僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

日野町の勧請縄2~北脇の野神と諸木神社・白鳥神社~

2024-03-19 05:56:56 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は、村境じ神社の境内に呪物を付した注連縄のようなものを吊るす民俗行事で、道を遮るように吊るすことから道切りとも呼ばれます。
神社での勧請縄は、参道や境内の端に吊るしますが、鳥居に注連縄のようにして掛ける場合も多々あります。


「注連縄」は神社や巨樹や巨石や瀧など神の降臨する場所の結界、「勧請縄」は村に魔が侵入することを防いで村内安全・五穀豊穣を祈念するものになります。
勧請縄は魔除けの意味合いが強いですから、中央にトリクグラズという呪物や祈祷札、時には鬼や牛の角や弓や五芒星を模したものを付けることが多い。



北脇集落の勧請縄は、村の外れにある細い道に道切りの形で吊るされる。
魔の通り道を切るために吊るされていますので、くぐり抜けるのには少々勇気がいるような場所です。



この場所は北脇集落の野神さんにあたる場所となっており、すぐ横にかつて野神さんとして信仰されたと思われる巨樹の切り株が残されています。
野神祭は8月に行われるそうですが、勧請縄は正月に吊るされて前の年のものは横に置かれている。



野神さんの切り株の横には、新しい野神さんの木でしょうか。
男女を模したと思われる木札が注連縄で巻かれており、この場所には道切りの勧請縄と野神さんの依代が共存しているようです。



同じ北脇集落の「諸木神社」には、鳥居を抜けた参道に勧請縄が掛けられています。
「諸木神社」は北脇集落の氏神で、御祭神に句句廼馳命 金山彦命 罔象女命 迦具土命 埴安彦命など多くの神が祀られている神社です。



「諸木神社」の勧請縄は、鳥居を抜けた参道にある枯れ木に吊るされてています。
勧請縄の主縄は北脇の野神さんと同様に、頭の部分と尾の部分がはっきりしており、小縄は下げられていない。





トリクグラズは丸に十の形をしており、シキミの枝葉を立てるように付けています。
「諸木神社」は国道307号線に面していて勧請縄も道路から見える場所にあります。
307号線では東近江市の岡田町や甲良町の池寺の勧請縄も道路から見える場所にあったが、今は見ることがなくなりました。



さて、日野町ではありませんが、移動中に近江八幡市の旧永源寺町にある石谷町の「白鳥神社」の前を通ったので立ち寄りました。
旧永源寺町の勧請縄は、トリクグラズは集落ごとに違いはあるものの、主縄の頭の部分が非常に大きく作られます。
ただし「白鳥神社」の勧請縄だけは、主縄の両端ともに頭になっているようです。



東近江の「白鳥神社には興味深い話が合って、滋賀県の永源寺側の最奥にある甲津畑から西北に向かって、石谷の「白鳥神社」まで1本の線で結ぶことが出来ます。
「白鳥と古代史(芦野泉)」という本では、古代の初期農耕では高地湿地で白鳥の糞が肥料として効果が高かったとされます。

「甲」は白鳥の鳴き声「コウ」に文字を当てはめたことが由来になっているといい、滋賀の最奥の集落には甲津畑・甲津原などがあります。
この場合の「白鳥(シラトリ)」は、ハクチョウ・コウノトリ・ツル、シラサギを含めた総称とされ、各「白鳥神社」は白鳥の渡りのルート上にあるとされます。

旧永源寺町には白鳥若宮神社・若宮白鳥神社を含めて6社の神社が固まっているのが現在も確認でき、滋賀県には他の場所で白鳥神社は確認出来ません。
岐阜県の揖斐郡や安八郡や瑞穂市にも白鳥神社が集中しているラインがありますが、現地は未確認です。



石谷の白鳥神社の主縄の頭は、かなり大きくて両端が頭になっているが、これは如来の白鳥若宮神社・市原野の白鳥神社と同じ。
頭が片方だけにあるのは池之脇町の白鳥神社・上二俣町の白鳥若宮神社・高木町の白鳥神社で種町の白鳥神社では確認できなかった。(一式町は未確認)





トリクグラズは丸型に枝葉が下げられ、小幣が3本挿されていて小縄はない。
石谷の勧請縄は年初に下げられ年の途中で取り外されるそうですが、以前10月頃に訪れた時には既に取り外されていました。



「勧請縄-個性豊かな村境の魔よけ-(西村泰郎著)」を参考にして勧請縄を捜し歩いており、本が出版された2013年には161の勧請縄が確認されています。
この4年程、1~2月に勧請縄を探していますが、既には廃止されてしまって見ることが出来なかった勧請縄、4年の間に廃止されてしまった勧請縄があります。
滋賀県にはいろいろな民俗行事が残っていて、ひとつ知ればもうひとつ知りたくなるような不思議な魅力があります。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日野町の勧請縄1~西明寺と杉集落の山之神~

2024-03-15 06:02:02 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 日野町には馬見岡綿向神社や熊野神社、西明寺の道切りや北脇の野神さんや諸木神社に勧請縄の民俗行事が現在も続けられています。
これまで日野町の勧請縄で未確認だったのは西明寺にあるもう一つの勧請縄と原集落の「芦谷神社」の勧請縄でしたが、今回も発見は出来ずでした。

まず西明寺集落へと向かいましたが、西明寺は綿向山の麓にあり、途中に綿向山の登山口の前を通過することになります。
綿向山は鈴鹿山脈の一座で標高は1100m。年中登られる方がいる山とされていますが、冬季のスノーハイクは人気が高いといいます。
登山口の駐車場には満杯近くの車が停まり、登山に向かわれる人が多く見受けられ、登りたい衝動が高まりましたが、雪の登山は諦めるしかない。



西明寺集落には西と東に道切りの勧請縄があるといいますが、今回も東の勧請縄しか見つからず、西の勧請縄をさがして集落内を行ったり来たり。
東の勧請縄は谷奥にある墓地へと続く道に下げられ、山に挟まれた集落の西側の道切りとなっています。



主縄から下げられた小縄の数は13本で、これは閏年にちなんだものと思われます。
小縄に付けられた枝葉はシキミで、この時はまだ青々しい状態でしたので、吊るされて一ヶ月少々といったところです。

トリクグラズはシキミの枝を丸く丸めたものを立てている。
このループは月を表すとされているが、意味するところは分からない。



勧請縄の下には六角形と七角形の柱に十三仏の菩薩や如来の名前が書き込まれています。
過去の年に祀られたものもそのまま残されており、朽ちるまでここに留め置かれている。





西明寺の勧請縄は視線に切れるまで吊るしておくとされているが、昨年の者は横の地面に置かれている。
主縄は役目を終えて土に帰っていくのでしょう。



日野町の東側にある集落は、どの集落も滋賀県の最奥の集落となり、熊野しかり西明寺しかり、この後訪れた原集落しかりとなる。
途中で林業用の道に入ってしまい引き返すのに往生しつつも何とか原集落に到着して「芦谷神社」を見つけることが出来ました。

しかし、神社の周囲には金網と金柵がめぐらしてあり、近づく事すら出来ず、勧請縄があったのかないのかも確認出来ずでした。
仕方なく引き返してきたところで「大屋神社」と古墳のような森があったので立ち寄ってみました。



まず大屋神社の鳥居からのぞいてみると、永い石段が続いており非常に立派な神社であることが分かります。
御祭神は五十猛神という神様で、我が国に樹木を植えて廻り緑豊な国土を形成した神様を祀るのは、おそらく林業などが盛んな地であったためかと思われます。

鳥居の横には御神木が丁寧に祀られており、樹齢がさほどでもなさそうなので何代目かの御神木と思われるが「竜王の御神木」との名がある。
この方角にある竜王山(綿向山と続いている)では山頂で雨乞い神事が行われ、霊石を迎えた麓の神社でも雨乞い祈願を行っていたといいます。
尚、神社での雨乞いは消えたものの、現在も7月1日に竜王山の山頂で祭は続けられていると書かれてあった。



で、気になるのは神社から200mほど離れた場所にあり、何か特殊な感じのする森です。
かつての古墳跡かとも思ったが、垣根で囲まれてこんもりとした森は何らかの信仰の場所に見えます。



ところが中を覗いてみてびっくりです。
霊木と思われる樹に竹で作られた鳥居が掛けられ、周囲を取り巻くように注連縄か勧請縄のようなものが置かれている。



思わず足が竦むようなスピリチャルな雰囲気の漂う場所で、最初は野神さんかと思ったが調べてみるとこの地域の山之神のようだった。
大屋神社の正月神事に「山之神祭り」があり、大屋神社からこの山之神の森の神木に注連縄を巻きつけるのだという。



この神事は烏を山之神の使いに見立てて、奉納した山の神餅(楕円の白餅)を烏がくわえたことを唱和して、烏喰みを示す神事だという。
餅を烏に奉納することで人々の穢れを祓い、オッタイ・メッタイも供えるということですので子孫繁栄の祈りもありそうです。



縄の周辺には葉のない枝に幾つもの藁苞が結ばれているのが見えます。
日野町や永源寺町で同じように山之神に藁苞を結んであるのを見たことがありますが、この地方独特の信仰によるものかもしれません。
この藁苞は1ケは山之神に捧げ、もう1ケは自宅に持ち帰り柿の木などに下げて、豊穣のシンボルとしているといいます。



日野町の山側は、綿向山への信仰や鈴鹿の山々に囲まれていることがあって山之神への信仰が深いことが感じられます。
日野町や奥永源寺の山麓の集落は、鈴鹿山系が目前に連なる滋賀県の最奥の地であり、独特の山岳信仰が育まれてきたような地の印象を強く感じます。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十二坊(岩根山)と摩崖不動明王~滋賀県湖南市~

2024-03-10 06:11:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県湖南市にある「岩根山(十二坊)」は、標高405mの低山ながら甲賀山塊の最高峰であり、「甲賀山」とも呼ばれることがあるといいます。
山の中腹には比叡山延暦寺の別院で「湖南三山」のひとつである「善水寺」があり、岩根山に十二の塔頭があったことから「十二坊」と呼ばれるようになったようです。

また岩根山は、甲賀五十三家で後の甲賀流忍術の中心となった名門のひとつとされる岩根家が当地を自治していた事と山名が符合します。
今年は山登りをお休みしていましたが、積雪情報がなく、長丁場にならない山で、登ったことのない山の中から十二坊(岩根山)を選んで山始めとしました。



登山口は「十二坊温泉ゆらら」の駐車場のすぐ横にあり、約2カ月ぶりとなる山登りはここから始まります。
最初は登りながらも下の道路の車の音を騒がしく感じたが、すぐに林道に出て別の登り口から山に入り直します。



山道の中で何度か“十二坊TRAIL RUN&WALK”のチェックポイントがあり、十二坊ではトレイルラン・ウォークの大会が開催されているようです。
トレイルは22㌔・累積標高1200mのコースで、ウォークは8キロのコースとなっている。
〜修験道を駈ける〜と題されていて中々の距離だと思いますが、今日の山歩きはたったの2.5㌔なので修験の道にはほど遠いレベルですね。



この日は反時計回りで山頂を経由するつもりでしたが、林道を横切った時の案内板に導かれてしまい、時計回りでの周回になりました。
どちらから登っても周回なので同じ道ではあるものの、感覚的にはアップダウンが多いのは時計回りの道だったように思います。



しばらく沢沿いの道を歩くと急登が始まります。
途中までは登ったり下ったりで中々しんどい道が続くが、何ヶ所かからウグイスの鳴き声が聞こえてくる。
ウグイスの鳴き声を今年聞いたのは始めてで、もう野山には春が来ていることを実感する。



気持ちの良い稜線歩きの道もあり、走りやすそうな道なのでトレランのランナーがここを駆け上がっていく姿を想像してみる。
とはいっても稜線は走りやすそうなものの、登りは急な場所もあったので、そこを走るのにはかなり脚力と心肺能力がいりそうです。



稜線から山頂への道に入るまでにはシダ科植物が生えた嫌な感じの道があります。
気持ち悪いので駆け足にしたいが、前日までの雨で足元が悪いので軽快には走れない。



大きな岩がゴロゴロしてきて空が抜けてきたので山頂近し。
想像していたより時間はかかったけど、疲れはそれほどでもなかったと思います。



登山道には景観のある場所がありませんでしたが、山頂寸前の所に景色が見渡せる場所がありました。
岩に腰かけて一息入れようかとも思いましたが、岩の下は絶壁になっていて怖いので止めておく。



急に道がザレてきたと思ったら、すぐに山頂に着きました。
湖南の山はこのようなザレた山が多いのは花崗岩の山が多いからなのでしょうね。



三角点を確認。
山頂がこんなにザレていると、経年で標高が低くなったりしないのだろうかと疑問に感じたりしてしまいます。



平地を挟んだ向こうに見えるのは飯道山とか阿星山方面でしょうか?
下に見える平野部は、竜王町方面?よく分からなかった。





登山道で見る光景と山頂のザレ場は全く印象が異なります。
見える方向が逆光になっていて、陽の光を浴びながらパノラマで撮ってみた。



しばらくゆっくりとしていたかったけど、下に東屋があったので下りてみる。
NHK・NTT無線中継所のアンテナ塔からまだ先に道があって進めそうだったが、どの道が正しいか分からず引き返す。
山頂に下山道があるので山頂に戻るのですが、このザレ場でズルズルと滑りそうになりながら、蟻地獄のような登りを楽しむ。



十二坊(岩根山)で人気のスポットといえば、蔓がハート型をしたように見える「好運の蔓」です。
下山道で突然に出会いましたが、好運の御利益はなんでしょうね。





下山した後は、渓流沿いを歩いて「磨崖不動明王」のある場所へ向かいます。
摩崖仏は高さ620cm・幅198cmの巨岩に彫られており、像高は425cm・肘幅210cm・顔幅80cmという巨大な不動さんです。



右手に持った宝剣の長さだけでも2.3mあるといい、通称「車谷不動尊」、花園不動と呼ばれる像は江戸初期の作といわれています。
白洲正子さんも「かくれ里」で取り上げており、そこでは花園山中の不動明王は鎌倉時代として紹介されています。





滋賀県では野洲市・栗東市・湖南市の辺りに摩崖仏が集中しており、渡来人の石の文化と密教や山岳信仰・修験道の影響が強い地方だったように思われます。
また、巨石や巨岩の多く摩崖仏に適した地盤だったことも大きな影響があったのではないでしょうか。



元々は野鳥観察のため。次は摩崖仏や滝・巨樹・山上の磐座などの信仰の跡を見たくて山中に入っていたのが、すっかり山を登る楽しさに魅了されています。
いわゆる低山巡りですが、今年も楽しい山登りを沢山したいものです。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

守山市・草津市の勧請縄~小浜・古高・木川~

2024-03-05 19:55:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
  滋賀県の勧請縄は東近江市・近江八幡市・日野町・竜王町・甲賀市・湖南市・野洲市・栗東市など湖東や湖南地方に多く見られます。
琵琶湖の南部の守山市・草津市・大津市にも勧請縄は見られるようであり、今回は守山市と草津市の勧請縄の一部を見に訪れました。

守山市には3本の勧請縄が確認されているといい、内訳は小浜町に2本と吉高町にひとつの計3本あるとされます。
小浜町の2本は「八幡神社」と「天満神社」の参道に下げられ、同じ集落内ということもあってか2本は酷似した勧請縄となっている。



小浜町は野洲川に沿うような集落で、その一部は野洲川河口と琵琶湖に面しているような場所にあります。
神社は集落の両端にあり、「八幡神社」を上の宮、「天満神社」を下の宮としているそうです。



勧請縄は主縄の一カ所にコブを作り、主縄の上に御小を挿して小縄は2本で中央にトリクグラズを下げている。
小縄は4本の縄の先をループにし、割竹を通して面のような形状をしています。



トリクグラズは藤の蔓で丸型を作り、竹をザルのような形で取り付けて、中にはスギの葉が詰められています。
竹を格子状にしていないのが特徴になっています。



本殿の玉垣にも勧請縄にあった特徴的な小縄が下げられています。
この小縄は集落内の何ヶ所かに見ることができ、神仏にゆかりのある場所に下げられているようです。



中に石仏が何体か祀られていたので寺関係の場所かと思いますが、ここにも小縄が下げられています。
この横に「小浜観音堂」という大日如来坐像や薬師如来坐像を祀る御堂があったが、その御堂にも小縄は下げられていた。





次に上の宮とされる「八幡神社」へと向かいます。
八幡神社の勧請縄も鳥居の奥の参道に下げられています。



八幡神社の勧請縄と天満神社の勧請縄は酷似しており、主縄にコブがあって小幣が挿されて特徴的な小縄が2本下げられている。
この2本の勧請縄は同じ日に作られ、5月の祭礼の時に取り外されるとのことで、4カ月少々しか見られないものです。



トリクグラズも天満神社のものとほぼ同じですが、こちらの方がより格子状になっています。
ただ全体として違いがみられないのは、同じ集落で作っているためなのでしょう。





八幡神社の本殿にもあのループを描く面状の小縄が下げられています。
建物に下げられる小縄は、門や玉垣や御堂の入口の左に下げられているが、何か意味があるのでしょうか。





守山市の3本目の勧請縄は古高町の「大将軍神社」にあるそうなので向かってみます。
大将軍神社は御祭神に八千矛命・武甕槌命・經津主命を祀り、4年に一度「古高の鼓踊り」という雨乞い祈願の踊りがあるといいます。



大将軍神社は参道にある山門に勧請縄を下げるようですが、今回は確認することが出来ませんでした。
勧請縄は旧暦の1月7日に下げるとされていますので、まだこの時は少し早かったのかもしれません。



どこでというと記憶がないが「大将軍神社」がある場所はいくつかありますが、大将軍とな何ぞやとなると、一般的には方位神である大将軍神を祀っていた所となります。
この神社の御祭神の3柱は、武力・軍事力を象徴する神・剣と雷の神・刀剣の神格化された神となりますので、戦いの印象を受けます。
社殿では正暦年間の創祀と伝えられていますので、方位神に従って方違えの祈祷・祈願が行われていたのかもしれません。



守山市の予定していた勧請縄が見られなかったので、少し足を伸ばしてお隣の草津市へ移動します。
草津市も守山市同様に3本の勧請縄しかなく、十数か所確認されている大津市の間にある勧請縄の少ない地域になります。
(栗東市にも2本しかないそうである)



木川町の「天神社」は、菅原道真公ゆかりの神社かと思いきや、御祭神に豊斟渟尊・天市々魂命・天興豊魂命・天若御子神をお祀りする。
住宅地から離れて田園地帯に向き合うように天神社はあり、一之鳥居を抜けて参道を歩いて行った二之鳥居に勧請縄が下げられていた。



一言で言うと、トリクグラズが非常に大きな勧請縄です。
大きな丸形のトリクグラズに十字は丸を突き抜けて通っている。
榊と紙垂を付けた小縄が下げられ、小幣はないが、何といってもトリクグラズの大きさが目を引きます。



本殿に参拝して違和感を感じたのは「茅の輪くぐり」の茅の輪があったこと。
茅の輪くぐりは6月の「夏越の祓」が馴染み深く、「年越の祓」を行っている神社もあるというが、この時期まで茅の輪くぐりが出来るのは珍しい。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野洲市の勧請縄~須原・堤・六条・吉川~

2024-02-29 07:17:17 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は村に悪霊や疫病が入って来ないように村境に吊るして結界を張ったことが始まりとされており、滋賀県では湖東・湖南地方に集中しています。
年頭に五穀豊穣や村内安全を祈る祭りとしては、「湖北のオコナイ」と「湖東・湖南の勧請縄」がありますが、祈りの根源は同じようなものかもしれません。

勧請縄は東近江市や近江八幡市に特に多くみられ、日野市・竜王町・湖南市・甲賀市・野洲市・守山市・栗東市・大津市に集中しています。
稀なものとして高島市や長浜市にも例外的にみられるものの、大半は滋賀県を四等分にすれば右下の地域に固まっています。



今回は野洲市の勧請縄でまだ見たことのない勧請縄を巡ることになり、最初に須原集落の苗田神社を訪れました。
野洲市には「兵主大社」という大きな神社があり、苗田神社は兵主二十一社の内の一社になり、御祭神には稲田の神とされる稲田姫命を祀る。



勧請縄は鳥居の横の道路に面した場所に下げられている。
かつては竹を横に通してそこに主縄が付けられていたようですが、現在は化学繊維の主縄に変わっていました。



小縄は細縄を束ねて榊の葉と白幣を付けたものを左右3本づつ下げており、中央にトリクグラズが下げられています。
トリクグラズは丸型の円盤状に3本格子を入れて、杉の葉を沿わせたものとなっている。



榊の葉を結んだ小縄は境内の祠や石塔など各箇所に下げられていて、本殿や境内社の祠にも下げられています。
境内社は本殿の左に稲荷社、右に日出神社と写真にはないが愛宕大神がお祀りされています。



本殿の板囲いの前には見るからに古そうな七重石塔(仁王塔)が祀られており、こちらにも小縄が下げられている。
七重石塔は鎌倉時代の作とされていて、花崗岩の劣化は目立つが四方仏坐像などははっきりと読み取れる。





次に訪れたのは堤集落に狩上神社の勧請縄でした。
狩上神社も兵主二十一社の1社にあたり、兵主神社の北方守護神としてお祀りされているという。
この辺りは勧請縄を下げる習慣のある集落が隣接しているので、次の勧請縄のある場所への移動は少ない。



狩上神社の御祭神に事代主神をお祀りし、狩上とは開田の意とするといいます。
堤集落の勧請縄は主縄がなくトリクグラズだけが本殿の板囲いに掛けられてありました。



トリクグラズは丸十型でスギの枝葉が束ねられている。
ユズリハと紙垂が付けられた小縄が一組だけ束ねられて下げられています。
須原と堤は隣接した集落のため、勧請縄の傾向が多少似ている部分もあるにはあるが、集落独自の個性の違いは大きい。



須原・堤に隣接する東方向の五条集落に兵主大社の広い境内地があり、兵主大社に隣接する六条集落の村外れの三ノ宮神社に勧請縄があります。
三ノ宮神社の勧請縄は、鳥居をくぐった参道の両脇にある木に吊るされてる。



勧請縄は左はスギの木にくくられ、もう一方は枯れ木にくくらている。
小縄は左右3本づつ下げられており、特徴的なのは主縄の中央部に別の太い縄を付けていること。



太く短い主縄の下にトリクグラズが下げられていて、この形式の勧請縄は他では見たことのない形となっています。
これは、集落ごとに違いがあり、2つとして同じものはないという勧請縄ゆえということになります。



トリクグラズは、丸型の中に縦横6本の格子が入り、交点に結び目がある。
結び目は「目」として悪いものが入ってくるのを防ぐためといわれる。



三ノ宮神社は、兵主神社二十一社の1社にあたり、この地方における兵主大社のかつての規模の大きさが伺われます。
御祭神は高光照姫命で、 一般的には縁結びの神の御利益がある女神とされています。



野洲市には「行事神社」「新川神社」「屯倉神社」にかなり個性的な勧請縄があるが、今回はまだ見てない勧請縄ということでパスします。
野洲市で最後に訪れたのは吉川集落にある「矢放神社」でした。



しかし残念ながら矢放神社の勧請縄は確認出来ずでした。
五芒星を形どったトリクグラズということでしたが、ここでは短い期間で取り外されて燃やされてしまわれるようです。
勧請縄は年頭に新しいものに取り換える集落があれば、切れるまで下げておく集落もありますが、短期間で取り外される集落も幾つかあるようです。



野洲市の神社で気になったのは境内に「神武天皇遥拝所」の石碑がある神社が多かったことでしょうか。
これらの碑は1940年の神武天皇即位2600年目の「皇紀2600年」に作られたともいわれていますが、それがは太平洋戦争前年のことでもありました。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近江八幡市の勧請縄~王ノ浜・小船木・森尻~

2024-02-22 06:25:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は、村境や神社の境内に呪物を付した注連縄を吊るす民俗行事で、道切りと呼ばれることがあり、滋賀県では湖東・湖南地方に集中しています。
トリクグラズと呼ばれる呪物は集落ごとに独特の様式があり、吊るし方にも違いがあるものの、年頭に村内安全・五穀豊穣・疫病退散などを祈念するという願いは共通です。

近江八幡市の白王町王ノ浜の「若宮神社」は、現地でどうしても場所が分からない神社でしたが、事前に地図を調べて場所を特定してから訪れました。
勧請縄を吊るす神社というこもさることながら、王ノ浜若宮神社の御祭神が「惟喬親王」ということが訪れる動機をなっています。



惟喬親王は皇太子として天皇に即位するはずであったが、弟宮の母親が太政大臣・藤原良房の娘であったため、後ろ盾の力関係により表舞台から退くことになったという。
晩年は、京都大原の地に隠棲して病没されたとされますが、滋賀県の愛知川源流の小椋谷に19年間暮らして轆轤の技術を伝授したという伝説もあります。
この話を起源として惟喬親王は「木地師」の祖とされ、小椋谷は「木地師集団の支配所」として全国の木地師たちの保護・統括をしていたという。



琵琶湖や西の湖近くのにある白王町王之浜では都を逃れた惟喬親王が琵琶湖の「宮ヶ浜」(近江八幡市)に上陸し、当地に隠れ住んだという伝説があります。
惟喬親王は「この地で手芸や細工を教えられた」との伝説が残り、王之浜若宮神社の御祭神として祀られています。

王ノ浜集落は西の湖に近い大浜山の麓にあって民家の数も少なく、神社を探すのに難儀しました。
神社は集落のさらに端にありましたが、鳥居に勧請縄が掛けられているのを見て一安心です。



勧請縄は主縄の下に大きく束ねた小縄が左右2本づつ下げられ、中央にはトリクグラズ、その上に小幣が3本立てられてある。
トリクグラズは円形の輪に大量の枝葉が付けられており、小幣には紅白の紐が水引のようにくくられています。
王ノ浜の勧請縄はかつては境内を横切るように長い主縄が吊るされていたようですが、今は鳥居に掛けられる長さになり、小縄も少なくなっているようです。



拝殿から本殿の間は屋根があるのですが、本殿は石段が組まれた上に祠が祀られており、石段の左右は注連縄で結界が切られている。
寂寞とした場所に祀られている神社ですので、平安の世に皇子が隠れ住んだとの伝説を思い起こしてしまうような場所でした。



次に小船木町の諏訪神社にある勧請縄を探しに行きますが、村の小さな神社はナビには出てこないので該当する町内を探すことになります。
田圃が迷路のような分譲住宅地になっていたり、古い集落では極端に細い道を通ることになったりとなかなか難しい中、やっと発見。



境内に入るとまず注連縄を巻かれた御神木が見えてくる。
内部が空洞になって痛々しいものの、若い枝が延びて生命力の強さを感じさせる。



反対側に回り込むと、注連縄は円形の部分を残して結ばれています。
環境庁のデータベースでは樹種はシラカシ、幹周375cm・樹高15mで健全度は一部枯損となっています。



勧請縄は境内の裏側、ちょうど八幡山が見える方向に向けて吊るされています。
小縄にはカシとマツの枝葉が付けられて、本数は13本なのは今年が閏年ゆえということ。



西邑泰郎さんの「勧請縄ー個性豊かな村境の魔よけー」では、ここは近江八幡に通じる古い道の起点になるので昔は「道切り」で路上にあったのではと推測されています。
神社裏側の方向には八幡山や近江八幡の古い町があり、方向が北東ですので鬼門封じの意味もあるのかもしれません。



トリクグラズは円の中に十字に枝を挿してカシトマツの枝葉を大量に付けている。
この変わった形をしたトリクグラズは「鬼の顔」を模しているといい、鬼の出入口方角とされる鬼門を「鬼の顔」をした呪物が守っているようにも思えます。



諏訪神社の御祭神は健御名方命(タケミナカタノカミ)で水神である竜神や蛇神の姿で描かれることがあり、狩猟や農耕の神とされています。
本殿の囲いの中には1372年(南北朝期)に寄進されたという石灯籠には「小舟木町 惣中」とあり、小舟木が惣村を形成していたことが分かるとされます。



森尻町の八幡神社もあると知って探さなければほぼ見つからない場所にあります。
勧請縄を探すのに困るのは、集落の中に車を乗り入れると通行するのが困難な道が多々あることで、地元の方は慣れているでしょうけど他所者はかなり苦戦します。



八幡神社の勧請縄は本殿の覆い屋に直接吊るされ、左右6本づつ下げられた小縄は中央寄りの3本が束ねられている。
縄は手編みではないようだが、簡略化しつつも伝統行事を残しているようです。



トリクグラズは円形に丸められた枝にスギの葉が付けられています。
主縄には竹を割って作った小幣が挿され、それぞれに紙垂が下げられています。



森尻町の勧請縄の変わったところは、社殿の横にある木にも勧請縄が巻かれていることです。
御神木ということになるのか分かりませんが、かつてはもっと広い境内地に森があり、勧請縄は道切りの形で吊るされていたのかもしれません。



近江の村落には独特の信仰や伝統行事が幾つか残り、年頭行事の「勧請縄」や湖北では2月頃に行われる「オコナイ」があります。
それ以外にも「野神さん」や「山之神」への信仰や観音信仰や村落独自のお祭りなど、村落特有の信仰や伝統的行事があり興味深く感じています。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

糠塚町・伊庭町・能登川町の勧請縄~個性豊かなトリクグラズ~

2024-02-16 06:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は村の外れや神社の鳥居や参道に村中安全や五穀豊穣、病魔退散などの願いをこめて吊るされる魔除けです。
勧請縄の行事は、山之神や野神さんを始めとする自然信仰や神道・仏教・道教・修験道・陰陽道などの影響を受けつつも、集落独自の形状で伝えられきたようです。

勧請縄は集落ごとに2つとして同じものはなく、多様性に富んで個性豊かなものが多く、見る者に驚きを与えてくれます。
ただし、少子高齢化などの影響もあって、継続することが難しくなり途絶えてしまった勧請縄は多く、段々と貴重な民俗行事になりつつあります。



湖東や湖南の集落の神社には勧請縄の伝統が継続されているところが多く、東近江市糠塚町の「巽神社」にも勧請縄があります。
「巽神社」の御祭神は五十猛命という聞き慣れない神様ですが、イザナギ・イザナミの子であるスサノオの子とされ、林業の神として信仰されているという。



勧請縄は境内の奥の森の中に吊るされており、この方角に赤神山と太郎坊宮があるのは偶然ではないと思います。
主縄は2本の木に吊るされて、小縄は閏年ゆえか左右6本・7本で13本の小縄が下げられている。

カシの枝で造られた円形のトリクグラズには絵馬型の祈祷札があり、中央に“勧請済”、左右に“五穀成就”“町内安全”と書かれています。
勧請済とあるのは神社での祈祷が終わっているということですが、巽神社では仏教系ではなく祓詞を書いた神道系の祈祷札を奉納するそうです。



トリクグラズの先にある家の屋根の上に見えるのは赤神山(太郎坊山)の南峰で、左に小脇山や岩戸山が見えます。
地図で見るとこの周辺には勧請縄が奉納されている集落がいくつかあり、信仰と伝統を守り続けている一帯かと思います。



本殿にお参りすると祠にも小さな勧請縄が掛けられています。
神主らしき方に“ここにも勧請縄が掛けられているのですね。”と話しかけてみると、巽神社には3ヶ所に勧請縄を掛けているとのことでした。



ひとつは境内の森の中にある主となるもの。
もうひとつは本殿に掛けられ、最後のひとつは野神さんの祠に掛けられていました。
聞いてみなければこの祠が野神さんを祀るものとは分からないので聞いて正解でしたが、この地域では野神さん・勧請縄・山之神などの信仰が盛んです。



境内の片隅に大量の竹が干されていて何に使うのか聞いてみると、松明を作る時にこの竹で縛るということでした。
近江八幡界隈では火祭りが盛んで、代表的なところでは「左義長まつり」がありますが、各集落の神社の祭礼として伴う松明行事(火祭り)も行われているようです。
「近江八幡の火祭り」は国の無形民俗文化財になっており、火祭り神事が根強い地域なんだと感じられます。



次は同じ東近江市の伊庭町の勧請縄を見に行きますが、「大濱神社」の勧請縄は典型的な道切りの形式となっています。
大浜神社の御祭神は須佐之男命で、古くは牛頭天王と称えられたが明治4年に社号を改めたといいます。
牛頭天王は神仏習合の神でスサノオの本地の化身ともされましたので、神仏分離令で仏教色が排除されたのかもしれません。



大浜神社の前の道は集落内の主要道路となっていて車が行き交うような道ですが、そこに道切りの形式で勧請縄が掛けられています。
車の走行がありますので吊るされている位置が高くなっていて、トリクグラズはかなり大きなものとなっています。



トリクグラズは大きな丸型に三本井桁を組んで、紙垂を3本挿して下に小縄を結んでいる。
主縄には24本の小縄が密集するように下げられていて、通行する者が必ず目にするような位置にある勧請縄になっています。



大濱神社はこの日祭典の日だったようで、昼時だったこともあって社務所からにぎやかな声が聞こえていました。
大濱神社の拝殿の隣にある仁王堂は「伊庭祭坂下し」など祭礼の舞台となるところで、昨年訪れた時は堂内いっぱいに藁を積み上げて祭の準備をされている日でした。



大濱神社と隣り合わせる場所にある「高木観音」にも勧請縄が吊るされており、傾向としては大きな丸型に三本井桁、紙垂を3本というところは似ています。
違うのは主縄に小縄を下げていないのと、トリクグラスに下げられている小縄の数が多いところになります。



大濱神社の勧請縄と比べると、高木観音の勧請縄に下げられた枝葉は枯れていますので、吊るされた時期が高木観音の方が早いように見えます。
隣り合わせた神社と観音堂に吊られる勧請縄は同じ方々によって吊られているのか?はたまた別の方々なのか。



トリクグラズには円型のもの、絵馬や祈祷札を付けたもの、天狗の顔・五芒星・弓矢・牛の角を模ったものなど多様性に富みます。
そんな中でかなり特徴的なのは、長勝寺前の勧請縄ではないでしょうか。



トリクグラズは、スギの枝葉で丸く作ったものを3つ並べて主縄の中央に付け、これは「竜の目玉」と呼ばれる。
竜の目玉の真ん中のものには奥にある長勝寺の祈祷札を取り付けています。
竜の目玉で睨みつけ、祈祷札で村内を防御する強い意志が感じられる勧請縄です。



今年が辰年だということが頭の片隅にあるのか、勧請縄の主縄や神社の注連縄から龍の姿を連想してしまいます。
村境に勧請縄を吊るすのは、龍を邪気や悪霊の侵入を防ぐ守護神とし、繁栄をもたらすものとする信仰なのかもしれません。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八日市市・安土町の勧請縄を巡る!~「道切り」的なもの(市辺町・内野町)~

2024-02-02 17:20:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は神社の参道や鳥居に吊るされることがあれば、集落の外れの村境や道を切るように吊るされる場合があります。
共に悪いものを村内に入れず、村外に悪いものを追い出すための魔除けということになり、村境に祀る巨樹など野神さんの信仰にも相通じるものがあります。

滋賀では湖東・湖南地方に勧請縄や野神さんや山神さんの信仰などがあり、湖北地方では野神さんや山神さんは巨樹への信仰となっている場合が多い。
湖北には「オコナイ」神事があり、湖東・湖南には「勧請縄」が神事として行われることから、近江はオコナイ文化圏と勧請縄文化圏に分化しているようです。



市辺町の勧請縄は村境にあって魔を入れない道切りとなっており、村の東の外れと西の外れに勧請縄があります。
市辺の勧請縄は以前は道をまたいで吊る道切りの形を取っていたそうですが、今は耕地整備後の空き地に勧請縄は吊るされています。



小縄は13本吊るされてあり、中央の大きなトリクグラズには絵馬型の祈祷札と卒塔婆の形をした12光仏が扇のようにして付けられています。
2022年に訪れた時と小縄の数が変わっている(202年は12本、2024年は13本)のは今年がうるう年だからと考えられます。
市辺の勧請縄は、絵馬や卒塔婆型の12光仏など仏教との神仏習合の傾向が強く見られ、かなり特殊な祀り方との印象を受けます。

絵馬には廬舎那発心を中心に神力演大光・普照無際土・消除三垢冥・広済衆厄難。
これは神仏の加護を願いって厄災を除かんことを願うときに用いる回向文とされる。
十二光は、阿弥陀様の光明を無量光・無辺光・無碍光・無対光・燄王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光の功徳に分けたものだという。



勧請縄が掛けられている場所の近くには「山の神」「相の神」「野の神」の石碑が祀られています。
村の外れにあたること場所が市辺集落の信仰の地となっているようです。



市辺集落の東の境にも勧請縄が吊るされているが、東の勧請縄に主縄はなく、トリクグラズだけが壁掛けのように吊るされている。
杉で造られた輪に12光佛の小札が放射状の差し込まれ、下部に小縄が束ねられている独特の形体です。



中心には絵馬の形をした祈祷札が吊るされているが、半分に割れた状態となっています。
絵馬の真ん中には「奉勧請大般若十六善神」と書かれ、一番上には梵字で何か書かれているが意味は分からない。



案内板が横にあって“明治になり神仏分離令で、仏の祈祷札は割られ、後に神社から橋前に移され、次に此処に移った”ありました。
市辺ではこの「仏の祈祷札は割られ...」の部分が現代も継承されているのでしょうか。

西老蘇の鎌若宮神社でも吊り終わって御祈祷が終わった勧請縄の祈祷札を子供たちが石つぶてを投げて割ります。
この2つの行事に相関があるのかどうか?



安土町内野の勧請縄は典型的な道切りの形状となっており、八幡神社から集落内を抜ける真っすぐな道の途中に勧請縄が吊るされています。
琵琶湖博物館には内野集落の勧請縄の原寸に近いレプリカが展示されており、近江の勧請縄の代表的な形式になるようです。



集落の途中に支柱が立てられ、支柱に沿う形で主縄が張られ、小縄が左右6本づつ計12本が吊るされています。
トリクグラズは中央に円形のもので中央には祈祷札が吊るされている。



絵馬型の祈祷札には「天下泰平・村中安全・五穀豊穣」などの願いが込め足られ、裏には12カ月の各月の上に「大・小」と書かれています。
「大・小」の意味は、その月の日数が多い月は「大」、少ない月は「小」だと思います。



安土町の集落内をうろうろしていると「愛宕大神」を祀っているところを見かけることがあります。
愛宕神は「火防の神様」として祀られることがありますが、どんな由来があるのでしょうね。



集落内の八幡神社では取り外した前の年の勧請縄と思われる大繩や藁やスギの葉が一緒に積まれています。
左義長の祭典で燃やすのだと思いますが、左義長祭りは日牟禮八幡宮だけでなく、この地方では集落(神社)単位でつとめられるようです。



この左義長をよく見てみると、なんと龍が巻き付いたような姿となっています。
炎に包まれて昇天していく龍の姿が見たかったけど、いつ燃やし始めるのか分からず神社を後にしました。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近江八幡市(西の湖の水郷)の勧請縄を巡る!~白王町「若宮神社」・中之島町「天之御中主命神社」~

2024-01-28 18:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄とは村境や神社の参道や鳥居に呪物を付した縄を張る伝統行事で、道切りと呼ばれることもあります。
滋賀県では一部の例外を除いては湖東・湖南地方にのみ見られ、地域による傾向はあるものの2つとして同じものがない個性豊かなものとなっています。

年初に勧請縄を掛けるのは、村内安全・五穀豊穣・疫病退散・子孫繁栄などを祈念してのものですが、高齢化による廃止や簡略化で勧請縄が減ってきています。
資料では確認出来た勧請縄や前回訪れた時にはあった勧請縄がなくなっているケースは多々あり、探し始めてからたった4年の間でも大きな変化があります。



白王町白部の「若宮神社」は集落の外れの山側にある神社で、この神社を含む西の湖の水郷近くには5カ所の勧請縄が存在していたという。
2カ所は見つけ、1カ所は廃止になったことを確認、場所が分からなかったのが2カ所です。



神社の勧請縄は正面の鳥居に掛けられている場合もありますが、石段の上の高い場所に掛けられている場合があります。
石段の上の高いに吊るされている場合だと、視界から外れてしまいますので普通に歩いていると見落しまいます。

トリクグラズはヒノキの枝で円を形どり、3本の御幣を立てて、主縄の中央部の下に7本の小縄を下げている。
勧請縄は1月の前半までに吊るされることが多いので、まだ葉が青々しく御幣の紙も綺麗な状態です。



近江八幡市白王町には「若宮神社」が2つあり、訪れたのは白部村の若宮神社で御祭神に大國主神を祀ります。
もうひとつの若宮神社は王浜村にあるといい、そちらの若宮神社は御祭神に「惟喬親王」を祀っているのだといいます。
惟喬親王は「木地師の祖」とされ、東近江市の小椋谷(君ヶ畑・蛭谷・箕川・黄和田・九居瀬・政所)や愛知川沿いや多賀町に伝説が残ります。

近江八幡での伝説は、『当時この辺りは葦原で寂しい孤島であったが、惟喬親王の船が京から遁れてきてこの地に隠れ住んだ。
岩屋に住まわれた親王は郁子(むべ)を常食として過ごされていたといい、村人に手芸や細工などを教えられた。』(近江八幡ふるさとの昔ばなし)
奇しくも同じ地域にある「大嶋奥津島神社」には天智天皇と郁子(むべ)の伝説が残り、「むべなるかな」の由来となっているのは実に興味深い。



次も西の湖水郷近くの「圓山神社」ですが、ここは2年前に訪れた時に既に勧請縄はなくなっていた神社です。
この日は祭典の日で、正装した氏子の方が続々とお見えになり、やや堅苦しく感じるなか目立たないように参拝しました。



長い石段は最初は緩やかながら段々と急になっていきます。
途中で休憩されていた氏子の方に“もう勧請縄はないのですか?”と聞くと、“材料の藁が集めにくくなり、そもそも人手が集められない。”
と他村でもある悩ましい問題によって行事が維持出来なくなってしまい、3年前に勧請縄は廃止して化学繊維の注連縄に変えたとのことでした。



石段の中段には「寶珠寺」の本堂があり、重要文化財の「毘沙門天立像」が祀られており、御堂は景観重要建造物に指定されているそうです。
天台宗の寺院とありますので、かつてこの山は圓山神社の磐座を中心とする神仏習合の山だったと思われます。



「圓山神社」は御祭神に農耕の神である「天津彦火瓊瓊杵尊」を祀り、境内社として「祇園神社」「津島神社」「愛宕神社」「行事神社」を祀る。
驚くのは本殿の後方にある巨大な磐座で、この磐座を中心として信仰されてきたのが伺われます。



氏子の方に近くに勧請縄を吊るしているところはないか聞いてみたところ“「大嶋奥津島神社」へ行ってみたらどうか”と教えてもらいました。
「大嶋奥津島神社」は、大国主神を御祭神とする「大嶋神社」と奥津比賣命を御祭神とする「奥津島神社」が合祀された神社です。



拝殿・本殿は有名な神社に参拝したような立派な造りとなっていて驚くような大きな規模の神社です。
境内に「むべ」を育てている一画があり不思議に思っていましたが、これには天智天皇と郁子(むべ)の伝説があります。

天智天皇が蒲生野へ狩猟に訪れた際に奥津嶋神社に立ち寄った際、健康的な老夫婦に会ったという。
天智天皇はこの夫婦に長寿の秘訣をお尋ねになると「これを食べているからです。」と答えられ、郁子を手渡される。

その果物を一口お召し上がりになった天智天皇は「むべなるかな(もっともであるな)」と仰せになり、この果実の名前となったと伝わります。
近江八幡の郁子の皇室献上は天智天皇に始まり、一時中断したものの2002年から大嶋奥津嶋神社の郁子は皇室に献上されているとのことです。



次に西の湖水郷近くの勧請縄の2つ目を探しに「天之御中主尊神社」へ参拝します。
天之御中主尊は後方にある長命寺山や津田山の山頂付近に磐座(神社の奥宮)があり、この山は何度も登りに来た山で別の意味で馴染み深い。

長命寺山~空奏テラス~津田山は巨石群や磐座が多く、お気に入りの山登りコースですが、里宮は一度参拝したのみでした。
鳥居の付近は普通の村社といった感じですが、途中にある石段から先は立派な造りの神社となっています。



石段を登り切って本殿まで行ったものの、勧請縄が見つからないと思いきや、石段の上の高い所に吊るされているのを発見。
石段の途中で立ち止まって写真を撮っている当方を、後から降りてきた人が不思議がっていましたが、勧請縄を発見して“あっ天狗!”と驚いておられました。





トリクグラズは樫の木で大きな四角形を作り、中に✖を入れて真ん中に天狗の鼻のように突き出した部分を造っています。
“あっ天狗!”と声を上げられた方の感じ方が理解できますね。
小縄は下げられていないのですが、境内の灯籠などすべてに小縄が付けられています。



龍の吐水で身を清めて本殿に参拝します。
社務所や拝殿には由緒書きや絵馬、龍の描かれた色紙や御朱印が並びます。
色紙は手書きと思われますが、宮司さんの手書きのようですので、絵心たっぷりの宮司さんのようです。



本殿はやや小ぶりな造りとなっており、境内社は伊勢神宮・多賀大社・大嶋神社の3社。
これで山麓の里宮・山頂の奥宮の両方に参拝することができました。



拝殿の横では世話方の方が何やら準備中で、葦を組んで蔓で固定した板状のところに的を取り付けられています。
1月7日にあった古式弓取り式があったが的が穴だらけになったので張り替えているとのことでした。
手作りの弓矢が置いてあり、まずは世話方の方にお手本を見せて頂きます。



では今年の開運を祈念して弓を射りますが、凄くプレッシャーを感じます。
おみくじなんかだと何が出るか他力本願の部分がありますが、これは自分の手で弓を射りますので自力本願で、外れた時のショックは大きい。



エイ!とばかりに矢を射ると、一番外側の黒いエリア(下側やや右)に刺さった!
ギリギリだけど微妙に開運の兆しありか?
現実的にビッグウエイブの大きな運気の波に乗れるとは想定できませんが、ちょっとした幸運には恵まれる年になるのかな?


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「藤ヶ崎神社」と「妙得龍王神社」~滋賀県近江八幡市~

2024-01-20 16:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 2024年は辰年ということながら、辰(龍)にまつわる場所に訪れるのはこの日が最初になりました。
龍王は水の化身とされ、農耕に必要な水を求める雨乞い神事に祀られたり、河川の氾濫の防止を祈念するなど水の神様とされます。

滋賀県の山中には雨乞い神事を行ったとされる場所や龍王・八大龍王を祀る祠がありますが、まずは車で行ける龍王さまに参拝しました。
「藤ヶ崎神社」は琵琶湖に面した岩場に「藤ヶ崎龍神」を祀り、後方の巨大な岩の間に「妙得龍神」を祀る「妙得龍王神社」があります。



分かりにくい分岐から細い道を進んで行くと琵琶湖に突き出すように岩場があり、注連縄が掛かった磐座や真っ赤な鳥居が見えてきます。
琵琶湖はベタ凪で穏やかで波ひとつなく、対岸方向には積雪した比良山系のある美しい湖西の山々が望めます。



赤い鳥居の先には磐座。
その向こうには琵琶湖が広がり、大岩の前に祀られた祠はまさに龍神の宿る場所の雰囲気があります。



「藤ヶ崎龍神社」は、藤原藤太秀郷が平将門の追討に向かう際、瀬田の唐橋で大蛇に化けた龍神の願いを聞き、三上山の大百足を退治したという伝承に始まる。
藤原藤太は龍神に招待され、暫しの滞在を要請されるが、追討の任のため辞退したところ、藤原の一字をもらい、この地を藤崎と名づけ山麓の洞を龍神の妻の別宅とした。
( Wikipedia)



大岩群の中の上部にある2つの大岩には注連縄が掛けられて磐座として祀られています。
山麓側が切り立った岩場になっているため、切り落ちた岩が集まったのか、切り出したのか、龍神を祀るために周囲の大岩を集めたのか。





積み重なった磐座の先には長命寺山(330m)や津田山(425m)があり、対比するような位置にあります。
琵琶湖唯一の有人島の沖島も見えますが、その先には高島市の「白髭神社」のある方向になる。
神社などが向いている方向は、無作為に建てられたものではなく意図があるとよく言われていて、線で結んでいくと何か意味を見出せるかもしれませんね。



「藤ヶ崎龍神社」には穏やかな天候の日にしか訪れたことはありませんが、龍神信仰のピリッとした空気感と心地よさが感じられる場所で好きな場所です。
琵琶湖をはさんで、降雪した湖西の山々と雪が全くない湖東の低山の対比も面白く、緩やかな時間が流れています。



湖岸に突き出た「藤ヶ崎龍神社」とは真逆に「妙得龍王神社」は切り立った絶壁にぽっかりと開いた洞窟の中に祀られています。
由緒では琵琶湖に面した大岩には龍神が宿り、山麓の洞窟の中には龍神の妻が祀られているといいます。



洞窟は通常は扉で塞がれていますが、参拝する人は扉を外してお参りすることが出来ます。
琵琶湖側の龍神社とほんの十数mはさんだ真っ暗な洞に龍や白蛇が祀られているのは少し違和感や怖さを感じがします。



洞の中には小さな祠が祀られ、白蛇と龍の置物が祀られており、ここで2024年辰年の安寧を祈願します。
「藤ヶ崎神社」と「妙得龍王神社」を内宮・外宮とされることがありますが、2社は「五社神社」の境外社で、合わせて「藤ヶ崎龍神社」と呼ぶのは暗黙の承認だそうです。



「妙得龍王神社」の横にも龍神が祀られている場所があり、白い砂利がひかれていてここにも龍神が宿るようです。
湖東地方には「湖東流紋岩」の地質が多くみられるといい、藤ヶ崎が該当するかは不明ながら、ここにも湖東特有の岩場がみられます。
(流紋岩:溶岩が地表近くで急に冷えて固まってできた岩)



参拝を終えて「藤ヶ崎龍神社」を後にしますが、ベタ凪の琵琶湖は穏やかに包み込むような優しさがあります。
右側に見えている沖島には上陸したことがなく、琵琶湖にある4つの島のうち竹生島にしか行っていないので一度は訪れてみたいですね。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする