僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

映画「パーフェクト・デイズ」とルー・リード「パーフェクト・デイ」

2024-03-29 12:20:20 | アート・ライブ・読書
 最近、有料チャンネルと契約してみたら、見たいコンテンツがそれなりにあってコスト・パフォーナンスは中々良いのではないかと思っています。
とはいえ、年に何回かは劇場の大画面で映画を見たいですし、現場の雰囲気を感じながらホールで音楽や落語を聞きたくなります。

久しぶりに映画館に行きたいなぁと上映予定を検索すると、ヴィム・ヴェンダース監督、役所広司・主演の「パーフェクト・デイズ」が公開されているのを発見。
公開は2023年12月22日からでしたが、ロングラン上映になっていたため、まだ見ることが出来たのは偶然の幸運でした。



主人公の役所広司は、決められたルーティーンのように毎朝外の掃き掃除の音で目覚め、歯磨きと髭のカット、自動販売機のコーヒーを買って仕事に出かける。
仕事はトイレ清掃員で几帳面に掃除した後は銭湯に行き、安い定食屋で一杯飲んで、帰宅後は古本屋で買った本を読んで寝る。

何の変哲もない同じ日常の繰り返しながら、昼に神社の境内でサンドイッチを食べながら古いフイルムカメラで木漏れ日を撮ったり、木の苗があったら持ち帰って育てる。
違った選択をするとしたら、出勤や移動時にカーステでかける60年代後半から70年代の音楽のカセットテープのチョイスになる。



流れる音楽は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、オーティス・レディング、映画の主題にもなっているルー・リードの「パーフェクト・デイ」。
パティ・スミスにローリング・ストーンズ、ヴァン・モリソン、アニマルズ、キンクスなど。

特にルー・リードの「パーフェクト・デイ」は、1972年にアルバム『トランスフォーマー』に収録された曲で、映画の途中とエンドロールの2回流れて重要な役割をしている。
この曲は、いろいろなアーティストにカバーされており、2002年に演奏された三大テノールのルチアーノ・パヴァロッティとのコラボレーションは感涙もの。

他の映画で使用されて印象の深いところでは、1996年のイギリス映画「トレインスポッティング」で主人公のレントンがヘロインを打って昏睡状態となるシーンに流れる。
海外ドラマシリーズでは「ウエストワールド」シーズン4の第5話でシャルロットが路上で始まった舞踏会の曲として血まみれの指のピアノ弾きが演奏する。



役所広司は無口な男の設定でセリフは極端に少ないが、微妙な表情の変化の演技で第76回カンヌ国際映画祭の男優賞を受賞しています。
同僚の柄本時生のいい加減さやホームレス風の田中泯は存在感があり、共演者は目立ち過ぎない程度に役を演じています。

行きつけの一品料理屋のママの石川さゆりが「朝日のあたる家」を唄いますが、これは浅川マキのバージョン。
演奏は、何と一品料理屋の常連客のあがた森魚が弾くアコギです。映像で見るあがた森魚、これは個人的に嬉しく感じた場面です。



映画は途中からそれぞれの登場人物の事情を交えながら進んで行きますが、東京スカイツリーが近くに見えるアパートは古めかしく、部屋には生活感はない。
部屋にあるものは、ロックのカセットテープと本とせんべい布団と着替え程度。
豊かさのようなものはない変わりに喪失感のようなものもなく、ただ淡々と同じ日常を暮らしている。

バーのママの元夫で死期の近い三浦友和の「影は重なると濃くなるのかな。結局、なにも分からないまま人生を終えるのだ」という言葉は印象に残る。
三浦友和の問いかけに対しての返答は「濃くなってますよ!変わらないなんて、そんなバカなことはないですよ!」と答える。


(パンフレットが映画館で売り切れていたのでネットで購入)


映画のラストシーンは、車を運転する役所広司が微笑みから感極まったような表情へと変わっていくシーンが長回しで続きます。
流れる曲は、ニーナ・シモンの「フィーリング グッド」。
サビは、♪ 夜が明けて 新しい一日が始まる 私は私の人生を生きる 最高の気分だ ♪と歌われる。

映画の主題となっているルー・リードの「パーフェクト・ディ」の歌詞では下のように歌われる。

 ただただ完璧な一日だ
 公園でサングリアを飲んで
 そして、その後辺りが暗くなって、僕たちは家路に着く

 ただただ完璧な一日
 動物園で、動物達にエサをあげて
 それから映画でも観て、そして家に帰る
 あぁ、なんて完璧な一日なんだろう

 <中略>
 自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない
 自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない
 自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない

この映画はいい意味で余韻の残る映画だったと思います。
当方の場合、この映画への入口は60~70年代の音楽でしたが、映像美であったり役者のファンであったりする人もおられると思います。
あるいは金延幸子さん、古本のウィリアム・フォークナーや幸田文やパトリシア・ハイスミスなのかもしれません。
選択のセンスの良さが際立って、見る人の心のどこかをかぎ針で引っ掛けていくように、隠れた素材が随所に埋め込まれている映画でした。


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菩提寺山(甲西富士)と廃少菩提寺の石仏・石塔

2024-03-24 14:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖南市の「菩提寺山」は、別名「甲西富士」と呼ばれており、富士の名はその山容からというより「近江富士(三上山)」の南側に位置していることに関係がありそうです。
標高353mほどの低い山ですが、登ってみると見所が多く、東と西にある展望岩からの景色は絶景でした。

「菩提寺」は、奈良時代に奈良興福寺の別院として良弁が開基した「少菩提寺」が山名の由来となっており、山中に三十六坊もの堂坊を持つ大寺院だったという。
しかし織田信長の兵火によって堂宇は焼失し、麓にいくつかの石造物を遺跡として残すのみ。
名神高速道路の菩提寺パーキングの名前にもなっていて馴染みがありますが、上りのパーキングエリアには珍しい「美し松」が移植されています。



菩提寺山には7コースくらいの登山道があるようですが、当方は菩提寺多目的広場から登り始めて裏登山道に合流する道で登る。
急登の林道(舗装路)を登りきると、階段状に整備された登山道の登り口があり、ロープまで用意されている。
この後、何ヶ所かの急登にロープが張られていて、大いに助かることになります。



登山道に入るとウグイスの囀りが聞こえてきて、エナガやメジロにジョウビタキの姿が見えて歓迎ムードが漂う。
道の横には何層かに積まれた石垣があり、かつての「少菩提寺」の痕跡なのかどうかは分からないものの、結構長く続いていて段になっている石段でした。



滋賀県の湖東・湖南地方には巨石がある場所が多く、この菩提寺山でも上へ行けば行くほど大きな岩に遭遇します。
下は「重ね岩」という巨石群なのかと思いますが、縦に板状に突起しており、絶妙のバランスで林立しています。



登るにつれて傾斜がきつくなってきて砂地で滑りやすいのでロープが頼もしく感じる。
登りの時よりも下りの時の方がズルッとこけずに済んだので助かったと思います。





裏登山道から登ると山頂に着くまでに、“東展望岩”と“西展望岩”を通ることになり両方とも巨石の上に乗って絶景を眺めることが出来ます。
東展望岩では何とも心もとなさそうな橋を渡って巨石の上まで渡ります。





東展望岩からは先日登った十二坊や鏡山が見えます。
突き出した岩も変わった形をしていますが、ここより先は絶壁なので足がすくんでしまい、進むのはここまでとする。



道の脇に変わった形の珍木があり、名前が「土根生桧」と名付けられています。
なんでこんな奇妙な形になったのか分かりませんが、以前の冬はもっと豪雪が積もって雪の重みで曲がってしまったのか?



土根生桧を越えてさらに登っていくと西展望岩の巨石が道に立ちはだかります。
巨石の上へは迂回も出来ますが、ロープを使って登ることが出来ますので登ってみることにします。



登ってみると岩の上は畳一畳ほどの広さがあり、見降ろす景色は絶景です。
正面には三上山。その奥には琵琶湖を挟んだ先に、積雪して雪野残る比良山系が望めます。



そして菩提寺山(甲西富士)の山頂に到着です。
山頂のスペースは樹林に囲まれ眺望はないが、山頂表示が幾つも掛けられていてハイカーに愛されている山なんだなぁと実感する。



三等三角点「菩提寺」は、山頂の中央部にあります。



山頂で南峰・龍王社への行先表示があり、菩提寺山は山頂部と南峰の2つのピークがあるようでしたので、南峰へと向かってみます。
南峰には龍王社の祠だけがあり、ここで龍王をお祀りしているようでした。



南峰には南峰展望所があり、目の前には一級河川の野洲川が流れ、その先に見えるのは飯道山や阿星山方面でしょうか。
野洲川は扇状地を形成して豊かな農耕地を作ってきた半面、氾濫して水害をもたらしたり、水不足にも悩まされてきたといいます。

野洲川を見下ろす位置に龍王をお祀りして、水害を防止し、農耕に必要な水をもたらしてくれる龍神への祈りが顕著に感じられる場所です。
菩提寺山が甲西富士と呼ばれる以外に「龍王山」の名があるのは、龍神信仰の地だったことからなのでしょう。



南峰から元来たルートを戻って下山しましたが、下山後に「廃小菩提寺」の石仏や多宝塔に立ち寄ります。
「廃小菩提寺」は聖武天皇によって良弁によって731年に創建された寺院で、室町期の図によると、七堂伽藍・三十七坊の大寺院だったといいます。

寺院は織田信長と佐々木六角の戦渦に巻き込まれて廃塵に帰したとされますが、残されている鎌倉期の石仏・石塔からはかつての栄華の跡が見受けられます。
また「廃小菩提寺」は、同じく良弁が創建した金勝寺の「大菩提寺」に対して呼ばれていた寺院だとされている。



石造地蔵3尊像は、高さが158cmの等身大の石仏で、中央の像は鎌倉初期の像とされ、両側の地蔵像は南北朝期の作とされています。
中央の地蔵尊は笠石をかぶった姿となっており、錫杖や宝珠もくっきりと読み取ることができる。
右の地蔵尊は蓮の花と宝珠、左の地蔵尊は合掌しています。

多宝塔は鎌倉中期の1241年の作とされ、高さ454cmの大きな石塔です。
形もよく見かける多宝塔とは違った印象を受ける塔で、銘も残り、国の重要文化財に指定されています。



「石造地蔵3尊」や「多宝塔」があるエリアの奥には室町期の作とされる「閻魔石像」があります。
高さ170cmの閻魔像は、左に阿弥陀如来像・右に地蔵尊を脇侍とし、右側が大きく割れている。
尚、これより奥へ進むと幾つもの石仏や摩崖五輪塔、寺屋敷古墳 という古墳などがあり、最終的に南峰の龍王社へとつながる道があるようです。



菩提寺山は登り下りするのに大して時間がかからない低山ですが、景色・巨石・遺跡と見どころは満載の山でした。
今回はピストンでしたが、今回のルートにプラスして南峰から廃小菩提寺跡へ下ってきても面白そうな山でした。


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日野町の勧請縄2~北脇の野神と諸木神社・白鳥神社~

2024-03-19 05:56:56 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は、村境じ神社の境内に呪物を付した注連縄のようなものを吊るす民俗行事で、道を遮るように吊るすことから道切りとも呼ばれます。
神社での勧請縄は、参道や境内の端に吊るしますが、鳥居に注連縄のようにして掛ける場合も多々あります。


「注連縄」は神社や巨樹や巨石や瀧など神の降臨する場所の結界、「勧請縄」は村に魔が侵入することを防いで村内安全・五穀豊穣を祈念するものになります。
勧請縄は魔除けの意味合いが強いですから、中央にトリクグラズという呪物や祈祷札、時には鬼や牛の角や弓や五芒星を模したものを付けることが多い。



北脇集落の勧請縄は、村の外れにある細い道に道切りの形で吊るされる。
魔の通り道を切るために吊るされていますので、くぐり抜けるのには少々勇気がいるような場所です。



この場所は北脇集落の野神さんにあたる場所となっており、すぐ横にかつて野神さんとして信仰されたと思われる巨樹の切り株が残されています。
野神祭は8月に行われるそうですが、勧請縄は正月に吊るされて前の年のものは横に置かれている。



野神さんの切り株の横には、新しい野神さんの木でしょうか。
男女を模したと思われる木札が注連縄で巻かれており、この場所には道切りの勧請縄と野神さんの依代が共存しているようです。



同じ北脇集落の「諸木神社」には、鳥居を抜けた参道に勧請縄が掛けられています。
「諸木神社」は北脇集落の氏神で、御祭神に句句廼馳命 金山彦命 罔象女命 迦具土命 埴安彦命など多くの神が祀られている神社です。



「諸木神社」の勧請縄は、鳥居を抜けた参道にある枯れ木に吊るされてています。
勧請縄の主縄は北脇の野神さんと同様に、頭の部分と尾の部分がはっきりしており、小縄は下げられていない。





トリクグラズは丸に十の形をしており、シキミの枝葉を立てるように付けています。
「諸木神社」は国道307号線に面していて勧請縄も道路から見える場所にあります。
307号線では東近江市の岡田町や甲良町の池寺の勧請縄も道路から見える場所にあったが、今は見ることがなくなりました。



さて、日野町ではありませんが、移動中に近江八幡市の旧永源寺町にある石谷町の「白鳥神社」の前を通ったので立ち寄りました。
旧永源寺町の勧請縄は、トリクグラズは集落ごとに違いはあるものの、主縄の頭の部分が非常に大きく作られます。
ただし「白鳥神社」の勧請縄だけは、主縄の両端ともに頭になっているようです。



東近江の「白鳥神社には興味深い話が合って、滋賀県の永源寺側の最奥にある甲津畑から西北に向かって、石谷の「白鳥神社」まで1本の線で結ぶことが出来ます。
「白鳥と古代史(芦野泉)」という本では、古代の初期農耕では高地湿地で白鳥の糞が肥料として効果が高かったとされます。

「甲」は白鳥の鳴き声「コウ」に文字を当てはめたことが由来になっているといい、滋賀の最奥の集落には甲津畑・甲津原などがあります。
この場合の「白鳥(シラトリ)」は、ハクチョウ・コウノトリ・ツル、シラサギを含めた総称とされ、各「白鳥神社」は白鳥の渡りのルート上にあるとされます。

旧永源寺町には白鳥若宮神社・若宮白鳥神社を含めて6社の神社が固まっているのが現在も確認でき、滋賀県には他の場所で白鳥神社は確認出来ません。
岐阜県の揖斐郡や安八郡や瑞穂市にも白鳥神社が集中しているラインがありますが、現地は未確認です。



石谷の白鳥神社の主縄の頭は、かなり大きくて両端が頭になっているが、これは如来の白鳥若宮神社・市原野の白鳥神社と同じ。
頭が片方だけにあるのは池之脇町の白鳥神社・上二俣町の白鳥若宮神社・高木町の白鳥神社で種町の白鳥神社では確認できなかった。(一式町は未確認)





トリクグラズは丸型に枝葉が下げられ、小幣が3本挿されていて小縄はない。
石谷の勧請縄は年初に下げられ年の途中で取り外されるそうですが、以前10月頃に訪れた時には既に取り外されていました。



「勧請縄-個性豊かな村境の魔よけ-(西村泰郎著)」を参考にして勧請縄を捜し歩いており、本が出版された2013年には161の勧請縄が確認されています。
この4年程、1~2月に勧請縄を探していますが、既には廃止されてしまって見ることが出来なかった勧請縄、4年の間に廃止されてしまった勧請縄があります。
滋賀県にはいろいろな民俗行事が残っていて、ひとつ知ればもうひとつ知りたくなるような不思議な魅力があります。


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日野町の勧請縄1~西明寺と杉集落の山之神~

2024-03-15 06:02:02 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 日野町には馬見岡綿向神社や熊野神社、西明寺の道切りや北脇の野神さんや諸木神社に勧請縄の民俗行事が現在も続けられています。
これまで日野町の勧請縄で未確認だったのは西明寺にあるもう一つの勧請縄と原集落の「芦谷神社」の勧請縄でしたが、今回も発見は出来ずでした。

まず西明寺集落へと向かいましたが、西明寺は綿向山の麓にあり、途中に綿向山の登山口の前を通過することになります。
綿向山は鈴鹿山脈の一座で標高は1100m。年中登られる方がいる山とされていますが、冬季のスノーハイクは人気が高いといいます。
登山口の駐車場には満杯近くの車が停まり、登山に向かわれる人が多く見受けられ、登りたい衝動が高まりましたが、雪の登山は諦めるしかない。



西明寺集落には西と東に道切りの勧請縄があるといいますが、今回も東の勧請縄しか見つからず、西の勧請縄をさがして集落内を行ったり来たり。
東の勧請縄は谷奥にある墓地へと続く道に下げられ、山に挟まれた集落の西側の道切りとなっています。



主縄から下げられた小縄の数は13本で、これは閏年にちなんだものと思われます。
小縄に付けられた枝葉はシキミで、この時はまだ青々しい状態でしたので、吊るされて一ヶ月少々といったところです。

トリクグラズはシキミの枝を丸く丸めたものを立てている。
このループは月を表すとされているが、意味するところは分からない。



勧請縄の下には六角形と七角形の柱に十三仏の菩薩や如来の名前が書き込まれています。
過去の年に祀られたものもそのまま残されており、朽ちるまでここに留め置かれている。





西明寺の勧請縄は視線に切れるまで吊るしておくとされているが、昨年の者は横の地面に置かれている。
主縄は役目を終えて土に帰っていくのでしょう。



日野町の東側にある集落は、どの集落も滋賀県の最奥の集落となり、熊野しかり西明寺しかり、この後訪れた原集落しかりとなる。
途中で林業用の道に入ってしまい引き返すのに往生しつつも何とか原集落に到着して「芦谷神社」を見つけることが出来ました。

しかし、神社の周囲には金網と金柵がめぐらしてあり、近づく事すら出来ず、勧請縄があったのかないのかも確認出来ずでした。
仕方なく引き返してきたところで「大屋神社」と古墳のような森があったので立ち寄ってみました。



まず大屋神社の鳥居からのぞいてみると、永い石段が続いており非常に立派な神社であることが分かります。
御祭神は五十猛神という神様で、我が国に樹木を植えて廻り緑豊な国土を形成した神様を祀るのは、おそらく林業などが盛んな地であったためかと思われます。

鳥居の横には御神木が丁寧に祀られており、樹齢がさほどでもなさそうなので何代目かの御神木と思われるが「竜王の御神木」との名がある。
この方角にある竜王山(綿向山と続いている)では山頂で雨乞い神事が行われ、霊石を迎えた麓の神社でも雨乞い祈願を行っていたといいます。
尚、神社での雨乞いは消えたものの、現在も7月1日に竜王山の山頂で祭は続けられていると書かれてあった。



で、気になるのは神社から200mほど離れた場所にあり、何か特殊な感じのする森です。
かつての古墳跡かとも思ったが、垣根で囲まれてこんもりとした森は何らかの信仰の場所に見えます。



ところが中を覗いてみてびっくりです。
霊木と思われる樹に竹で作られた鳥居が掛けられ、周囲を取り巻くように注連縄か勧請縄のようなものが置かれている。



思わず足が竦むようなスピリチャルな雰囲気の漂う場所で、最初は野神さんかと思ったが調べてみるとこの地域の山之神のようだった。
大屋神社の正月神事に「山之神祭り」があり、大屋神社からこの山之神の森の神木に注連縄を巻きつけるのだという。



この神事は烏を山之神の使いに見立てて、奉納した山の神餅(楕円の白餅)を烏がくわえたことを唱和して、烏喰みを示す神事だという。
餅を烏に奉納することで人々の穢れを祓い、オッタイ・メッタイも供えるということですので子孫繁栄の祈りもありそうです。



縄の周辺には葉のない枝に幾つもの藁苞が結ばれているのが見えます。
日野町や永源寺町で同じように山之神に藁苞を結んであるのを見たことがありますが、この地方独特の信仰によるものかもしれません。
この藁苞は1ケは山之神に捧げ、もう1ケは自宅に持ち帰り柿の木などに下げて、豊穣のシンボルとしているといいます。



日野町の山側は、綿向山への信仰や鈴鹿の山々に囲まれていることがあって山之神への信仰が深いことが感じられます。
日野町や奥永源寺の山麓の集落は、鈴鹿山系が目前に連なる滋賀県の最奥の地であり、独特の山岳信仰が育まれてきたような地の印象を強く感じます。


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十二坊(岩根山)と摩崖不動明王~滋賀県湖南市~

2024-03-10 06:11:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県湖南市にある「岩根山(十二坊)」は、標高405mの低山ながら甲賀山塊の最高峰であり、「甲賀山」とも呼ばれることがあるといいます。
山の中腹には比叡山延暦寺の別院で「湖南三山」のひとつである「善水寺」があり、岩根山に十二の塔頭があったことから「十二坊」と呼ばれるようになったようです。

また岩根山は、甲賀五十三家で後の甲賀流忍術の中心となった名門のひとつとされる岩根家が当地を自治していた事と山名が符合します。
今年は山登りをお休みしていましたが、積雪情報がなく、長丁場にならない山で、登ったことのない山の中から十二坊(岩根山)を選んで山始めとしました。



登山口は「十二坊温泉ゆらら」の駐車場のすぐ横にあり、約2カ月ぶりとなる山登りはここから始まります。
最初は登りながらも下の道路の車の音を騒がしく感じたが、すぐに林道に出て別の登り口から山に入り直します。



山道の中で何度か“十二坊TRAIL RUN&WALK”のチェックポイントがあり、十二坊ではトレイルラン・ウォークの大会が開催されているようです。
トレイルは22㌔・累積標高1200mのコースで、ウォークは8キロのコースとなっている。
〜修験道を駈ける〜と題されていて中々の距離だと思いますが、今日の山歩きはたったの2.5㌔なので修験の道にはほど遠いレベルですね。



この日は反時計回りで山頂を経由するつもりでしたが、林道を横切った時の案内板に導かれてしまい、時計回りでの周回になりました。
どちらから登っても周回なので同じ道ではあるものの、感覚的にはアップダウンが多いのは時計回りの道だったように思います。



しばらく沢沿いの道を歩くと急登が始まります。
途中までは登ったり下ったりで中々しんどい道が続くが、何ヶ所かからウグイスの鳴き声が聞こえてくる。
ウグイスの鳴き声を今年聞いたのは始めてで、もう野山には春が来ていることを実感する。



気持ちの良い稜線歩きの道もあり、走りやすそうな道なのでトレランのランナーがここを駆け上がっていく姿を想像してみる。
とはいっても稜線は走りやすそうなものの、登りは急な場所もあったので、そこを走るのにはかなり脚力と心肺能力がいりそうです。



稜線から山頂への道に入るまでにはシダ科植物が生えた嫌な感じの道があります。
気持ち悪いので駆け足にしたいが、前日までの雨で足元が悪いので軽快には走れない。



大きな岩がゴロゴロしてきて空が抜けてきたので山頂近し。
想像していたより時間はかかったけど、疲れはそれほどでもなかったと思います。



登山道には景観のある場所がありませんでしたが、山頂寸前の所に景色が見渡せる場所がありました。
岩に腰かけて一息入れようかとも思いましたが、岩の下は絶壁になっていて怖いので止めておく。



急に道がザレてきたと思ったら、すぐに山頂に着きました。
湖南の山はこのようなザレた山が多いのは花崗岩の山が多いからなのでしょうね。



三角点を確認。
山頂がこんなにザレていると、経年で標高が低くなったりしないのだろうかと疑問に感じたりしてしまいます。



平地を挟んだ向こうに見えるのは飯道山とか阿星山方面でしょうか?
下に見える平野部は、竜王町方面?よく分からなかった。





登山道で見る光景と山頂のザレ場は全く印象が異なります。
見える方向が逆光になっていて、陽の光を浴びながらパノラマで撮ってみた。



しばらくゆっくりとしていたかったけど、下に東屋があったので下りてみる。
NHK・NTT無線中継所のアンテナ塔からまだ先に道があって進めそうだったが、どの道が正しいか分からず引き返す。
山頂に下山道があるので山頂に戻るのですが、このザレ場でズルズルと滑りそうになりながら、蟻地獄のような登りを楽しむ。



十二坊(岩根山)で人気のスポットといえば、蔓がハート型をしたように見える「好運の蔓」です。
下山道で突然に出会いましたが、好運の御利益はなんでしょうね。





下山した後は、渓流沿いを歩いて「磨崖不動明王」のある場所へ向かいます。
摩崖仏は高さ620cm・幅198cmの巨岩に彫られており、像高は425cm・肘幅210cm・顔幅80cmという巨大な不動さんです。



右手に持った宝剣の長さだけでも2.3mあるといい、通称「車谷不動尊」、花園不動と呼ばれる像は江戸初期の作といわれています。
白洲正子さんも「かくれ里」で取り上げており、そこでは花園山中の不動明王は鎌倉時代として紹介されています。





滋賀県では野洲市・栗東市・湖南市の辺りに摩崖仏が集中しており、渡来人の石の文化と密教や山岳信仰・修験道の影響が強い地方だったように思われます。
また、巨石や巨岩の多く摩崖仏に適した地盤だったことも大きな影響があったのではないでしょうか。



元々は野鳥観察のため。次は摩崖仏や滝・巨樹・山上の磐座などの信仰の跡を見たくて山中に入っていたのが、すっかり山を登る楽しさに魅了されています。
いわゆる低山巡りですが、今年も楽しい山登りを沢山したいものです。


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守山市・草津市の勧請縄~小浜・古高・木川~

2024-03-05 19:55:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
  滋賀県の勧請縄は東近江市・近江八幡市・日野町・竜王町・甲賀市・湖南市・野洲市・栗東市など湖東や湖南地方に多く見られます。
琵琶湖の南部の守山市・草津市・大津市にも勧請縄は見られるようであり、今回は守山市と草津市の勧請縄の一部を見に訪れました。

守山市には3本の勧請縄が確認されているといい、内訳は小浜町に2本と吉高町にひとつの計3本あるとされます。
小浜町の2本は「八幡神社」と「天満神社」の参道に下げられ、同じ集落内ということもあってか2本は酷似した勧請縄となっている。



小浜町は野洲川に沿うような集落で、その一部は野洲川河口と琵琶湖に面しているような場所にあります。
神社は集落の両端にあり、「八幡神社」を上の宮、「天満神社」を下の宮としているそうです。



勧請縄は主縄の一カ所にコブを作り、主縄の上に御小を挿して小縄は2本で中央にトリクグラズを下げている。
小縄は4本の縄の先をループにし、割竹を通して面のような形状をしています。



トリクグラズは藤の蔓で丸型を作り、竹をザルのような形で取り付けて、中にはスギの葉が詰められています。
竹を格子状にしていないのが特徴になっています。



本殿の玉垣にも勧請縄にあった特徴的な小縄が下げられています。
この小縄は集落内の何ヶ所かに見ることができ、神仏にゆかりのある場所に下げられているようです。



中に石仏が何体か祀られていたので寺関係の場所かと思いますが、ここにも小縄が下げられています。
この横に「小浜観音堂」という大日如来坐像や薬師如来坐像を祀る御堂があったが、その御堂にも小縄は下げられていた。





次に上の宮とされる「八幡神社」へと向かいます。
八幡神社の勧請縄も鳥居の奥の参道に下げられています。



八幡神社の勧請縄と天満神社の勧請縄は酷似しており、主縄にコブがあって小幣が挿されて特徴的な小縄が2本下げられている。
この2本の勧請縄は同じ日に作られ、5月の祭礼の時に取り外されるとのことで、4カ月少々しか見られないものです。



トリクグラズも天満神社のものとほぼ同じですが、こちらの方がより格子状になっています。
ただ全体として違いがみられないのは、同じ集落で作っているためなのでしょう。





八幡神社の本殿にもあのループを描く面状の小縄が下げられています。
建物に下げられる小縄は、門や玉垣や御堂の入口の左に下げられているが、何か意味があるのでしょうか。





守山市の3本目の勧請縄は古高町の「大将軍神社」にあるそうなので向かってみます。
大将軍神社は御祭神に八千矛命・武甕槌命・經津主命を祀り、4年に一度「古高の鼓踊り」という雨乞い祈願の踊りがあるといいます。



大将軍神社は参道にある山門に勧請縄を下げるようですが、今回は確認することが出来ませんでした。
勧請縄は旧暦の1月7日に下げるとされていますので、まだこの時は少し早かったのかもしれません。



どこでというと記憶がないが「大将軍神社」がある場所はいくつかありますが、大将軍とな何ぞやとなると、一般的には方位神である大将軍神を祀っていた所となります。
この神社の御祭神の3柱は、武力・軍事力を象徴する神・剣と雷の神・刀剣の神格化された神となりますので、戦いの印象を受けます。
社殿では正暦年間の創祀と伝えられていますので、方位神に従って方違えの祈祷・祈願が行われていたのかもしれません。



守山市の予定していた勧請縄が見られなかったので、少し足を伸ばしてお隣の草津市へ移動します。
草津市も守山市同様に3本の勧請縄しかなく、十数か所確認されている大津市の間にある勧請縄の少ない地域になります。
(栗東市にも2本しかないそうである)



木川町の「天神社」は、菅原道真公ゆかりの神社かと思いきや、御祭神に豊斟渟尊・天市々魂命・天興豊魂命・天若御子神をお祀りする。
住宅地から離れて田園地帯に向き合うように天神社はあり、一之鳥居を抜けて参道を歩いて行った二之鳥居に勧請縄が下げられていた。



一言で言うと、トリクグラズが非常に大きな勧請縄です。
大きな丸形のトリクグラズに十字は丸を突き抜けて通っている。
榊と紙垂を付けた小縄が下げられ、小幣はないが、何といってもトリクグラズの大きさが目を引きます。



本殿に参拝して違和感を感じたのは「茅の輪くぐり」の茅の輪があったこと。
茅の輪くぐりは6月の「夏越の祓」が馴染み深く、「年越の祓」を行っている神社もあるというが、この時期まで茅の輪くぐりが出来るのは珍しい。




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東近江市五個荘「商家に伝わるひな人形巡めぐり」~雛匠 東之湖 清湖雛物語~

2024-03-03 15:03:03 | 風景・イベント・グルメ
 近江商人は、大坂商人・伊勢商人と並ぶ日本三大商人とされ、天秤棒で担いで行商の旅をする姿でよく知られています。
なかでも「てんびんの里」をキャッチコピーとする五個荘は、行商から大商人になった近江商人が多いとされます。
重要伝統的建造物群保存地区には、近江商人屋敷の白壁の屋敷や蔵、舟板塀のある町並みが残ります。

五個荘ではひな祭りの前後1カ月に「商家に伝わるひな人形めぐり」が開催され、近江商人屋敷と風情ある町並みと豪華な雛人形が公開されます。
また、近江商人屋敷の中江準五郎邸では雛匠「東之湖」さんが製作した「清湖雛物語」が開催され、新作の人形を見るのも楽しみのひとつになります。



東之湖さんは近江新之助上布(本麻ちぢみ上布)を使い、伝統的な手法で雛人形や創作人形を作られている方です。
「清湖雛」は2004年に始まり、「清湖雛物語」に展開され、2013年からは「近江八景シリーズ」が始まり、今回遂に近江八景は完成しています。



2023年に製作された「石山秋月」は、石山寺に七日間の参籠をして「源氏物語」を書き出した紫式部をイメージしたものでしょうか。
中央が「石山秋月」で、両隣には同じく近江八景の「堅田落雁」と「瀬田の夕照」が並びます。



「清湖雛」は、湖国の自然をモチーフにして作られていますので、琵琶湖を配して四季の折々の湖国を演じています。
白砂の琵琶湖を取り囲むように「六人官女」「三井晩鐘」「矢橋帰帆」「比良の暮雪」「堅田落雁」が湖周を取り囲みます。



「比良の暮雪」は、雪に覆われた冬の終わりから春の訪れをイメージできる作品で、今頃の季節を象徴するような人形です。
湖西の比良山系を琵琶湖越しに眺めると、蓬莱山を中心にまだ標高の高い所には積雪した白い山肌が見えます



中央左には春の桜をイメージさせる十人囃子が並びます。
十人囃子の後方には「清湖雛物語」の四方の守り神の一人の「湖北の水の神」が展示。



五個荘の「商家に伝わるひな人形巡めぐり」はコロナ渦で緊急事態宣言が発令された年の3月に訪れたのが最後になります。
4年振りに訪れた人形巡めぐりで変わったなぁと感じたのは各商人屋敷に「吊るし雛」の展示が多かったことでした。

江戸時代の頃は、雛人形はとても高価なものだったため、一部の裕福な家庭で飾られるのみで一般家庭ではなかなか手にはいらないものだったといいます。
「吊るし雛」は生まれてきた子供の成長を祝うため、祖母や親戚・近所の人が人形を布で作って持ち寄り、ひな祭りの時に吊るしたものだそうです。



庶民的な「吊るし雛」とは対照的に、平安時代の京都の寝殿(天皇が居住していた宮殿)を模したのが「御殿飾り」の雛人形です。
「御殿飾り」は明治・大正から戦後にかけて流行したとされますが、こんな豪華絢爛なお雛様を飾ることが出来た家庭は限られていたのではないでしょうか。



「御殿飾り」が作り始められた頃には、屋根のない「源氏枠飾り」と呼ばれる雛人形もあったそうです。
この雛人形は明治45年生まれの方の雛人形だそうで、109年経ち昔は高価なものだったので大切に受け継がれているとありました。



中江準五郎邸の蔵には五個荘小幡町で江戸時代から明治時代にかけて作られた郷土玩具「小幡でこ」が展示されています。
五個荘は中山道に面していたことから、往来する人の土産や玩具として伏見人形の製法を工夫して「小幡でこ」を考案したそうです。



「小幡でこ」は300年の歴史があるとされ、明治初期までは4~5軒のお店があったものの、現在は本家九代目の細居家だたひとりになったそうです。
人形の種類は、節句人形や十二支などの縁起物など約400種類あるようですが、需要が減ってきて後継者問題も抱えているようです。



「御殿飾り」や「源氏枠飾り」が展示されていたのは「外村繁邸」ですが、ここにもたくさんの「吊るし雛」が飾られていました。
「吊るし雛」には“うさぎ”“鶴・亀・這い子・去るボボ・羽子板・独楽など縁起の良い飾りが吊るされ、女子の生まれた家の初節句のお祝いをしたようです。





近江商人屋敷の3つ目はスキー毛糸で一代にして財を成した藤井彦四郎邸を訪れます。
総面積8155.3平方メートルの中に総ヒノキ造りの客殿や主屋に土蔵、ログハウス風の洋館など豪商ゆえの豪邸です。

公開されている近江商人屋敷は庭園も見事なのですが、藤井彦四郎邸の池泉回遊式庭園は約25mプール8個分という広大な庭園です。
この御屋敷は、皇族方や貴賓客を迎える為の迎賓館として造営されたのですが、そこには地元の雇用促進の意味合いもあったようです。
変わり種の雛人形は、花(絞り布)のお雛さまで、内裏雛はボタン・三人官女は八重クレマチス・七人囃子はパンジーで下2段を含めて5段の雛人形となっている。



もうひとつ珍しい雛人形は、打掛の前の「狆引き官女」の人形です。
狆(ちん)は、日本原産の愛玩犬で5代将軍・徳川綱吉の時代には江戸城で座敷犬・抱き犬として飼育された改良犬だという。

昔はお産で命を亡くしたり、乳児の死亡率の高かったため、お産が軽く育ちやすい犬に安産と子供の健やかな成長を願って飾られたそうです。
「狆引き官女」は昭和初期まで雛飾りのひとつとして飾られていたそうですが、見るのは初めて。
官女がひいている座敷犬の狆(ちん)は、白黒の可愛らしい小さな犬です。



客間には大正から昭和にかけて制作された段飾りのお雛様が並び、七段飾り(「十五人飾り」)はよく見たオーソドックスな雛人形です。
市松人形が飾られていますが、姉妹に一人一対のお雛様を飾れない場合、二人目からは市松人形を贈ったりしたようです。



「節句」は年に5日あり、人日(七草)上巳(桃)端午(菖蒲)七夕(星まつり)重陽(菊)が定められています。
五節句は季節の変わり目でその邪気を払い、無病息災や子孫繁栄を願う伝統行事で、それぞれの節句に意味があるようですね。


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