僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

湖北の巨樹を巡る1~伊香具神社「一ノ宮の白樺」と「西物部の野大神」~

2020-05-31 07:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 ここ数年の間、寺院や神社へ参拝することが増えていて、その中で「仏像・建造物・庭・石仏・摩崖仏・磐座・遺跡」など関心事は広がるばかり。
神社仏閣を参拝した時などに巨樹に出会うことが多々あり、その姿にも魅力を感じ、関心をひかれます。

巨樹の一つの魅力は人工物ではなく、あくまで自然のなしうる姿であり、その迫力や生命感にひかれるとともに、創作では真似できない造形の美しさと神々しさには信仰に近いものまで感じてしまいます。
長浜市木之本町の大音にある「伊香具神社」の数百m先の「一ノ宮神社」に「野大神」こと「一ノ宮の白樫」という巨樹があると聞き、立ち寄りました。



「一ノ宮神社」は、元は伊香具神社の一ノ宮であったといい、御祭神に天之押雲命を祀る神社として独立しています。
神社は「鞘堂」があるのみですが、この鞘堂は戦前に伊香具小学校にあった「奉安殿(御真影や教育勅語などを収めていた建物)」を昭和20年に移したものだといいます。
「奉安殿」は、敗戦の年にGHQによって廃止されたそうですが、今も神社として残されているのは不思議な感じがするとともに、戦時を伝える資料なのかと思います。



「野大神」の石碑の奥にある白樫は、樹冠がこんもりと茂り、樹冠は周辺の杉との境目が遠目では分からないほど茂っている。
枝の下に入って幹を見ると、大きな空洞があるものの樹冠の茂り方からすると樹勢は良いのでしょう。



まじかに見ると根が数本に分かれていて、さながら恐竜が立ち上がったような姿をしており、上へと延びる幹が首のようにも見える。
この部分だけを何かに見立てると“麒麟”のような姿です。



「一ノ宮の白樫」を裏から見ると2幹に分かれているが、元は1本の樹であったとされています。
推定樹齢400年、注連縄の巻かれている幹は10m近くはありそうで、樹高は20mとされる。
山側の幹は苔むしており、周辺に草があまり生えていないのは地元の人が手を入れて野神さんとして守られているからなのでしょう。



<西物部の野大神>

「伊香具神社」の御祭神「伊香津臣命」を祖とする伊香氏には、「物部氏」の近縁であるという説や「中臣氏(藤原氏)」の祖であるという説がありますが、高月町には物部という集落が存在します。
湖北には物部氏とつながる伝承が幾つかあるとはいえ、氏名そのものの“物部”を名乗る村があるというのも興味深い話です。
しかも物部集落には「西物部の野大神」と呼ばれるケヤキの巨樹があると知り、高月町西物部へと向かいます。



同じ高月町の柏原集落の「八幡神社(阿弥陀堂来光寺)」にもケヤキの巨樹(幹8.4m・樹高22m・樹齢300年)がありますが、西物部の野大神も負けず劣らずの巨樹です。
「柏原の野大神」は幹が太くゴツゴツとしたケヤキの印象が強く、「西物部の野大神」は拡がるように伸びた枝が猛々しい印象を受ける



「西物部のケヤキ」は、幹周5.7m・樹高23mで推定樹齢が300年とされており、古木ゆえに枝が折れたり補修された跡がみられる。
野大神のある場所は小山のようになっているが、周辺の草は刈り取られていて、地元の人がこの樹を大事に守られていることが伺われます。



この西物部の近くの唐川という集落には「唐川の野大神」と呼ばれる推定400年の杉があったようですが、2018年の台風21号で残念ながら倒壊してしまったそうです。
2018年の台風はあちこちで大きな被害を与え、当時は倒壊した樹木と荒れた山を各所で見た記憶があり、自然災害の怖ろしさを痛感したものでした。
巨樹のある小山の横に独特の形・色をした岩がありました。何か謂れや由来のある岩なのかもしれません。



ところで、「西物部のケヤキ」から西の方向を見ると、樹勢の良さそうなスギの大木がある神社が見えます。
神社は「八幡神社」といい、聳え立つように真っすぐに伸びたスギは名木にはカウントされてはいませんが、中々の巨樹です。



この日、樹木伐採の業者の方が境内の樹を伐採されており、クレーンも来ていましたので切られてしまうのかと思い、写真を残させていただきました。
自然災害等で倒壊すれば神社は元より、周辺の家にも被害が出ますから伐られるのもやむを得ないことだと思います。



後日、どうなったか確認に訪れると、上の方の枝が何本かは枝打ちされていたものの、主幹はしっかり残されて健在でした。
「野大神」は、「御霊木」として祀られたり、集落の入口で結界の役割を果たしたりしますが、湖北では豊作祈願として野の神を祀る風習があるといいます。
巨樹を見て神々しさを感じるのは、人の手では成せない自然の力(神の力)を感じてしまうからともいえます。


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「伊香具神社の八重桜」~滋賀県長浜市木之本町~

2020-05-28 06:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市旧木之本町大音にある「伊香具神社」には、「伊香式鳥居」という一風変わった鳥居があり、空海が掘り当てたという浄水源の伝承が残されているといいます。
また、参道に並び咲く八重桜が見頃を迎えようとしているということもあり、賤ヶ岳の東麓にある大音の集落へと向かいました。

香具山(伊香山)を神奈備とする「伊香具神社」は、賤ヶ岳を挟んで反対側には余呉湖と琵琶湖があり、長浜市の最北西にあたる場所にある静かな集落です。
参拝者が多いのを避けたくて早朝に参拝しましたので、100mほどはあるかと思われる長い参道に人影はなく、早朝の神社を心地よく歩く。



「伊香具神社」の創建は、天武天皇白鳳10年(681年、由緒書きには660年頃)以前と伝わり、「伊香津臣命」を御祭神として祀ります。
「伊香津臣命」は有力豪族・伊香氏の祖であるといい、伊香氏は「物部氏」の近縁であるという説や「中臣氏(藤原氏)」の祖であるという説があり、興味深い。



当地は市町村合併までは「伊香郡木之本町大音」であり、伊香氏の名が地名に長く残っており、近隣の高月町には「物部」という地名が残る。
地名や名字にはその地の歴史の断片を示すことがありますが、物部氏の系譜には先祖に「伊香色雄」「伊香色謎」という名が出てきますので、物部氏との何らかの関係があったことが想像されます。



参道の横にある田圃はちょうど田植えの時期ということで田圃には水が張られており、リフレクションが写り込んでくれた。
大音からトンネルを抜けて海津大崎方面へ行けばソメイヨシノが咲きますが、八重桜はソメイヨシノより1カ月遅く咲くという。





一風変わった様式の鳥居は「伊香式鳥居」といい、奈良の「三輪式鳥居」と安芸の「厳島式鳥居」が組み合わさったという独特の形をしている。
かつて神社のすぐ前に「伊香小江」という湖沼があったといい、湖の神様の鳥居(厳島式)と、神奈備である香具山の山の神の鳥居(三輪式)の両方の意味があるといわれます。



この鳥居の先に湖が拡がっていたとは現在の姿からは想像が付きませんが、賤ヶ岳の向こう側にある余呉湖を想像するとよいのかも。
興味深いのは「余呉湖」と「伊香具神社」に共通して伝わる「羽衣伝説」でしょうか。
“白鳥に姿を変えた天女達が湖に飛来し、天女に恋心を抱いた伊香刀美は白い犬に衣を盗ませ、天に帰れなかった天女の一人を褄にした。”



更に余呉の「羽衣伝説」には“伊香刀美と天女の子供が菅原道真であった。”という伝説があり、伊香具神社にも道真公との親交を伝える伝承が残ります。
“9世紀後半、伊香具神社の神官・伊香厚行と親交の深かった道真公が、895年に道真公自筆の法華経・金光明経を奉納した。”

伊香具神社は織田信長の時代に領地没収の憂き目にあい、賤ヶ岳の戦で社殿・宝物は焼失してしまい、現在の「本殿」は江戸時代正徳の再建だといいます。
「拝殿」も同じ時期に再建されたとされ、残された写真を見ると萱葺の実に見事な拝殿でしたが、2018年の台風21号で倒れた杉の木によって倒壊し、現在は敷き石のみが残る。



台風被害を伝える朝日新聞の記事によると“高さ約30m・樹齢300年の杉の木が倒れ、拝殿が跡形もなくなった。境内では約20本の杉の木がなぎ倒された。”とあります。
確かに境内や裏山の各所には大きな切り株が何カ所も残り、被害の大きさと甚大さを物語っています。



「本殿」は、瑞垣に囲まれた中門から拝むことになりますが、本殿を拝むことは神奈備たる香具山(伊香山)を拝むが如く。
伊香山の中腹には磐座と「天児屋根命」を祀る奥之宮の祠があるといい、天児屋根命は中臣氏の祖であり、藤原氏の氏神でもあるといいます。



境内には日清戦争の戦没者を祀る「招魂社」や、縁結びの神としての御利益がある「臣知人命(伊香津臣命の長男)」を祀る三の宮神社がある。
また、伊香具神社にはかつて神宮寺があったとされ、弘法大師・空海にまつわる伝承が残されています。
“弘仁3年5月(812年)弘法大師がこの地の治水事業を行われた折り、伊香具神社に詣でられ「独鈷」を用いて浄水源を掘り当て、これを「独鈷水」と呼ぶ。”



実際に井戸を覗き込んでみると少量ながら水があったが、湧き出ているのか溜まっているのかは判断が付かなかった。
とはいえ、大音は「糸取りの里」とも呼ばれており、「大音の糸取り」は伊香具神社の湧き水を使って繭を煮て良質な生糸を生産してきたとされています。
大音の糸取りの歴史は平安時代の899年まで遡ることができ、戦後は衰退はしてきたものの、現在も「佃平七糸取り工房」で糸取りがされていると聞きます。





伊香具神社には弘法大師のもう一つの伝説が残されており、“かつて神社の前方にあった小江(湖沼)に住む大蛇を沼に封じ込めた。”とある。
その沼の名残りが「神宮寺の蓮池」だといい、かつて伊香鳥居の前にあったという小江を想像させる池となっています。



本殿の裏山や境内の老杉は失われてしまいましたが、まだ次世代の杉が何本も育ってきているのが未来に残る希望です。
境内の石垣を跨いであるのは何の木かは分かりませんが、嵐を生き抜いて立っていました。



大音の集落の外れには「賤ヶ岳リフト」の乗り口があり、シャガの群生が咲き誇り“シャガの花じゅうたん”の空中散歩が人気だという。
その群生の影響もあってか、大音から隣町の黒田にかけてシャガの群生が幾つか見られました。



伊香具神社には少し離れた場所に「一ノ宮神社」が祀られているといい、その近くには「一ノ宮の白樫」という巨樹があるといいます。
このところ巨樹に魅力を感じていることもあって、一ノ宮の白樫へと向かってみることにします。


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「波久奴神社」の物部守屋伝説~滋賀県長浜市~

2020-05-24 18:08:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大和朝廷の時代、物部守屋(大連)と蘇我馬子(大臣)は仏教の受け入れを巡って激しく対立したとされます。
「廃仏派」と「崇仏派」の対立には大王の皇嗣争いもあって激しさを増し、587年には蘇我馬子が物部守屋討征軍を率いて、河内の渋川へ攻め入ったという。

物部氏は軍事を司る氏族で軍勢は強力で戦いは苦戦を強いられるが、守屋が大木に登っているところを迹見赤檮が射落として殺したのが戦いを決定づけたとされ、蘇我軍は勝利をおさめたといいます。
守屋が討ち取られた地は渋川(東大阪市)ですが、滋賀県長浜市の小谷山には物部守屋が落ち延びて暮らしたという伝説があります。



守屋伝説の残るこの一帯は、かつて「田根之荘」という物部氏の領地だったといい、蘇我馬子に敗れた後当地に落ち延び、岩窟に隠遁しながら草庵を構えたといいます。
「波久奴神社(はくぬ)」は、御祭神に高皇産霊神を祀り、配祀神に物部守屋大連を祀る神社で、「物部守屋大連公 ゆかりの社」の石碑が建てられています。



この一帯には冬に飛来するガンカモの多く集まる「西池」や「小谷山」、コウノトリが飛来することもある田園地帯など野鳥好きには馴染みのある場所で、探鳥では何度も通った場所です。
「波久奴神社」の鬱蒼とした森にはサギが集まり、周辺では野鳥や動物によく出会う地でもあります。



滋賀県の地方の神社は宮司や巫女さんが常駐されるわけではなく、地域の方によって守られている神社が圧倒的に多いのですが、妙な開発はされていないため巨樹の見事な神社が多いと思います。
「波久奴神社」にかつてあった樹齢400年を超える御神木は枯傷によって伐採されたものの、境内は緑に覆われ、聞こえてくるのは小鳥の囀りと田圃のカエルの大合唱だけ。



拝殿で参拝して本殿裏の森へ回ると、少し樹木の本数が減っているように感じた。
アオサギのコロニーの糞害と騒々しさを嫌って整備されたのかもしれませんね。
裏参道の鳥居から出るとその先には「波久奴神社のケヤキ」が聳え立っている。



樹高30m・幹周6mという大木は、西池と須賀谷へ続く道の分岐点にある。
ツタが絡みついてはいるが、ケヤキ自体はまだ葉が付いていない。



神社からすぐの所に「西池」はあり、この池は物部守屋が旱魃に苦しむ農民のために造らせた溜池だと伝わります。
西池が守屋の池かどうかの確証はないようですが、冬には数々の水鳥が泳ぎ回り、観察小屋からバーディングが出来、時には思わぬ野鳥との出会いもある池です。
運が良ければオオヒシクイの姿が見られ、夏にはハスの花が咲き誇り、蝶やトンボの飛び交う楽しみの多い池です。



池奥の集落から西池を見ると堰堤・護岸工事はされているものの、57haの農業用調整池としてはかなり大きな溜池になります。
探鳥の時は池のこちら側へくることはありませんが、今回は守屋が隠遁したという「本宮の岩屋」を探しに来ています。



小谷山の中腹に「本宮の岩屋」はあると思うのですが、熊などの動物捕獲用の檻があったりする。
小谷山周辺でシカやイノシシを見たことはあるが、この辺りにはクマも出没するようである。



獣除けで閉じられた柵を開けて中を歩き出すが、道中にも檻が仕掛けられていたりするのでどんどん不安が増していく。
道ははっきりとしてはいるが弱気になってしまって後戻りする。今度は人の姿がある時に出直そう。



...ということで守屋の隠遁した岩窟は諦めて、この地域に点在する巨樹を見て回ることにする。
「素盞烏命神社(スサノオノミコト)」の御祭神は素盞烏命を祀る神社で、「素盞烏命神社のスギ」と呼ばれる巨樹が素晴らしい。



「素盞烏命神社の杉」は2本の杉の合体樹だと思われ、樹高20m・幹周6.4mで樹齢は推定500年だという。
巨大な杉の横には「天然記念物素盞烏命神社藤」の石碑があり、渦巻くような根や枝を張った藤の木がある。(戦後に国の天然記念物から外された)



この神社には別に「老藤(二株)」があり、樹齢は何と390年以上だという。
老木ゆえに花は小さく知人でしまい、藤とは思えないくらいだといいます。





最後に向かったのが「岡高神社の杉」。
「岡高神社」は、「菅原道真公」と「素盞嗚尊(スサノオノミコト)」を祭神として祀る神社で、拝殿の前に巨大な2本合体杉がある。



樹高は22mあり、幹周は9.8mとなっているが、幹は根っこの部分だけがつながり、2本の杉が開くように立つため、実際の幹は5~6mの杉が2本なのでしょう。
樹齢は400年とされており、左右対称な根っこを持った兄弟杉のように見える。



物部守屋が長浜市奥池の岩屋に隠遁したという伝承が事実かどうかはともかく、八十物部と称されるほど同姓氏族が多かったので物部一族の誰かが居住していたのかもしれません。
関係あるかはどうか不明なものの、高月町には“物部(ものべ)”という地名が残りますし、“物部遺跡”という弥生時代の遺跡もあるようです。


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「下丹生古墳」と「磯崎神社の磐座と烏帽子岩」~滋賀県米原市~

2020-05-21 18:38:38 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 米原市には「ヤマトタケル(日本武尊)」にまつわる伝承が幾つか残されており、「伊吹山」「居醒の清水(醒ヶ井」「磯」にその伝承が残ります。
「伊吹山」には“伊吹山の荒ぶる神を退治に向かい、伊吹山の神である白猪をののしったことにより、神の怒りを買い、雹に打たれて傷ついた。”という伝承がある。

「居醒の清水」には“伊吹山の雹によって傷ついたヤマトタケルが居醒の清水湧き水を飲んで正気を取り戻し、大和の国へ出立した。”という伝承があります。
また、琵琶湖に面した「磯」集落には居醒の清水の伝承に反して“伊吹山で傷ついたヤマトタケルは琵琶湖の畔まで辿り着いたものの、息絶えてしまい、磯の地に葬られた墓から大きな白鳥が飛び立って行った。”という伝承が残る。

醒ヶ井駅からすぐの距離にある「居醒の清水」から、丹生川をさかのぼっていった所には「下丹生古墳」が残されているといいます。
ヤマトタケルとは関係はありませんが、古代の米原に興味を感じて古墳へと向かいました。



河川に“丹生川”と名が付き、上丹生・下丹生という集落があることから、かつて丹生(水銀)採掘が行われていた地と思われ、古墳があるということは古代に丹を採掘していた豪族がいたことになります。
米原市教育委員会の解説文では「息長丹生真人」の一族の墳墓と考えられており、息長氏は古代に現在の米原市のほぼ全域を本拠とした豪族だといいます。



車1台通るのがやっとの林道に少々怯むが、難なく古墳のある場所に到着する。
「下丹生古墳」は古墳時代後期の6世紀後半に築造された円墳で、標高150mの見晴らしの良い場所に築かれているのは眺望を意識した立地だといいます。



古墳の規模は直径14.5m、高さ3.5mあるといい、石室の全長は7.5m。玄室の大きさは長さ5.3m、幅1.6m・高さ1.2m・通路部分は2.2mと奥の深い石室となっている。
入口は麓の集落を見下ろすような方向にあるのは、「息長丹生真人」の一族の権威の象徴となっているようにも受け取れる。



奥に長い石室は高さが低く、内部が真っ暗で奥にまで這って行く勇気はなかったが、入口から少し入って中の様子を伺う。
幸いにして暗闇に光る眼などはありませんでしたが、山の中の深い穴ですから少々不気味です。



ところで、ヤマトタケルは伊吹山の神の怒りにふれ、伊勢の能褒野で死んだいうのが一般的ですが、米原市の磯では伊吹山で傷ついたヤマトタケルが琵琶湖畔で亡くなり、磯山に葬られたという伝承が残ります。
葬られた磯山には現在は道路工事によって消滅した「ヒジリ山古墳」「神塚古墳」「円山西古墳」など古墳の密集地となっており、琵琶湖に面した場所には「磯崎神社」が祀られています。



「磯崎神社」は、湖岸道路を通ると彦根市と米原市の境目にある神社で、大きな「不動明王石仏」と琵琶湖に突き出したような「烏帽子岩」が気になっている場所でした。
縁起によると創建は、ヤマトタケルが磯の地で亡くなった時に御陵を築いたのが最初とされ、その後聖武天皇の勅命で社殿が建立され、江戸時代に彦根井伊藩によって再建されたといいます。



琵琶湖と道路を挟んだ場所にあるのは鳥居のみで、本殿は磯山の上まで行かなければ参拝出来ない。
石段を登って行って気が付くのは石灯籠の多さ。
磯崎神社では毎年5月にヤマトタケルの蝦夷討伐を模した「磯武者行列」の例祭が行われるといい、石灯籠を奉納される方が多いのかと思います。



参道や境内には末社の祠が幾つか並び、山の高台には清楚な本殿が建ち、右横には大きな磐座が祀られている。
本殿の後方には「後宮(宝篋印塔)」の祠があり、そこが磯山の西の行き止まりとなる。



巨石群は、注連縄の巻かれた磐座を幾つかの岩で支えているようであり、横には磐座に向かって踏みしめられた道がある。
この磐座がいつからあったか等は不明ですが、低山ながら古墳の密集地ですから石の文化が根付いていたのでしょう。



現在は干拓されていますが、かつて磯の地の周辺は内湖が広がっていたといい、昔は琵琶湖に突き出した半島のようだったとされます。
また、磯村の隣の朝妻筑摩の一部は1819年の大地震によって湖底に沈み(尚江千軒遺跡)といいますから、磐座はここに座して数々の歴史を見てきたのでしょう。



磐座を支える巨石の隙間からは岩を抱きかかえるようにして根を張った樹木があります。
よくこんな生え方したものだと感心してしまう生命力の強さを感じます。



「磯崎神社」の磐座は本堂の裏側から眺めた方がその巨大さがよく分かります。
山の斜面にただ乗っているだけのように不安定な姿に見えますが、うまく支えられているようです。



神社とは反対側の方向に鳥居があり、稜線づたいに緩やかな道を歩くことが出来る。
道の先には縄文時代の遺跡「磯山城遺跡」や戦国時代に城のあった「磯山城跡」があるようだったが、特に何もなさそうなので折り返して戻る。



さて、磯山からの眺望です。
こういう光景を眺めると、琵琶湖が海のように大きく広く見えます。
琵琶湖の水は山の中腹から見ても透き通るように透明で、岸辺には「烏帽子岩」が見えます。



車で通る時に車中から少し見ただけの烏帽子岩は、実はこのような巨石群でした。
水鳥も少ないながらに見えたが、もうヒドリガモ・キンクロハジロ・オオバン程度になっており、膨大な数のカモが浮いていた冬のシーズンは過ぎ去っています。



次は場所を変えて琵琶湖の岸辺から烏帽子岩を眺める。
“磯で亡くなったヤマトタケルの墓標として烏帽子岩を置いた。”とも伝わるこの巨石は、北側から眺めると「烏帽子岩」となり、東側から眺めると「結びの岩」となる。



「磯崎神社」のすぐ近くの湖岸道路のコーナー部に祀られているのは「不動明王石仏」です。
この不動明王は磯崎神社のものか、別の関係のものかなどは全く分かりませんが、湖岸道路を走行すれば必ず目に入ってくる石仏です。



これは近江の国に限ったことではありませんが、県内各所に縄文時代・弥生時代・古墳時代の痕跡が残っているのは興味深い話です。
縄文時代には既に各地との交易ネットワークがあったことが遺跡からの出土品から確認されているといいます。


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「荒神山神社」と「荒神山古墳」~滋賀県彦根市~

2020-05-17 17:39:39 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県彦根市にある荒神山は、琵琶湖の湖岸近くにある標高284mの独立峰で、少し離れた高台から見ると平野部にぽつんとある山になります。
麓には一級河川・宇曽川が流れ、かつて琵琶湖の内湖だったという曽根沼や野田沼がある風光明媚な地域といえます。

荒神山の山頂には奈良時代の僧・行基に由来を持つ「荒神山神社」が現在も崇敬されています。
荒神山神社は天智天皇の時代から近江国の祓殿として祀られていたといい、聖武天皇の時代に行基によって三宝大荒神(大日・不動・文殊の三体)を祀り、「奥山寺」として開山されたといいます。



奥山寺は天台宗寺院となったため、戦国時代には織田信長の兵によって焼失してしまうも、彦根藩・井伊家の莫大な寄進や建物修築等によって保護されてきたといいます。
しかし明治の時代、神仏分離により奥山寺は廃寺となり、神仏分離後は荒神山神社として主座に「火産霊神」「奥津日子神」「奥津比売神」の火とかまどの三柱を祀り、相殿には祓戸大神(四柱)を祀ります。



神社へは旧参道の石段からも登れるようですが、今回は林道を歩いて参拝したため、石段はわずかに登ったのみ。
まるで山城のような石垣の中に荒神山神社はあり、井伊直弼が彦根に築城の折の候補地のひとつだったともされます。
琵琶湖に近く、内湖があるため湖上水運の利便性と山城の防御のしやすさを考えると、居城としての機能を満たした場所だったのでしょう。



石段の最終地点には一際目を引く御神木「璞(だま)の木」がある。
璞の木はモクレン科の小賀玉の木であり、行基菩薩が伊勢の神宮から苗を授かってこられ植えられたとの伝承が残る。

この御神木は、苔に覆われた幹もさることながら痛みで空洞になった幹から別の木が芽生えている不思議な木となっている。
1本の木に桜やヒノキなど5種類程度の木が宿っている姿は、生命感を感じると共に神々しさを感じてしまう。



荒神山は墓所の多い山に思えたが、本殿のエリアには明るい気が満ちているような印象を受けた。
「拝殿」と「本殿」は、神仏分離後に神社となったことから明治期の建造物であり、「渡殿」でつながっているようです。





拝殿には「三宝大荒神」の扁額があり、遠く奈良時代からのこの山の信仰が感じられる。
建造物には過剰な装飾はなくいたってシンプルな造りとなっており、本殿の脇には「神饌所」、境内には「神楽殿 」と並んでいる。



境内には「神牛」が祀られていて天神さんでもないのに何で祀られているのか不思議に思ったが、“神牛の由来”の説明板を読んで納得。
“農耕を手作業で行っていた頃、牛は農家にとって大変貴重な存在でした。牛に三度々々の餌(藁)を与えるのに大きな釜で一度煮ていた。そのような関係で牛に「かまど」は付き物であった。”
“それ故に牛は「かまど」の神である荒神さんのお使いになった。”というのが神牛の由来だといいます。



荒神山神社の裏てには苔の綺麗な庭園があり、石灯籠や変わった形の石材が置かれています。
後で分かったのですが、下の写真の一番右にかろうじて写っている石灯籠は秀吉が寄進したと伝わる灯籠で火口に「天正一二年二月吉日」の銘が彫られているといいます。
手前にあった梵字が刻まれた塔に目がいってしまっての見落としでした。



庭園にはキノコのような変わった形の石や祠もあり庭園内を歩いていると、木陰からシロハラが飛び出す姿も見える。
さほど広くはない庭園とはいえ、山の中にあって情緒豊かな庭園だったといえます。



荒神山の山頂付近を散策していると「荒神山古墳」への案内板を見つけた。
荒神山古墳は古墳時代前期末(4世紀末)に築造された「前方後円墳」だといい、全長124mの大きな古墳は滋賀県で第2位の規模だとされます。

荒神山ではこの古墳以外にも10数基の古墳の築造が確認されているらしく、4世紀頃にはこの地に有力な方が被葬されていたのかと考えられているようです。
琵琶湖に面して湖上交通に恵まれたこの被葬者は、ヤマト政権・日本海・東海の要所として重要な古墳として位置付けられているようです。



距離的には古墳に辿り着いていると思いながらも、古墳が見当たらない。
看板があったので見てみると“前の小山が荒神山古墳です。”とある。
石室が見える古墳へ行くことが多いので、墳丘に覆われた古墳をまじかに見ても小山にしか見えなかったのです。



それでも一応、古墳の周囲を一回りして何かないか探してみるが、墓地があったのみで前方後円墳のどの位置にいるのか分からない。
古墳からは埴輪(円筒埴輪・壺形埴輪・形象埴輪)が出土しているといい、墳丘の1段目・2段目・墳頂部に埴輪が多量配列されていたといいます。





古墳の周囲を歩いていた時に見つけたのは“板碑”らしき石仏でした。
頭部は布が掛けられていて見えないが、二条線と思わしきものが彫られている。
滋賀県で板碑は珍しく、荒神山の中腹にある千手寺にも板碑があったことから、この地域には板碑の文化が伝わっていたのかと思います。



これで折り返そうとすると“三角点”への案内板を見つけてしまう。
せっかくなので三角点のある場所まで歩いていくと八角形の東屋があり、その前に三角点があった。
三角点は標高261.5mの位置にあり、点名は「日夏山」というようです。



荒神山からの眺望は素晴らしく、すぐ前に曽根沼を挟んで琵琶湖が見えます。
琵琶湖にポツンと浮かんでいるような島は“多景島”でしょうか。
天気が悪いながらも絶景です。



別の方向を見ると田園地帯と工場や住宅があり、霞んでしまってよく分からないものの、甲良とかの方角になるのだろうか。
田圃に水を張って田植えの準備をする頃になれば鏡のような田園風景が望めることでしょう。



山を下りて琵琶湖方面へと向かう道すがら荒神山を眺める。
荒神山には林道・登山道が幾つかあり、好きなコースを歩くことが出来るが、注意点に“スズメバチ・マムシ・イノシシなどと出くわしたらそっと離れましょう。”と書かれている。
独立峰であってもイノシシが生息しているのは驚く。いずれにしても出会いたくはない連中です。




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石頭山 千手寺の「地蔵摩崖仏」と「六体地蔵笠板碑」~滋賀県彦根市~

2020-05-14 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 彦根市の中西部の平野部に“荒神山”という標高284mの独立峰があり、山中には奈良時代の僧・行基が開いたと伝えられる「千手寺」という寺院があります。
「千手寺」は後に天台宗の寺院となったようですが、信長の兵火によって荒廃してしまい、1650年になって臨済宗妙心寺派の寺院として再興されたといいます。

寺院には「木造僧形座像(中国・唐時代)」や天台系三尊である「木造千手観音立像(平安期)」が脇侍の「毘沙門天立像・不動明王立像(室町期)」と共に祀られているといいます。
また、「木造僧形阿難尊者(平安期)」も祀られているようですが、堂内の通常拝観は出来ないようです。



では、なぜ参拝に訪れたかというと、参道の石段に「地蔵摩崖仏」と「六体地蔵笠板碑」が祀られていると聞き、その摩崖仏と板碑を探しにいったのです。
荒神山には舗装された林道や整備された山道があるため、ウォーキング・ジョキングの方が多かったのには驚きましたが、とにかく会う方がみんな愛想が良かったので気持ちよく歩けました。



荒神山には山頂近くに「荒神山神社」、麓には「唐崎神社」「天満天神社」「稲村神社」の社があり、寺院も中腹に「千手寺」、麓にある「延寿禅寺」と神仏習合の山だったようです。
荒神山の信仰は、行基が「三宝大荒神」を祀ったことを起源とするようであり、山岳信仰に神道・天台密教が混合した霊山だったと考えられます。



石段は林道で分断され、前半の石段は約120段程度。傾斜が緩いため歩きやすい。
前半の石段を登っていくと目的であった「地蔵摩崖仏」と「六体地蔵笠板碑」へ辿り着く。
花が供えられているのは寺の方か地元の方かは不明ですが、供えられて日が経っていないのは花の鮮度で分かる。





「地蔵摩崖仏」は上半身と下半身の間で割れてしまっているのが痛々しいが、地蔵菩薩ゆえに自分が傷んでも衆生を救うとの決意を思い浮かべる。
室町期の摩崖仏ともいわれるこの石仏は、信長軍が攻めてきた時も同じようにここで佇んで人々の行動を見続けてこられたのでしょう。





「板碑」は関東地方に多いとされているもので、関西では見かける機会が少ないように思います。
「六体地蔵笠板碑」は仏が2躰づつ3段になって彫られているが、台座は宝塔の笠部を逆さまにして使っているように見える。



板碑は一般的に、鎌倉期~南北朝期・室町期を中心に造られ、江戸時代には造られなくなったといわれます。
そうするとこの板碑は、室町期の頃に造られてその後に組み替えられたものなのかもしれません。



摩崖仏と板碑が祀られている場所から石段を登り切って林道に出ると、次は後半の石段登りが始まる。
後半の石段は100段程度でしょうか。緩やかな上に先が見えているのであっという間に登れてしまう。
石段の途中にある電柱には郵便受けがありましたが、郵便屋さんは石段の途中まで配達してくれるようですね。



石段の先には砦のような石垣で囲まれた千手寺の「三門」があります。
千手寺は江戸時代初期に再興されたといいますから、石垣はその当時に築かれたものかもしれません。



三門から入山すると、すぐ横に「八角霊堂」と呼ばれる供養堂があり、永代供養の御堂になっているようです。
山側には墓地もあり、菩提を弔う供養の寺といった空気が漂います。



正面にあるのは「観音堂」で、「観音堂」と「本堂」はつながった建物となっており、さらに庫裡へもつながっています。
「観音堂」の前にある「地蔵堂」には「木造地蔵菩薩立像」が祀られていて、お地蔵さんの周囲には多くの位牌が安置されています。



「本堂」はかなり横長の建造物となっているが、内部がどうなっているかは分からない。
臨済宗の寺院ですから、おそらく座禅や公案の道場となっているかと推測します。



観音堂の左には手水と小さな祠があり、『禅僧の水汲み径や竹の春』の石標。
「竹の春」は、「春」と書いて「秋」の季語だといい、竹の新葉の盛りである秋の季節を「竹の春」とするといいます。
真っ直ぐに自分の時間を生きている竹に、禅僧が思うがままにまっすぐに行う水汲みの径をかけているのかも知れません。



苔の生えた庭園状の所には石像がちょこんと祀られています。
何の石像を意味しているのか分かりませんが、役行者のようにも見えます。



境内には古そうな「石造宝塔」がありましたので、年代など文字を読み取ろうとしたが判読できなかった。
三本筋塀の前に立つ石造宝塔は雰囲気たっぷりですが、横に表示されている73の数字は何を意味しているのでしょう。



蔵の横にも石灯籠がありますが、何か違和感を感じる石燈籠となっている。
上の部分が玉・笠・火袋・受・足の「雪見灯篭」となっているにも関わらず、下の部分は受鉢・柱・地輪の石灯籠となっている。
参道にあった「六体地蔵笠板碑」も奇妙な組み合わせとなっていたが、この石灯籠も別の灯籠を組み合わせたように見えてしまいます。



千手寺に祀られている「木造千手観音立像」を検索すると、細面で手の長い美しい仏像のようです。
臨済宗妙心寺派の寺院へと変わりながらも、天台宗寺院の仏像が残されているのは興味深い。
林道はウォーキングの方が絶えないが、寺院の境内はひっそりとしたもので人の姿はなく、静かに菩提を弔う寺院との印象を強く感じました。
(2020年3月下旬 参拝)


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樽崎古墳群「樽崎1号墳」~滋賀県多賀町~

2020-05-10 16:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 多賀大社・胡宮神社の南方、犬上川の扇状地では「樽崎古墳群」と呼ばれる61基の古墳が確認されているそうです。
発掘された古墳は円墳がほとんどを占め、直径4m~20m程度の円墳が並ぶ古墳群であったとされます。

樽崎古墳群のなかで現存するのは「樽崎1号墳」のみであるといい、樽崎1号墳はこの古墳群のなかでも最大規模の古墳とされます。
田園地帯にぽっこりと残る古墳の周囲は公園として整備され、地元の小さな子供たちの遊び場にもなっているのかもしれません。



樽崎古墳群の石室からは鉄製の武具・工具・馬具・耳環などの装身具類が出土しているといい、古墳群は扇状地の開拓に主導的な役割を果たした有力豪族の墓域だったと推定されている。
研究者の間では出土品や石室の特徴から渡来系氏族との関係が考えられており、渡来人と近江の関わりがここでも伺われます。



樽崎1号墳は、直径15.5m以上あり、埋葬施設は全長10.6mの横穴式石室(片袖型)の円墳で、6世紀半ばに築造されたものと推定されている。
古墳としては後期~終末期になるのかと思われますが、渡来人が日本にやってきて仏教が公伝された頃には既にこの地に古墳文化が根付いていたようです。

この古墳は石室の入口がぽっかりと開いており、反対側にも穴が開いているため無理をすれば通り抜けることさえ可能となっている。
ただし、奥の壁側の入口は隙間が狭く勾配があるため、ここから入るのには無理がある。



石室への入口側へと回り込むと高さ3m、幅2mの石室への道があるため、内部へと入らせてもらう。
羨道は元々は墳丘の中に埋められていたと思いますが、発掘して整備された時に今のような形で残されたのでしょう。





石室の内部は幅もあって窮屈な空間ではないが、内部にいる時に大地震がきたら、この石室に埋葬されてしまうような怖さもある。
こんな巨石を掘り出して、絶妙なバランスで組み上げたことからは、高度な技術があったことが推定されます。



天井を見上げると巨石の数々。
どういう人物がここに埋葬されたかは知る由もありませんが、犬上川の周辺にはよほど力のあった一族が暮らしていたのでしょう。



樽崎1号墳の石室入口と奥壁が開いているため内部には日が差しており、“暗闇にいても、必ず先には光が見える。”と変な感慨に耽ってしまう。
この古墳の近くに、古墳のような石積みがありましたが、もしかすると樽崎古墳群で発掘された石室の一部が移築されていたのかと思われます。



隣の愛知郡には依智秦氏という渡来人の一族が暮らし、犬上群の名の元となった犬上氏は最後となる遣隋使を輩出した一族であるといいます。
渡来人が多く住み、文化を築いていった犬上郡周辺の地には“多賀大社・胡宮神社・大瀧神社・犬上神社”など幾つかの古社があります。
湖東地域には古墳群が多くあり、古代神道と渡来人との関係が謎です。
(2020年3月中旬)


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「清凉山 明王寺」~滋賀県甲賀市~

2020-05-06 15:26:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県甲賀市には「甲賀三霊山」と呼ばれる修験の山伏の修行場、あるいは甲賀忍者の修練場とされる3つの霊山があるといいます。
三霊山は「飯道山」「岩尾山」「庚申山」のことを示し、いずれの山も巨岩信仰や自然石信仰・山岳信仰のメッカとされてきた山になるようです。

甲賀三霊山の一つ岩尾山の麓には「清凉山 明王寺」という天台宗の寺院があり、五大明王を祀っているといいます。
甲南町の低山を背負うように建つこの寺院には、整備された池泉回遊式庭園もあって非常に心落ち着く寺院だと感じられます。



明王寺は伝教大師が比叡山諸堂を建立する際に当地に用材を求めた折に、杣人(きこりの意)の間に悪病が流行したという。
伝教大師が『五大明王を安置すべし』との霊夢を見て、五大明王を安置したところ病は平癒したといい、一宇の寺を建立して祈願道場としたのが始まりと伝わります。



境内の左側には奉納された地蔵石仏が並び、墓石や五輪塔を供養するため積み上げている場所がある。
そこを冥途とするならば、つながるように造園された池泉回遊式庭園は極楽へと向かう道筋なのか。



池は参道の横で本堂のある上へと向かい、参道を挟んで池は終わりとなる。
山の方からは季節柄ウグイスの囀りが聞こえ、日差しも暖かったため妙に和んでしまい、腰かけてボーとしたくなる気持ちが沸き起こってくる。



池の畔には十三重の石塔が立ち、本堂への案内をしてくれるようでもある。
やや細身の十三重塔であり、本堂の前に建つ十三重塔もスリムな塔であった。



落ち着いたところで本堂へと向かいますが、池に掛かる橋の右手には満開の白梅がいい香りを漂わせている。
花の季節や紅葉の季節の境内には美しい光景が広がることでしょう。



本堂は古刹というまでの古さは感じないものの、山中の古寺の良さを感じることができ、人の姿は全くない。
堂宇の左右でつっかえ棒が支えているが、強風対策あるいは例年なら雪の多そうな地域ゆえなのかもしれない。





まず拝所でお参りをすると正面にはしめ縄が掛けられてあり、稲には米がついている。
“伝教大師が五大明王を刻み疫病を抑えた処、その年の五穀が豊作となった”という寺院の縁起に由来しているのだろう。



外陣に入ると護摩行の儀式に焚かれる護摩木の奉納場所がある。
護摩供は毎月28日に行われるといい、決められた日には山祈祷大般若護摩供や盂蘭盆会施餓鬼供の儀式が行われるようです。
内陣との境に設けられた龍の欄間は細工が細かく力感があります。



内陣の須弥壇の中央には「不動明王坐像」を中心として「降三世明王」「 軍荼利明王」「 大威徳明王」「 金剛夜叉明王」の五大明王が祀られている。
須弥壇の左側には「不動明王立像」、右側には「十一面観音菩薩立像?」が祀られた見応えのある仏像が並びます。
外陣からしか拝観できないため細部を見ることが出来ず、後方に祀られている明王の姿ははっきりとはしないが、不動明王は実にいい表情をされています。





意外に感じたのは向かって右側に祀られた「徳川四代将軍の位牌(家康・家忠・家光・家綱)」です。
一般的に甲賀流忍者は六角氏→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と仕える相手を変えていったといいますが、江戸時代には伊賀忍者が優遇されて甲賀忍者は窮していたとされています。

そういった状況の中で「徳川四代将軍の位牌」を祀り続けているのは少し不思議にも感じます。
危険な城攻めの前線などに投入されたり諜報活動をして影の貢献をした忍者は秀吉に改易されたり、江戸時代に冷遇されたりされながらも、波乱の世をしたたかに生きていたのでしょう。



拝観順位が後先になってしまいましたが、見晴らしの良い高台にある鐘楼堂へ行く。
梵鐘には“鋳匠 黄地佐平謹鋳”“謹鋳 昭和四十年”の銘があり、現在も伝統的な技法を守って鋳造する技術が伝えられているといいます。
本堂と同様に鐘楼堂にもしめ縄が掛けられ、ふくよかに実った稲穂が祀られている。





本堂の横の小山のようになっている場所には「浅間菩薩」と呼ばれる石仏が祀られている。
詳しいことは分からないが、浅間菩薩というからには浅間(せんげん)信仰や富士信仰から来ているのかと想像する。

甲賀市を流れて野洲川へと合流する杣川流域には“富士浅間(ふじせんげん)信仰”が盛んだった地とされており、現在も“浅間祭り”という神仏が習合したような祭典が行われているといいます。
富士浅間信仰には山岳信仰や修験道の要素があるとされていますから、修験道の盛んだった甲賀の地に、浅間菩薩が祀られているのも何となく納得のいく話に思えます。



また同じ小山の上には「山の神」と名付けられている磐座がありました。
山の神は巨石という大きさではありませんが、磐座とされているのか、山に見立てられているのか。
後方には御神木がありますので祈願所になっているのかもしれません。



よく整備された池泉回遊式庭園を見ていると穏やかで落ち着きのある寺院の佇まいにすっかり和んでしまいました。
とはいえ修験道と天台宗および神道との習合などの歴史があったであろう寺院であり、“甲賀と富士浅間信仰”の一端を見ることが出来たことに興味を感じます。
(2020年3月初旬 拝観)


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「岩尾山 息障寺」の摩崖仏~滋賀県甲賀市甲南町~

2020-05-03 11:35:35 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県と三重県の県境にある岩尾山(標高471m)の中腹にある寺院「息障寺」には奇岩・巨岩が聳え立ち、奥之院には像高5mにおよぶ不動明王の摩崖仏が彫られているという。
「息障寺」は最澄が比叡山延暦寺を開山する時に、用材をこの山に求めたところ大蛇が木こりの道を妨げたため、最澄が禁竜の法で大蛇を倒し、木を伐りだすことが出来たとの伝承があります。

切り出された木材により比叡山の根本中堂が建設され、その報恩のため「息障寺」が開山されたといいます。
寺院は「池原延暦寺」と称されたと伝わり、「比叡山試みの寺」とも呼ばれているという。



寺院は甲賀市から林道へ入ると“三重県伊賀市”になり、寺院の直前に“滋賀県甲賀市”となることから、まさに両県にまたがる山を挟んだ県境となります。
対向車とすれ違うのも困難なような細い九十九折りの林道には湿地のような場所も見られ、道にキジが歩いていたりする秘境への道のようなところ。



山中には至る所に巨石があり、山伏たちが山岳信仰に励んだ行場だったと考えられており、修験道が盛んだった霊山とされています。
また、甲賀流忍者の修練場だったともいい、駐車場には忍者のモニュメントが置かれていました。



寺院へつながる林道を進むと「芭蕉の句碑」の石標があり、その先が旧の参道になっているようだ。
しかし、参道はゴツゴツした岩の道が続いており、本堂までの距離も分からない。



しかも参道入口の横には「賽の河原」というどうにも気味の悪い場所があり、上方に垣間見える参道には大きな岩がゴロゴロしているのが伺われる。
周辺人の姿や気配など全くなく、山の中でたった一人の状態ではとてもじゃないけど進む勇気はなく、参道からの入山はパスさせてもらう。



林道を登りきると、入山口である「黒門」があり、その横にはとんでもない大きさの「曼荼羅岩」というが鎮座している。
参道側にせり出して下の岩が支えているようですが、入山した早々に唖然としてしまう迫力の巨岩です。



黒門には林道の途中に入口のあった旧参道がつながってきている。
参道の入口・出口しか見ていませんが、旧参道までの入り口が人里離れた山の中腹にあることを考えれば、この山が修験道の山・忍者の修練場と呼ばれる一端が感じられる。



黒門からの石段を登ると本堂・阿弥陀堂が並ぶ領域となり、険しい雰囲気から解放される。
息障寺では春の会式として毎年2月に「採燈護摩」法要が行われ、現在も天台寺院として・山伏の寺院としての会式が伝わります。



本堂の左側には「四国八十八ヵ所巡り」の入口があり、山の中を一巡りできるが、「釣鐘堂」の横にある石段から「奥之院」への道を目指す。
「釣鐘堂」の前に立つ杉の巨木の上部がへし折れているのは2018年の台風被害の影響でしょうか。



奥之院への石段は勾配の強い石段ではあるが、道の両サイドに巨岩が見られるため、さほど辛くはない。
それよりもこれから石の山へと入っていく期待感で心が躍る。



釣鐘堂からわずかな距離にあるのは「行者岩」と呼ばれる巨岩と、1385年に彫られたという「摩崖地蔵菩薩坐像」。
苔むした行者岩と接する岩に彫られた摩崖仏には覆屋が掛けられていたようだが、壊れてしまって岩の前に落ちている。



摩崖仏は舟形光背を彫りくぼめた中に像高32センチの地蔵菩薩が鎮座しておられる。
寺院の説明書きによると“至徳二年”の刻銘があるといい、至徳とは南北朝期の北朝の年号とされています。
摩崖仏に刻銘された至徳二年(1385年)は南北朝が合一される直前の時期ともなるようです。



石段の横から山道へ入ったところにあったのは「八丈岩」と呼ばれる大岩でした。
この八丈岩は土に埋まっている場所があってサイズは計り知れないものの、“八丈”を字のまま読むと24mということになるが、まんざら虚飾でもないように思える広さだった。



石段を登りきると見えてくるのは「屏風岩」という山のように巨大な巨岩でした。
岩の下の部分は補強され、全体を落下防止のワイヤーで覆われていましたが、屏風岩の表面に触れてみると花崗岩が脆そうな感じがしましたので、維持のための補強が必要なのかもしれません。



屏風岩に彫られた「摩崖不動明王立像」は見えにくくはなっているものの、像高は5mにもなるという摩崖仏が線刻されています。
彫られたのは室町時代初期といいますから、石段の下方にあった磨崖地蔵菩薩坐像の刻銘画南北朝時代末期を示すことから、両者は近い時代に彫られたものともいえます。



下から見上げている当方の頭上遥かの高さに不動明王の顔がある。
地上20mもの高さを誇る屏風岩に造立されたこの摩崖仏があることで、息障寺は「岩尾の不動産」と呼ばれているといい、この摩崖仏を見るとその名称にも納得する。



屏風岩から先にも奇石・巨岩を巡るルートがあり、さらに先へ進んでみる。
甲賀市から伊賀市にかけての一帯には巨石と摩崖仏などの石文化があるとはいえ、これだけ巨岩が多いとあっけにとられてしまう。



名称は不明だが烏帽子のように尖がった巨岩には上部からチェーンが吊るされている。
たとえ登り切ったとしても腰を下ろすことも出来ないような岩のてっぺんで何をしようとしていたのでしょう。



「お馬岩」という奇石は馬の背を連想させるもの。
馬というよりも象の後ろ姿のようにも見えますが、日本に存在して尚且つ信仰を受けている馬に見立てて「お馬岩」と名付けられているのかと思われます。



ルートの曲がり角にあるのは叩くと木魚の音がするという「木魚岩」。
最初は何でこの岩が木魚なのかと不思議だったが、木魚の音がすると知ったのは帰ってからのこと。



そのまま道なりに登り方向に進むと、少し開けたところに出た。
おそらくこの巨石群の一番上方だと思われる場所で一息付く。



そのまま下山方向に進むと「四国八十八ヵ所巡り」の巡礼道と交差します。
年季の入った石仏が並ぶ道はあまりにも寂しく、同行二人という言葉はあるものの、再び元来た道へと戻る。



山道を歩く途中に眺望が開けている場所が何カ所かあり、美しい景色に見惚れてしまう。
もっとも美しく感じた場所は展望台から眺める景色で、山の直下には岩尾池と大沢池、奥に微かに見えるのは鈴鹿山系かもしれない。



岩尾山息障寺は甲賀と伊賀との境界にあるとはいえ、双方の文化や信仰が入り混じった地域のように感じます。
よく伊賀忍者と甲賀忍者に敵対関係があったように描かれることがありますが、摩崖仏などの石の文化や修験道や密教の文化には通じ合うものがあったと思わざるを得ません。
(2020年3月初旬 拝観)


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