江戸時代前期の修験僧「円空」は諸国を遊行し、その生涯に12万体もの仏像を彫った方とされています。
円空は美濃国に生まれ、早くから仏門に入ったといい、長良川の洪水で母を亡くしてからは寺院を出て窟ごもりや山岳修行をされるようになったといいます。
全国行脚で訪れた場所は美濃・飛騨・愛知・滋賀・長野などの近隣国だけではなく、近畿・関東・東北・北海道にまで及んだといい、山岳修行では伊吹山(滋賀)や大峰山(奈良)などで修験の厳しい修行をしたとされます。
円空のあらゆる民衆の苦しみを救済したいと願う慈悲の心は、素朴で荒削りながらも微笑みを浮かべた表情から伺い知ることができ、作風は従来の仏像の古典にとらわれない自由な彫像といえます。
円空仏が拝観できる岐阜県羽島市の「中観音堂」の入口には「有寳寺」の寺標があり、明治初期に廃寺となった寺院の痕跡だけが留められている。
有寳寺は1671年に円空によって自らが彫った「十一面観音立像」を本尊として建立された寺院だったといいます。
今は観音堂と資料館が建てられており、17躰の「円空仏」と再現されたレプリカ仏・奉納された円空調の仏像が数え切れないほど安置されています。
観音堂と羽島円空資料館の前には「現代円空彫師・山田勝美氏」作による「円空旅立ちの像」(裏面には不動明王立像)がモニュメントとして置かれている。
像が納められた御堂には「EnkuRoad SmileGate」と英語圏の人にも分かるように書かれていますが、“円空ロード スマイルゲート”とは面白いネーミングです。
中観音堂の正面にある須弥壇に安置されていたのは「十一面観音立像」は、222cmある背の高い観音さまです。
内陣の横には円空仏がズラリ並ぶ訳ですが、どの仏像も特徴のある仏像揃いとなっています。
十一面観音像の表面はなめらかに彫られてはいるものの、素朴な印象が強く、他に類を見ないような笑顔をされ、頭頂の化仏さえもが笑っている。
この何とも言えない優しい表情からは身近さが感じられ、円空が民衆の苦しみを救済したいとの気持ちを微笑で表したい想いが伝わってきます。
「聖徳太子像」と「鬼子母神像」も同様に微笑を浮かべています。鬼子母神が持っているのはザクロでしょうか?
鬼子母神は元々は鬼女と呼ばれ、自分の子供を育てるために人の子供をさらって食べていたといいます。
釈迦から人肉を食べたくなったらザクロを食べよと論され心を改めたといい、サクロの実に種が多いことから鬼子母神には子授け・安産子育てのご利益があるといいます。
「不動明王立像」と「大黒天」はかなり特徴的な姿をされている。
力強い不動明王・財宝を与える福の神の大黒天のそれぞれの役目をデフォルメしたように彫られていて実に頼もしい。
像高約112cmの細長い「観音像」は見る角度によって高い台の上に座る坐像に見えたり、横から見ると立像に見える造りがされています。
大半の仏像が桧木を使っている中で、唯一クスを使っているので木色がかなり違っている仏像でもあります。
中観音堂を拝観し終わると、そのまま歩いて「羽島円空資料館」へと入ることが出来る。
資料館には円空仏のレプリカや資料類、円空が描いた絵画などが展示。
円空の絵画はシンプルに簡略化されたもので、実に味わいのある絵を描かれています。
円空の微笑仏と一般的にはまとめて言いますが、幾つかの円空仏を見ていくと少し傾向の違う仏像も見られます。
「金剛童子」や「護法神」は怒髪天を衝くような髪となっており、少年コミックにでも登場しそうな姿をしている。
尚、護法神の右後ろに見えるのが円空さんの描いた仏画です。
円空仏の題材は多岐に渡っており、資料館には羽島市にある「長間薬師寺」に祀られている「薬師三尊像」のレプリカが展示されてありました。
「薬師如来立像」「日光・月光菩薩」の3尊ともに穏やかな微笑を浮かべていて、癒される仏像です。
中観音堂と羽島円空資料館の境内(駐車場)で驚くのは所狭しと並べられている円空彫りの仏像でしょうか。
奉納された仏像かと思われますが、実際に円空仏と奉納仏を比較して識別するのが困難に感じるほど忠実に再現されている。
奉納仏は、古そうに見えるが裏面を見ると平成の中頃に奉納されたものが多かったのももう一つの驚きでした。
また、中観音堂・羽島円空資料館のある羽島市上中町では家の前に円空彫りの仏像を置いている家がかなり多かったのも印象に残ります。
ところで、中観音堂から道を挟んだ所には「円空上人産湯の井戸」があり、今も水を汲み上げています。
円空は1632年にこの集落に生まれたとされるものの、生家は特定されておらず、ここを「円空の産湯の井戸」と語り継がれてきたといいます。
確認されているだけでも円空仏は約5300躰あるといい、その膨大な数の仏像の目的の一つは、民衆が気軽に拝めることだったと考えられています。
また、円空さんは一般大衆の救済以外にも差別や抑圧に苦しむ人々のための造仏も行っていたといいます。
円空さんは61歳で十二万体の造仏を成就したといい、64歳の時に母が亡くなった長良川湖畔の寺院で即身仏として入定されたと伝わります。
江戸時代から今に至るまでどんな辛い時代にあっても、円空さんの仏は慈悲の微笑で我々を迎えてくれていたのだと思います。
今の危機的状況が落ち着いて、再び円空仏に会える日を楽しみにします。
(2019年10月某日 拝観)
円空は美濃国に生まれ、早くから仏門に入ったといい、長良川の洪水で母を亡くしてからは寺院を出て窟ごもりや山岳修行をされるようになったといいます。
全国行脚で訪れた場所は美濃・飛騨・愛知・滋賀・長野などの近隣国だけではなく、近畿・関東・東北・北海道にまで及んだといい、山岳修行では伊吹山(滋賀)や大峰山(奈良)などで修験の厳しい修行をしたとされます。
円空のあらゆる民衆の苦しみを救済したいと願う慈悲の心は、素朴で荒削りながらも微笑みを浮かべた表情から伺い知ることができ、作風は従来の仏像の古典にとらわれない自由な彫像といえます。
円空仏が拝観できる岐阜県羽島市の「中観音堂」の入口には「有寳寺」の寺標があり、明治初期に廃寺となった寺院の痕跡だけが留められている。
有寳寺は1671年に円空によって自らが彫った「十一面観音立像」を本尊として建立された寺院だったといいます。
今は観音堂と資料館が建てられており、17躰の「円空仏」と再現されたレプリカ仏・奉納された円空調の仏像が数え切れないほど安置されています。
観音堂と羽島円空資料館の前には「現代円空彫師・山田勝美氏」作による「円空旅立ちの像」(裏面には不動明王立像)がモニュメントとして置かれている。
像が納められた御堂には「EnkuRoad SmileGate」と英語圏の人にも分かるように書かれていますが、“円空ロード スマイルゲート”とは面白いネーミングです。
中観音堂の正面にある須弥壇に安置されていたのは「十一面観音立像」は、222cmある背の高い観音さまです。
内陣の横には円空仏がズラリ並ぶ訳ですが、どの仏像も特徴のある仏像揃いとなっています。
十一面観音像の表面はなめらかに彫られてはいるものの、素朴な印象が強く、他に類を見ないような笑顔をされ、頭頂の化仏さえもが笑っている。
この何とも言えない優しい表情からは身近さが感じられ、円空が民衆の苦しみを救済したいとの気持ちを微笑で表したい想いが伝わってきます。
「聖徳太子像」と「鬼子母神像」も同様に微笑を浮かべています。鬼子母神が持っているのはザクロでしょうか?
鬼子母神は元々は鬼女と呼ばれ、自分の子供を育てるために人の子供をさらって食べていたといいます。
釈迦から人肉を食べたくなったらザクロを食べよと論され心を改めたといい、サクロの実に種が多いことから鬼子母神には子授け・安産子育てのご利益があるといいます。
「不動明王立像」と「大黒天」はかなり特徴的な姿をされている。
力強い不動明王・財宝を与える福の神の大黒天のそれぞれの役目をデフォルメしたように彫られていて実に頼もしい。
像高約112cmの細長い「観音像」は見る角度によって高い台の上に座る坐像に見えたり、横から見ると立像に見える造りがされています。
大半の仏像が桧木を使っている中で、唯一クスを使っているので木色がかなり違っている仏像でもあります。
中観音堂を拝観し終わると、そのまま歩いて「羽島円空資料館」へと入ることが出来る。
資料館には円空仏のレプリカや資料類、円空が描いた絵画などが展示。
円空の絵画はシンプルに簡略化されたもので、実に味わいのある絵を描かれています。
円空の微笑仏と一般的にはまとめて言いますが、幾つかの円空仏を見ていくと少し傾向の違う仏像も見られます。
「金剛童子」や「護法神」は怒髪天を衝くような髪となっており、少年コミックにでも登場しそうな姿をしている。
尚、護法神の右後ろに見えるのが円空さんの描いた仏画です。
円空仏の題材は多岐に渡っており、資料館には羽島市にある「長間薬師寺」に祀られている「薬師三尊像」のレプリカが展示されてありました。
「薬師如来立像」「日光・月光菩薩」の3尊ともに穏やかな微笑を浮かべていて、癒される仏像です。
中観音堂と羽島円空資料館の境内(駐車場)で驚くのは所狭しと並べられている円空彫りの仏像でしょうか。
奉納された仏像かと思われますが、実際に円空仏と奉納仏を比較して識別するのが困難に感じるほど忠実に再現されている。
奉納仏は、古そうに見えるが裏面を見ると平成の中頃に奉納されたものが多かったのももう一つの驚きでした。
また、中観音堂・羽島円空資料館のある羽島市上中町では家の前に円空彫りの仏像を置いている家がかなり多かったのも印象に残ります。
ところで、中観音堂から道を挟んだ所には「円空上人産湯の井戸」があり、今も水を汲み上げています。
円空は1632年にこの集落に生まれたとされるものの、生家は特定されておらず、ここを「円空の産湯の井戸」と語り継がれてきたといいます。
確認されているだけでも円空仏は約5300躰あるといい、その膨大な数の仏像の目的の一つは、民衆が気軽に拝めることだったと考えられています。
また、円空さんは一般大衆の救済以外にも差別や抑圧に苦しむ人々のための造仏も行っていたといいます。
円空さんは61歳で十二万体の造仏を成就したといい、64歳の時に母が亡くなった長良川湖畔の寺院で即身仏として入定されたと伝わります。
江戸時代から今に至るまでどんな辛い時代にあっても、円空さんの仏は慈悲の微笑で我々を迎えてくれていたのだと思います。
今の危機的状況が落ち着いて、再び円空仏に会える日を楽しみにします。
(2019年10月某日 拝観)