僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

金勝山の狛坂磨崖仏を目指せ!②~狛坂磨崖仏~

2021-12-25 08:08:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 白洲正子さんは著書「かくれ里」の中で「狛坂磨崖仏」のことを『摩崖仏は、聞きしに優る傑作であった。見上げるほど大きく、美しい味の花崗岩に、三尊仏が彫ってあり、小さな仏像の群れがそれをとりまいている。』と書かれている。
また『こんな迫力のある石仏は見たことがない。それに環境がいい。人里離れたしじまの中に、山全体を台座とし、その上にどっしりと居座った感じである。』とも書かれています。

白洲さんが訪れた頃は、現在のように道が整備されていない厄介な山奥にあり、とても人が歩けるような道ではなかったといい、地理に詳しい人に導かれてやっとの思いで辿り着いたのだという。
「狛坂磨崖仏(狛坂寺跡)」へは馬頭観音堂から龍王山・白石峰のルートを歩いて行きましたが、時間にして50分ほどで到着しましたので、白洲さんの時代に比べたら随分と楽になったことになります。



「狛坂寺」は嵯峨天皇の御代(810~823年)、蒲生郡狛長者の娘が金銅の観音様を壇林皇后(嵯峨天皇の皇后)に献上し、これを時の名僧願安に下賜されたといいます。
願安は観音像を金勝寺に安置したが、女人結界の霊地のためこの地に金勝寺の別院として一寺を建立したのが「狛坂寺」の創立と伝えられる。と案内板にあります。
「狛坂寺」は明治に廃仏毀釈により廃寺になったとされ、白洲さんが訪れるまで100年近くの年月が経っていたことになり、寺が自然い戻り山と同化していたのも理解が出来ます。



「狛坂寺」があったと思われる石垣のちょうど真向かいに「狛坂磨崖仏」があり、白洲さんの言葉通り、その姿はまさに人里離れた山奥に、どっしりと居座る、迫力と美しさに満ち溢れた摩崖仏といえます。
これまで幾つかの摩崖仏を観てきた中で迫力や慈悲を感じる摩崖仏はありましたが、これほどの美しさを兼ね備えた摩崖仏という意味では「狛坂磨崖仏」は傑作という言葉がよく合います。



「狛坂磨崖仏」が彫られた花崗岩は、高さ6.3m、幅4.5mの巨岩で中央に彫られた三尊像を中心に、小ぶりの仏像9躰彫られている。
中尊は宣字座に座す如来層と蓮華座の上に立つ脇侍の2尊で構成されており、平安時代初期あるいは奈良時代の作とされていましたが、近年の研究では白鳳期の作ではないかと言われています。



ということは「狛坂寺」が創建される前から存在したことになり、古くからの信仰の対象だった場所に「狛坂寺」が建立されたことになります。
この三尊像の作風からは新羅彫刻の影響が見られるといい、新羅系渡来人が彫ったのではと言われています。

「狛」には高句麗・高麗の意味があり、蒲生郡狛長者の娘が金銅の観音様を皇后に献上したなどの伝承からしても渡来人の作説は有力だと思われます。
そもそも湖東・湖南地方には渡来人が持ち込んだ大陸の文化や技術の影響が残る場所が多くあり、東京大学の遺伝子データ解析では“渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県”という興味深い解析結果もあります。



中尊以外の仏像は鎌倉期に追彫されたものと推定されており、時代が下っても金勝山や「狛坂磨崖仏」への信仰が途絶えなかった証となっています。
主尊には釈迦仏・阿弥陀仏・弥勒仏などの説があり特定できませんが、中尊の三尊の上にも右と左に三尊像が彫られています。



脇侍のやや上には1躰づつの観音像が彫られており、巨大で聖なる岩から仏があふれ出すかのように姿を現したという印象です。
中尊の三尊は年代が古いにも関わらず、くっきりとした姿が残っており、少なくとも1200年は経っているのも関わらず美しい姿と感動を観るものに与えてくれます。





巨大な摩崖仏の横にある岩にも三尊像が彫られていて、何故ここにこれだけ摩崖仏が集中しているかに関しては、山の下に広がる草津平野を流れる草津川の源流がここにあったという説があります。
金勝山からもたらされる水によって生きていけた人々の祈りの場所でもあったのかもしれません。



「狛坂磨崖仏」の対面、狛坂廃寺の石垣の横には巨岩の上や下に石仏が祀られています。
明治初頭に狛坂寺が廃寺になるまでは、道俗男女の参詣で栄えていたということですが、ここまで参拝に来るのはさぞや大変だっただろうと信仰の力に驚くばかりです。



その狛坂寺も今は石垣の一部が残るだけとなっており、往年の面影はなく、ただ摩崖仏だけが残っている状態です。
「狛坂磨崖仏」の高さは450mの地点で、最も高度の高い龍王山からは150mほど低い。
降りてくる時は夢中でしたので苦にならなかったのですが、国見岩の辺りまで続く悪路の急登を登り返すのは一苦労しそうです。



ゴロゴロとした岩だらけの道で息は切れ、汗が噴き出してくる。
山登りの気分を味わうというよりも、早く登り切って尾根筋に戻りたい。



おそらく大量の雨が降ったら道が川のようになるのかと思いますが、落ち葉も積もっている窪みなどもあり、滑りやすい道です。
こういう場所を登っていて不思議なのは、息切れが落ち着いてくると気分がハイになっていくのを感じることでしょうか。
うまくは言えませんがシンドイのが心地よいといった心境になるのかと思います。



途中には巨岩の間を通り抜けていく結界のような岩場があり、間を抜けていきます。
滋賀の霊山にはこのように挟まれそうになる巨岩がある山が幾つかありますが、この先にあるのは金勝寺で後方にあるのは狛坂寺跡と磨崖仏ですから、両方に対する結界と言ってもよいのではないかと思います。





他にも巨岩・奇岩があちこちにありますので、つくづくこの山は岩の山なんだと思うことしきり。
岩の下の土砂が流れて、そのうちにずり落ちてきそうな大岩もありますが、それはそれで新たな景勝地となりそうです。





最後は出発点となった馬頭観音堂前の駐車場からの光景です。
何年も前から一度目にしたかった「狛坂磨崖仏」へ行くことができて感慨もひとしお。
次に金勝山に登る時は「天狗岩」のピークに登ってみたいですね。




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金勝山の狛坂磨崖仏を目指せ!①~龍王山から国見台~

2021-12-21 07:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 栗東市にある「金勝山」は湖南アルプスを形成する山々の一つで、単独峰ではなく標高605mの龍王山や鶏冠山491mなどの山々のことを指し、通称「金勝アルプス」と呼ばれています。
山中には奈良時代に良弁(東大寺初代別当)によって開基されたとされる金粛菩薩の霊地「金勝寺」があり、時代を更にさかのぼれば、役小角の修行した霊跡でもあったと伝わります。

金勝山の山中には奈良時代に彫られたという(一説には白鳳時代ともされる)「狛坂磨崖仏」があり、摩崖仏の多い湖南地方でももっとも名が知られている摩崖仏になります。
以前から行きたいと思いつつも行きそびれていて、栗東歴史民俗博物館のレプリカしか見ていなかったのですが、思い切って金勝山に登ることにしました。



2年前にも金勝山へは訪れていますが、その時は大津市側の上桐生から入って「逆さ観音」を経由し、「落ヶ滝」まで行って戻ってきています。
前回は後半の登りでバテてしまいましたので、今回は「狛坂磨崖仏」により近い馬頭観音堂から北峰縦走線を歩いて、「狛坂磨崖仏」を目指します。



小高い丘の上にある馬頭観音堂に参拝してみると、1本のカエデが赤く色づいていて季節を感じさせる美しさがありました。
直下の平野部にはJRAの栗東トレーニングセンターがありますが、山中に馬頭観音堂があることから、栗東の周辺には馬の文化があったと考えてもよさそうですね。

道は多少のアップダウンのあったものの途中まで急登は少なく、ほぼ尾根筋を歩いていくだけなので、常に空の下で太陽の光が受けられる歩きやすい道でした。
途中に何度も巨石に出会うのも岩山・金勝山らしさが感じられて魅入ってしまうことも度々。



複数の峰で構成される金勝山の最高峰は605mの「龍王山」で、最上部には巨岩の上に神殿が祀られています。
案内板によると“この神殿は大野神社の境外社で雨之水分神(明治の神仏分離令までは八大龍王と呼ばれた)をお祀りしている”という。
金勝地区に水を恵み与える神として信仰され、旱魃時には雨乞行事が行われたといい、この地は金勝山の分水嶺となっているとありました。



「龍王山龍王社」の本殿になる「大野神社」には仏教の水の神とされる十一面観音が祀られているといい、龍王山には日本の水の神である龍王が祀られている。
霊山であった金勝山の最頂部になる龍王山に水の神である龍王を祀って水の恵みを祈願してきた日本的な山の神への信仰と、摩崖仏を彫ってお祀りしてきた渡来人の仏教文化が習合していた痕跡が今も伺われます。



龍王山から更に道を進んで行くと、今度は「茶沸観音」という小さな摩崖仏に出会います。
2m弱の大岩に彫られた舟形の中に祀られている茶沸観音は20数cmくらいでしょうか。



茶沸観音は“道行く人が体を休め、茶を喫する適所だったから”といわれることがありますが、かつて金勝寺から山道を歩いてきた人ならこの辺りで一息いれたくなる距離かもしれません。
岩自体がかなり風化が進んでいるように見え、舟形の中の観音(如来という説があり)も随分と輪郭がぼやけてきており、摩崖仏は推定では鎌倉時代に彫られたとの説があります。



茶沸観音から数分歩いた所には「白石峰」の分岐があり、天狗岩・落ヶ滝・鶏冠山へと行くルートと、狛坂磨崖仏へ行くルートに分かれているようです。
当然ながら狛坂磨崖仏方向へ進みましたが、次に来ることがあれば天狗岩へ登ってみたいですね。



白石峰の少し開けた場所から奥に周り込んでみると岩が積みあがったような場所があり、ここがこの地点のピークのようです。
せっかくなので登ってみましたが、上には特に何もなく、その先は行き止まりでしたので、岩から降りて元の道へと戻ります。



白石峰から十数分歩くと、突然「重ね岩」が見えてきます。
突然と書きましたが、金勝山を歩いていると何の予告も予兆もない中で巨岩に出会ってしまいますので、突然巨岩が見えてきたという表現になります。



金勝山には重なった巨岩や不安定そうに立つ巨岩が多々ありますが、馬頭観音堂からのルートだと最初に会う巨岩が「重ね岩」になるのかと思います。
目の前に現れた2段の巨岩に圧倒されますが、こういう巨岩の重なりは自然に出来たものなのでしょうか。
元々は土に埋まっていた岩が周囲の土砂が流されたことによって地表に現れてきた可能性も無きにしもあらずかも。



重ね岩の下の巨岩には摩崖仏(阿弥陀如来座像)がぼんやりと浮き出ており、かなり風化が進んでいて見にくくなっています。
京都の木津から石山や湖南地方を通って、信楽・甲賀・伊賀へと続く「石の道」の文化は、狛坂磨崖仏を頂点にこの金勝山全体に息づいているようです。



重ね岩からすぐの所には「国見岩」があり、巨岩がゴロゴロと剥き出しになった山の向こう側に栗東市方面の絶景が望めます。
平野の真ん中に見えるのは近江富士こと三上山。三上山の姿は湖南や湖西地方の各所から眺められ、現在地を知るのに実に役に立つ山です。



湖南地方には崩れそうで崩れない、落ちそうで落ちない巨岩が実に多い。
金勝山は低山の部類の山のも関わらず、見応えのある景色が多いですね。



国見岩からは左方向に岩山と三上山、右方向に「天狗岩」の豪快な姿が拝めます。
この時は知らなかったのですが、「天狗岩」はてっぺんまで登ることが出来るようなので、もう一度金勝山へ登る楽しみが出来ました。



中央下に見える岩が国見岩側で、その岩の下は谷。遠近感が分かりにくい写真ですが、手前の岩から平地が見渡せたことから国見と名が付いたのではないかと推測したくなる位置にある大岩です。
この岩まで降りるには短いとはいえ滑りやすい坂を降りなければならず、ロープはあったものの松の先の細い枝にくくり付けてあっただけですので、とても命を預けらず、つかまるものを探しながら降りました。



馬頭観音堂から国見岩まで尾根筋の歩きやすい道でしたが、ここから狛坂磨崖仏までは道も荒れ気味の下り道になる。
帰りに登り返すのはしんどそうだなぁと思いつつも、やっと山登りらしい雰囲気になってきたと心が躍る。
狛坂磨崖仏は次回に続く...。


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八王子山山頂の「日吉大社 三宮宮」を目指せ!~大津市坂本日吉大社~

2021-12-17 06:01:01 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大津市坂本にある「日吉大社」は今より2100年以上前の崇神天皇(紀元前)の時代に、日枝の山に降り立った大山咋神を祀るために創祀されたと伝わります。
平安京が遷都されると、坂本の地が都の表鬼門(丑と寅の間の方角)にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として崇敬されるようになったといいます。

伝教大師・最澄が比叡山延暦寺を開いてからは、比叡山と天台宗の守護神として崇敬されるようになり、「山王権現」と呼ばれる神仏習合の神社として繁栄したとされます。
しかし、明治の神仏分離令が発令されると、日吉大社では激しい廃仏毀釈運動が起こり、祀られていた仏像や経典、仏具などに火を放つなどにおよび、ここ坂本で始まった廃仏毀釈が全国で行われるようになったという。



日吉大社には「山王七社」と呼ばれる社があり、本宮となる「西本宮」・「東本宮」と摂社の「宇佐宮」「白山姫神社」「樹下神社」と八王子山山頂にある「牛尾神社」と「三宮神社」を七社として数えます。
「牛尾神社」と「三宮神社」は標高378mの「八王子山(牛尾山)」の山頂付近にあって日吉大社の「三宮宮」とされ、巨大な磐座「金大巖」をお祀りする日吉大社の神体山となります。



境内から八王子山を眺めると八王子山山頂近くに社が見え、「三宮宮」まで山登りを兼ねて登ってみることにします。
見た感じでは「太郎坊宮(阿賀神社)のある赤神山より低く見えますが、実際は赤神山よりも若干標高が高い山です。
ズームで確認すると「懸造」の建物が2社あるのが確認できます。



日吉大社の広大な境内へは山王鳥居から入りますが、この神社の建築物はほぼ全てが国宝と重要文化財と言っても差し支えがないくらい歴史のある名建築が揃います。
鳥居の上に三角形の破風が乗った形をしている山王鳥居は、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされ、山王信仰の象徴となっています。



山頂の「三宮宮」「牛尾宮」は、東の「東本宮」と西の「西本宮」の中間辺りにある石段から登っていくことになり、石段の横には「三宮宮遙拝所」と「牛尾宮遙拝所」が建てられています。
体力や脚力などの事情により山頂まで行けない人はここから遙拝されるのでしょう。



しばらく続く石段を登り終えると、九十九折の砂利道が続くが、結構勾配があってペースが落ち着いてくるまで息切れが激しい。
参拝を済ませて降りてこられる方とすれ違いますが、かなり年配の方でも呼吸が乱れておらず、自分の体力の衰えを痛感する。



空が開けてきて社が近いことが分かるようになった頃、大きな巨岩と山上へと続く最後の石段が見えてきます。
広い道を登ってきたので山登りした感覚はあまり感じなかったものの、うっすらと額に汗をかいて気持ちよく登れました。



最後の曲がり角を曲がると、石段の上に懸造の社が見えてくる。
社は傾斜があり、さほど広くはない場所を目いっぱい使って建っており、安土桃山時代の建築技術の巧みさに驚くような社殿です。



「三宮宮」は右に「牛尾宮」、左に「三宮」が建てられており、2つの社の中央奥に御神体の磐座「金大巌」が威風堂々とした姿で祀られていました。
この「金大巌」に降臨した大山咋神が宿ったとして、日吉神社の始まりとされる日吉大社の奥宮です。





「金大巌」の正面は、五角形のような形の平な姿をして琵琶湖を見降ろしています。
10mほどあるという大きさに圧倒されますが、山への信仰や巨岩への信仰や畏怖を感じる磐座です。



「牛尾宮」は、「大山咋神荒魂」を御祭神とし、大山咋神は山頂の境界となる杭を神格化した神ともいわれる地主神とされます。
平安京や比叡山延暦寺の開山の遥か昔より、この地を護ってきた山神といえるのでしょう。



「三宮」は、御祭神に「鴨玉依姫神荒魂」をお祀りしています。
奥宮の「三宮」には「鴨玉依姫神荒魂」、「牛尾宮」には「大山咋神荒魂」と共に「荒魂」をお祀りしており、里宮の「東本宮」には「大山咋神」、「樹下宮」には「鴨玉依姫神」と和魂をお祀りする。

神道では神霊は2つの側面を持つ霊魂から構成されているといい、「荒魂」は荒々しく猛々しい面を表し、「和魂」は柔和・仁慈の徳を表すとされます。
奥宮では人に禍を引き起こす畏れのある「荒魂」をお祀りしており、「荒魂」は里宮に降りて「和魂」となるということかとも思われますが、神の持つ二面性が伺い知れます。



「三宮宮」からは琵琶湖が一望できますが、朝は残念ながら逆光がきつくて写真になりませんが、琵琶湖の向こう側には先週登った三上山(近江富士)の姿が見えます。
三上山(近江富士)は、“富士”と名が付くに恥じない稜線の美しい山で、湖南地方のあちこちから眺められる山です。



さて、日吉大社は歴史ある神社とあって御神木などの巨樹が境内の各所に見られます。
特に2本気になる巨樹がありましたので取り上げますと、まずは「走井杉」という巨樹で手前のスギは幹周5m越えの大木です。

走井杉の間にある祠は「走井祓殿社」といい、御祭神に瀬織津姫・速秋津姫・気吹戸姫・速佐須良姫の4柱を祀ります。
すぐ横には秀吉が寄進したという清めの井「走井」があり、その水は毎朝のお供えやお浄めに使われているといいます。
横に伸びた枝は、走井橋の上に寝そべるように伸びているかなり個性的な形のスギになっています。





もう一本の巨樹は、日吉大社の境内を出てすぐの場所にある「紗那王大杉」というた源義経の稚児名を名の由来とする巨樹です。
幹周5.5mで荒々しくも力強い姿をしており、「走井杉」となまた違った迫力を感じます。



最後に日吉大社の鳥居の後方に見える八王子山と奥宮に頭を下げて帰ります。




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三上山山頂の奥宮を目指せ!~「御上神社」の大神様~

2021-12-10 18:02:02 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「近江富士」こと三上山(標高432m)は、琵琶湖側から眺めると富士山のような稜線が美しい山で、車などで移動する時に現在地把握の目安となる山です。
第7代天皇・孝霊天皇の時代(原史時代)に天之御影命が三上山の山頂に降臨し、それから約千年の間、御上祝の三上氏が清浄な神霊の鎮まる厳の磐境として祀ったとされます。

718年になると元正天皇の勅命を拝した藤原不比等が現在の場所に「御上神社」を造営し、国宝に指定された本堂を始め、重要文化財の拝殿・楼門・摂社若宮神社本殿などが建造されていったという。
「御上神社」が神奈備として祀る三上山の山頂には「奥宮」や「磐座」があるといい、登山を兼ねて奥宮へ参拝してきました。



ルートは表登山道から登って奥宮まで行き、裏登山道を下って登山口に戻るルートを選択。登りのコースタイムは1時間くらいのスローペースで行きます。
三上山が松茸山になる時期は、入山初穂料(500円)が必要となるということでしたので、登山口近くのお店で初穂料を納め、表登山口の場所を教えてもらう。



表登山道は急勾配で健脚向きのコースとなっていましたが、最初は体が慣れていなかったこともあってゆっくりと登っていったものの急登が続くので結構きつく感じます。
登り始めに寒さを感じていたのが、うっすら汗をかいて体が暖まってくるようになる頃には、下界の騒音が遠のいていって唯々登っていくことに集中する。



急に道がなだらかになって整った石段が見えてくると、その上には妙見堂跡の広場が広がります。
三上山の登山道にはかつては御堂や茶屋や宿屋・水屋などがあったようで、途中に潰れた建物の残骸が廃墟化していたのは山頂の奥宮への参詣者が利用していたものか。



ただ、現在の妙見堂跡には灯籠と石碑はあるものの、ススキ野と化しており、通り過ぎるより他にないが、かつては立派な御堂があったのかと思う。
神奈備の神山に、北極星または北斗七星を信仰する妙見信仰の御堂があったのは不思議に思えますが、近江三上藩主だった遠藤家の一族の妙見信仰が関係するという説があります。



妙見堂跡を越えるとまた急登の登山道が続きますが、そのまま登っていくと「割岩」の看板が見えてきました。
近づくにつれて話し声が聞こえてきて、人の姿が微かに見え隠れしている。



大きな岩が2枚ありましたので、これが割岩かと思っていると、人の声は随分と上の方から聞こえてくる。
そして大岩の上部に見えていた人の姿がすぐに大岩の中へ消えていく。



大岩に鉄鎖が吊るされていましたので、どうやら割岩はこの上部にあるようです。
割岩を通ることで穢れを落とし再生を図るといいつつも、鉄鎖での大岩登りにはちょっとしたスリルとアドベンチャーを感じつつ、上へ上へと登っていく。



割岩の前まで来るとその幅がかなり狭いため、すんなりとは抜けられそうにないのに気付く。
ザックを背負って通り抜けるのは無理そうで、ボディバックだけの当方もバックの位置を変えて何とか通り抜けられました。
先客がここで時間をかけて苦労していたのも、よく理解できます。



下は割岩の間にいる時に撮った写真ですが、周囲は岩に囲まれ、岩の中に閉じ込められたような空間です。
太郎坊宮など岩と岩の間を抜けていく所はありますが、ここは経験したどこよりも狭い。



割岩を通り抜けた後、振り返って大岩を見る。
ちょうど人のお腹の辺りに岩が突き出ているのが通りにくさの原因でしょう。
看板に「肥満度確認可能」と書かれていたのも笑えない話ですね。



さて、表登山道が急勾配で健脚向きコースとされているのは実はここからが本番です。
ここから頂上までは岩が剥き出しの岩場で、岩登りが延々と続きます。
二足歩行では登れる道ではないので両手を使って手と足の置き場を探りながら登ることになります。



ただしよく見ると一枚岩に足を掛ける場所が作られており、鎖の他にもロープの吊るされた場所があり、楽しみながら岩を登っていけます。
途中には琵琶湖まで見通せる絶景ポンイトがあり、ここで休憩しながら景色を楽しみます。
湖南地方の琵琶湖は幅が狭くなっていますので、湖西の山々がよく見えますね。



一息ついて後は頂上まで一気にと思いきや、まだ岩場は続く...。というか頂上まで岩場の連続です。
途中に手すりが設けられているところは楽に登れますが、ない所は相変わらずの四つ足状態で登ることになります。



岩ばっかりで嫌になるかというと、岩登りばかりなので楽しくなってくるというのが実際の気持です。
三上山の表登山口は面白いですね。もっともここが高山だったら登れませんけどね。



頂上真近には先ほど景観の広がっていた場所とは別に展望台があり、こちらでは大きな一枚岩に腰かけて景色を楽しみます。
角度の関係で琵琶湖は樹が邪魔になって撮りずらいのですが、角度を変えると高度の違いもあって先ほど見た景色とは感じが変わります。



見晴台の大岩に座って景色を見ていると、おばぁさんが一人来られたので“頂上はもうすぐですか?”と聞いてみると、“奥宮の鳥居はもうそこに見えてるよ。”と教えてもらい最後の一登りをする。
大きな神社や寺院には山頂に奥之院や奥宮・磐座がありますので、機会を見つけて登っていますが、やっと念願の三上山(御上神社)の奥宮に参拝出来た。
しかも表登山道は巨岩が多く、岩登りを楽しめましたので二重の嬉しさです。



祠は3つあり中央の大きい祠に「御上神社」の御祭神と同じ「天之御影命」が祀られています。
「天之御影命」は、製鉄・鍛冶の神とされ、三上山周辺の遺跡からは銅鐸が集中して発見されているといい、かつてこの地には製鉄の文化があったとされています。

また、三上山には「俵藤太(藤原秀郷)の百足退治」(瀬田唐橋に現れた大蛇(龍神)に頼まれ、三上山に住む百足を成敗した。)の伝説が残ります。
百足を成敗した藤太は“使ってもつきない巻絹、米のつきない俵、思うままに食べ物のでる鍋や鎧・太刀と赤銅の釣鐘をもらった、”と伝わります。
三上山には古くから鉄、銅などの鉱脈があり、鉄の鉱脈を黒百足、銅の鉱脈を赤百足とよんだとする伝承があり、三上山と製鉄との関わりが深かったことが伺われる伝説です。





そして山麓の「御上神社」や琵琶湖まで続く平野を見降ろすような位置には磐座が祀られている。
磐座は大きな岩ですが、その下には更に大きく境目が見えないような一枚岩があるのも、巨岩の多い三上山らしい姿です。



奥宮に無事参拝出来ましたので今度は裏登山道から下山します。
裏登山道から見る鳥居は、また少し違った雰囲気があり、山頂の宮の鳥居の印象はこちらの方が強いかもしれません。



比較的ゆるやかとされる裏登山道でしたが、頂上付近からしばらくは木段の急坂が続き、その後も岩が剥き出しになった道で歩きにくい。
表登山道と裏登山道とでは違う山に登っているかのように印象が異なります。

裏登山道では何人かの登山者に出会いましたので、裏登山道から登られる方が多そうだという印象もあります。
どちらかというとシンプルに登る裏登山道でしたが、途中に「姥の懐」という岩穴がありました。



聳え立つような巨岩の先にぽっかりと開いた穴が見え、道が悪いため行きにくい場所ではありましたが、上まで登ってみる。
別称「むかでの穴」と看板に書かれていたのが薄気味悪いが、上にある黒い穴がどうしても気にかかる。



岩穴の前まで来ても中は真っ暗で何も見えない。
フラッシュをたいて懐の内部の様子を確認すると、人が一人くらい入れそうなスペースはあったが、中には何もなく信仰の対象とはなっていないようです。



下山した後、御上神社へと参拝に向かいます。
振り返れば三上山の姿。ついさっきまであの山の上にいたのかと感慨に耽る。
コースタイムは登りが約1時間、下りが約40分とスローペースでしたが、見所が多くリピート登山したくなる山でした。



山に登りたいのか、奥宮・奥之院・磐座を巡りたいのか曖昧になってきていますが、おそらく両方を求めているのでしょう。


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「河合 元行者窟」と「河合不動尊 天の恵みの水」~多賀町権現谷~

2021-12-06 18:02:02 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 霊仙山は多賀町と米原市にまたがる標高1094mの山で、多賀側の山中には廃村や限界集落が点在しており、その神秘的なまでの光景を見に訪れることがあります。
車の対向も出来ないような林道を進むのもある意味で恐怖なのですが、携帯電話は圏外となり、クマやイノシシやマムシやヤマビルなどに遭遇する怖れもある。

そんな場所でありながらも訪れたくなるのは、手つかずの自然が残しながらも、かつて人が生活していた息吹きが感じられる異界のような魅力があるからでしょう。
「河内の風穴」のある辺りを通り過ぎて権現谷の林道へ入ると、怖さや危なさを感じつつも多賀の山中の神秘的な光景に圧倒されます。



権現谷へ入ったのは「河合 元行者窟」が見たかったためですが、道には落石が多く、何度も落石をどけながら進むことになり、途中には土砂崩れの跡に何回か出会うこともかあって恐る恐る進むことになる。
林道の途中には石が積まれて中央には地蔵石仏が祀られていて、供えられた花は鮮度がありましたので、ここまでやってきてお地蔵さんのお世話をされている方がおられるのでしょう。



「権現谷林道」は芹川の源流域に沿った道でしたが、川には巨石がゴロゴロと転がり、林道の両端には剥き出しの岩の壁に挟まれた道です。
突然現れてあっと驚いたのは、「河合不動尊 天の恵みの水」と呼ばれる巨岩と勢いよく流れ出る湧き水でした。



突き出した巨岩の迫力の凄さ、両端から流れ出る水量の豊かさに圧倒されてしまう中、、川にかかる川霧がなんとも幻想的な空間を造りだしています。
「河合不動尊」と名は付くが、周辺に祠のようなものはないため、不動明王との関連は分かりませんが、圧倒的な存在感が不動尊と名乗らせているのかもしれません。



大岩の下から流れ出る湧き水は、水量の多さも素晴らしいが、周辺の岩の造形も美しい。
水の透明度もクリアーで、冷たそうな水です。



実際に流れの直下まで行かれる方もおられるそうですが、当方が行くにはアドベンチャーが過ぎすぎますね。
「権現谷林道」は、登山なしで見られる渓谷としては滋賀県屈指なのではないでしょうか。



大岩を正面から見ると、岩の左右から水が湧き出ているのが分かります。
道は半ばですが、権現谷へ来てよかったと思える光景です。



小さな滝のような姿の湧き水は。右の方が大きく、左がやや小さい。
川には巨岩がゴロゴロしていて、見応えがある。
巨岩の多いこの川の様子を帰り道にもう一度写真に撮ろうと思っていましたが、後述する事情により撮れませんでした。



芹川上流域には、土石流防止の堰堤がいくつかあり、そのうちの一カ所ではエメラルドブルーの水を見ることが出来ました。
透き通るような透明度と、水深があるのでしょう、水は青みがかって美しい。



この堰堤にいた時に、地響きするような轟音が聞こえてきて何事かと驚く。
しばらくしたら音が止みましたので先へ進みます。細い林道ですが、多賀の山中の林道では落石の多さを除けばまだましな方かと思える道です。



下は道が途絶えたように見えますが、2枚の巨岩の間を通る道です。
「太郎坊宮の夫婦岩」の林道版のような道ですが、この辺りからどこまで行ったら「河合 元行者窟」があるのだろうと不安になってくる。



不安な気持ちのまま進むと、ほどなく「河内 元行者窟」の看板を見つけます。
周囲を見渡すと対岸の急登に鳥居を発見。





鳥居の奥にある急登を登れば岩窟があるようですが、川へ降りてあの坂を登る勇気はない。
かつてこんな山奥の岩窟で修行していた人がいたというのは、よほどの覚悟がないと出来なかったでしょうね。



ここで再びエメラルドブルーの堰堤の近くで聞いた地響きのような轟音が聞こえてきた。
パンパンという音もしたので猟師が鉄砲を撃っているのかと思ったが違う。その矢先、近くの崖の上から数十キロはある岩が次々に落ちてきた。
パンパンという音は落石が岩に当たって鳴る音のようだ。

「落石注意」の看板がある所は多いが、あんな凄まじい落石は初めて見ました。
当たったら死ぬか大ケガ、大きな岩が林道に落ちたり土砂崩れがあったら道が封鎖されて山に閉じ込められる。もちろん携帯電話は圏外。
“早くUターンできる場所を探して避難しよう”と一目散に逃げることにしました。



「権現谷林道」は8月盆頃の大雨で土砂崩れで通行禁止になっていた道で、この日も土砂崩れの跡が生々しく残っている状態でした。
山は怖いなぁと感じる瞬間でしたが、あの轟音と連続して落ちてくる大きな落石は本当に怖かった。

河内集落まで戻ってきてホッとしましたが、かつて舗装もされていない山道を生活道路として移動していた人達はさぞ大変だったことでしょう。
山道にあるお地蔵さんに手を合わせて、旅の安堵を祈られた気持ちが少しだけ理解できました。



「下ノ地蔵尊」は大きな岩に浮彫された地蔵尊です。
県道をかなり下ったところに祀られていて、お顔はかなり風化していますが、とても穏やかな表情に見えたのは、無事戻ってこられた安堵感からだったのでしょう。



山麓の集落へ行くと、かつて大雨が続き、山が鳴き出した後、土砂崩れが起こり土石流が集落に流れ込んだといった話を聞きます。
権現谷で聞いた地響きするような轟音は、「山が鳴く」という現象だったのでしょうか。
まさに山は生き物。“お前はここへは来るな!”と山から追い出されたのかもしれません。


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京都大原「マリアの心臓」~天野可淡・恋月姫人形展覧会~

2021-12-02 07:18:25 | アート・ライブ・読書
 「人形屋佐吉」こと片岡佐吉さんは、アンティークドール・球体関節人形・市松人形・創作人形などの人形蒐集家であり、写真家としても活躍されている方です。
人形博物館としての「人形屋佐吉」は1978年に札幌で開店した後、東京表参道~元浅草~渋谷へ移動後の2011年に一旦閉館し、2015年より京都大原の地で「マリアの心臓」を再開されています。

京都大原の「マリアの心臓」は不定期に開館されており、2020年に閉館が予定されていましたが、コロナ渦により開館出来なくなり今回が21ケ月ぶりの開館とのこと。
しかし、「マリアの心臓」は2022年に閉館が予定されているようですので、見に行ける機会としては今回が最後になる可能性もあると思いつつ大原の地へと向かいます。



大原の古い日本家屋を会場としている「マリアの心臓」は、京都大原という古刹と自然に恵まれた里山に異質でもあり融け込んでもいてという現実と幻想のはざ間のような場所だと感じます。
今回の展覧会はテーマが盛りだくさんになっており、天野可淡人形展覧会【花魁地獄太夫】【THE DRACULA】、恋月姫人形展覧会【血の涙を流すイエス・血の涙を流すルチア】が企画されています。

大原のバスターミナル近くの駐車場に車を停めて、三千院へと続く坂道を歩いて行きますが、陽の傾いた夕方4時前になっていたのにも関わらず、観光客の多さに驚くことになります。
しかし、観光客や茶屋・売店などの活気のある場所を離れて向かうのは川沿いの寂しい道で、この先には人形たちの棲む館があります。



一見人の住んでいない廃屋のように見えますが、家の中には天井裏を含めて何百体という人形が納められており、人形に当たらないように部屋を進んでいくのもマリアの心臓の凄みでもあります。
一時期は、スーパードルフィーが人気を呼んで球体関節人形のブームがありましたが、もう廃れたかと思いきや中にはコアなドールファンが何人も来場されていたのには少し驚いきました。



以前はこの家屋の前庭に『古自転車と小便小僧』が象徴のようにして飾られていたのですが、古自転車はなく小便小僧だけが建屋にもたれかかっていました。
庭の草も生え放題のように見え、観光地としての大原のイメージはなく、むしろベニシア・スタンリー・スミスさんが暮らす静かな大原の印象の方を強く感じる。



室内へ入るとビスクドールやジャンルにはまとめられない人形たちの展示が始まります。
ずらりと並んだ市松人形の前にソファーがあったので眺めていましたが、どうも日本人的には市松人形に怖さを感じてしまいます。
古物商とかの店先に市松人形が置かれていたりすると、意思のあるものから見つめられているような錯覚に陥るような怖さを感じたりしますが、ここには何十体という市松人形に見つめられる。

天野可淡さんは球体関節人形作家として、妖しくも耽美で異様なまでの作風で人気を集めた作家でしたが、1990年にオートバイ事故により37歳で亡くなられたという。
下は片岡佐吉さんが「マリアの心臓」が所蔵する人形作品を撮影した写真集「天野可淡 復活譚」で、以前に「マリアの心臓」を訪れた際に購入して佐吉さんのサインを頂いた本です。



今回の「花魁地獄太夫展」でも天野可淡さんのドールは多数展示されており、可淡さんの創造された人形の妖しさや情念の世界に鳥肌が立つ。
ゾッとしたのは可淡ドールの奥に古い雛人形のお内裏様とお雛様が並び、その奥には小さな厨子に納められた念持仏のような阿弥陀如来?。その前には葬式に使う盆提灯が薄暗い部屋で薄い光を放っている。
「花魁地獄太夫展」のキャッチコピーは“三千世界の烏を殺し、主と添い寝がしてみたい”とあり、決して逃れられない、また救われることのない情念が渦を巻く。



「マリアの心臓」には天井裏にも展示されており、低い梁をくぐるため床を這いずり回るように進みながら、各所に展示された可淡ドールを見ることになります。
ちょうどゴスロリ衣装の女性が何人か天井裏で可淡ドールを鑑賞されていて、天井が低く薄暗いため人形かと思って近づいたらしゃがみこんでいる小柄なゴスロリの女性だったなんてこともありました。

もう一つの企画展の恋月姫さんの【血の涙を流すイエス・血の涙を流すルチア】も悪夢を見るような印象的な作品です。
恋月姫さんはビスクドール作家で端正な顔と特有の白い肌、冷たい意思を持った視線あるいは閉じた瞳が印象に残る作家さんです。
今回の主題は「血の涙を流すルチア・血の涙を流すイエス」という作品で、キリスト教の聖人聖ルチアとイエスキリストに扮した少女が血の涙をながしています。



天草四郎をモチーフにした等身大の作品も展示されており、その魅入られてしまうような美しさと冷たい視線には高いカリスマ性と気高い気品が漂う。
今回は天草四郎の最初の洗礼名「ジェロニモ(Geronimo)」と島原の乱当時の洗礼名「フランシスコ(Francisco)」と名付けられた2体が並び、時代の波にもまれながら成長していった姿がみえます。

「マリアの心臓」の入口には書物や写真などが販売されており、そこに「精妙なるドールの世界(月間アートコレクターズ)」がありました。
内容は、四谷シモンさんや片岡佐吉さん、恋月姫さんへのインタビュー記事、“イマシュンな人形作家12選”と題して人形作家の作品紹介など盛りだくさんな内容となっています。



実際に生で鑑賞したことのある作品を創られた作家さんは数人だけですが、ドール系の人形作家さんの多さと個性には驚くばかりで、“人間以上”と感じられる作品もありました。
人形は古くは呪術の道具や人の災いを身代わりになってくれるものであったり、古墳の副葬品として一緒に葬ったりしてきたという。
魅了されるドールからは、現世のものとは思えない世界観とその純粋さゆえの美しさに“人間以上”と感じてしまうのかもしれません。


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