僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

企画展 「反復と平和――日々、わたしを繰り返す」~ボーダーレスアート・ミュージアムNOMA~

2022-05-27 06:00:00 | アート・ライブ・読書
 日本では2020年に始まった新型コロナウイルス感染症の流行によって、生活や働き方に大きな変化があり、人によっては人生そのものの大きな変化点になってしまわれた方がおられると思います。
また、国際的にも近隣国家との摩擦が解消されないままに、ロシアのウクライナ侵攻があり、直接の関係はない方が多いものの、間接的には物価上昇など大きな影響があります。

今回の展覧会の案内文には、
“世界が変わらずに繰り返されることと、心の安寧とを、同じように考えることがあります。
同じことを繰り返すことへの志向を持ち、常同的世界の創造に、平穏な日々を支える足場の役割を与えようとします。”

と紹介されています。
日々の反復の行為の繰り返しの中に「平和」を見るーとはどういった意味なのか、今回の展覧会のテーマになります。



草原に寝転び、遠くを見つめる少女を描かれる横山奈美さんの「forever」という作品は、前日に描いた絵を見ながら、新しい絵を1日に1枚描いておられます。
いっけん転写された絵のようですが、全く同じ絵ではなく、特に“forever”の文体は日々違い、細部には僅かに違いが見られます。



横山さんは、ネオンをモチーフにして発光体や電線やフレームまでを克明に描く作品や、樹脂で造った彫刻にLEDライトを入れて光るオブジェを造られたりしているアーティストだといいます。
今回のために描き下ろされたという展示作品は、木炭紙に木炭で描かれたドローイングで、転写の中に日々変化する少女の姿は、日々の感情の変化が感じられます。



『やまなみ工房』からの参加となる吉川秀昭さんは、「目、目、鼻、口」と唱えながら無数の穴を打っていかれるのだという。
顔が見て取れる作品もありますが、ほとんどの作品は吉川さん独自の法則によって造られた「顔」なのでしょう。



吉川さんの作品を見る機会は時々ありますが、今回は紙にマーカーペンで描かれた作品も展示されています。
紙の作品を見るのは初めてでしたが、この作品もタイトルは「目、目、鼻、口」と付けられており、吉川さん独自の表現・感性で描かれています。



カラフルな丸を描き込まれているのは佐々木早苗さんの作品。
興味深いのは、所属する福祉施設での仕事「さをり織」の機械に糸をセットする合間に造った刺繍作品とデザインが酷似していることでしょうか。
日常的な作業の繰り返しの中で、素材を変えながらも作品には共通する個性が映し出されています。





鈴木かよ子さんは、福祉施設の支援者によれば、7歳から60歳くらいまで、この絵を描き続けられたとあります。
「少女」、「花」、「太陽」のモチーフを同じ構図で描き続けてこられたのは、変化する自分や環境に対して、原点となるような自己を持ち続けてきた証なのではないでしょうか。



2階へ上がると小林椋さんと篠原尚央さんのコラボレーションの間となっている。
何のための装置か分からない作品は「ヤシ煎る目を刈ろ」という作品で、青い手のような部分が動いている。
生産性とは無縁な装置はの反復運動は、作者から謎かけをされているようです。



部屋の中では時々声が聞こえてくるが、声の主は「凝るところ見るとすると凍る」という作品から発せられている。
丸い2つのディスプレイには不規則に動く手の平が映し出されており、「手」とつぶやくような声がこれまた不規則に流れる。
無機質な造形にゆっくりとした不規則な手の動き。不思議な作品です。



篠原尚央さんは「かぎかっこ」をカスタマイズした「カキカコ」という作品を描かれています。
絵は古代の文字のようでもあり、出口のない迷路のようにも見えますが、それぞれの絵は全く違う形となっています。
「かぎかっこ」の機能をなくしてしまったような「カキカコ」を使って自由に表現されている様子が感じられます。



中庭の奥にある蔵の中では「ちはる」と題された15分ほどの映像が上映されています。
ちはるさんは、お父さんやお母さんと出かけてはチラシを入手し、母親がもらってきたダンボールを切って小さな箱を造り、切ったチラシを丸めて詰めていく。

造った作品は部屋を覆いつくすように量産され、お父さんに作ってもらった無数の棚に陳列される。
作品で埋め尽くされた部屋を見ていると、小さな博物館や図書館のような印象を受けてしまうようでもあり、ちはるさんにとって満たされた空間なんだろうと感じます。





アールブリュット作品の造形スタイルには、繰り返し同じ系統の作品を製作し続ける作品が多いように思います。
同じことを繰り返すことで乱された心を落ち着かせ、落ち着いた気持ちになることを求めることは誰しもあると思います。
それが「平和」なのかどうかは悩ましいところですが、日常の中で“わたしがわたしらしくある”ことを再確認する行為は大事なことかと思います。


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賤ヶ岳ハイキング~琵琶湖と余呉湖の絶景~

2022-05-21 14:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 賤ヶ岳は、織田信長の本能寺の変で亡くなった後の後継者争いとして羽柴秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」として、戦国時代のドラマでは定番の戦となっています。
また、賤ヶ岳の風景は琵琶湖周辺に見られる優れた景観として「琵琶湖八景」(1950年)に選ばれており、広重の描いた「近江八景」のように有名ではないものの、その風景は今も変わらず残ります。

天気が崩れる休日が続いており、少し気持ちがミヤモヤしていましたので、早朝から木之本へ車を走らせて、賤ヶ岳へ登ってみました。
どうしても賤ヶ岳に登りたかった訳ではなかったのですが、その後に約束があったため、サッと登れそうな山としての選択でしたが、山頂の風景は圧倒される美しさでモヤモヤしていた気持ちがすっかりと晴れました。



「賤ヶ岳リフト」前の駐車場には車を停められませんので、臨時駐車場に車を停めましたが、駐車場らしくない場所でしたので近くの竹林でタケノコ掘りをしていた方に確認して登山口への道を教えてもらう。
収穫されていたタケノコは、よく目にしたり食べたりする孟宗竹ではなく、細長い種類のタケノコで、淡竹とか真竹とかのタケノコだったようです。

九十九折の登山道は、よく整備されており、緩やかな登り道なので歩きやすく、何度かリフトをくぐり抜けるようにして登っていきます。
リフトの下や道の横にはシャガの群生が見頃となっており、登るにつれて陽が差し込むようになってきて心地よい。



途中で会ったおそらく地元の方と思われる方は、道に落ちている枝などを除去しながら歩いておられ、地元の方の手によって歩きやすい道が維持されているんだなと感じました。
また、植林されたスギが根元辺りで全て曲がっているのは、この地方の豪雪の影響で曲がっているのでしょう。



道端にはシャガの花以外にはマムシグサが多く見られ、賤ヶ岳の植生の面白さを知ることになる。
マムシグサの花の形は蛇が鎌首をもたげているようで何となく嫌な感じがしますが、マムシグサ自体も有毒植物で特に球根の毒性が強いとされます。





登山道の途中には積み重なった岩の隙間から水が流れ出ている場所があり、水源のひとつになっているのかと思われます。
でも迂闊に近づいくと蛇とかがいそうな場所でしたので、道から眺めて終わりにする。



季節柄、あちこちから野鳥の囀りが聞こえてきますが、声だけで姿は見つけられず。
日当りのいいところで見つけたのはコミスジの姿。これからの季節は山で鳥と蝶に出会う機会が増えそうです。



道草を食いながら登っていくと、やや広い道に出て少し傾斜がきつくなりますが、その先には絶景の頂上が待っていました。
「七本槍古戦場賤ヶ嶽」の木標と後方に広がるは奥琵琶湖の圧巻の風景。



「賤ヶ岳」の名称の起源は幾つかあり、弘法大師空海が麓の伊賀具神社に参拝した際に会った一人の女性に尋ねると「再方に高き山あり、これ賤の住む處なる」と答えたと伝わる話。
「基が精舎を建立しようとしたとき山の賤が白髪の老樵夫となって現れ、山谷に響く大音で精舎の守護神とならんといったことから、大音大明神として祀り、山を賤ヶ岳と称した」とする話。

「賤」は身分の低いものや卑しいものが一般的な言葉の意味で、「處」はふさわしい場所に置くといった意味。「樵夫」はきこりと考えられます。
山の神が卑しい姿で現れ、伊賀具神社や大音集落の守護神となったと考えると、山への古代信仰が伺われます。
賤ヶ岳には「古保利古墳群」が連なることから、琵琶湖を往来した渡来人に纏わる伝承がありそうです。



賤ヶ岳の三角点は、三等三角点で1890年に設置したものだといい、後方には余呉湖の姿が見える。
西の方角を見ると、葛籠尾半島とつづら尾崎が見え、少し離れて竹生島が小山のように浮かんでいる。
賤ヶ岳から眺める竹生島は、湖北から見える姿とも湖西から見える姿とも違った形に見えますね。



賤ヶ岳を登り始めた時は雲がかかっていたが、山頂に着いた頃に雲は流れて陽が射してきたのは運が良かった。
頂上付近は風が強くて寒く感じましたが、雲が流れていったのは強い風のおかげだったのでしょう。



南側を眺めると丘陵が連なり、そこには前方後円墳や前方後方墳などが合計132基の古墳が並ぶ「古保利古墳群」が密集しているという。
琵琶湖に面した地形から、古代この地に琵琶湖の水上交通に関与していた権力者の墓群と考えられ、日本海側から塩津に流れ込んだ物資や文化のルートにもあたることから渡来系の人々との関係も考えられる。
尚、この丘陵の最南端には山本山がある。



山頂の北側からは余呉湖の全景が見降ろせる。
「羽衣伝説」や「龍神・菊石姫伝説」などの伝説の残る余呉湖は、周囲約6.4㌔あり、別称「鏡湖」と呼ばれる神秘的な湖です。



賤ケ岳山頂には定番のように腰かける「武者の像」があり、「賤ヶ岳の戦い」で疲れ果てて頭を垂れる武将の姿から戦国の世の辛さが感じられます。
この「武者の像」は地元出身の彫刻家の須川常美さんが、戦勝400年記念(昭和59年)に創作された作品だといいます。



下山した後、田園地帯から賤ケ岳を眺めてみる。
賤ケ岳は標高421mの低山で余呉湖や山本山からの縦走ルートもあり、登山道で何人もの方とすれ違うことになりました。
みなさんどこまで行かれたのでしょうね。




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鏡山と竜王山・貴船神社(龍王宮)の磐座

2022-05-17 06:18:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 昨年8月に鏡山の「鳴谷渓谷・鳴谷の石床」と「鳴谷池」を見たくなり、三井アウトレット滋賀竜王側から鏡山へ登り、その後頂上付近まで行っています。
頂上付近というのは、頂上への道が分からなかったのと、頂上付近でノコギリクワガタを捕まえてすっかり堪能したため、そのまま下山したからでした。

今回は別ルートの“大谷池ルート”を登り、途中で「貴船神社」へ参拝して磐座を拝んでから、竜王山と鏡山の山頂へ行って折り返すコースとしました。
道の駅竜王かがみの里を起点としてスタートして、15分ほどのロード歩きをして登山口へと向かいます。



最初は車のタイヤ跡もある砂利道をただただ歩いて行く。
途中から轍が深くなっていたので、車で通る人はほとんどいないだろうという感じの林道がしばらく続く。



ほどなく大谷池の畔に出る。
水量は減っているようですが、池の向こうにはこれから登る鏡山が見える。
この近辺には溜池が幾つかありますので、かつては旱魃に苦しんだ歴史があると考えられ、鏡山は別称「雨乞山」とも呼ばれているという。



龍王を祀り雨乞いを行ってきた歴史は、この地域でいえば「東の龍王山(雪野山)、「西の龍王山(鏡山)」があり、雨乞いと自然信仰の山が向き合っています。
また、古墳の多い地域でもあり、鏡山周辺の山麓には6世紀~7世紀の古墳が点在しているといいます。
大谷池の畔を回っていくと、やっと山登りの道になり、あちこちに竜王町の花「あえんぼ」(コバノミツバツツジ)がよく咲いていて心地良い。



木段の多かった道は、登るにつれて岩場が多くなり、道が急坂になってくる。
雰囲気的にはそろそろ「こんめ岩」に近づいてきているのでは?と感じる。



道を曲がったところで「こんめ岩」に到着。
見た感じでは人の手で巨石を積み上げたように見えるが、割れているのは自然に割れたのか綺麗な断面をしている。
この「こんめ岩」は女性を表わしていると言われることがあり、生みの源を表わす磐座なのかもしれない。



これだけの見事な磐座ではあるものの、祠や注連縄がなく、信仰されているわけではないようですが、かつては信仰の対象になっていたと考えた方が不自然ではない。
この不思議な石積みの磐座がいつ造られたのかや、“こんめ”とは何を表わす言葉なのか不明ですが、何らかの由来があるのでしょう。



「こんめ岩」を越えた辺りからは岩がゴロゴロと転がる道になってくる。
大雨が降ったら川になるような道を登って行くと、今度を男性を表わすかの如くの巨石に遭遇する。
もしかしたら「こんめ岩」と一対の磐座として神産みの信仰が宿っていたのかもしれません。





さらに登って行くと、山中に突如現れたのは「貴船神社(龍王宮)」の一之鳥居でした。
神社は山岳信仰と結びつくなどして、最初は山上に祀られていた事例が多く、その後に山麓の里宮として祀られるようになったとの話を見聞きすることがあります。



最初の鳥居からさらに進んで行くと、頂上への道と神社への道の分岐があり、「貴船神社」の扁額が掛けられた鳥居に出会う。
帽子を取って一礼して鳥居をくぐって竜王参道と書かれた道を進むと、雨乞い踊りの祭事が行われる少し開けた場所に出ます。



「貴船」とは水神を指し、祀られている「竜王宮(八大龍王)」の竜王は水を司る水神ですから、この地の人々にとっては生きていくために必要な水(雨)を神に祈り続けてこられたのでしょう。
蛇口やバルブを開けば豊富な水が流れ出る現在と違って、雨乞いの祭事を行ったり、水争いで村々が衝突したり、溜池を造って水を確保したりと水に関する話はあちこちに残っています。

あっけに取られるほど驚いたのは、山の上の方に想像を絶するような大きな巨石が積みあがった「竜王宮」の磐座と祠が見えた時でした。
この場所が鏡山の肝ともいえそうな磐座に圧倒されつつも、神聖で霊的な強いエネルギーを感じてしまいました。



磐座と祠の前まで行ける道がありましたので登っていきましたが、近づけば近づくほどその巨大さに驚くことになる。
祠の前からだと岩は巨大な壁のようになり、全貌は全く見えなくなります。



祠が祀られた磐座の左にも巨石が突き出したような磐座があり、こちらも凄い迫力です。
鏡山には積み上げたような巨石が多いと感じながら、祠の前で手を合わせて、しばしこの巨石群を眺めていました。



目的の一つであった「竜王宮(八大龍王)」の磐座への参拝を終えましたので、もう一つの目的であった鏡山の頂上へともうひと登りです。
頂上のややこしいところは、このルートからだとまず「竜王山(鏡山)頂上」へ着きますので、ここが頂上だと勘違いしてしまうことでしょうか。



実は鏡山の三角点のある場所はここではなく、もう少し先になります。
地図では竜王山頂上から少し進んだところに三角点があることになっていますが、誰かが看板に書き込みをしておいてくれました。



歩くこと百数十m。
開けた場所に出るとこれが鏡山三角点のある場所です。



2つも頂上があるのは分かりにくいですが、最初の頂上は「竜王山」の頂上、こちらは「鏡山」の頂上と考えた方がいいですね。
標高は「竜王山」頂上が384.8m、「鏡山」頂上が384.6mと鏡山の方が200m低い。





鏡山の三角点のある場所からは南西方向の景色がよく見渡せます。
登山口からここまで樹木に囲まれた道でしたので、ここが唯一視界の広がる場所でした。
写真左下に突き出した岩があったので降りてみることにします。



直下には広大な林が広がり、前方には菩提寺山、後方には金勝アルプスでしょうか。
低山が点在する風景も良いのですが、なだらかに広がる林を美しいと感じてしまいます。



右手に三上山の特徴的な姿が見え、三上山の左には天山と菩提寺山。
湖東・湖南地方の風景が眺める場所で、低山揃いとはいえ美しい景色を目の前に、山の綺麗な空気で何度も深呼吸して山を下りる。




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雪野山ハイキング~八幡社古墳群と雪野山古墳~

2022-05-12 18:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖東平野にある雪野山(龍王山)は、山系が細長く続いており、龍が臥せているような姿にも見える独立した山です。
標高は308mと低山ではありますが、山麓には「八幡社古墳群」、山頂には「雪野山古墳」がある古代の歴史豊かな山であると共に、龍王の住む神聖な山として崇められてきたといいます。

雪野山(龍王山)は、南北に4㌔・東西に1㌔と横に長く延びており、山中に小高いピークが8つあるといいます。
ハイキングコースは山の形状が細長いこともあって複数存在するようですが、今回は「八幡社古墳群」からスタートして「雪野山古墳」まで行くコースとしました。



駐車場に車を停めて獣除けの柵のある入口に向かうと、いきなり「八幡社古墳群」が見えてきます。
古墳は帰りに立ち寄ることにしましたが、雪野山には200基以上の古墳があるといい、八幡社古墳群には古墳時代後期の前方後円墳や円墳が17基あるとされる。



古墳群の広場を抜けるといきなり石段登りが始まる。
実はこの階段は稜線近くまで続いていて、山登りというよりも階段上りの様相を呈してきます。



いつまで石段が続くのだろうと思いながら登っていくと、道の両端に大きめの石が門のようにあり、石の上には積み石が置いてある。
頂上までのコースの道中に何ヶ所か積み石を見ましたが、供養のための積み石なのかもしれません。



石段を登った場所には石組の上にさらに石囲いがしてあり、左は「旧籠り堂跡地」、右は「旧八幡神社本殿跡地」の石標が建てられている。
ということは麓にあった八幡神社は里宮で、八幡神社の本宮はかつてこの場所にあったということになり、石段はその時代に神社へ参拝するために造られたもののようです。



八幡神社の境内跡には、石垣に根が巻き付くようにツガの巨樹が立っている。
このツガの樹は、幹周:285cm・樹高:24mで推定150年だといい、幹が途中から3本に分岐しています。



東近江市にはツガ自体が少なく、大径木となっているため、東近江市保護樹木に指定されているといいます。
ツガを特別にお祀りしていないようですが、かつて八幡神社の本殿があった頃は御神木だったのかもと思いますが、神社の歴史が分からないため、あくまで想像の世界です。



神社から先も階段が続くのですが、途中で巨石群に出会う。
雪野山では巨石が幾つか見られるとのことですので、その一つかと思います。
縦走していけば「大岩」や「馬の背」というルートがあるようですが、縦走してしまうと駐車場まで戻るのが大変なんですよね。



巨石群の横を歩いていくことになりますが、やっと山登りらしい道になってきた。
これだけの巨石が並んでいるので、八幡神社の磐座かとも思いましたが、そういう訳でもなさそうです。





巨石群を過ぎた辺りから階段は少なくなり、歩きやすい登山道へと変わる。
しばらく登ると開けた広場のような場所になり、そこが山頂でした。



広場の中央辺りには三角点もありました。
山頂からも景色は見えるものの、背が高く育った木の間から垣間見えるだけだったので、景色は少し下にある展望台の方がいいようです。



頂上から少し移動すると「雪野山古墳」の看板があり、ここに古墳があったことが書かれているが、墳丘は中世に山城に改編されたということでかつての姿が想像できない。
ただし古墳自体は1989年に未盗掘の状態で発見され、古墳時代前期の前方後円墳であることが判明して多くの副葬品が発見されたといいます。



展望台まで下ってくると蒲生野の田園地帯がよく見えます。
左から瓶割山、繖山、箕作山でしょうか。比良山系は視界が悪いので全く見えなかったのが残念。





下山して「八幡社古墳群」に立ち寄ると、幾つかの円墳が小山のように連なって残っています。
山頂部の「雪野山古墳」は古墳時代前期の4世紀前半の大きな古墳(全長70mの前方後円墳)でしたが、「八幡社古墳群」は古墳時代後期(6世紀中頃から7世紀初頭)の古墳とされています。

17基ある古墳のうち16基は円墳で、墳丘の直径は10~16mと小型化・群集化が進んだ時代のもののようです。
41号墳は石室が露出しているが、随分と形骸化している。



「八幡社古墳群」の中で唯一の前方後円墳には横穴式石室が3つあり、そのうち2つの石室は中へ入ることができる。
この46号古墳の全長は約24mといい、最初の石室が造られた後に残り2つの石室が造られていったとされることから、この地方における豪族の首長クラスの墓と考えられているようです。





最後に麓の八幡神社に参拝して、本日の無事のお礼詣りとしました。
雪野山の山中ではウグイスの鳴き声はあちこちから聞こえ、カラの仲間やホオジロの姿も見られて、にぎやかな春山を実感。
次に雪野山へ行く時は、違うコースから登ってみたくなります。




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「瀬戸山谷支流の滝」から「品又峠」へ~グランスノー奥伊吹~

2022-05-08 17:43:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 まだ湖北の高い山に冠雪が残っていた頃、冠雪の残る伊吹山と金糞岳の間にもうひとつ冠雪した山が見えていて、あれはどこの山なんだろうと不思議に思っておりました。
山に詳しそうな人に聞くと、あれは奥伊吹スキー場のある方角で、ブンゲン(射能山 標高1259.7m)とかの山じゃないかなと教えてもらいました。

奥伊吹スキー場(現在は「グランスノー奥伊吹」)やブンゲン(射能山)のことを調べている時、「瀬戸山谷支流の滝」という3段瀑の滝が隧道のような穴を通って流れ落ちる奇妙な滝があることに気が付いた。
滝へはスキー場のゲレンデを1時間くらい登り続けたら到達できるようでしたので、グランスノー奥伊吹へと車を走らせました。



駐車場まであと少しという所まで来た時に何と車が渋滞の列を成している。
オフシーズンのスキー場で渋滞とは不思議に思って前の車の人に聞いてみると、イベントが開催されるのだけど、まだ駐車場のゲートが開いていないとのこと。

「ドリフトだョ! 全員集合 – LB DRIFT GRANDPRIX – in 奥伊吹連絡通路」というイベントらしいが、並んでいる車のナンバープレートからすると全国から観戦に訪れられているようです。
しばらく待つと車が動き始めたので駐車場に入り、場所を案内されましたが、“レースでなくて山へ行きます。”と言ってセンターハウスの近くに車を停めてゲレンデを歩きます。



スキー場のゲレンデですのでただただ傾斜道を登っていくだけで、あまり変わり映えのしない景色の中、なかなか遠くなっていかないセンターハウスを振り返って見たりする。
しばらくはドリフトバトルの轟音が聞こえていたが、そのうちに聞こえなくなり、静まった山側からは今期初聞きのツツドリの声が聞こえてくる。
“あっ何か出てきた!”と思って前方を見ると合わせて10頭ほどの鹿の集団。



鹿からすれば“こんな時期に物好きが歩いてきてるよ”といった感じで、山の手前からこちらを眺めています。
鹿だから勝手に逃げて行ってくれますが、“熊とかいないだろうな”と思いつつ、また登り続けます。
昨年、鳥越林道で熊の親子に出会ってしまいましたので、熊の行動範囲と人の移動範囲が近いことを経験しており、出会い頭は避けたい。



やっとリフトが途切れましたので、更に登っていくと、渓流が流れている場所が見えてくる。
ゴロゴロとした岩を流れる渓流の上部には残雪が残っているのが見え、雪解けの冷たい水が流れる渓流のようでした。



その先には道の横に大きな岩塊が横たわっているような岩塊がある。
水音が凄くよく聞こえているので、目指す滝まであと少しかと信じつつ登り続ける。



大岩が途切れた頃に水音は増々大きくなり、出会い頭のように目指す滝へと到着する。
縦に長い巨石に四角い穴が開いていて、手前に1段、奥に2段の滝がつながっている不思議な滝です。
自然の水流によって浸食された穴だと思いますが、こんな奇妙な滝に出会えるとはここまで登ってきた甲斐があったというもの。



穴を覗くように眺めてみると、奥に2段の滝があり、手前の滝は4~5mくらいの滝です。
この滝が突然現れたように感じたのは、滝壺から沢が直角に曲がっていて、沢沿いに登ってくるといきなり滝の正面に相対することになるからです。



四角い穴の向こうには、落差は低いものの2段の滝が見える。
人工的な穴にも見えますが、伊吹山系の石灰岩は脆いので、水流が岩を突き破ったことは充分考えられます。



滝の上流部へ回り込んでみると、勢いよく流れる渓流瀑があります。
この水はいずれは姉川に合流し、最後は琵琶湖へ注がれる水です。



この渓流は滝の裏側に流れ込み、2段の滝を形成し、穴を通って3つ目の滝として落下していきます。
おそらくは登山に来られた方が下山時に眺める程度の名も無き滝ですが、この滝はどうしても見てみたい滝でした。



水流はブラックホールに吸い込まれるが如く落下していきます。
まぁトンネルを抜けると、そこはゲレンデだったということになるのですけどね。



ズームで見ると、崩れ落ちた岩が小山になっていますので、やはり弱い岩盤が浸食されて出来た穴のようです。
この滝は落差が大きいわけでも、水量の多い猛爆でもありませんが、自然の造形による奇妙な滝といえます。



さてせっかくここまで登ってきましたので、もう少し登ってみることにします。
品又峠の近くまでは来ていたと思っているのですが、目の前にはリフト沿いにとんでもない急登があります。
1時間ほど登り続けてきて、今更この急登は無理と見ただけで諦めます。



山の上に日の出山展望台と思われる高い台が見えてはいたものの、一体どこから登ればいいものか分からず仕舞い。
別方向を見ると景観の良さそうな小ピークがあり、距離も手頃なので向かってみる。
ザレ場というのでしょうか?細かい砂が道を覆っていて滑りそうになりながら、下って登って...折り返しにもう1回登り返してこなければならないのが辛いね。



登り切ったところにはザレ場の広場があり、広場の向こうには北方向にある山々が望めます。
ポールが立てられているものの標識などはないので、ここは名も無き小ピークです。



この地点で標高にして900m~1000m近くはあると思われ、北方向には見渡す限り山が連なっています。
正面奥に聳えるのは金糞岳。標高1317mの滋賀県第二の標高の山です。



雲が流れてきたが、ギリギリのタイミングで山に雲がかからなかったのは幸いでした。
見渡す限り連なる山は、それぞれ何ていう山か分かりませんが、伊吹山系の南方向には千m超えの山が十座以上ありますから滋賀県では高い山が連なる山系です。



ここで山を下りることにしましたが、ここまで登るばかりでしたので、あとは下りていくだけ。
なんて広大でコースの多いスキー場なんだろうと感じたのは、初心者向けのファミリーコースしか滑ったことのないのでゲレンデの全貌を知らなかったということです。

センターハウスまで下りて駐車場に入ると、レースを見に来た人で駐車場は満車状態。ドリフト・レースファンの底辺の広さを感じます。
駐車場で帰る準備をしていると、ふと滝が目に入ってきましたので最後に立ち寄ってみます。



人工的に岩を積んだ滝のように見えますが、朝はゲレンデの方ばかり気にしていたので目には入らなかった。
最後に清涼感を頂いて、全く信号のない渓流沿いの県道40号線を進んで平地の日常へと戻ります。




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「繖山 桑實寺」秘仏薬師如来御開扉と瑠璃石~西国四十九薬師霊場~

2022-05-03 18:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 繖山の中腹にある桑實寺は、天智天皇の勅願寺院として白鳳6年(677年)に創建されたと伝わります。
寺伝によると、湖国に疫病が流行し、天智天皇の四女の阿閇皇女(元明天皇)も病気にかかり、病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢を見たという。

天智天皇が定恵和尚に病気回復を僧に祈らせたところ、琵琶湖から薬師如来が降臨して大光明をさし、光明に当たった人々の病は治り、阿閇皇女の病気も治ったといいます。
この薬師如来を御本尊として祀ったのが桑實寺で、定恵和尚が唐から持ち帰った桑の実をこの地において育て、日本で最初に養蚕を始めた事が寺名に由来するとされている。



現在「桑實寺」では12年に一度という「秘仏・薬師如来坐像」が御開扉されており、秘仏を拝観するとともに寺伝に伝わる薬師如来が降り立ったという「瑠璃石」を探すことが目的でした。
民家の並ぶ集落の奥に桑實寺の石段の登り口があり、ここから約650段といわれる石段登りが始まる。



少し登ったところに山門があるが、石段登りはここからが本番。
竹の杖を2本借りて、トレッキングポール代わりにして登っていくことにします。



山門を抜けると大きな地蔵石仏を祀った祠がある。
この石仏地蔵は集落の近くにある瓢箪山古墳(後述)の古墳頂上に安置されていたのを明治初年に移設安置したといいます。
石仏地蔵は南北朝期の作とされ、風化は進んでいるものの、彫られた地蔵の姿は充分確認出来る。



山門から先は、いつ終わるとも知れない長い石段登りが始まる。
自然石を積んだ石段で多少歩きにくいが、段差はあまりなく、横に繖山から流れ出た水の流れる川があって涼しいのがありがたい。



桑實寺の受付まで到着し入山料を払うと、“本堂にお参りされるなら本堂の左から入って下さい。観音寺城跡へ行かれるなら右に道があります。”と説明される。
“いえ実は「瑠璃石」へ行きたいのですが。”と聞いて道を教えて頂けましたが、“年に一回くらいボランティアの方が整備してくれていますが、道は荒れていますよ。”とのことでした。

白洲正子さんも瑠璃石に訪れようとして断念したことがあったようで、『かくれ里:石の寺』で次のように書かれています。
「裏の山、十方ヶ岳の頂上に奥の院があり、「るり石」と呼ばれる巨巌が祀ってある。
十畳敷ばかりの、平たい石で、前方に二つ、石棒のような岩が直立しており、写真で見ても神秘的な感じがするが、登るのはほとんど不可能な場所にあって、住職も一度しかいったことはないといわれる。」



山中には西国三十三所札所の御本尊の石仏が並んでおり、第一番札所・青岸渡寺の如意輪観世音菩薩を横目にしながら勾配のある登山道に入る。
山道は荒れていると聞いていたが、登るには支障はなく、白洲正子さんが訪れた時代とは違い、随分と整備されている。
木段は腐食しているものもあったが、まだ下草が茂っていないので、足元の気持ち悪さは感じない。



山道をひたすら登っていくと右手に石棒が2本立っているのが見えた。あれが「瑠璃石」に違いない。
「十畳敷ばかりの、平たい石で、前方に二つ、石棒のような岩が直立しており、」と『かくれ里』に書かれている通りの光景です。



薬師如来が降り立ったとされる聖なる大岩の前に立つ2本の石棒は、聖域を守る結界のようであり、石の山門のようでもある。
かつてはここで宗教的な儀式が行われたであろうと思われ、樹木に覆われてはいるものの、おそらく琵琶湖の南湖方面に向いているようであった。



桑實寺自体も山の中腹にあって参拝するのに体力のいる寺院ですが、そこから山道を登らないとたどり着けない場所に緑に包まれて祀られている「瑠璃石」にはやはり神秘的なものを感じます。
上部が石舞台のようになっている磐座には足を踏み入れるのは躊躇われましたので、石棒の横から眺めることにしました。



磐座を横から眺めてみると、その大きさが分かります。
下から見上げられる場所を探したが、回り込むには困難な場所であったので断念する。



山道を下って桑實寺へ続く道まで降りてくると、目の前に広がるのは湖東平野と西の湖の風景。
最近、西の湖を見おろすことが多いなぁと感じるが、それだけ繖山界隈を歩いているということなのでしょう。



さていよいよ桑實寺への久しぶりの参拝です。
桑實寺の山号は繖山。本堂は重要文化財に指定されている室町時代前期に再建された建物です。
檜皮葺の屋根が美しい入母屋造の建物です。



本堂の中に入り、まずは外陣でお線香をあげて手を合わせると、須弥壇に祀られた秘仏・薬師如来坐像とお前立ちが目に入ってきます。
前回参拝した時には外陣の正面に金ぴかの薬師如来坐像が安置されていましたが、今回は秘仏御開扉ですので、雰囲気が全く違います。



須弥壇には日光・月光菩薩と12神将。
中央の厨子には秘仏・薬師如来坐像とお前立ちが安置され、脇陣には大日如来坐像・不動明王立像・弁財天・阿弥陀如来坐像などが祀られる。



御本尊の薬師如来坐像は縁起によれば白鳳の昔湖水より出現の霊像とされ、奈良時代の作と伝えられており、俗称の「かま薬師」は、カサやできものに霊験があることによるという。
薬師如来はやや伏し目で丸顔をされており、胸には波のような文様が刻まれているように見える。
頭部の肉髻の部分には頭髪がなく、前には二回りほど小さいお前立ちが祀られていました。



奥の院の「瑠璃石」、桑實寺本堂の秘仏・薬師如来に手を合わせた後、再び長い石段を下っていくことになりますが、石段脇の所々にシャガが美しくも妖しい花を咲かせていました。
山里ではよく見かける花ですが、別名「胡蝶花」の名からは、荘子の「胡蝶の夢」を連想させ、夢と現実の境界がはっきりしないぼんやりとした気持ちにさせてくれる花です。



石段を下り終えて、桑實寺の山門に祀られていた地蔵石仏がかつて安置されていたという「瓢箪山古墳」へと立ち寄ります。
瓢箪山古墳は古墳時代前期(4世紀)に造られた前方後円墳で、滋賀県では最大規模の古墳とされています。



瓢箪山古墳は墳丘の長さが136mあるということから、古墳の周囲を歩けばその大きさが実感出来る。
ただし、古墳であることを意識して見ないと、古墳とは気づけない状態となっていて、本来の形を想像しながら一回りすることになります。
出土された木棺や銅鏡などの装飾品、剣や刀などの遺物は「京都大学総合博物館」に保管しており、レプリカが「安土城考古博物館」に展示されているそうです。



繖山には古代から続く巨石信仰や古墳、中世の歴史の痕跡が数多く残されている山です。
かつては琵琶湖の内湖がすぐ近くまで広がっていたといい、古代の自然信仰に湖上水運を使ってやってくる異文化が混じり合いながら築かれた信仰の世界があるのかと思います。


コメント
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