った細い道を進むことになります。



信楽高原鐵道の「玉桂寺前駅」から大戸川を挟んで玉桂寺側にかかる吊り橋の下を抜けると寺院はすぐに見えてきます。
玉桂寺には巨大な不動明王立像が境内に祀られており、寺院自体も想像以上に大きい寺院ですが、辺鄙な場所にあるため隠れ里のような雰囲気が漂います。



玉桂寺は761年、飛鳥田内親王の御願による創建を伝えられる保良寺を前身とするとされています。
また、奈良時代に淳仁天皇(47代天皇)が滋賀の皇居を造られる間の仮御所として使われたのが始まりとするとの伝承があり、後には文徳天皇(55代天皇)と後花園天皇(102代天皇)の勅願寺として栄えたともされます。
弘法大師・空海が中国より帰国後に九州に留め置かれた時期に、空海がこの寺院を巡拝したと伝わっている伝承も伝わっており、その経緯から寺院は高野山真言宗の寺院となっているようです。



山門から入山すると、まず「宝祈願股木杉」という2本の杉が根元で1本になっている巨木が目に入ってきます。
二股になっているところにベンチのようなものがありますが、そこで子宝を祈願するのでしょうか。



まず手水で身を清めますが、水の豊富な信楽の手水らしく、流れる水にとても勢いがあり気持ちよく清めることができました。
ここから見る本堂への景観もとても気持ちよく感じます。



玉桂寺には「高野槇」と呼ばれる高野山では霊木だとされる珍しい樹木が群生しており、本堂への石段の両端に約60本のコウヤマキが独特の形の群生となっています。
コウヤマキは空海が寺院を訪れた際に、廃帝のご冥福を祈り、植えられたという伝承が伝わるそうです。



鐘楼がありましたのでいつも通り梵鐘を撞かせていただきました。
梵鐘には“昭和45年9月吉日 鋳匠 西沢吉太郎鋳造”の銘があります。
この方は五個荘町で代々梵鐘を鋳造されている方のことだと推定されます。



堂宇は最初に阿弥陀堂からお参りしましたが、障子を開けて須弥壇の光景に驚きます。
建物は比較的新しい感じの御堂ではあるものの、須弥壇には3躰の坐像が安置されてあります。





阿弥陀堂の前に立っていた表示板には「木造阿弥陀如来坐像(平安時代)」「木造五却思惟阿弥陀如来坐像(室町時代)」とあります。
「五却思惟阿弥陀如来坐像」は仏像自体珍しいものですが、異様に盛り上がった髪型に凄いものがあります。
大願を成就するため永遠・無限の永い間、剃髪することもなく思惟し続けたため、このような姿になった阿弥陀如来だとされます。



次にお参りした護摩堂には護摩壇の奥に3躰の不動明王像が安置されています。
護摩壇の横には薪が準備されていましたから、近々護摩祈願を務められるのかもしれませんね。





短い石段の先には朱色に塗られた毘沙門堂がありました。
須弥壇には近年に納められたと思われる毘沙門天像が10躰以上あり、中には弁財天や不動明王の姿も見えます。

玉桂寺には膨大な数のお地蔵さんや地下道にまで祀られている観音像が凄まじい数奉納されています。
数が数だけに、どういった方々が奉納されてきたのか気になるところです。





最後にお参りしたのが本堂でした。
迂闊にも本堂の写真を撮り忘れてしまいましたので寺院のHPにあった写真をお借りしました。



本堂は古い建物のようですが、よく手入れされていてこの寺院の檀家さんや奉納者の熱意が感じられます。
須弥壇も美しく輝き、厨子も立派なものに感じられます。
厨子の中には御本尊である弘法大師が祀られているそうですが、秘仏につき御開帳は50年に一度だけとのことです。



御本尊の厨子の肥大には「愛染明王像」が安置された厨子があり、右の厨子には「不動明王像」が安置されています。
仏像の製作時代等は分かりませんが、厨子や台座が豪華なものになっています。





脇陣にも仏像があり、左脇陣に聖観音?右脇陣に大黒天が祀られています。
後陣には金ピカの釈迦涅槃像まであり、地下通路には奉納された観音像が並んでいます。



さて、この寺院のシンボルといえばやはり巨大な不動明王立像ということになります。
像高13mの一願成就大不動明王は寺院を守護するように外側に向けて立っておられます。
信楽の山里にこのような光景が広がっているのは驚きの世界ですね。



ところで寺院のすぐ近くには「保良の宮橋」と名付けられた、信楽高原鐵道「玉桂寺駅」から大戸川・一般道を越えて玉桂寺の横へ渡れる吊り橋がありますので、せっかくなので渡ってみます。
道路から見るとさほど高い場所に掛けられている橋には見えませんが、渡ってみるとかなりの高さを感じます。



吊り橋は1mの幅で100m以上の長さがあり、高さは水面から13mあり、なかなかスリルがあります。
しかも、歩いていると振動で吊り橋がユラユラと揺れるので、少し怖い感じさえして脚が竦んでしまいます。



ちょうどいい具合に信楽高原鐵道が駅に入ってきたので写真を撮ってみます。
鉄道の線路は1本しかなく、電車も1両編成で駅は当然無人駅。
何とも長閑な風景ですが、元々はJRの路線だったものが廃線となり、1987年からは第三セクター鉄道として営業されているそうですね。



実はこの時、吊り橋の当方とは反対方向でカメラを構えて電車を撮影されている方がおられたのですが、電車が駅を発車しかけると急にこちらへ向かってダ・ダ・ダと駆けつけて来られる。
歩いていても揺れてしまう吊り橋を走ってくるものだから吊り橋は大きくユラユラ揺れてしまい、立っているのも困難になり怖いやら、カメラの焦点が定まらないやらと凄いことになっていました。



電車が見えなくなった頃に“揺らしてしまってすいませんね。”と言っておられましたので“いいえ、どういたしまして。”と答えておきましたが、実はかなり怖かった。
とりあえず電車は撮れていましたので、この一件は記憶に残る想い出深い出来事になりましたよ。


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「観音の里ふるさとまつり2018」(5/5)~尾山 安楽寺釈迦堂・大日如来、釈迦如来~

2018-10-24 05:35:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「観音の里ふるさとまつり」で巡った観音堂のうち2つの観音堂が白山神社の境内にあり、神宮寺だったのでは?とされている御堂でした。
己高山仏教圏は「己高山山岳宗教」「白山神社信仰」「奈良仏教」「比叡山天台宗」の影響を受けているとされますので、その影響の一つとして白山神社に観音堂があるのかもしれません。



近江国の鬼門にあたる己高山は、古代からの霊山として修行の場であったとされていますから、山岳修験の霊山であった白山信仰を受け入れやすい土壌があったのかとも思われます。
湖北では伊吹山にも山岳信仰があったようですので、山に修行の場を求めるのは場所を問わず共通の何かがあるのでしょう。



己高山の麓には美しい紅葉が有名な鶏足寺や石道寺があり、この安楽寺釈迦堂は麓から高時川を挟んで西側に立地されています。
「己高山縁起(1407年)」では「惣山之七箇寺」 として法花寺・石道寺・満願寺・安楽寺・松尾寺・円満寺・観音寺があったと伝わり、安楽寺も寺院として栄えていたとされます。



白山神社と書かれた扁額の掛けられた鳥居を抜けて参道を進みますが、寺院へ来たというより神社参拝に来た感を強く感じます。
かつては神社の本殿や堂宇が建てられていたのでしょうけど、今は本堂のみ。
しかも寺院の御堂というより収蔵庫として整備されているのが現在の姿のようです。





安楽寺釈迦堂は大日堂を中心とした寺院であったとされ、最澄が勧請した白山神社の神宮寺だったともされます。
今は田園地帯が続く原風景のような地域ですので、かつて諸堂が並び立っていた姿は想像出来ませんが、今も近在の地名には寺院があったことを伺わせる小字名が点在しているのはかつての名残りといわれています。



仏像は「大日如来坐像(像高139cm)」と「釈迦如来坐像(像高156cm)」の2躰が中心になりますが、2躰の仏像が壇上に並ぶ姿は壮観です。
文化財としては重要文化財に指定されている「釈迦如来坐像」の方が文化財評価は高いとはいえ、好きな「大日如来」を拝観出来るのには少し興奮してしまいます。



大日如来は密教では宇宙の中心に位置する存在とされており、この大日如来は智拳印を結んでいるため金剛界の大日如来となります。
この大日如来像は室町~江戸初期に修復されたもののようですが、平安時代のものと思われる部分が堂内で発見されており、平安期の大日像が大きく破損したため修復部が多くなっていると推定されているようです。





半丈六「釈迦如来坐像」は説明文によると両臂から指先までが後補であるため、当初から釈迦如来だったかどうかはよく分かっていないようです。
ただしこの仏像は造像当時の部分が多く残されているため重要文化財指定を受けており、造像は10世紀頃と推定されているようです。





堂内の横の面には補修される前の大日如来の仏像の一部も保管されています。
その部分を見ても、大修復が必要になるのも分かるような激しい痛みがあります。

 

また、かつて存在したと思われる痛みの激しい仏像や、修復前の写真と修復後を比較できる仏像が並べてありました。
御堂などには保管されてきたのだとは思いますが、痛みを見ると千年の月日は長いと感じざるを得ません。



境内には御堂(収蔵庫)・鐘楼の他にはかつては宮があったと思われる建物があります。
今は社務所のように使われているのかもしれませんね。



念持仏カードには“修行僧の道場として栄えたが、衰微し大日堂に釈迦如来像も安置するようになった。”
“安楽寺の中心は大日堂であったが、釈迦如来を安置した後、釈迦堂と呼ぶようになった。”
などの説明が書かれてあります。

  
念持仏カード


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「観音の里ふるさとまつり2018」(4/5)~雨森 己高山 観音寺・千手観音立像~

2018-10-22 06:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「観音の里ふるさとまつり」では、今年は33の寺院・観音堂が登録されていますが、これは奇しくも西国33所観音巡礼と同数になっていますね。
この中で、これまでに当方が訪れたことのある寺院・観音堂は19所。
満願するのはまだ先の事になりますが、そもそも開帳される寺院・観音堂が毎年同じとは限らないので目安程度ということになります。



高月町雨森というと江戸中期に活躍した儒学者の雨森芳洲の生誕地になります。
芳洲は対馬藩に仕え、朝鮮との外交にあたった方といわれますから、さしずめ外務省のエリート官僚か外交官といったところでしょうか。



近年に造られたように新しい感じのする太鼓橋を渡ると、奥に観音寺が見えてきます。
観音寺はじゃつて己高山(923m)の山頂近くに建立されていたといわれますが、資料のほとんどは消滅しているため、詳しいことは分かってはいないようです。
しかし、その「己高山観音寺」と山号・寺名が同じことから何らかのつながりがあるのでは?とされています。



当時の己高山観音寺は比叡山延暦寺の影響を受けており、七堂伽藍を有する寺院であったのではともされていますが、姉川の合戦で天台宗に激しい敵意を持つ織田信長によって灰塵と化したようです。
その後、里人により再建を果たしたものの、明治12年に火災によって焼失したとされます。



観音様を尊ぶ村人は火災の翌年には比叡山に参って「十一面千手観音」「毘沙門天」「不動明王」の三尊を賜り、再建を進めて明治14年に無事落慶を迎えたようです。
村の方の観音様に対する信仰心の深さがよく伝わる話だと思います。





堂の正面の厨子には「十一面千手観音立像」が安置されてあり、まず目を引きます。
観音寺の十一面千手観音は寄せ木造りで像高は27cm。
この仏像は清水式千手観音と呼ばれる様式をとっているといわれますが、確かに清水寺のお前立ちと雰囲気がよく似ています。



比叡山延暦寺と清水寺の関係は不明ですが、“観音菩薩・毘沙門天・不動明王”が三尊となる組み合わせは天台宗の影響と思われます。
御本尊は小ぶりな「十一面千手観音立像」ではありますが、興味深い仏像だと思います。
脇侍の2尊は、御本尊の右側にある厨子は「毘沙門天像」、ご本尊の左側の厨子には「不動明王立像」が安置されています。





御本尊の厨子以外は厨子に装飾はありませんが、神棚の如くきちんとお祀りされているのが分かりますね。
堂内には他にも「薬師如来像」「弁財天」など多数の仏像が祀られています。



念持仏カードには“袋掛け観音と親しまれ、姉川の合戦の戦禍に遇い「還ってきた観音様」という昔話が残る。”とあります。
話としてはちょっと分かりにくいのですが、地元の観音様への信仰が伺われる話です。

  
「念持仏カード」


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「観音の里ふるさとまつり2018」(3/5)~保延寺阿弥陀堂・阿弥陀如来三尊、千手観音像~

2018-10-20 17:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高月・木之本地方の観音信仰には「白山信仰」「己高山信仰」「奈良仏教や比叡山延暦寺」の影響を受けながら仏教圏が築かれていたとよくいわれます。
己高山は霊山として山岳信仰が栄えた地とされており、奈良からの仏教・北陸からの白山信仰・比叡山からの密教の影響を受けながら独特の観音信仰が栄えたとされています。



「保延寺」は寺院の名称にみえますが実際は地名のことをいい、現在使われている「阿弥陀堂」についても正式な名称はよく分かっていないそうです。
保延寺阿弥陀堂のある場所には白山神社があり、かつては隣接する白山神社の神宮寺だったとういう説もあるようです。



白山神社の鳥居は通れなくなっていたため、別の入口から入るとすぐに観音堂が見えてきます。
観音まつりには周回バスが巡回していて、バスが停車した直後には人で溢れる状態となり、この観音堂へ着いた時はまさしくそれでした。

堂の外にまで人があふれていましたので、休憩所でお茶をいただいてしばらく時間を潰します。
あまり待ち時間なくバスは巡回してきますので、少し待てば堂内はほぼ貸切状態になりますからね。



予備知識なく行き当たりばたりなのも時には幸いして、観音堂で仏像を最初に観る瞬間が堪らない。
厨子の中には3躰の「阿弥陀如来坐像」。その前には小さな「千手観音立像」が安置されています。



阿弥陀如来は中尊と右が「定印」を結び、左は「来迎印」を結びます。
製作時代は中尊と右が室町時代、左が江戸期ということでしたが、これだけの仏像がなぜこの観音堂に安置されているのか不思議になってきます。
湖北の観音様はどこから、誰が、どうやってと考えると信仰心だけでは説明のつかなくなりますね。



とっても小さな「千手観音像」は本来は保延寺観音堂に安置されていたそうですが、台風21号の影響により、今回は保延寺阿弥陀堂の方に移ってきています。
像高17cmといわれる観音様は奈良の長谷寺から頂いたものと伝わりますが、まるでミニチュアのような観音様です。



保延寺阿弥陀堂の境内は放生池の奥に阿弥陀堂と白山神社が並ぶように配置され、己高仏教圏をよく表していると思います。
せっかくなので白山神社の拝殿の方へも参拝を致します。





田園地帯の真ん中にあるような寺社ですが、本殿は大変立派な造りとなっています。
白山神社と名の付く神社は多いのは知っているとはいえ、詳しい話は全く知らないのは縁がなかったのかもしれませんね。



保延寺観音堂は“小谷城落城の折、戦死した武士の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。”
“白鳳時代、観音堂の近くは花寺という大寺院が栄えていたといい、当時の瓦などが出土する。”
などの話が念持仏カードに書かれています。

  
「念持仏カード」


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「観音の里ふるさとまつり2018」(2/5)~柏原 阿弥陀堂(来光寺)・薬師如来立像~

2018-10-18 06:28:28 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 田園地帯を車で移動中に「観音の里ふるさとまつり」の赤いのぼりが見えてきたので立ち寄ると、そこは阿弥陀堂(来光寺)という御堂でした。
同じ境内に八幡神社がありましたので神仏習合の名残の強い観音堂なのかと思いますが、湖北は浄土真宗信仰の根強い地域ですから、真宗寺院とは別の場所に観音堂を祀っているのかもしれません。



観音堂に向かうまでにまず驚かされるのが巨大な欅の大木ではないでしょうか。
県内最大級の欅とされていますが、その迫力に圧倒されてしまう巨大な老木です。



この欅は「野神のケヤキ」とも呼ばれており、幹周囲が8.4m、樹高は22mで樹齢300年とされていますが、やはり驚くのはその幹の太さになります。
よくこれだけの大木がこれまで無事に育ってきたものだと感動を覚えるほどでしたが、傷んだところには修復の跡がありましたので、長年に渡り村で大事に守られてきた木なのでしょう。



欅の木の前には心願成就の願いを届ける壺がありましたので、用紙をもらって願をかけました。
さすがにこのゴツゴツとして瘤があるような木を見ると、きっと何かが宿っていると信じたくなってきます。



同じ境内にある八幡神社に詣でてから観音堂へと向かいますと、「野神のケヤキ」には及ばないものの別の欅の大木が見えてきます。
この阿弥陀堂(来光寺)の周辺は、明るさと力強さの両方を感じ、心暖かい空間の雰囲気を感じます。





観音堂の前に巨大な切り株がありますが、これは事情により切ったものの木材は貝塚(大阪)のだんじりの材料として生まれ変わっているそうです。
離れている2つの町が実に奇妙な縁で結ばれてたとしか言い様がありません。



さて観音堂では堂内に入ってすぐに説明会が始まりました。
実に匠で分かりやすい説明でしたので内容が理解しやすく助かりましたが、それだけ地元の方は熱意を持って取り組まれているのかとも思います。



この「阿弥陀堂」には本尊にあたる「薬師三尊」と「阿弥陀如来」が祀られており、まず中央の厨子に納められた「阿弥陀如来立像」からお参りします。
色が黒く染まっていて見にくい状態にはなっており、やや小ぶりな仏像です。





阿弥陀堂(来光寺)の御本尊になるのは「念持仏カード」に勢揃いしている「薬師如来立像」、脇侍の「日光・月光菩薩」、守護にあたる「十二神将」になります。
「薬師如来立像」と脇侍2躰・十二神将は東京藝術大学で開催された『観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-』でも展示されていたそうです。





念持仏カードには“来光寺と称された阿弥陀堂は弘仁年間に創立と伝わり、京都の林丘寺門跡と縁があった。”などの村の歴史。
“隣村との境界争いの時に林丘寺門跡を頼り解決した。”などの話が書かれています。

   
念持仏カード


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「観音の里ふるさとまつり2018」(1/5)~大円寺(高月観音堂)・千手観音菩薩~

2018-10-16 06:25:28 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖北地方は知る人ぞ知る“観音の里”で、観音信仰が盛んな地域です。
多くの無住の観音堂には驚くような観音像が納められており、年に一度の観音まつりには数多くの仏像ファンが湖北の地を訪れます。

当方も観音まつりを楽しみにしている中の一人ですが、初めての観音堂に訪れるたび、安置されている仏像の素晴らしさに感動してしまいます。
昨年は高月の琵琶湖側の観音堂を中心に巡りましたが、今年は高月の中心部から琵琶湖の反対側(山側)を巡ってきました。



高月の観音まつりの時は対象となる観音堂の周辺に赤いのぼりが立ちますので、土地勘がなくても移動している内に、次の赤いのぼりが見えてきます。
行き当たりばったりの巡礼ではありましたが、まず最初は高月の中心部近くの「大円寺(高月観音堂)」から訪れます。



大円寺は石標を見ると「慈眼山」という山号が彫られています。
宗派は曹洞宗だとされており、詳しい歴史は不明ですが、もう1柱の石標には「十一面千手観音菩薩」と彫られてあり、自ずと期待が高まります。



今年の観音の里まつりでは22の御堂で「念持仏カード」が販売されており、表には自念仏代わりに本尊の写真。裏面には村人の話や歴史・風習などの解説が書かれています。
カードは「NPO法人 花と観音の里」が市の補助金を得て、御堂をお守りする自治会にカードを配布されたもので、念持仏カードの売上は該当する自治会に入り、御堂や仏像の補修・維持費にあてられるそうです。
台風の被害のあった御堂もいくつかあったようですから、わずかでも役に立てるよう訪れた各御堂でカードを購入しました。



湖北の観音堂は無住の御堂が多く、基本的には村人により守られ、維持されているといいます。
長い年月を経て維持していくのは大変なことだと思いますが、村人の心には“我が村の観音様をお守りする誇り”があり、また“心の安堵の根底に観音様が居られる”のでしょう。



境内には鐘楼もあり、寺院としての形を維持されている一方で、お茶や地元で採れた果実などのサービスに黙々と取り組む婦人会の方々が居られます。
行く先々でお茶を勧められて飲んでいましたのでトイレが近くなってしまいましたが、本当にありがたいことです。



さていよいよ仏像とご対面ということになりますが、御堂へ上がらせてもらう瞬間に目にはいってきた「十一面千手観音菩薩像」の想像以上の素晴らしさに驚きます。
なんと迫力のある仏像なのでしょうか。像高155cmの仏像から発する力の凄さには言葉がありません。



堂内では間近まで近づいて本尊を拝むことができ、近くで見る尊顔は慈悲に満ちた表情で見事な観音像です。
湖北にはこんな素晴らしい観音様が数多く村の観音堂に祀られているのですから、観音の里と呼ばれるのもよく分かります。



さほど広くはない堂内には「不動明王立像」「地蔵菩薩立像」「毘沙門天像」「阿弥陀如来立像」「薬師三尊」「弁財天」と仏像が並びます。
高月観音の里歴史民俗資料館に安置されている有名な「釈迦苦行像」の写真だけがありましたが、実はこの御堂所有の仏像だったようです。



「念持仏カード」には“元亀の兵火にかかるも、観音様は自ら火難を逃れ、東方の石上で光り輝いていた。”と逸話が書かれています。
また“槻(ケヤキ)の大木が多い事から高槻と称したが、月の名所として歌に読まれ、高月を改称された。”など4つの歴史や風習・逸話が書かれていて助かります。

  
「念持仏カード」


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御朱印蒐集~京都市山科区 牛皮山 随心院~

2018-10-12 05:17:17 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都山科にある随心院は“小野小町ゆかりの寺院”として知られています。
小野小町という方の名前は誰でも知っていると思いますが、その実像はよく分っていない方であり、伝わる話は“世界三大美女”“平安時代の女流歌人”などの恋多き美女といったものになるかと思います。

和歌は『古今集』に残されてはいますが、その方面に興味のある方以外は全く分からないのが普通ですよね。
和歌に興味のない当ほうが唯一知っている小野小町の歌は百人一首で覚えさせられた一首のみです。

『花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に』
意味は調べると“色あせた桜に寄せての、容色の衰えと憂愁の心”されていますが、謎めいた作者が美女の生涯を演じきった歌のようにも感じられますね。



随心院は真言宗善通寺派大本山として、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正により991年に創建されたと伝わります。
創建時には「牛皮山曼荼羅寺」と称されており、随心院は塔頭の一つだったそうですが、1229年に門跡の宣旨を賜り、現在の随心院門跡となったとされます。



随心院は京都の寺院の例に漏れず、承久應仁の兵乱にあい寺院は灰塵と化したようですが、1599年の本堂再建以降は再建への道を歩んだようです。
江戸時代には九条家・二条家から門跡が入山し、両摂家の由緒を持って寄進再建されたといわれます。
総門から境内に入ると、寺院部分と小野小町ゆかりの史跡に別れますが、まずは寺院へと向かいます。



薬医門は大玄関につながる表門となるため一般の人間は入ることは出来ませんが、門の両横にある塀には高貴さを証明する五本筋塀がはっきりと見えます。
この薬医門と玄関・書院は寛永年間(1624~1631年)の建築で九条家ゆかりの天真院尼の寄進によるものとされます。



建物の中に入り、大玄関から薬医門を見返してみると、確かに身分の高い方が通るような造りになっています。
平安の昔にここを通る方はどんな姿で通られたのでしょうね。



随心院の受付は庫裡にあり、この庫裡は総門と同じく1753年に二条家より移築されたものだそうです。
庫裡は厨房のようなところだと思いますが、さすがお公家さんの住処は立派なものですね。



庫裡からは奥書院・表書院と部屋が続きますが、どの部屋にも各種の襖絵が見られます。
また、廊下からは手の込んだ庭園を眺めることもできます。
日当たりのいいところの苔は赤茶く焼けたように見えますが、日差しが弱まる季節には元の色に戻るのでしょう。



池の周囲にも樹がよく茂っていますが、よく整備されている印象の庭です。
当日も2名ほど庭師の方が汗だくになって作業されていましたので、季節ごとに手入れをされているのかと思います。



書院の廊下には天井から籠が2台吊るされていました。
この籠を見ていると随分重そうに見えますので、昔の方はかなりの力持ちだったのかと感心してしまいます。



建物の中で異彩を放つくらい鮮やかな襖絵がありました。
この「極彩色梅匂小町絵図」は小野小町の一生を京都の絵描きユニット「だるま商店」が描いた作品です。
だるま商店は寺院の襖絵や屏風など、また現代的なデザインで各種のコラボ作品も作られているユニットのようです。



書院で展示物を眺めていると庭の方から1頭の蝶が部屋の中へ紛れ込んできます。
よく見るとそいつはゴマダラチョウ。
ゴナダラチョウは会えないことはないが、会おうとするとなかなか出会うことの出来ない蝶ですので偶然の出会いは嬉しく思います。



書院の廊下から見えるのは「小町堂」という納骨堂です。
この寺院では小野小町にあやかって女性のための永代供養の場としてこの納骨堂を設けているようです。



さすが京都の古寺だと感心したのは1599年に再建された本堂の仏像群でしょうか。
平安期・鎌倉期を始めとする仏像が一列に安置されています。

左から「仁海僧正坐像(江戸期)」、「弘法大師座像(江戸期)」、「不動明王立像」は平安後期の仏像です。
定朝作の重文「阿弥陀如来坐像(平安後期)」、御本尊の「如意輪観世音菩薩坐像(鎌倉期)」は厨子の中でしたが、その横に安置されていた快慶作の「金剛薩捶坐像(鎌倉期)」も重要文化財。

「薬師如来坐像(平安後期)」の横には「釈迦三尊」が並ぶが「釈迦如来坐像」は室町期で「普賢菩薩像」は平安後期、「文殊菩薩像」は南北朝期とそれぞれ製作時代が違う。
予備知識なく訪れた寺院でこれだけの仏像群に会えるとやはり感激してしまいますね。



さて、境内には小野小町の屋敷跡があり、「小野小町 化粧の井戸」が残されています。
竹林の中に竹の囲いがあり、その中に井戸があります。
この日は水位は低くなっていましたが、井戸の上部まで石の色が濃い色に変わっていることから水位が高い時があることが伺われます。

井戸の水のある所へは数段の階段で降りられますので降りてみましたが、水がコンコンと湧き出す井戸という感じではなく、溜まり水のようにも見えました。
かつてここで小野小町が朝夕に粧をこらしたとされていますので、平安の昔を想像してみるのも楽しいかもしれませんね。



随心院の裏側にあたる方向には小町の史跡や清瀧権現が祀られた宮がありますのでそちらにも回ってみます。
裏へ通じる小道は塀が傾き、上には木がかぶさっています。夜ならまさに百鬼夜行の道といったところでしょうか。



清瀧権現は、随心院の近くにある西国三十三札所の醍醐寺の守護女神となっており、ここに清瀧権現が祀られているのはその影響かもしれません。
鬱蒼とした森に静かにひっそりと建てられていました。



さらに随心院の外側を回るようにして進むと「小野小町の文塚」の石塔があります。
深草少将(「百夜通い」の伝説の登場人物)を始め当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の文を埋めたところと伝えられている塚です。



石碑は他にもあり、かつての金堂跡に宝篋印塔が残されています。
慶長年間に再建された金堂は1868年に再建された塔頭寺院・大乗院へと移築されたとされます。
ということはこの石碑は明治以降に建てられたものになりますね。



ところで小道を歩いている時に何とも気色の悪いやつに出会ってしまいました。
コウガイビルというようで、ヒルとはいっても人に吸い付いたりするやつとは別の種だそうですが、その姿は薄気味悪いですね。



気持ち悪いやつを見たので口直しに随心院の絵馬を貼ります。
桜が散りばめられているのは小野梅園という梅園によるもので、百人一首の“花の色は...”が小町の横に書かれています。



余談ですが、随心院へ参拝したのは祇園祭りの時期で酷暑の中での参拝でした。
境内では季節外れのウグイスが鳴いていて、山の中でもなく、また囀りの季節でもないのに囀るウグイスを不思議に思います。

夏に鳴くウグイスは繁殖期にメスとペアになれなかったオスなのでしょう。
小野小町の元へ百夜通いしながらも恋が実らなかった深草少将の悲恋を思い起こしますね。


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アート・イン・ナガガマ2018~小倉宗さんの『優しい道化師』

2018-10-08 16:30:30 | アート・ライブ・読書
 今年も待ちかねたアートの祭典「アート・イン・ナガハマ」が台風の影響もなく無事開催されました。
「アート・イン・ナガハマ」は全国から約200組のアーティストが自らの作品を携えて集まるイベントで、北国街道の通る黒壁ガラス館から大通寺(ながはま御坊)表参道までの商店街に集まったアーティストたちがブースを構えます。

「アート・イン・ナガハマ」は1987年に始まり、今回で第32回目を数えるといいますから、もう長浜の地に根付いた芸術祭といえるのかと思います。
当方が強い興味を持ったのは2007年以降ということになりますが、それはその年に小倉宗さんという絵師に出会ってからということになります。


小倉宗『優しい道化師』

小倉さんは「アトリエ笑」としてブースを開かれており、今年でなんと17回目の出品だとか。
アクリルで描かれた優しくも特徴のある絵にはファンが拡がっているようです。

“早く行かないといい絵が売れてしまう”とばかりに、まだ準備の整っていないブースの間をすり抜けて小倉さんのブースに到着したのですが、すでに1枚売れてしまったあとでした。
昨年も開始早々に駆けつけた時には1枚売れたあとでしたので、AINにはコアな小倉ファンがおられるようですね。

気に入った3枚の中から選び出した絵は『優しい道化師』と名付けられた絵でしたが、これはかなり悩んでの選択でした。
最終的には室内にかけてある他の小倉作品とのバランスも考えてということで決めました。

もう12年通っている小倉さんのブースで購入した絵としてはこれが10枚ほどになりますが、今後も見続けていきたい絵師の方です。
距離的に近ければ個展にもお邪魔したいところですが、取り敢えずはまた来年のAINの楽しみということになります。



ブースに到着して簡単な挨拶を済ませると、小倉さんが“写メ撮らしてください。”とブースをバックに当方を撮影されます。
“あれ?撮られる人が逆でしょ。”と何やら可笑しい。
その後に小倉さんを撮らせていただきましたが、Tシャツにプリントされている陰陽猫がカッコイイですね。



AINを見て回っている時、通りがかりに偶然入ったのはシガアートスポットプロジェクトVol.1「散光/サーキュレーション」の会場でした。
【アートスポットプロジェクト】は長期休館中の滋賀県立近代美術館が行っている美術館の活動の展開というもののようです。
新生近代美術館は「アール・ブリュット」と「神と仏の美」を柱にして生まれ変わるといいますので、開館を非常に楽しみにしている美術館なのですが、まだ再開の見通しがたたない状態で残念に思っています。



「散光/サーキュレーション」では滋賀県にゆかりのある3人の若手作家により「循環=サーキュレーション」をテーマにした作品が展示されていました。
最初に入った「北国街道サテライト会場」で目を引いたのは薬師川千晴という作家の《ニ対の絵画碑#2》だったでしょうか。


薬師川千晴《ニ対の絵画碑#2》

メイン会場には《絵画碑#20 -絵具の密度と引力-》という作品があります。
薬師川さんは“練り込みテンペラ”という古典的な手法や“デカルコマニー技法”を使って作品を造られるそうですが、どちらも知らなかった言葉です。


薬師川千晴《絵画碑#20 -絵具の密度と引力-》

度會保浩さんの《eagduru-shell of the plant》はステンドグラス技法で造られた大きな作品です。
長浜のいくつかの寺院を巡り、そこで出会った観音菩薩像から着想を得たと説明が書かれてあります。


度會保浩《eagduru-shell of the plant》

よく分からないままに会場を後にすると、外は雨模様。
途中で見つけたのは移転した“海洋堂フィギュアミュージアム in 長浜アートセンター”の前にある古い門の中から顔を出す恐竜でした。
ミスマッチのような取り合わせではありますが、インパクトがありますね。



我が家では玄関から続く廊下を画廊状態にしていて、小倉宗さんの絵のギャラリーのように並びます。
どの絵も気に入って購入したものばかりですので、日常の生活に溶け込んでいるかのように愛着を感じています。


コメント (2)
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美術館『えき』KYOTO~【ピカソ 版画をめぐる冒険】~

2018-10-05 06:45:45 | アート・ライブ・読書
 「日本のゴーギャン」と呼ばれる田中一村は移住した奄美で生涯無名のまま人生を終えたといいます。
一村は南国の風景に魅せられ、50歳を過ぎてから奄美に移住し、奄美の野鳥や植物・植物・熱帯の魚類などを精巧な筆致で描いた画家になります。

その田中一村は奄美へ移り住んだ時に「ピカソ画集」を携え、何度も読み返し、また時にピカソの絵について語ったといいます。(西日本新聞社編「日本のゴーギャン 田中一村」より)
奄美の自然を描く孤高の画家・一村はなぜピカソに思い入れを感じたのでしょう?

京都伊勢丹の美術館『えき』で開催されていた「ピカソ 版画をめぐる冒険」でピカソの多数の作品を観てもその理由は全く分かりませんでした。
月並みな言葉で書くと“天才は天才を知る”ということなのでしょう。



美術展は「第1章 版画家ピカソの主題」「第2章 過去の巨匠たちへの賛辞」に分かれ、それぞれの章のセクションでテーマが分類される構成となっていました。
セクション1「肖像画」では同じ題材の人物画でありながら、写実的な絵とキュビズムの影響下にある作品の対比が印象的。
セクション2「静物画と動物の表象」は牝牛・ロブスター・フクロウ・ハトなどが黒1色で描かれているリトグラフには思わず“これがピカソ?”と思うような作品が並びます。


ポストカードより・・・展示はなし

第1章はセクション3「芸術家とモデル」セクション4「裸体画」と続きますが、裸体画では精密の描かれた絵とアールブリュット作品のようなものまであるのが興味深い。
セクション5「神話と古代」では題材が牧神や神話からとっているにも関わらず、黒のみで描かれたその絵には東洋画のような雰囲気さえあります。



第2章へ入ると、過去の巨匠たちの絵をある意味“茶化したような”絵が続きます。
“過去の芸術を破壊する・偶像破壊の芸術家”と解説されていたピカソのこれらの絵からは“下品なデフォルメのなぐり書き”といった印象しか受けませんでした。

過去の芸術の再解釈ということになるようですが、理解するのは難しそうです。
むしろ、よりシンプルでミニマム。ポップで色彩の美しい作品の方に興味がひかれたように思います。



美術展を出てショップを見て回っている時に目に飛び込んできた絵(ポストカード)が1枚。
“○○さんの絵がある!”と驚いたのですが、下の絵はもちろんピカソの絵です。

“○○さんはピカソからの影響も受けていたんだ”と思わずにはいられない発見に、妻と2人で納得する次第でした。
絵師はいろいろな過去の絵画から影響やインスピレーションを得て、自分の独自作品の世界を表現されていくのでしょうね。



田中一村はピカソの女性像の絵を見て、“この鼻の線の1本が素晴らしい”“しかし髪の毛の1本が気に入らない”と話したといいます。
全く作風の違うピカソに対して、一村は何を読み取ろうとしていたのでしょう。
天才たちの世界は素人には計り知れないものがありそうです。


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