僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

湖東の勧請縄4(トリクグラズ)~下羽田・中山道武佐宿(牟佐神社)~

2022-01-31 18:58:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は、集落は村の外れなどに「道切り」として集落内に不浄のものや悪霊が入らないようにする結界であると共に、五穀豊穣や村内安全を祈願する民俗信仰であるとされます。
勧請縄には神道的なもの、仏教的なもの、呪術的なものが混じり合った信仰があるとされますが、その根源には安寧を願う人々の祈りの姿であるといえます。

滋賀県の湖東・湖南地方には勧請縄の行事が多く見受けられ、中でも東近江市一帯は勧請縄の密度が濃い地域で、昨年の年初に続いて今年も勧請縄を巡っています。
今回の勧請縄巡りは、東近江市の市辺町からスタートして市辺西の勧請縄を見た後、西に移動して下羽田町へやってきました。



田園地帯の中にポツンとある下羽田集落の自治会館前にはモチノキに短い主縄が吊るされ、小縄とトリクグラスが真ん中にある華やかな感じのする勧請縄です。
トリクグラスには木炭やミカン、ユズリハの葉が付けられ、主縄の上部には3本の御幣が差し込まれている。



横の祠の両端にも小縄が吊るされていましたが、祠に小縄が吊るされている光景も東近江市界隈では他でも見かけられます。
勧請縄は西村泰郎さんの「勧請縄-個性豊かな村境の魔よけ-」によると少なくとも700~800年前にはこの原型があった記録があるとされますので室町期以前から続く信仰と考えられます。



勧請縄の吊るされた木と祠の間には火伏せに霊験のある神として広く信仰される「愛宕大神」の石碑が建てられています。
東近江市の集落などを移動していると愛宕大神の石碑に出会うことが多く、一帯で防火を祈願されていたことが伺われます。
農村部の集落は細くくねった道沿いに、かつては藁ぶきの木造家屋が並んでいましたので火災を怖れる気持ちが強かったのではないかと勝手に推測します。



次に船岡山の東にある糠塚町の「巽之神社」へ向かうと、神社の裏側の参道にゴツゴツとした力感の勧請縄が吊るされていました。
小縄は12本吊るされ、中央部にはトリクグラズ。主縄の頭の部分が見えていますが、裏側にも頭のような部分が見えている。



勧請縄の裏側へ回り込んでみると上下2本づつの縄が吊り下げられていました。
主縄の頭ではなく小縄でもない、見たことのない縄の吊るし方です。



トリクグラズは丸に十字の形を取っており、絵馬型の祈祷札が付けられている。
神社の外側には年月日と社守の方の名前、神社の内側には“五穀成就 勧請済 町内安全”とある。
“勧請済”は神の分身をお移ししてお祀り済ということになり、祈祷札やトリクグラズには神の分身が宿っていると解釈できそうです。





ところで、東近江市には糠塚町という地名があり、地名は歴史を語るものだと思いますが、「糠塚」という地名がなぜ付いたのでしょう。
歴史民俗用語辞典によると「糠塚」とは“古墳、特に、円墳や前方後円墳に対して用いられた伝承名”とされており、実際に糠塚町には「塚立古墳群」という円墳が存在したとのことですので、やはり地名は歴史を語ります。

東近江市から隣接する近江八幡市に移動し、中山道の武佐宿にある牟佐神社へと向かいます。
次に訪れた武佐宿は中山道六十九次の66番目の宿場で、武佐宿の次は守山宿・草津宿・大津宿を経て京都三条大橋まであと僅かな位置にある宿場です。



牟佐神社は、武佐宿「高札場跡の横にある神社で、「高札場」は幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書いて掲げておく場所とのことですからこの辺りが宿場の中心部だったのでしょう。
「武佐」と「牟佐」は共に“むさ”と読み紛らわしいのですが、いつの時代かに字を当てはめられかえたのかもしれません。
尚、武佐は古代には牟佐村主(カバネ)の本拠地ではなかったとの説があり、牟佐氏の祖神ゆかりの深い神社のようです。



牟佐神社の勧請縄は2本の巨樹に吊るされていましたが、驚いたのは左側のケヤキの巨樹の見事さです。
幹周約5mの巨樹で樹高も30m相当あり、幹は若干左に傾いています。



吊るしてある木が大木なので勧請縄が小ぶりに見えてしまいますが、勧請縄自体は立派なもので左右に小縄が12本あり中央には円形のトリクグラズが取り付けてあります。
もう一方の木もそこそこの太さの木で、勧請縄よりも5mクラスの太さの巨樹に目を取られてしまいます。



牟佐神社のトリクグラズに関して西村泰郎さんの著書には“トリクグラズはすぎの丸に三方の枝を絞って前に突出した鼻を作る。鬼の顔だという。”とあります。
陰陽道では陰陽師が式神(鬼)を使って使役させたと言われますが、鬼に守護させているのか、人の悪行を見定めて咎める役割があるのかといろいろ考えてみるのも面白い。



勧請縄は、自然信仰を始めとして神道・道教・密教や浄土思想・陰陽道の影響があるとされます。
集落ごとにその姿は違いますが、根っこの部分には安寧への祈りと煩悩に悩まされず善行を行う気持ちも一つの要素だったのではないでしょうか。
次は旧中山道を西へ向かい、西老蘇や西の湖方面へと向かいます。


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湖東の勧請縄3(トリクグラズ)~東近江市市辺・上羽田~

2022-01-28 06:06:06 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は滋賀県の湖東・湖南地方に伝わる年頭行事で、集落の入口や神社の境内などに吊るして五穀豊穣や安穏を祈願する儀礼とされています。
勧請縄は、縄の形状や中心に付けられるトリクグラズや祈祷札などが集落ごとに違い、それぞれの集落に伝わる形式はどれも個性的で神と仏が混在して祀られることが多い。

昨年から滋賀県各地の勧請縄を見て歩いているのですが、集落によって驚くほど違いがあり、また吊るし方も大きく異なっています。
行事を行わなくなった集落もありますが、安寧を願う人々の祈りの世界は今でも脈々と受け継がれてきています。



東近江市は勧請縄の密度が非常に濃い地域で、集落を移動していくと次々に勧請縄に出会うことができます。
市辺町西の田園地帯にある勧請縄のトリクグラズは、円形のトリクグラズの内側下に扇型にした塔婆と、内側上に祈祷札が付けられている。



祈祷札が付けられているトリクグラズを見ることは多いですが、塔婆が扇型に付けられているのは市辺町独特の形式かと思います。
塔婆に書かれているのは一二光仏とされ、阿弥陀仏の光明の働きを一二種の徳に分けて称讃する別号だといいます。



絵馬型の祈祷札には「普済偈」の回向文の言葉が書かれ、「普済偈」とは“神仏の加護を願い厄災を除かんことを願うときに用いる回向文”だそうです。
勧請縄には神道的なものもありますが、市辺町西の勧請縄には仏教的なもの、特に浄土宗的な祈りを感じます。



勧請縄は元は集落外側の道をまたいで吊るされていて、「道切り」の形で悪いものを集落内に入れない祀り方がされていたようです。
道路が整備されたりしたりして、現在は農道に平行に吊るされています。

この勧請縄が吊るされている場所のすぐ横には「山の神」「相の神」「野の神」の石碑が祀られていました。
石碑のある場所は、田園地帯の真ん中にある集落ですが、向いている方向は布施山かと思われますので、山への自然信仰があったのでしょう。
3つの碑の中央に祀られていました。



3つの石碑の左側には「相の神」と彫られていましたが、「相の神」とは何の神なのでしょう?
どの碑にも新しい注連縄と紙垂が付けられていますので集落の信仰の篤さが伺われます。



一番右に祀られているのは文字が読み取れませんでしたが、「野神」さんとさせて頂きます。
東近江市の田園地帯では野神碑を見ることが多く、湖北地方と似通った信仰がありますが、巨樹を野神さんとして崇める湖北と違って碑のみが祀られていることが多い。



市辺町には集落の東の外れにももう一つの勧請縄、厳密にいうとトリクグラズだけが吊るされています。
円形のトリクグラズには縄が二重に巻かれ、縄に突き刺すように一二光仏の札が差されている。

絵馬型の祈祷札は割られているので文字は読み取れないが、この市辺東の祈祷札は取り付けて祝詞をあげた後、石を投げて割るのだという。
近江八幡市安土町西老蘇の鎌若宮神社にも子供たちが石を投げて祈祷札を割る「まじゃらこ」(魔蛇羅講)という神事があるようですが、それと同じ神事なのでしょうか。
割れた祈祷札の下半分は、小縄の下に置かれています。





市辺町から移動して上羽田町の羽田神社へ向かい、勧請縄を探してみるが見当たらない。
かつて勧請縄が吊るされていたであろうと思われる木が2本あったが、あると思って行った場所に勧請縄がないことは多々ありますので、参拝だけさせて頂きます。



羽田神社は華岳山の山麓にありますので山へ向かって石段を登る。
滋賀県の村社によく見られる立派な社殿の神社で、華岳山は標高120mの山ですが、頂上には華岳山公園という地元の人の憩いの場があるようです。

参拝を終えて次の集落へと向かう途中に野神さんの碑がありました。
実は記憶が曖昧になっているので正確な場所は忘れてしまいましたが、逆にいうとそれだけ東近江市界隈には野神碑が多いということです。





次は下羽田町で勧請縄を探し、旧中山道の武佐宿へと向かいます。


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湖のスコーレ~やまなみ工房 榎本高士展~

2022-01-25 06:15:00 | アート・ライブ・読書
 1970年代に長浜駅から数分の場所、現在の曳山博物館の向かい側にパウワースという商業施設があり、駅前の平和堂と並ぶ田舎町の2大ショッピングセンターでした。
ビルの5階は数店の飲食店が店舗を構える飲食街があり、ゲーセンもあったように記憶しています。
レコード店やスポーツ店に服屋さんなども入っていたので、中学生くらいなら行けば用が足りるようなビルでした。

その後は時代の流れもあって衰退していき数年前に取り壊しされてしまったようですが、今は分譲マンションが建てられ、併設されるように「湖のスコーレ」という新しい商業施設がオープンしています。
1階には家具や生活道具などが販売されるストアが入っており、フロアーには開放感のある喫茶室やチーズ製造室など「発酵」をテーマにした施設があります。



ストアにはシンプルで使い勝手の良さそうな生活道具が200坪のスペースに並び、ストアの奥の縦長の空間には古書・新刊の並ぶ本屋さんがあります。
本屋さんの話はあとで紹介しますが、本屋さんのスペースの2階にあるGALLERYでは「やまなみ工房」の榎本高士さんの美術展が開催中です。



「やまなみ工房」は甲賀市にある障がい者多機能型事業所で、障がいを持つ方が個性豊かに自分らしく生きる事を目的に様々な表現活動に取り組まれている施設です。
滋賀県の作家によるアールブリュット展では必ずといっていいほど「やまなみ工房」の作家さんの作品が展示されますが、それぞれの作家さんの多様性にとんだ作品は個性豊かで魅入ってしまう作品が多い。



今回の出展の榎本高士さんは、「やまなみ工房」での作業に従事し、表現活動を始められたのは10年が経った頃からだといい、今回展示された平面作品の他に立体作品も作られているようです。
アブストラクト作品のような線と円の絵画が多く、単色の絵もあればカラフルな絵もありますが、絵は思い通りにあるいは無作為に筆やクレヨンで自由に描かれています。



少し作風が違うのは2014年に創られたNo Titleの作品群で、書き殴ったような力強さと色のバランスで描かれたペインティングアートとも呼べる作品群です。
この作品群はどれも力強さや勢いを感じる絵で、似ているようでありながらも、どの絵も個性があります。



作品には値段が付けられて販売されており、もっとも魅力を感じた作品の販売価格は3万円です。
白と黒の入り混じったような絵の具で描いた太い線の上に黒の細い線、その上には朱色がかった赤で線が描かれ、絵はダンボール箱に描かれている。



展示室の隅には山際正己さんの「正己地蔵」が並んでおり、その表情は同じように見えて全てのお地蔵さんに個性があります。
「正己地蔵」20年以上変わることなく制作され、作品は何十万体を超えるといいます。

2階のGALLERYから1階のストアへ戻ると、「正己地蔵」と大原菜穂子さんの「菜穂子地蔵」が販売されており、やまなみ工房の作家の絵をあしらったトートーバッグやポストカードが販売されています。
山際正己さんの地蔵はユーモラスで愛嬌があるのに対して、大原菜穂子さんの地蔵は優しく穏やかでありつつも可愛いお地蔵さんという印象で、2人とも滋賀のアールブリュット展ではよく作品を見かけます。



1階の本屋さんには新刊と古書が並びますが、セレクトされた本は独特の価値観で選ばれた本で、本好きの方にはたまらないコーナーです。
草間彌生の作品集や土門拳、エゴン・シーレの本。コリン・ウィルソンにレイ・ブラッドベリー、音楽系ではブーレーズにジョンケージ、精神世界ではバグワン・シュリ・ラジニーシ。
当方がよく読む作家の藤原新也、沢木耕太郎、星野道夫、白洲正子になんと埴谷雄高の本までもが置かれている。



本はセレクトした方の生きた時代を感じさせる本が多く、嬉しくなるラインナップでしたが、本は時代や世代に限られたものではないですから、これから先も読み継がれていく本なのだと思います。
残念ながらお店は2月末日までの開催ということのようですが、訪れた人の中には熱心に本を見られている方もおられ、ネットやデジタルでは伝わりにくい本の文化の良さを再認識しました。



GALLERYやストアには滋賀県立美術館で開催中のアールブリュット展「人間の才能 生み出すことと生きること」のチラシが置かれていました。
新型コロナが異常な速度で蔓延していますので、コロナ渦がもう少し落ち着いてくれないと行けないかもしれませんね。




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湖東地方の勧請縄2(五芒星のトリクグラズ)~川合・大森・大塚・多賀大社~

2022-01-21 06:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖東・湖南地方には年明けに勧請縄という豊作と疫病退散を祈願する民俗行事が行われますが、年々縮小されたり廃止されたりする集落もあるようです。
湖北地方にあるオコナイ神事は当方はTVで見たことがある程度なので詳しいことはいえませんが、「湖東の勧請縄」に対して「湖北のオコナイ」という分け方もあるともいわれます。

勧請縄を探して東近江市まで来たので旧蒲生郡界隈の勧請縄を探してみましたが、感じたのは蒲生野はかなり勧請縄の文化が色濃い地域だということ。
田園地帯ですから歩けば遭遇するという意味ではないものの、広い田園地帯に点在する集落の幾つかに勧請縄を観ることができました。



川合町の玉緒神社は御祭神に素盞鳴尊を祀る神社で、鳥居を抜けた参道の杉の木に勧請縄が吊るされている。
主縄は頭と尾がある形式ではなく、両頭になっており、12本の小縄と小幣が上下に付けられ、中央にはトリクグラズが吊るされている。
勧請縄は正月過ぎに吊るされて12月頃に外されるケースが多いと聞きますが、小縄の束に付けられた葉が緑なのは1~2月にしか見られない光景です。



トリクグラズはヒノキで造られた丸に十のオーソドックスな形式ですが、勧請縄を造る技術は毎年受け継いでいかないと、いづれ継承できなくなりそうに思います。
集落に受け継がれてきた型や決め事が一律ではなく、集落ごとに違うのは実に興味深いと思います。



竹囲いの中に祀られているのは祓処の石碑です。
竹囲いは忌竹の意味があるのかと思われ、ここが罪や穢れや不浄を祓う玉緒神社の斎場になっているのでしょう。



玉緒神社は飛鳥時代の大宝年間に勧請されたと社伝にある神社ですが、本殿は滋賀の村社の例にもれず立派な建築となっています。
村で神社をお守りしている方々はいろいろな意味で大変かと思いつつも、信仰の篤さには頭が下がります。



神社に到着した時には3~4名の方が作業されており、神社の整備をされていました。
ちょうど入れ違いになったのですが、参道や拝殿前の砂の砂紋が綺麗に整った状態で。ソトの人間が砂紋を崩してしまうのが申し訳なく思いつつ歩かせて頂きました。



次に大森町の勧請縄に向かいましたが、ここの勧請縄は道切りのようにして吊るされていました。
主縄は両頭で、12本の小縄と小幣が吊るされ、小縄に付けられた葉の下にも小縄があり葉が付けられている2段の小縄です。



小縄の上段と下段に付けられた葉は、杉とおそらく榊の2種類の葉が付けられているようです。
勧請縄はトリクグラズだけでなく、小縄にも個性がありその多様な個性ゆえに関心を惹くのでしょう。



危うく見落としそうになったトリクグラズは何と垂直方向ではなく、天と並行になっている。
下から見上げてみると、その形は五芒星(セーマン)を模っており、陰陽道との関わりを思い浮かべてしまいます。

五芒星は安倍晴明に由来して「晴明桔梗」という呼び方があるといい、陰陽道では魔除けの呪符として用いられたといいます。
魔除けとしての勧請縄に陰陽道の魔除けの呪符が使われているのは単なる偶然ではないように思います。



蒲生野を無計画に移動したので行ったり来たりしながら、次に訪れたのは大塚町の勧請縄です。
勧請縄は八幡神社の鳥居の外側に吊るされており、主縄はオーソドックスな形ですが、ここもトリクグラズは五芒星(セーマン)でした。



旧蒲生町のトリクグラズに五芒星(セーマン)を使ったものが多いそうですが、もう勧請縄自体が廃止になっている集落や行ってみたけど確認できなかった集落などがありました。
時代や世代によって失われつつある文化であると思いますが、コロナ渦で一時的に自粛されている集落もあるのかと思います。



五芒星(セーマン)のトリクグラズは、藤の蔦で造られていることから少し歪な形にはなっているものの、まぎれもなく五芒星です。
明治維新によって陰陽道は迷信として廃止させたといいますが、スピリチャルなものや民俗的なものは今も脈々と残ります。



昨年から探し始めた勧請縄ですが、今まで見た中で一つとして同じものはなく、それぞれの集落の伝統を受け継いだ形に興味は増すばかりです。
その後に立ち寄った集落には勧請縄が確認出来ませんでしたので、打ち切りにして遅ればせながら多賀大社に参拝に向かいました。



多賀大社の鳥居前の絵馬通りに入ると街道沿いに数軒の露店が並び、お店の方が声をかけてくる。
コロナ渦以降、露店が自粛されることが多く、大勢の人が集まる場所を避けていたこともあって、何とも懐かしいにぎやかさに高揚した気持ちになる。

にぎやかな光景を見ることがなくなって、もう3年目ですから懐かしく感じたりもする。
手水も感染防止により尺で水を受けることがなくなって、流れ出る水で清める手水が多くなった。井戸に花が浮かべられていることも多くなりましたね。



参拝者はさすがに少なくはなっているものの、人が途切れることはない。
分散参拝もあるでしょうけど、当方と同様に松の内の間に多賀大社にお参りしておきたいと思う人も多いのかと思います。
ただし、本殿で行われる祈祷には大勢の方が座っておられたのは、さすが多賀大社は信仰する方の多い神社だなぁと感じます。



拝殿の賽銭入れは広く囲われていましたが、正月三ヶ日には人の波がさぞや凄かったことでしょう。
時々屋根から雪がなだれ落ちて大きな音がしており、多賀町の雪の多さを実感します。



「さざれ石」は雪の中。
白い帽子のように雪を乗せて雪の中に立っています。



延命の霊験があるという「寿命石」も雪の中。
祈願の言葉を書いた「白石」も半分雪に埋まったものや雪の上にあるものがありますが、雪が消えたらかなりの数の白石が出てくるのでしょう。



おまけは縁起の良い福神の大黒さんと恵比寿の奉納額です。
松の内が終わって気分良く令和4年を過ごせそうかな?




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湖東地方の勧請縄1(トリクグラズ)~内野・蛇溝・平林~

2022-01-18 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「勧請縄」は滋賀県の湖東・湖南地方に多い民俗行事で、村に悪いものが入って来ないように村の辻や神社に吊ったりして結界の役割を果たしているという。
勧請縄の形や吊るし方は集落によって違いがあり、主縄の中心に吊るすトリクグラズは集落それぞれの独創的な形が受け継がれてきたとされます。

滋賀県では年初の民俗行事としては湖北地方では“オコナイ神事”、湖東・湖南地方では“勧請縄”と形は違いますが、五穀豊穣や災厄が入ってこないようにと願う祈願として根は同じところにあるのかもしれません。
「勧請縄」は「道切り」とも呼ばれて村の辻に勧請縄を吊るしていたとされますが、安土町内野では今も集落の道に勧請縄を吊るして魔除けとしています。



トリクグラズには“天下泰平 村中安全 五穀豊穣”と書かれた祈祷札が吊るされてあり、道切りの先は八幡神社に通じている。
勧請縄は見てきた範囲では神社の境内や山への入口などありますが、道切りの名の通りかつては集落の出口や境に吊るされていたとされています。



内野町の勧請縄は昨年も訪れましたが、今年の湖東地方は道路にも雪が残っています。
車を停められる場所もなく、道も細いので対向車が来たら困るところでしたが、結局集落内を走行する車は当方だけだったのは幸いでした。

勧請縄を内側からも眺めてみます。
祈祷札には月の上に大・小と書かれており、この大・小と月の組み合わせは昨年と同じでしたので何か決め事があるようです。





勧請縄の近くには「愛宕大神」の石碑があり真新しい紙垂が掛けられています。
内野集落は岩戸山や赤神山(太郎坊山)・箕作山などが連なる霊山の麓ですから山の神を祀る自然信仰や密教・神道の影響が強く残る集落なのでしょう。



内野集落を出た後、近江八幡市の老蘇周辺の勧請縄を訪れるつもりでしたが、反対方向になる東近江市方面へ気まぐれに向かう。
蛇溝町という看板が見えて集落の神社を通り過ぎようとした時、蛇のように長い勧請縄を見つける。



蛇溝町という如何にも蛇にまつわる話がありそうな町名に加えて、勧請縄が吊るされているのは長緒神社といい、そのまま読めば“細長いものを結びとめる”となる。
地名や神社名には由来があると思われますので関心深い集落です。



主縄の頭の部分は蛇の頭となるのでしょう。
かつて蛇溝の勧請縄は集落の四方に吊っていたのが、長緒神社の境内に4本吊るすようになり、その後1本の長い勧請縄になったといいます。
(勧請縄ー個性豊かな村境の魔除けー 西村泰郎より)



小縄は12本束ねられた小縄がさらに12本の小縄にまとめられており(本数は推定)、造るにも相当な手間がかけられていると思うが、重量がありそうなので吊るすのも大変そうです。
いずれにしてもこんなにも長い勧請縄は初めて観ることになりました。



トリクグラズはサイズが大きく、杉の枝葉が盛り上がるように付けられており、中に祈祷札が吊るされる。
祈祷札には祈念のお経(浄土宗系の経文とのこと)と安寧を祈念する言葉が書かれ、最後に村中安全の言葉で締められている。



次に南東へ進み石塔寺の近くを越えて平林町まで来ると、もう日野町との境になります。
平林集落の中心部を外れて山裾に沿って進んで行くと和田神社があり、鬱蒼とした参道を山麓に向かって進んで行くと平林町の勧請縄がありました。



石段の途中に吊るされた勧請縄は、12本の小縄が吊るされた中央部にトリクグラズが吊るされたものでトリクグラズには神札が付けられているという少し変わった形式です。
和田神社のある平林集落は布引山(261m)山系の山麓にあり、北東には山を挟んで石塔寺とは対角に位置していることもあってか、人里離れた神秘的な神社の印象を受けます。



勧請縄が吊るされた参道は樹木が鬱蒼と茂っていてるせいで、樹上に残った雪が融けて落ちてきて参道は雨降り状態でかなり濡れてしまうことになりました。
撮影するにもレンズに水が落ちてくるためバンダナを被せて写真を撮る羽目になる。



トリクグラズは杉の枝葉が巻かれた円の中に半分に割られた竹が縦2本横3本付けられており、中心部には和田神社の御札が付けられた独特の形式になっています。
祈祷札や絵馬が吊るされていることは多々ありますが、神札が付けられているのは平林集落のトリクグラズしか見たことはありません。



和田神社の本殿に参拝しましたが、滋賀県の神社は村社にも関わらず立派な社殿が多いことに改めて驚きます。
御祭神には「大己貴命・宇賀魂命」を祀り、配祀神には「天照大神・応神天皇・神武天皇」を祀る。



参拝を終えて石段を降りる時、雪解け水で滑りやすくなっていた石段で足を滑らせて大転倒。
体のあちこちをぶつけたので骨折しなかったか不安でしたが、打ち身のみで済んで助かりました。
では、旧蒲生町まで来たのでもう少し勧請縄を探してみようと思います。...続く。


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岩戸山十三仏の巨岩を目指せ!~近江八幡市安土町内野~

2022-01-14 19:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八幡市と東近江市の境近くには「岩戸山」「小脇山」「箕作山」「赤神山」などが連なる箕作山系があり、「瓦屋禅寺」「太郎坊宮」「岩戸山十三仏」などが祀られる霊山になります。
また、飛鳥時代に聖徳太子が四天王寺建立の際に「瓦屋寺」に10万枚以上の瓦を焼かせたとの伝承のある聖徳太子ゆかりの山であり、地域となります。

「岩戸山」には、聖徳太子が「瓦屋寺」を建てられた時に、同じ山並みにある岩戸山に、金色の光を発する不思議な岩を見つけたという。
聖徳太子は巨岩に仏像を彫ろうとしたが道具を持ってなかったため、自らの爪で十三躰の仏を刻まれた。と伝承されているようです。



獣除けの鉄柵を開けて入っていくと「新四國八十八箇所霊場」の石碑があり、不揃いの石段を登って行く。
岩戸山は箕作山の西側になるため、朝は日当たりが悪い上に樹木が鬱蒼と茂っていて、石碑の近くには大きな竹藪があったりして心細い。



岩戸山には百六十躰といわれる石仏が各所に祀られた道はあまり気持ちの良いものではないが、お借りした2本の杖を支えにして石段を登ります。
登って行く途中でおそらく猿かと思われる獣糞を何ヶ所かで見ましたが、道はいたって静かで野鳥の声さえ聞こえない。



紅白の晒が巻かれている巨石と周辺に神仏の名前が彫られた石碑のある場所があり、巨岩信仰と神道・密教が入り混じったような空間に後ずさりしそうになる。
なぜ紅白の晒なのかは分かりませんが、岩戸山では巨石に巻かれていることが多かった。
巨岩の下の空間には大量の塩が供えられていて、この場所も山の一つの霊場となっているのかと思います。



道のほぼ大半は石段が800段ほど続きますが、傾斜の強い場所もあるので石段の先が見えない場所もある。
とはいえ、いつものように息も絶え絶えにならないのは2本の杖のおかげですので、山登りにはトレッキングポールがあると便利なのかと実感しました。



しばらく登るとまた紅白の晒を巻いた巨岩があり、石碑には「大黒天」と彫られていました。
古来、巨岩を神の依り代と考えて崇拝してきた日本人の自然信仰が息づいている証かと思います。



岩戸山と呼ばれるだけあって巨石・巨岩がありこちに点在していますが、この岩場には「白龍」「荒神」「水神」などの碑が建てられています。
岩戸山の中腹にはこのような祭祀空間が多いが、歴史資源開発機構 主任研究員の大沼芳幸さんは著書の中で“山頂には公的な信仰の対象となる強い神(山岳宗教と仏教の習合世界が展開する”。
“中腹には個人的な信仰により招かれた小さな神が祀られる”と書かれており、“自然物を神として祀る聖地”とも書かれており、まさに言い得て妙です。



四丁目の石碑のある辺りからは蒲生野の風景が一望できる場所があり、この辺りから頭上から光が射仕込むようになり、雰囲気が変わってくる。
しかし厳しい石段はまだまだ続きますのでただひたすら石段を登る。



そして見えてくるのは、石垣とそそり立つような御神体の巨岩です。
こういった巨岩と巨岩に挟まれた場所は湖東地方には幾つも見られますが、これらの磐座は母性を表すものへの信仰との説もあります。



御神体の巨岩は近くで見ても計り知れないくらいに大きい。
古代にこの山へ入って、樹木の中にこの巨岩に出会った人は、この岩に圧倒され、神そのものに見えたと感じたとしても不思議はないでしょう。



御神体の2つの巨岩の間には祠が祀られていて、ここにも各所に石仏が祀られています。
「岩戸山十三仏(摩崖仏)」は祠に包み込まれていて春の千日会の法要の時しか観ることは叶いませんが、ここには自然崇拝と仏教信仰が融合した信仰があったと言えます。



巨岩の下には「霊場 岩窟」という竪穴があり、案内板には“巨巌神明岩 自然の岩窟八畳余りにして、太子窟内にて御修行遊され...。”とある。
また由緒書には“神明岩下に岩窟あり這入れば坑内は八畳敷高さ四尺(1.2m)あり、明治以降は山賊の住家で、捕吏の難を逃んが為とか云う。”と中はかなり広そうですが、入る勇気はない。



神明岩と比べると高さは低くなりますが、左側にある巨岩もかなり大きく、さらに左側で十三仏の岩につながっています。
この岩の下にも石仏が並び、百60躰の石仏が祀られているというのもよく分かります。



神明岩の右側に回り込むと「岩戸神明神社」の鳥居があり、ここでも岩の間に大量の塩が供されています。
神明岩の右側には神社が祀られ、左側へ行くと十三仏の摩崖仏があるという岩戸山には神も仏も巨岩に宿る。



右側の道はここより先へは進めませんが、横から見ても神明岩が尋常な大きさではないことが分かります。
登山口から中腹を越えた辺りまでの鬱蒼とした暗さはどこへやら、光に満ち溢れた世界が広がります。



境内の外れまで来ると箕作山や赤神山への登山ルートがあり、岩戸山の頂上まで行ってみます。
この道も2つの大岩に挟まれた道となっており、悪路になりますので杖を置いて登って行く。



で、これが道なのでしょうか?
どうやら岩を登って進めということなのでしょうけど、いきなりの岩登りになります。



登り終えた岩には『界』の文字が彫られています。
境内の巨岩に『境』の文字も彫られているといい、ここが神域の境界となるのかもしれません。



岩戸山は神明岩までは石段が続きましたが、頂上への道は険しい坂道となり、山登りが始まります。
岩場の途中に断崖がありましたので、恐る恐る突き出した岩の先端まで行き、下界の風景を眺める。





頂上と思われる場所にも岩が点在しており、下の岩には色あせてはいますが、紅白の晒が巻かれている。
この岩も何か信仰があったのかと思いますが、真ん中の岩には方向を示す矢印が彫られています。



調べてみると、岩に彫られた矢印は「旗振り通信」の場だったといい、江戸時代中期から明治期にかけて大阪の米相場の情報を伝えるための伝達手段だったようです。
その伝達速度は、熟練した者ならば旗振り場の間隔を3里とした場合、通信速度は時速720kmということになるとの説もあり、先物取引だった米取引には一刻も早く相場の情報を得ることが求められたのでしょう。
岩戸山の場合は、野洲の旗振山から情報を受けて、彦根市の荒神山~佐和山へと情報伝達を行ったとされます。



岩戸山の頂上で折り返して下界を眺めると、八幡山の向こうに琵琶湖が見える。
山上から琵琶湖が見えると嬉しくなるのは琵琶湖愛かな。



方角を変えると、丸山と西の湖だろうか?
水の色のブルーが美しい。



下山して岩戸山を振り返ってみる。
山頂に2つのピークがありますが、左が岩戸山で、右が小脇山かと思います。




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「長浜八幡宮」初詣と「長浜恵比寿宮(豊国神社)」の十日戎

2022-01-09 17:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大雪の残る元旦に「長浜八幡宮」へ初詣に行ったものの、参道の端まで並ぶ人の列を見て八幡宮の神宮社である「舎那院」さんに初参りしたのですが、遅ればせながら「長浜八幡宮」へ初詣にまいりました。
しかし、元旦から1週間以上経ってはいても参拝に訪れる方は多く、駐車場への車列が出来ていましたのはコロナ渦による分散参拝の影響があるのかもしれませんね。

初詣が遅くなってしまったため、「長浜恵比寿宮(豊国神社)」では十日戎の宵戎が始まってしまいましたので2宮巡りということで参拝し、やっと新年がスタートした感覚があります。
ただし、コロナ渦につき露店などは出ていませんし、十日戎でも甘酒の振る舞いや恒例の新春餅巻きも開催されず、コロナ渦以降は毎年静かなお祭りになっている残念な状況です。



「長浜八幡宮」の一之鳥居は元旦にも通りましたが、1週間少々ですっかり雪が融けていて普通の靴で不自由なく歩けるようになっていました。
元旦の時はこの参道の行列が数分単位でどんどん長くなっていくといった感じで、当方のように諦めて帰る方も多かったのですが、さすがに参道まで並ぶほどの参拝者はおられません。



参道の途中にはおそらく雪の重みで倒れたのではないかと思われる倒木が灯籠までをもなぎ倒して横たわっていました。
痛々しい姿ですが、怪我人が出なかったのは不幸中の幸いということでしょう。



二之鳥居の前には手水があり、井戸には色とりどりの花が供えられています。
長浜八幡宮には3ヶ所の手水がありますが、それぞれに花が供えられ華やかな気分にさせてもらえます。



参道を90°曲がった二之鳥居の先には拝殿と本殿が一直線に並びます。
拝殿と本殿の前は混雑はしていませんでしたが、縁起物の売り場には長い行列が見えます。



石畳の横や屋根に若干の雪が残ってはいるものの、もうすっかり雪は融けています。
このまま雪が降らないといいのですが、雪はこれからが本番なので春の便りが待ち遠しくなります。



拝殿には竹の鳥居が設けられ、奥には注連縄が掛けられています。
吊るされた鈴にお賽銭を当てると幸運に恵まれるとあって、十円玉を投げてみるもののお酒の一斗樽の当たる始末というノーコンぶりは今年も相変わらずです。





本殿に参拝した後、境内を歩いて「都久夫須麻神社」へと向かう途中にもう一つ手水があり、ここにも色鮮やかな花が供えられています。
この井戸は、長浜曳山まつりに先立って行われる「裸参り」で若衆が飛び込んで身を清める井戸で、子ども歌舞伎の優雅な光景とは裏腹に男達が褌一丁で掛け声も勇ましく練り歩く荒っぽい祭りです。



放生池の中にある「都久夫須麻神社」は、琵琶湖に浮かぶ竹生島信仰の延長するものと思われ、市杵島比売命と弁才天を御祭神として祀り、龍神を祀る神事があるのも同じです。
毎年8月15日の夜にはこの放生池の中を龍が舞う古式神事「蛇の舞」が奉納されます。





さて、長浜駅の近くまで足を運ぶと、「長浜恵比寿宮(豊国神社)」の方から“商売繁盛で笹持ってこい!”の掛け声と江州音頭をミックスしたようなお囃子が聞こえてくる。
「豊国さん」は長浜城主となって出世していった豊臣秀吉の3回忌を偲んで建立された神社でしたが、江戸幕府に秀吉を祀ることを禁じられたため、恵比須神を祀ると見せかけて裏で秀吉を祀り続けたという神社です。
徳川四天王の井伊家の治める藩にありながら、なかなか骨太な対応ですが、井伊家も分かっていながら見逃していたのかもしれませんね。



秀吉を祀る神社だけあって手水の水は瓢箪から流れ出ています。
長浜曳山まつりの裸参りの時にはまずこの井戸で身を清めて豊国神社に参拝した後、八幡宮の井戸で再び飛び込んで八幡宮に参拝する流れとなります。
4月中旬の夜に井戸に飛び込むのはかなり冷たいことでしょうけど神事は4日間続けられます。



「長浜恵比寿宮(豊国神社)」の十日戎は宵戎ということもあってか参拝者はチラホラといったところで混雑はなし。
参拝所まで行くと柱の後ろにいる巫女さんが神楽鈴を鳴らしてくれるのが嬉しい。



本宮の前にはボランティア武将隊の『長浜武将隊 天下泰平』の方が2人武者姿も凛々しく出迎えて下さいます。
一緒に写真撮らしていただき、その際にもらった朱印が1枚目の画像で、その時は誰か分かりませんでしたが、兜の「前立」や長浜武将隊のTwitterからすると「石田三成」と「毛利勝永」のようです。
毛利勝永は、大河ドラマ「真田丸」で岡本健一が演じていた大坂の陣の武将で近江国長浜で誕生したとの説もある方のようです。

境内には「福万年亀」という名前から長寿に御利益のありそうな石があります。
後方の放生池の中には子供の姿が見えますが、水があるのに大丈夫かな?



放生池へ回り込んでみると、水深は浅いながらも池の水が氷結しています。
子供たちはこの上で遊んでいたのかと納得しましたが、何とも寒々した光景です。



放生池を渡った先には「豊公遺愛 夜泣虎石」が磐座のような姿で祀られています。
虎石には秀吉にまつわる伝承がありますが、それとは別に今年の干支の虎の名の付く石ですから縁起は良さそうですね。



恒例のお焚き上げも宵戎が始まったばかりで旧年のお札や笹などがまだ少ないのでしょうけど火は勢いよく燃え上がっています。
火を見ると熱さと共に気持ちが高まってくるのが不思議です。




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雪の元旦 舎那院さんへ初参り~2022年元旦~

2022-01-02 17:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の北部は豪雪地帯と呼ばれてはいるものの、近年は降雪量が少なく動きやすい冬が続いたのですが、年末からの雪はここ数年記憶にないほどの降雪量でした。
集落内の道が細い農村部などでは一家に一台除雪機があって道を作るための雪除けされるといいますが、これだけ雪が降ったらそれも頷ける話です。

大きな道路は除雪車が通りますので車道の雪は空けられているとはいえ、信号待ちからの発車や右左折時に立ち往生している車が見受けられ、歩道が雪で歩けない歩行者は道路を歩いている。
元旦になってやっと雪が止みましたので、雪道の初詣・初参りに行きましたが、足元が悪いにも関わらず、多数の参拝者が来られていました。



神社の鳥居の奥の参道には本殿までの長い行列。駐車場への道は車が長い列を作っています。
人の混雑が嫌でしたので本殿には向かわず、放生池の中にある都久夫須麻神社の裏側の手水で身を清めて遠巻きにお参りする。



手水の横には「御神水」の湧き水がありましたので、手ですくってみたが、気温が低く寒さのあまり御神水がそれほど冷たくは感じない。
この御神水は早朝より汲みにこられる方が跡をたたないとは書かれてあるものの、あまり知られていない湧き水で横に書かれた言葉がそれを表現しています。
“人知れず 清々しくも 湧出づる 祖の心か 神の水なり”



長浜八幡宮とかつての神宮寺であった舎那院は米川を渡ってすぐ隣にある真言宗豊山派の寺院ですが、舎那院さんへお参りにこられる方はごくわずか。
芙蓉の名所として有名な寺院ですが、空海を開基とし、鎌倉期には勝軍山新放生寺として社坊三百あまりを数えていたとされ、亀・天正の兵火の後には秀吉が再興したという歴史のある寺院とされる。
しかし、明治の廃仏毀釈により勝軍山新放生寺は、舎那院だけが残り他の子院は廃寺になったという。



参道の雪は歩ける程度は除雪されているとはいえ、平坦な市街地にあってこの積雪量の多さには改めて驚きます。
舎那院さんには聖徳太子を祀る「太子堂」「弁天堂」「鐘楼」などが参道に並び、参道の正面に「本堂」、奥に「不動堂」があり、境内に御堂の多い寺院です。



鯉が泳ぐ放生池の横にはお地蔵さんが2躰。
樹の枝を笠にして雪から守られているような姿です。



本堂の近くまで来ると和太鼓奏者で過去には喜多郎(シンセサイザー奏者)と活動をされていた関口仁さんの音楽が流れている。
関口さんのアルバムリリースは13作あるといい、寺院に響く音はまさしくヒーリングミュージックと呼べるもので、別世界にきたような不思議な感覚となり、音楽以外に聞こえるのは野鳥の囀りのみ。






舎那院さんの御本尊は「木造愛染明王坐像」ではありますが、御本尊は秘仏となっており、須弥壇に祀られているのは御前立となるものの、朱色に染められ金色の光背の迫力のある仏像です。
他にも「薬師如来坐像」や養蚕織物の神である「馬鳴菩薩」も祀られており、舎那院さんには廃仏毀釈により廃寺になった勝軍山新放生寺の子院の仏像等が集められたといいます。



境内の最奥には不動明王を祀る不動堂(護摩堂)があり、正月三ヶ日には不動明王の姿を拝むことができます。
本堂は文化七年(1810年)の落慶だとされますが、不動堂は室町後期の建造と考えられている御堂で、滋賀県では中世唯一の護摩堂の遺構とされているようです。



御堂の中の暗闇野中で顔にだけライトが当たって浮かび上がるような姿は実に神々しい。
元旦に観る不動明王の姿に気が引き締まる想いがします。



9月頃に咲く約300株といわれる芙蓉の花や酔芙蓉も魅力的ですが、雪の舎那院さんでの関口仁さんの音楽と仏像群にも心が洗われます。
すぐ隣の八幡宮の喧騒とは全く違う異空間がここにはありました。


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