僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

早尾神社の磐座「千石岩」を目指せ!~大津市山上町~

2022-03-29 06:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大津市の皇子山運動公園から湖西道路(国道161号線)の高架をくぐって、長等山の麓へと進むと「早尾神社」と「山上不動堂」がある。
「早尾神社」の横手にある登山道を登った先には「千石岩」という巨岩があるといい、かつては磐境として信仰されていたとされていますが、現在はクライミングやボルダリングのメッカとなっているという。

「千石岩」を早尾神社の磐座とはどこにも書かれていませんが、如何にも磐座のような場所にあり、神社が勧請され不動明王を祀る不動堂があることから、古代より自然信仰の場であったのだろうと思われる。
「千石岩」は山の傾斜に建てられた住宅街からも見ることができるような巨岩で、名の由来が“米俵千石を積み上げた形”としたり、“岩面が米俵千石が並ぶ広さであるから”と言われるのも決してオーバーな表現ではない。



「千石岩」の名の由来には他にも琵琶湖が今より広かった時代に“千石積みの船をこの岩につないだから”とも言われていますが、確かに頂点部分の突き出した岩は舟をロープで固定する杭のようにも見えます。
琵琶湖の湖西・大津辺りは琵琶湖と山の間の平地の幅が狭いため、山麓の傾斜地にも住宅街が広がり、山の全景が見渡せませんが、「千石岩」は奥に見える山の尾根筋にある。



最初、道は平坦な登りで横に流れる沢沿いに登って行くことになる。
途中で望遠レンズを三脚に立てて迷彩ネットを張って撮影されていた方に“何が出ます?”と聞いてみる。
“何が出るかは分からない。”とのことでしたので、“小鳥系ですね。”と言葉を交わして邪魔にならないよう上へと登って行く。



道は途中から花崗岩の谷間の川のような道になる。
大雨とかの後に増水した水はここを流れるのかと思いながら堀のような道を登る。



登山道の横には沢が流れていますが、水量は少ない。
倒木が何本か見え、登山道にも何本かの倒木があり、根こそぎ倒れている樹も見受けられた。



「千石岩」という巨岩がある山ですから、途中から巨石がころがっているのを見かけるようになる。
大津の市街地からわずかな距離の場所にこのような巨石の多い山があることに、驚くと同時に比叡山系連山が霊山として崇められた歴史が伺われます。





巨石の中には、もはや磐座と呼んでも差し支えのないような大きさの巨岩も見られます。
これらを遥かに凌駕する「千石岩」とは...と期待は高まる。



途中に「亀石」への分岐があったので立ち寄ってみます。
最初は亀石は亀の甲羅を表しているのかと意味が分からなかったが、中央やや左の独立した石が亀の頭、両方の岩が亀の前足とみると、琵琶湖へ向かって亀が泳ぎ出そうとする姿に見えてくる。





山の上部の木々の間に灰色の壁のようなものが見えてきたので、あれが「千石岩」かと思い、あとひと踏ん張りとなる。
しかし、ここからは急登が続き、あと少しなのになかなか近づいてこない。



そしてついに「千石岩」へ到着する。
大きい、高い、巨大で絶壁の壁面の巨岩です。
高さ30mはありそうな大岩ですから、クライマーたちが登りにやってくるのも納得してしまいます。



絶壁の壁面にはクライミングに使用するロープを掛けるボルトが打ち付けられており、クライマーが登るルート数は30以上あるようです。
余談ですが、「日本の岩場100」に選ばれているのは、この「千石岩」と多賀町の「芹谷屏風岩」の2つだとされてており、屏風岩は遠巻きに見たことはありますが、多賀の奥深い山中にある。



「千石岩」の正面側には2カ所の祠があり、祠の中には神札と珠のようなものが祀られていた。
クライミングなどのスポーツが盛んな場所とはいえ、これほどの大岩ですから信仰の対象としての歴史が続いているのでしょう。



一つ困ったのは、あまりにも岩が大きすぎるので岩がフレームに納まらないこと。
下がって撮るにも周囲は斜面となっていて木々が多いため、撮れるとしたらドローンなんだけど、そんなものは持っていない。



岩の周囲を歩いていて、岩の半分くらいの高さの場所に平坦な場所があるのを見つける。
当方はロッククライミングは出来ませんが、岩をよじ登っていけば途中まで行けそうだと思い登れそうな場所を探してみる。



絶壁とは反対側の山の斜面側へ行くと、なんとかよじ登れそうな場所があった。
登れたとしてもどうやって降りると不安を感じつつも、体の方は岩を掴みながらすでに登っていってしまっている。



岩のテラスのような場所まで登ると、腰かけて風景を楽しむには最高の場所があった。
すぐ近くに琵琶湖が見えるが、朝の逆光が眩くてはっきりとは見えないものの、絶景の場所だ。



岩の上から絶壁の下を撮ってみるが、下を覗いてみるだけでも足が竦みますし、落ちたら死にます。
傾斜は70度~110度あるといい、垂直か垂直以上の岸壁を登るクライマーの方はスポーツクライミングとはいえチャレンジャーですね。



「千石岩」の中間部分からは下からは見にくかった頂点部分がよく見えるようになります。
まさに千石舟をつないだ杭のようでもあり、自然の造形の美しさに見惚れてしまう姿でもあります。



この上までボルダリングで登られる強者もおられるそうですが、当方はここまでが限界。
調子よく登ったはいいが、岩の下まで無事に降りられるのかすら、いざ降りる段になると不安になってきます。



このまま長等山テラスや長等山三角点まで行こうかと当初は思っていましたが、ここで道を折り返し「早尾神社」と「山上不動堂」へ参拝することにします。
この辺りは北の比叡山から三井寺まで連峰が続く天台密教圏であり、京都側には鞍馬山や愛宕山がある霊山がありますので、独特の信仰の山々が並びます。


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津田山の空奏テラスと長命寺太郎坊大権現~滋賀県近江八幡市~

2022-03-26 07:03:03 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長命寺山から津田山(姨綺耶山)を縦走して「天照大神の石座」「天之御中主神の磐座」の2つの磐座を見て下山途中に「空奏テラス」という琵琶湖を望める大岩があると聞き立ち寄りました。
道は登山ルートから外れてすぐの場所にありましたが、どうやらそこは人気のスポットらしく到着した時には大岩の上には2組の男女がおられました。

2組の方は完全な登山ルックをされており、内1組はお湯を沸かしてコーヒーをいれたり、料理を温めたりと山を満喫されています。
山登りをするとキャンプのようにして楽しまれている方を見かけることがあり、山ひとつとっても楽しみ方は人それぞれなんだなぁと感じます。
むしろ磐座を求めて山登りしている当方の方が異質なのかもと思ったりもします。



「空奏テラス」は大岩の上のことをいうようですが、登るのも大変そうな大きな岩で、岩上は下が見えないような絶壁。
さぞや岩上は見晴らしがいいだろうと登ってみることにします。



これだけの大岩で琵琶湖が見渡せるような場所にありますので、かつては信仰の対象だったのではないかと思いつつも、もし磐座だったとしても今は信仰の場所から憩いの場所に変わっているのだろう。
岩の上側には登れるような足場があるので困難さはなく、最上部には座って景色を眺めたり、何か食べたりするには充分なスペースがある。



大岩の琵琶湖側は絶壁となっていることもあり、風が強く寒く感じる。
岩の先まで行ってみたいが足が竦みそうなので、空いている場所にバンダナをひいて座り、琵琶湖の風景を眺める。



北側に見えるのは有人島の沖島。半島のように見えますが、舟でないと行けない島です。
霞んでしまって見えないが、対岸には白髭神社があると思われます。



見る場所を変えると、対岸に上部だけ冠雪した比良山系が見えるが、雲がかかってしまっていて冠雪は垣間見えるだけ。
この「空奏テラス」は人気があるらしく、しばらく休んでいると次のグループが来られたので、交替して岩から降ります。



登山口まで戻ってくると、方向を変えて長命寺へ参拝します。
長命寺の山号は「姨綺耶山」。姨綺耶山は先ほど登ってきた津田山の別称ですので神奈備の山に仏教の融合した場所といえそうです。

西国三十三所巡礼の第31番札所の長命寺は、第12代景行天皇の時代、武内宿禰が柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り祈願したところ、宿禰は300歳の長命を保ったという伝承があるという。
その後、聖徳太子がこの地に赴き開基したといい、宿禰は紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏などの古代豪族の祖ともいわれます。
長命寺のある山は日本海~琵琶湖~飛鳥を結ぶ道ですので、渡来系豪族と縁のあった地かと思います。



「長命寺」は西国三十三所札所の中でも巨岩の多い寺院で、重要文化財に指定されている堂塔にも圧倒されますが巨岩の迫力にも魅了されます。
まず本堂にお参りさせていただきましたが、巡礼の方・個人の参拝者・ツアーの団体客など続々と参拝に来られていて、人が動き出してきていることを実感します。



外陣からお参りをしましたが、やはり西国巡礼の札所寺院には独特の雰囲気があって好きですね。
西国三十三所巡礼はこれまで32寺と番外札所2寺へ参拝して、あと1寺を残すのみまできてコロナ渦で中断していましたので、機会を見つけて満願したいと思います。



長命寺は巨石信仰が色濃い寺院ですが、本堂の裏側には「六処権現影向石」という磐座があり、武内宿禰がこの岩に長寿を祈願したところ、300年以上生き5代もの天皇に仕えたという伝承のある磐座。
「六処権現影向石」は“天地四方を照らす岩”とされており、古代には琵琶湖からこの巨石が見えたのかもしれないと考えてみるのも面白い。





武内宿禰を祀る「護法権現社」の裏山には「修多羅岩」という巨石があり、宿禰の御神体だという。
津田山(姨綺耶山)は巨石が多く、複数の場所に磐座が祀られていたが、長命寺はまさしく神奈備の山に根付いた密教寺院といえそうです。





長命寺の境内の最奥には「太郎坊大権現社」という神社があり、神社の拝所には覆いかぶさるような巨石「飛来石」が祀られています。
御祭神である大天狗・太郎坊は普門坊という修行僧で、比叡山延暦寺で修行した結果、超人的な能力を会得して大天狗になったとされています。



太郎坊は京都の愛宕山に移り住むと、長命寺を懐かしく思い長命寺に向かって大岩を投げ飛ばすと長命寺の境内に突き刺さり、「飛来石」と呼ばれるようになったという。
天狗は霊山と呼ばれる山に伝説が多く残り、山神として畏れられ信仰されてきたとされ、滋賀県では阿賀神社(太郎坊宮)の太郎坊や比良山の次郎坊などに伝説が残ります。



「飛来石」を別角度から見ると、如何にも不安定な立ち方をしていますが、倒れることなく安定している。
巨石を見に行くと、不安定そうな立ち方をしている巨石を見ることが多いのですが、倒れそうで倒れない姿もまた人の信仰を集めるのかもしれません。



石段の上には「太郎坊大権現社」が祀られる。
阿賀神社(太郎坊宮)もそうですが、巨石の多い山には霊的なもの(天狗)が棲むと感じざるを得ない不可思議なことも多かったのかもしれないと思う。



祠の裏側に回り込んでみると、ここにも写真には納まりきらないきらないような巨石がある。
単純に考えると「太郎坊大権現社」の磐座と言えそうです。



拝所からは琵琶湖の風景が見えるが、残念ながら曇ってきた。
琵琶湖の淵に張り付くような山は岡山か?遠くには三上山の山容が見えますね。



ということで磐座を巡る登山は終わり、麓へと帰ってくる。
国民休暇村側の登山道にあるという「天之御中主尊」を見逃してしまったのでもう一度登ることになるのでしょう。




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津田山(姨綺耶山)の磐座を目指せ!~長命寺山から津田山縦走~

2022-03-23 05:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八幡市の琵琶湖に面した長命寺山の中腹(標高240m付近)には西国三十三所第31番札所である「長命寺」があり、参拝者や観光客の多い寺院となっています。
長命寺のある長命寺山はかつては内湖がくい込んで琵琶湖に浮かぶ島だったとされ、長命寺山や津田山(姨綺耶山)などの峰のある山は「奥島山」と呼ばれていたという。

白洲正子さんは近江山河抄の中で“近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりだろうと答えるだろう。”(中略)桃山時代の障壁画を見るように美しい。と書かれています。
また“長命寺の裏山を、長命寺山とも金亀山とも呼ぶが、それに隣り合って、あきらかに神体山とおぼしき峰が続いており、それらの総称を「奥島山」という”とも書かれています。
今は入江は干拓されてしまい、奥の島としての往時の姿はなくなってきてはいるものの、磐座や巨巌が多く見られる様は、神体山と呼ばれるに相応しいものがあります。



写真の左にある峰が「長命寺」のある長命寺山で、右の峰が磐座や巨巌のある津田山(姨綺耶山)となり、まずは長命寺側から長命寺山のピークを越えて、縦走して津田山の山頂を目指します。
長命寺山の登山口は、長命寺の880段の石段の最後の100段の横にある駐車場から林道を少し下ったところにあり、登山口には石仏が祀られている。



登山道の途中には石仏が幾つか祀られており、途中までは仏教的な仏の山の雰囲気がある。
気味が悪かったのは、登山道のあちこちに掘られたような跡があり、どうやらイノシシの土掘りのようであるように見え、しかも昨日今日の新しい跡のようにみえる。
出会い頭でイノシシに遭遇するのも嫌なので、熊鈴を付けて気休め代わりとして山を登ります。



長命寺山の登山道は、道中にピンクのテープが巻かれ、危険個所には立入禁止のロープが張られているため、道に迷うこともなく最初のうちは軽快に勾配を登っていける。
樹が道の両サイドを覆っているため景観はないが、所々に大きな岩があり、磐座に期待が高まる。



足元に岩が増えてきて勾配がきつくなってきた頃、下の方から人の話声が聞こえてくるようになり、しばらくすると追いつかれてしまったので道を譲る。
自分より世代が上の方がと見受けらる2人でしたが、息は乱れておらず、息切れしている当方を抜いた後、すぐに背中が見えなくなる。持久力の差を感じてしまいますね。

抜いて行かれた人に“長命寺山の山頂はまだ先ですか?”と聞いてみると、“岩が増えてきたのでもう少しだと思う。”とのことで、一旦息を整えてから上へと登って行きます。
道の途中に長命寺山頂の小さな看板があったので、コースを外れて山頂を目指しますが、若干道は悪かったように思います。



まだ着かないのかと思いつつ歩いて行くと、少し広がった場所に出て山頂の看板があった。
“長命寺山333m”。登山口から十数分だったでしょうか着いてみるとあっけなかった。



山頂部には看板以外は何もなく、周りが樹に囲まれているので景色はほぼ見えない。
頂上では何もすることがないので、元の登山道まで戻って、津田山(姨綺耶山)の山頂を目指します。



「津田山」は、「姨綺耶山」と呼ばれたり、「奥島山」と呼ばれたりしているようですが、Gooogleマップでは「津田山」になっているので、「津田山」が正式名のようです。
ここから先は峰と峰の間の尾根筋になりますので、しばらくはアップダウンの少ない道となり歩きやすい。



ただし道中には急にシダが多くなり、あまり気持ちの良い道ではなく、小走りで駆け抜けていきます。
道は小走りで進めるような平坦な道から少しづつ勾配が増えてきて津田山への登りに差し掛かってきたのは分かるものの、どの辺りにいるのかは分からない。



進んで行くと津田山の山頂が木々の間から見え隠れするようになり、目標地点が明らかになる。
山との距離を近いと思うか、まだ先かと思うかは人それぞれかと思いますが、当方は遠いなぁ傾斜がきつそうと感じてしまう。



津田山への登りが始まると急に巨石が増えてきて、いよいよ巌の山のエリアに入ってきたことを実感する。
出迎えてくれたのは、夫婦岩のような巨石が2つ。迎え入れてくれる門のようでもあり、聖域を示す結界でもありといった処。



さぁいよいよ傾斜がきつくなってきた。
でも、空が開けてきたので磐座はきっともうすぐだ。



そして磐座へ到着。
中央の注連縄の巻かれた巌には大きな亀裂が入っており、2つの巨岩が並ぶ姿は壮観です。
一説にはこの磐座は「天照大神の石座」と呼ばれているといいますから伊勢神宮との関連があるのかと考えてみる。



山を登ってきた甲斐があったなと思いながら磐座を眺め、頂上まで行って折り返してこようと再び山を登ります。
磐座の横には道がないため、磐座の下を通ることになりますが、手前の平たい岩が滑りやすそうなので、細い樹を握りしめながら磐座を越えていきます。



ほどなく山頂に着くと祠が祀られ、祠の奥は琵琶湖の絶壁になる。
ここで途中で追い抜いてもらった方と再会しましたが、2人の会話は興味深いものでした。

“琵琶湖の対岸には白髭神社(高島市)があり、望遠鏡があったら湖上の鳥居が見える。三重県方向の遥か先には伊勢神宮がある。”
“白髭神社と津田山頂と伊勢神宮は一本の直線で結ばれる、神社はそういう見方をしないといけないよ。”...思わず納得。



祠の横にはもう一つの磐座があり、「天之御中主神の磐座」とよばれているといい、天之御中主神は天地初発の時に、高天原に出現した最初の神とされるという。
磐座は石垣に囲まれていることからこの磐座が御神体となるのかと思われ、山全体が神体山なのだろうと実感できる。



磐座は一つの山のような形をしており、神体山の頂上にもう一つの山のような形をした御神体が祀られるという言い方も出来そうです。
2つの磐座を見て充分堪能しましたが、長命寺~津田山のルートから国民休暇村への分岐を進んだところには「天之御中主尊」の磐座があると知ったのは後の祭り。もう一度この山に登らないといけませんね。



津田山の山頂と三角点は頂上の磐座を少し進んだ場所にありました。
津田山(別名:奥島山)標高424.7m。約1時間くらいあれば登頂できます。





ところで、この津田山には「空奏テラス」という琵琶湖の絶景が眺められる大岩があるといいます。
琵琶湖を眺めて一息入れたら下山して、長命寺の太郎坊大権現へ参拝しよう。...続く。


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荒神山の蛇岩と稲村神社の磐座~滋賀県彦根市~

2022-03-20 16:32:32 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 彦根市の荒神山には「かまど神」として信仰される荒神山神社があり、御祭神に火産霊神・奥津日子神・奥津比売神をお祀りする神社です。
荒神山神社は古くは奈良時代に行基によって創建された「奥山寺」に起源があるとされますが、明治の神仏分離令により廃寺となり、荒神山神社だけが残ったといいます。

荒神山神社は荒神山の山頂近くにありますが、里宮(遥拝殿)としての荒神山神社は山の麓にお祀りされています。
里宮からは本坂という表参道があり荒神山へと登ることが出来ますが、その道とは別の道で山へ入ると「蛇岩」という巨巌(磐座)があると聞きます。



調べてみると「蛇岩」に行くには2つ道があるようですので情報を頼りに山へ入りましたが、最初の道は竹藪をかき分けていくような道で、倒れた竹に道を阻まれて断念。
次の道は途中で道が分からなくなり行き止まってしまいこれも断念。

諦めるしかないかと思いつつダメ元で農作業しているお爺さんに聞いてみると、遠い耳で何度も聞き返されながら道を教えてくださり、言われたままに道を進んでみます。
しかし、山側は柵で囲われて入る余地がない。しばらく探し続けて諦めかけた頃に猫の出入口のような小さなアルミサッシの入口を見つける。
これで行けると思いきや、山は倒木だらけで道がない。



上へ行けば何か見つかるかと思い道なき山肌を無理やり登ってみるが、人の踏み跡らしきものも見つからず、ただただ斜面を横断するばかり。
道もない山に一人いると心細くなってくるし、地面に大きな窪地があるとイノシシのヌタ場のように思えてきて怖い。



やはりダメか、諦めて戻るか、と諦めかけた時に山の上の方に岩の一部が見えた。
あれに違いないと斜面を登ってみます。



初めは岩の上の一部分しか見えていなかったのが登るにつれて全貌が確認できるようになってきます。
「蛇岩」は上方に大蛇岩があり、その下にも若干小さい岩があります。
両方とも蛇が口を開けたような姿をしていて注連縄が巻かれています。



奥の蛇岩は長さ6m・高さ3m・幅3m。
地元では石神さまとして毎年12月に注連縄が取り替えられ、正月には鏡餅を供えてお祀りされているといいます。

<荒神山「蛇岩」伝説>(国宝彦根城築城400年祭《談話室》)
「むかし天竺(インド)の霊鷲山の一岳を、大へびが背に乗せて月氏國(中央アジアの遊牧民国家)を経て日本に化来し、大へびは岩と化し、毎朝東にむかって三度口を開いて、日光を呑む。」



「蛇岩」は行基が奥山寺を開く前からあったとされますから、元々あった巨石への信仰が仏教伝来によって融合していった事も考えられます。
蛇あるいは龍は水の神とされることが多いのですが、この「蛇岩」が口を開けている方向は湖東平野の田園地帯が広がる方向になりますので農耕の神として祀られていたことも想定できそうです。



大蛇岩の前にある蛇岩は大きさは大蛇岩の1/3くらいとされてはいるものの、やはり大きく口を開けたような形になっています。
いずれの岩も信仰の対象として永く祀られてきており、古来より神の山として崇められてきた荒神山の磐座といってよいのではないでしょうか。



「蛇岩」の周辺を歩き周っている時に木段があるのを見つけました。
最初の小さな入口の右側からいけばたどり着いたと思いますが、そこには大きな倒木が横たわっていて進めなかった。
あおの倒木が無ければ、山の斜面を横断しながら苦しむ必要はなかったのかもしれませんね。

さて、荒神山の中腹には「稲村神社」があり、その神社にも磐座があるということですので稲村神社へと向かいます。
稲村神社へは東参道と西参道があるのですが、「蛇岩」で悪戦苦闘して疲れてしまいましたので林道を使って参拝しました。



「稲村神社」の御祭神は「豊宇気毘売神・伊弉冉尊・丹生大神」の3柱を祀り、創建は天智天皇の御宇六年、常陸国久慈郡稲村に鎮座の稲村神社の分霊を当稲里町小字塚の地に迎え、奉祀したのが始まりとされている。
境内の数カ所に磐座が祀られているが、大正時代や昭和の時代に奉納された磐座もあるようです。



もっとも大きな磐座は斜めに傾き天を指すような形の磐座です。
こ巨石も奉納されたものかもしれませんが、荒神山には4世紀末(中期古墳時代)の荒神山古墳群が十数基確認されているといい、巨岩とは古代より関わりがあったともいえます。



神社は天正年間の兵火にかかり、その後現在の大平山に遷座されたといいます。
彦根井伊藩は当社保護のため種々の制令を寄せたと伝えられており、本殿は寛政五年(1793年)の建造といいますから歴史ある建造物です。





荒神山は単立の山で大きくはない低山ですが、山にはこの稲村神社や荒神山神社・天満天神社・唐崎神社が祀られ、寺院も複数の寺院があることから、この地における重要な霊山だったことが伺い知れます。
現在は信仰の山であると共に、ハングライダーの離陸場や屋外スポーツ施設やキャンプ場のある荒神山公園、宿泊や体験活動のできる荒神山自然の家などがあり、林道にはウォーキングの方が実に多かった。

せっかくなので山頂近くの荒神山神社に参拝して、荒神山古墳・山頂三角点まで軽く歩いてみます。
尾根筋の山道ではジョギングで山を移動していく元気いっぱいの人や、麓からハイキングで登ってきた人などが多く、地元の人の憩いの場になっているんだろうと思います。



荒神山の山頂は荒神山神社のすぐ近くにある展望場になりますが、三角点は日夏山の頂上にあります。
ちなみに日夏山は標高261.5mで、荒神山は標高284m。この2つの山のピークはすぐ近くにあります。



三角点の横には東屋があり、東側には展望の広がる場所がある。
この位置から霊仙山と伊吹山が望め、それぞれ頂上付近には冠雪が見えます。



日夏山の三角点から荒神山へ戻ってくると、今度は琵琶湖が見える場所がある。
対岸の湖西の山も冠雪しており、滋賀県の雪の美しい景色が味わえる。



見る方向を変えると、手前に曽根沼、奥に琵琶湖が広がり、琵琶湖には多景島が見えます。
曽根沼は元は約96ヘクタールある内湖でしたが、昭和の干拓によって約20ヘクタールにまで減少したといいます。
直線の道路から左に広大な内湖があったことになりますが、残された曽根沼の湖面にはカモの姿が見受けられます。



せっかくなので多景島をズームで撮ってみます。
琵琶湖には竹生島・沖島・多景島の3つの島と、沖の白石という推進80mの湖底から突き出す4つの岩があるといいます。

竹生島以外の島には上陸したことはありませんが、多景島は彦根辺りからはよく見える島です。
もとは竹が植林されていたことから竹島だったようですが、角度によっていろいろな景色に見えることから「多景島」という字が当てられているという。




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「人間の才能 生みだすことと生きること」~滋賀県立美術館~

2022-03-17 17:39:39 | アート・ライブ・読書
 「滋賀県立美術館」は、2017年までは県立近代美術館として開館されていましたが、建物の老朽化により閉館され、2021年6月にリニュアルオープンしています。
当初は、近代美術館の「近・現代美術」、休館中の琵琶湖文化館の「神と仏の美」と「アールブリュット」の三本柱とした「新生美術館」計画があったのですが、計画は頓挫。

近代美術館から県立美術館へ名称を変更して再オープンした「滋賀県立美術館」では現在、「人間の才能 生みだすことと生きること」が開催されており、数年ぶりの来館となりました。
美術館は、図書館や埋蔵文化センターなどを含む文化ゾーンの広い敷地の中にあり、敷地の中にあるこども広場にはたくさんの子供や家族が訪れ、明るい日差しの下で春の休日を楽しまれていました。



「人間の才能 生みだすことと生きること」ではアールブリュット作家を中心とした17組の作家の作品が展示されており、来場者は多かったように思います。
多くの方が来館するということは、それだけアールブリュットがアートとして認知されてきていることを感じます。
入口付近に展示されている小久保憲満さんは、緻密な架空都市を描かれる作家で、横長くつなげられた紙に描かれた絵は存在はしない都市を空想の中で創造されています。


《3つのパノラマパーク 360度パノラマの世界「観覧車、リニアモーターカー、ビル群、昔現末、鉄道ブリッジ、郊外の街、先住民天然資源のある開発中の町」》

縦1.56m✖横10mの大きな絵の中には“どこにも存在しない架空の創造都市を思い描く願望”が目一杯込められているように感じます。
2008年頃に小久保さんの個展へ行った時は、会場に小久保さん本人がおられて、来場者に絵の話を聞かれると饒舌に話され、話が切れるとすぐに絵に没頭されていた記憶があります。


《オレゴン州の町》

それだけ絵を描きたい衝動が強い人なんだと感じつつも、架空の創造都市を作りたい衝動は誰にでもあるのではないかとも思います。
次のやまなみ工房の井村ももかさんは、他の美術展での出品やTVでも紹介されている作家さんで、歌うことの大好きな明るい方。


《ボタンの玉》

ももかさんは通所当初に参加していた作業の織物が好きになれずにいたそうですが、支援員から針と布を渡されると、縫い付けるという行為に没入されるようになったという。
好きな色の布を選んで、好きなサイズに裁断し、端からボタンを縫い付けて作品が出来ていくといい、色とりどりの作品を頭や手に乗せたり撫でたりして歌われるそう。
それは自分の好きなものを作って、作品と一緒に楽しむ至福の時間なのかもしれません。



動物や乗り物や建物を網目で描く冨山健二さんの絵は、複数の色を使って網目のように線を引いていった作品を作られています。
冨山さんの絵を描き出すと、スタッフが止めたりページをめくらないと同じ紙の上にどこまでも描く続けてしまうという。
「完成」という概念はなく、常に作品は「途中」であるというのも、ひとつの制作方法だといえます。


《無題》

喜舎場盛也さんはドットで描かれたデザイン画のような絵と漢字で埋め尽くされた作品を作られる作家で、ドットの絵には空白のある絵と密集したドットの絵があります。
紙を漢字で埋め尽くした作品は、最初に左下の「石」から制作が始まるとのことで、これは喜舎場さんの家の住所に「石」を含んでいることに由来するのだという。
尚、喜舎場さんの愛読書は漢和辞典だということです。


《無題(ドット)》


《無題(漢字)》

グラフィックデザインのようなセンスのいい作品は上土橋勇樹さんが作られています。
パソコンのフォントを使った言葉は彼以外の人には意味が分かりませんが、彼の想像の中では実在する固有名詞なのでしょう。
会場に流れていた映像ではパワーポイントを凄いスピードで駆使して架空の映画の架空のエンディングロールを制作されている姿を見ることが出来ました。


《タイトル不明》



強いインパクトを感じたのは、百鬼夜行のような絵を描かれる鵜飼結一郎さんの絵で、骸骨・恐竜・動物など古今東西のキャラクターが密集して登場する。
恐竜だけが登場するの絵もあって、絵を描き始めた初期に12色の色鉛筆を渡したところ色は塗らず空白が多かったそうですが、200色のセットを渡すとどんどん色を塗るようになったといいます。
それだけ色彩に関してこだわりがあったということになりますが、長大な絵巻物のような作品は日本的でありつつも国際色もある大迫力の作品です。


《妖怪》



会場の一角には今回出品されている作家の制作風景を撮った映像作品が流されていましたが、切り絵作家の藤岡祐機さんの作品制作風景の映像もありました。
切り絵とはいっても切り絵で何か実在するものや想像上のものを作って表現されるのではなく、ハサミで紙を1mmにも満たない細さで切って作られます。
作品はカールしたように曲線をえがくものや縮れたものなど様々ですが、おそらくは切る時の微妙なハサミ捌きを計算して楽しまれているのだろうと思います。


《無題》



「人間の才能 生みだすことと生きること」展は『日曜美術館』のアートシーンで紹介されており、キャスターの小野正嗣さんが今回もっとも心を捉えた作品と紹介されたのが岡崎莉望さんの作品でした。
線が描かれているだけにも関わらず、立体感すら感じさせる作品は現代アートの抽象画のようにも見えます。
1本1本の線をゆっくりとしたスピードでひかれて制作されるため、1枚の作品を完成させるのに要するのは平均して数カ月かかるという力作です。


《花火 Ehemeral Shimmer》

滋賀県を代表する作家という表現より、日本を代表するアールブリュット作家と呼んでも差し支えないのが澤田真一さん。
初めて澤田さんの作品を見た時の衝撃は今も憶えていますが、突起物に覆われたこの世に存在しないけどどこかに潜んでいそうな生き物の粘土作品です。



プリミティブな土偶のような作品は衝撃的でありつつも、どこかユーモラスな印象を受けるのが作品の魅力でしょう。
近年は同じ工房に加わった陶芸作家の作品に影響を受けながらも、独自の作品に昇華させ、作品はどんどん進化していっているそうです。





美術展の中間地点にある「ソファーのある部屋」には澤田真一さんの作品の3Dレプリカがあって、実際に手で触れることができます。
とても座り心地のいいソファーに座って庭園を眺めながら、こんな部屋が欲しいなぁと物思いにふける。



美術展は起承転結で構成されており、アールブリュットの定義を紹介する「起」で始まり、「承」は上記の作品を展示。
「転」では京都亀岡市の「みずのき絵画教室」の作品、小松和子さん、澤井玲衣子さん、中原浩大さん、アントゥル・ジミェフスキさんの短編映画などが展示されている。
「結」は来館者が自由に書き込める鏡のような壁が設置されていて、絵や言葉を書き込んむことでこの美術展に参加することが出来ます。


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「アール・ブリュット‐日本人と自然- BEYOND」 ②~まちや倶楽部・旧増田邸~

2022-03-14 17:03:33 | アート・ライブ・読書
 近江八幡市の町屋通りでは「アール・ブリュット -日本人と自然BEYOND」展が開催されており、NO-MA美術館・まちや倶楽部・旧増田邸の3会場で開催されています。
20組のアーティストによる150点の作品が展示されたこの美術展は、2020年2月の滋賀県での開催から始まって全国7地域を2年間巡回して再び滋賀県に帰ってきたといいます。

3会場のうち、まずはNO-MA美術館での展示を見て、次に第三会場である「まちや倶楽部」へとやってきました。
「まちや倶楽部」の会場は、江戸期創業の広大な酒蔵跡を改修した建物の中にあり、入口から鰻の寝床の続くスペースには服屋やアクセサリーやカフェ・小物店などお洒落なお店が集まっています。



お店が並ぶ通路を奥に進むと1万L以上ある巨大な2つのタンクが残っており、2008年頃まで酒造りをしていたという西勝酒造のかつての姿が垣間見える。
タンクを越えて更に進んで行くと、会場の受付があり、そこから先が展示会場になっています。

イヤフォンセットを渡されて会場に入ると思わず“おぉ~”と声を上げてしまうようなヨシに包まれた幻想的で且つ、西の湖の湖畔にいるような自然に包まれたような錯覚に陥る世界が広がる。
ヨシが織りなす空間の中には、「芝田貴子さん」の絵と芝田の絵に着想を得て作ったという《私の一日》というオーディオドラマがイヤフォンから流れてくる。



オーディオドラマは4カ所ある音符のマークに受信機を当てるとドラマが始まり、各4分のドラマを聞きながら計16分のドラマをヨシの上を歩きながら聞きます。
ドラマは芝田さんが「お母さん」と呼ぶ人物像を巡る不条理なドラマとなっており、4カ所目から始まるドラマの結末には思わず吹き出して笑ってしまいました。



天井からヨシが吊るされていて、ドラマといいこのヨシの穂といい、ここは逆しまの世界。
上に下にもヨシがありますから、青臭さが乾いたような懐かしい匂いがする。稲刈り後の田圃にも似た匂い。



ヨシの空間の中に芝田さんの「お母さん」の絵はあり、絵のお母さんと同じ形をした木の模型がある。
またドラマに関係するもの(クレヨンや電子レンジ)なども置かれていて、心地よいインスタレーションの空間にひたってしまいました。


《お母さん》 芝田貴子

オーディオドラマの結末で緩んだ顔のまま奥の展示会場に向かいながら振り返って作品を見直す。
昨年の11月に開催された『79億の他人――この星に住む、すべての「わたし」へ』展でもこの部屋での開催に驚きましたが、今回の展示にも圧倒されてしまった。



まちや倶楽部」の会場では展示のため間仕切りが設置されていて、内部が迷路のようになっていますが、面白いのは迷路状の通路に立てられた高速道路の看板を模した鈴村恵太さんの作品。
《迷甲乙の恋》と名付けられた作品は、暗幕に覆われた間仕切りの奥にあり、出口なしの行き止まりなのも気が利いています。


《迷甲乙の恋》2021年 鈴村恵太

今村花子さんは、夕食で配膳された食べ物やお菓子を畳やテーブルに配置する行為を約30 年にわたって続けていたという。
今村さんの母親はその配置行為を写真で毎日記録して関わり続けたという。
後方の絵は、地元の絵画教室で制作した絵だといい、見る者によって自由に高さを変えられる仕掛けのあるキャンパス台に置かれている。


《無題》 今村花子

西勝酒造跡の最後に紹介する作品は、杉浦篤さんの《Untitled》という杉浦さんが長い年月をかけて触ってきた写真。
写真はパーソナルなもので、触り続けてきたことで劣化しているが、お気に入りの写真を指で撫でることは習慣的な行為の一つだといいます。
最後の2人の作品は、記録と記憶を永遠のものとするような想いを感じます。


《Untitled》 杉浦篤

最後に訪れた「酒游舘」は西勝酒造の明治蔵を改造した多目的ホールとなっており、幾つかある和風の部屋屋に作品が展示されています。
享保二年(1717年)創業というこの蔵元には11棟もの広大な建物があったといいますから、大きな造り酒屋だったようです。



和室の壁に掛けられていたノナカミホさんの絵は、ボールペンの緻密な線で描かれたモノクロームの世界ですが、その絵の完成度には驚きます。
混沌の中にあるように感じる絵ですが、絵の中には開かれた目があり、こちらを見つめている。




《無題》 ノナカミホ

点描を用いて描かれている中山正仁さんは26歳の頃、入院していた病院で看護師さんに描き方を教えてもらい絵を描くようになったという。
絵は美人画や、かつて見た風景や花、動物など、様々なモチーフの絵を描かれているといい、ふと目にした一瞬の風景が記憶に残り、描かれているのだという。


《石》 中山 正仁

紙面いっぱいに文字が書かれて埋め尽くされているのが森川里緒奈さんの《日々の出来事》という作品。
森川はだれかと話しをすることが好きで、会話で交わされた言葉が文字になって現れてくるといいます。


《日々の出来事》 森川里緒奈

書かれた文字は意味がありそうでないような言葉になっていますが、森川さんにはしっかりした意味を持った言葉なのだと思います。
文字が青色なのについては、スタッフは「外出時に乗る電車の青いラインから来ているのではないか」と話しているという。



旧増田邸で展示されていた作品には、“記憶をたどること”、“記録すること”が作品を生み出すことの下地になっているような印象を受けました。
小林靖宏さんが1997年から2003年にかけて札幌の大通公園を描いた作品では、年々記憶が失われていくかのように建物が消えていきます。



左上の大通公園は全景が描かれていますが、年が進むに従ってどんどん建物が消えていき、街並みが消えていく。
下は1997年の大通公園と、2003年の大通公園ですが、7年ほどの間に街並みは消えていくのは、あたかも記憶が失われていくかの如く。


《1997》 小林靖宏


《2003》 小林靖宏

「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」には何度も足を運んでいますが、訪れる度に満足して帰ることが出来ます。
アールブリュット=障がい者アートではなく、ボーダレスにアーティストを紹介したり発掘したりして、見る方には刺戟になります。
もうすぐ次の展覧会のメールマガジンが届く頃かもしれません。楽しみです。


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「アール・ブリュット‐日本人と自然- BEYOND」 ①~ボーダレス・アートミュージアムNO-MA美術館~

2022-03-12 05:08:08 | アート・ライブ・読書
 ボーダレス・アートミュージアムNO-MA美術館で開催中の「アール・ブリュット -日本人と自然BEYOND」は、2020年2月に滋賀県での開催を皮切りに全国7地域を巡回。
2022年2月までの2年間、全国を巡回した後、滋賀県に戻ってきた美術展だといいます。

20組のアーティストによる150点もの作品が公開されるこの美術展は、近江八幡市のNO-MA美術館・まちや倶楽部・旧増田邸の3会場で開催される街ぐるみのイベントとなっています。
市街地では「左義長まつり」のダシの準備が進み、祭り直前のにぎやかな雰囲気に包まれている街並みを進み、3会場の一つであるNO-MA美術館へ訪れました。



NO-MA美術館の一階の前庭側に展示された藤田雄さんの作品は、数字や鬼をモチーフとされており、動物と数字を合わせた作品や《鬼の面》というお面の作品が展示。
《鬼の面》は細かく切った色紙を厚紙に貼り合わせて作るといい、以前は節分の時期に作られていたそうですが、今は材料が手に入ればいつでも制作されているという。


《鬼の面》2013年 藤田雄

抽象画のような絵は、繰り返し描き重ねて描かれていくことで、複雑な色合いの濃淡が印象的な作品でした。
絵の中をよく見ると無数の文字が書き込まれており、名字である“あ・な・せ”の文字が幾つか見られ、自己の存在を主張しています。


《パラシュート》2014年、《無題》2016年 穴瀬生司

フロアーの中央に積みあがっているのは廣川照章さんの段ボール箱。
スーパーで入手して組み立てられた段ボール箱は、廣川さんの自室の寝る場所やわずかなスペースを残して積み上げられているといい、おそらくそこが自分にとって一番居心地の良い場所なのでしょう。


《箱》2021~2022年 廣川照章

箱の中身は何が入っているかが気になる所ですが、1箱だけ開封されている箱が展示されています。
中には細かく切った紙類が入っているミクストメディアですが、中は通常は開封されることはなく、廣川さんいとっては隠された大事なものなんだと思います。



NO-MA美術館の展示場所は1階と2階と庭の奥にある蔵の中の3つがあり、1階からそのまま蔵の中へ向かいます。
薄暗い蔵に入ると、中央の丸テーブルの上に蝋燭か西洋の燭台のような印象を受けるオブジェが展示されていました。
このオブジェはペンにセロハンテープを巻き付けて立体作品としていて、薄暗い蔵の中をほのかに照らし出す光のように感じました。


《無題》2011~2017年 鶴川弘二

蔵の壁には大小の赤い丸が描かれたポップな作品群で、丸の数や大きさは絵によって全く違う。
鶴川さんは自宅でも作業所でも絵を描くことを他人に中断させられることが大嫌いだといい、絵を描く時間を大切にされているといいます。


《無題》2013~2017年 鶴川弘二

本館の2階へ行くと、粘土作品の《ガネーシャ》の大井康弘さんの展示コーナーがあり、ガネーシャと一緒に6枚の平面作品が展示。
平面作品はコラージュ作品となっており、《女の子とパンツ》という作品では滋賀県の高校野球のチーム紹介の新聞紙の上に身体の不思議なパーツな張り付けられています。


《女の子とパンツ》2015年 大井康弘

NO-MA美術館会場でもっともインパクトを感じた作品は、レースや毛糸で編んだものををキャンバスに貼り付けて、上から油絵具で彩色した曲梶智恵美の作品群です。
毛糸を編んだものが貼り付けられているために立体感やうねるような力強さが感じられ、原色の派手な熱帯感と暗いトーンの陰影の混在する世界に魅了される。


《誕生1》 曲梶智恵美

展示されている部屋は和室で座布団があったので、しばらく座って眺めていましたが、闇(土)の中から這い出して明(地上)へ芽吹く生命のような生き生きとした躍動感を感じました。
作家自身が興味を持って取り組んだ幾つかの趣味が作品として一体化したような表現の世界ですね。


《誕生2》 曲梶智恵美

同じ曲梶さんの作品でも全面が明るい色彩で描かれた《花》という作品では、一面に花が咲き誇る庭のような明るさを感じます。
ガーデニングで好きな花を咲かせ、花に包まれるようにして過ごす時間が絵になったような作品だと思います。


《花》 曲梶智恵美

中武卓さんは花瓶をモチーフにして描かれる作家さんで、力強く描かれた花瓶と画面からはみ出るように咲く花は躍動感に溢れています。
多彩な色を使っているが、原色に近い色は使われておらず華やかイメージでないのは、作家のモチーフの捉え方なのかと思います。


右から《クルンクルン》《庭の菜の花》《11月の庭の花》 中武卓

カードサイズの紙にモノトーンで星や月をファンタジーのように描く葛西孝之さんは、海釣りが好きながら車を運転しないため実際に海へいくことは容易ではないという。
海で釣りをしたいという欲望を絵の製作で満たしているというその絵は、月の上に腰かけて釣りをしていたりするキャラクターが登場するユーモラスな作品です。
葛西さんの作品は宇宙をファンタジックに、またユーモラスに描かれており、どの絵にも味わいがあります。


《無題》 葛西孝之

2階の窓側には浅野春香さんの《コオラル2》という大きな作品が展示されています。
解説によると、古生物学者である浅野さんの父親がサンゴの研究をしていたことが、着想源となっているといいます。
この絵は真ん中に満月が描かれ、満月に近い夜に一斉に産卵するサンゴの習性を表現しているといい、米袋に描かれた不思議な作品です。


《コオラル2》2021年 浅野春香

アール・ブリュットとは、美術の専門的な教育を受けていない人が、湧き上がる衝動に従って自分のために制作したアートと定義されていますが、作品にはそれぞれの作家の個性が際立っています。
NO-MA美術館だけでも12人の作家さんの作品を見ることができましたが、今回は3会場で開催されているため次の会場へと向かいます。...続く。


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鶴翼山(八幡山)ハイキング~「大日大聖不動明王」と「出世不動明王」~

2022-03-08 17:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八幡市街地や田園地帯の北方にある「鶴翼山」は、近江八幡市を訪れたら必ずと言っていいほど目に入ってくる山ですが、一般的には別称である「八幡山」と呼んだ方が馴染みやすいかと思います。
山麓には「日牟禮八幡宮」が祀られており、八幡宮の鳥居の近くには八幡堀・参道には洋菓子・和菓子の有名店舗が並ぶ近江八幡市の観光スポットになっています。

八幡山の名が定着しているのは、豊臣秀吉の甥にあたる関白・豊臣秀次が築いた「八幡山城」の影響が強いと思われ、秀頼誕生後に後継者を巡る争いによる自害という話は何度も歴史ドラマで取り上げられた話。
これまでも日牟禮八幡宮や山上にある「村雲御所瑞龍寺門跡」には何度か参拝していますが、山中に不動明王を祀る社があると知り、ハイキングを兼ねて八幡山へ登ってきました。



鶴翼山(八幡山)へのルートは山登り感覚が楽しめるという日牟禮八幡宮裏から登って、途中の分岐から不動明王を祀る社に向かい、頂上まで登り返して八幡公園へ下ってくるルートとしました。
水仙の咲く登山口から登って行くことになりますが、早朝の山はやはり気持ちがいいもので寒さを感じつつも足取りは軽い。



最初は石段のある道を登って行くことになりますが、道の脇には石仏が祀られています。
なぜか石仏にだけ陽の光が当たっているのが気になったが、嫌な感じはしなかったので無事を祈ってくれているのだろうと解釈して道を進む。



登山道は落ち葉で道が見えにく場所や岩の多い道もありましたが、途中まではさほど傾斜は急ではないので苦にはならない。
道中で一人下山されてきた方がおられましたが、もしかしたら夜明け頃から登っておられた方なのかと思います。



緩やかな登り道だったのもつかの間で段々と登山道らしくなってくる。
石段の組まれた場所がありましたが、一段の高さが高かったのでそこは結構しんどかったかな。



そこそこ登った所に分岐があり、村雲御所瑞龍寺門跡へ進む道と「大日大聖不動明王」へと進む道に分かれる。
目的であった不動明王への道を進みますが、道に敷かれた石が割れていたり、土が流れてしまって崖側に傾いていたりしたのでここは慎重に歩いて行く。



想像していたより距離があったように感じながらも、3つの祠がある地蔵堂へと到着する。
中央の祠には地蔵石仏が祀られ、左右の祠には奉納された地蔵石仏が祀られている。



新しい小さな祠があったので中を覗いてみると、弘法大師と書かれた提灯がありましたので、ここは弘法大師をお祀りしている祠のようです。
祠の対面の崖には崩れた祠の残骸がありましたので、もしかすると弘法大師をお祀りしていた祠が崩れ落ち、その後に現在の祠が新設されたと想像されます。





弘法大師を祀る祠を巻くように登って行くと、まず出会うのは「出世不動明王」の祠です。
石段が組まれていたのですが、かなり劣化しており、ブロックを積んで道としているので足元が悪く、手すりを持ちながらでないと登れない。





出世不動明王の祠から更に石段を登って行った先に「大日大聖不動明王」の懸造の御堂がありました。
観光の山のような印象の強い鶴翼山(八幡山)ですが、空海や修験道の山でもあったことがここまで来ると実感できます。
山麓の日牟禮八幡宮では毎年11月23日に修験者山伏が大護摩焚を奉修するそうですが、この大日大聖不動明王への奉修ということのようです。



御堂の中には大麻が吊るされ、注連縄が張られた本殿の中には不動明王の絵図と神鏡が祀られていました。
畳には塵ひとつなく、供えられた花も鮮度がありましたので、丁寧にお祀りされていることが伝わってきます。



参拝を終えてもと来た道を下って行って分岐点まで戻ると、今度は村雲御所瑞龍寺門跡への登り返しが待っている。
どの程度距離があるのか分からないまま登って行ったが、しばらく歩くと八幡山ロープウェイの山上駅の横に出る。



ロープウェイ山上駅の先には村雲御所瑞龍寺参道と山頂まで行ける遊歩道の分岐があったので、まずは「西の丸跡」を目指して琵琶湖の景色を楽しむ。
西方向には水茎岡山城のあったという頭山と大山が見え、琵琶湖の向こうには雪を被った比良山系が望める。
比叡山は目視ではかろうじて確認できたものの、澄んだ空ではなかったので写真では分からない。



北西に見えるのは長命寺港と西国三十三所札所の長命寺のある長命寺山。
琵琶湖の向こうにはこの方向にも比良山系が見える。
鶴翼山(八幡山)は、標高271.8mの低山とはいえ景色は抜群です。



「西の丸跡」では風が強く寒くて長居が出来なかったため、そのまま「龍神堂」を経て、頂上のある「北の丸跡」へ向かいます。
数分で「北の丸跡」へ着き三角点を探すが、分かりやすい場所にあったのですぐに見つけることができた。



山頂に山頂標識はなかったものの「八幡山」の木碑があったので、ここが頂上だと思います。
山頂まで来たので後は下山するだけですが、一瞬ロープウェイでの下山が頭を過ぎります。



ただ運行表を見ると運転開始は1時間以上も先でしたので待つつもりもなく、帰り道は気分を変えて八幡公園方面に下山することにします。
八幡公園ルートは歩きやすい遊歩道のようになっていましたので、登りはやはり登山気分の味わえる神社裏からのルートで正解でした。
八幡公園まで降りてきた後は、山へ入る前に楼門(随神門)の前で手を合わせただけだった日牟禮八幡宮へ。本日の無事のお礼を伝えにへ参拝する。



参拝を終えると絵馬堂へ立ち寄り、令和3年の「左義長」と「ひきずり松明」「振り松明」を見る。
「左義長」には去年の干支の丑とアマビエが付けられていますが、まさか令和4年になってもコロナが終息していないと思っていた方は少数派ではないでしょうか。
この週末は「左義長まつり」が開催されますが、左義長の火祭りでコロナや社会不安を燃やし尽くして欲しいと誰もが願っています。




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猪子山ハイキング~磐座と古墳の山と養命の滝~

2022-03-04 07:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖北地方は年末の大雪以降、何度も積雪に見舞われて、湖北は1年に11カ月しかない!とうんざりされている方も多いかもしれません。
雪が少なく積雪のない他府県へ遊びに行きたいものの、オミクロンの蔓延もあって遠出するのも躊躇してしまっているいちに、すっかり運動不足になってしまいました。

久しぶりに晴天の休日となりましたので雪の積もってなさそうな猪子山を訪れましたが、地元の方の朝のウォーキングコースにも関わらず、運動不足がたたって息を切らしながら登ることになってしまいました。
自分よりも年上と見受けられる人に追い抜かれ、トレイルランニングの人は一瞬で後ろ姿が見えなくなりと情けない状態でしたが、人生と同じで自分のペースで登るしかないですね。



猪子山は、繖山山系に連なる山の一つで、頂上近くに巨岩信仰のある磐座と北向岩屋十一面観音、林道に沿って約40基といわれる古墳群、山麓には巨大な岩船(舟形の巨岩)を祀る岩船神社があります。
頂上近くの展望の良い場所はタカの渡りの観測地になっており、季節によっては山麓に桜、林道にショウジョウバカマが楽しめますし、縦走路を行けばイワカガミまで見られるらしいとあって、いろいろな面で楽しめそうな山です。



林道に入ってすぐに出会うのは「岩船神社」の鳥居で、岩船神社は猪子山の中腹にある「上山天満天神社」の境内社とされ、祀られる磐座は728年に比良大神(白髭明神)が乗船した岩船といわれます。
琵琶湖の反対側の比良の大神が比良山から琵琶湖を船で渡り、降り立つ時に使われた船ということになりますが、白鬚明神・比良明神を御祭神として祀る高島市の白髭神社との関連が興味深い。



岩船社の御祭神は、比良大神(白髭明神)の渡湖の際に岩船を先導した津速霊大神を祀るといいます。
一足先に参拝されていた方は社にお参りした後、岩船に両手をつけて岩船の気の力を受け取るような仕草をされておられましたが、確かに強い気を発するような巨石だと思います。
岩船の後方から見るとまさしく船の形をしていて、古代の巨石信仰と共に琵琶湖を行き来してこの地を治めていた権力者の力を感じます。そこには渡来系民族の強い力も影響したのかもしれません。



猪子山には40基とも100基以上ともいわれる古墳があり、「山面古墳群」の一つの「猪子山23号墳は、岩船神社と林道を隔てた場所にあります。
古墳時代後期(6世紀後半)に造られた円墳とされ、この地域を治めていた豪族などが葬られていると考えられているといいます。



林道の横には湧き水があり数本の柄杓が置かれていたが、飲料水というよりも手水のように思える。
登ってこられる方には、ここで手を清めていかれる方の姿がありました。



少し上方には猪子山古墳群の一つとされる「猪子山14号墳」。
全体で15基確認されている猪子山古墳群の中で良好な状態で残っている古墳の一つだといい、こちらも古墳時代後期(6世紀後半)に造られた円墳なのだといいます。
猪子山の14号墳と23号墳はほぼ林道沿いにあるので見やすく、今回は入りませんでしたが玄室の中に入ることも可能です。



更に登ると分岐があり、「北向岩屋十一面観音」に通じる長い石段の道と、「巨石の神々を訪ねる道」の案内板のある道がありました。
「巨石の神々を訪ねる道」は歩いたことがなかったので、行ってみようと思ったものの、道路上にかなり雪が残っており断念して石段を登ることにします。



頂上近くの「北向岩屋十一面観音」に到着すると、目の前には「玉祖神命」の巨大な岩神群があります。
眼下には能登川の田園地帯が広がり、西の湖や琵琶湖と遠くに雪に覆われた比良山系が広がる。
滋賀県の湖東・湖南地方には古代よりの巨石信仰の山が多く、今も信仰を集めているのは古代からの原初的な思考が現代まで人間に組み込まれているのでしょうか。



巨石群の名となっている「玉祖神命」は、天照大御神の岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を造った神とされ、玉造部の祖先とされる神とされます。
岩屋十一面観音は烏帽子岩の岩窟の中に祀られていますから、神話の世界と観音信仰が微妙に入り混じって語られてきた話のようにも思えます。



巨石群の横には観音堂が建ち、堂内へ入ると線香の香りが立ち込めている。
御堂の屋根の後方に巨石が頭を出していますが、この巨石の窟に岩屋十一面観音は祀られています。



案内板によると桓武天皇の時代の延暦10年(西暦791年)、鈴鹿の鬼賊討伐に向かう坂上田村麻呂が岩窟内に十一面観音を安置して祈願されたと伝わるという。
また、北向岩屋十一面観音は山麓にある「繖山 善勝寺」の奥之院とされており、善勝寺は聖徳太子創建の霊場に太子の叔父の良正が創建したのが始まりだという。

良正上人は、石窟の中に弥勒の霊像を得て、太子彫刻の観音とともに両本尊を祀ったといいます。
創建当初は釈善寺と号した善勝寺は、坂上田村麻呂の東夷征伐の後に寺を再興したと伝わり、湖東地方の聖徳太子伝説と坂上田村麻呂の伝承が色濃く残る。





北向岩屋十一面観音に参拝した後は、すぐ上にある猪子山の頂上を目指します。
頂上は岩窟のある烏帽子岩の上にあり、この道の先は雨宮龍神社や繖山頂上、観音正寺まで続いているが、ここで折り返す。



頂上付近は展望はありませんが、看板の近くには三角点がありました。
猪子山の標高は267.5m。低山ではありますが、見所の多い山です。



猪子山を含む繖山山系は信仰の霊山ですので、帰り道に山の反対側にある正瑞寺の「養命の滝」へと足を運びます。
正瑞寺瀧道の石標から林道に入っていくのですが、道は細いこともあって不安を感じる道です。



正瑞寺は猪子山の中腹の奥まった場所にあり、人の気配が感じられず少し怖い感じがするような黄檗宗の寺院です。
正瑞寺の「養命の滝」は初めて来たと思っていましたが、寺院に着くと以前に参拝した記憶が蘇る。随分と忘れやすくなっていますね。



石組の上には先端を前に突き出すような形の石があり、水は石の先端から落ちている。
残念ながら水量は少なく、滝行の場というよりも滴る水を手の平で受ける程度の滝でした。





本殿へ参拝しようとまた長い石段を登る。
石段の途中ではジョウビタキの♀が可愛らしい姿を見せてくれましたので、辛い石段登りの気休めになりました。





下界へ戻って猪子山を振り返る。
繖山山系は低山ながら猪子山・伊庭山・瓜生山・繖山・観音寺山の峰が連なり、山中や山麓には多くの神社仏閣が祀られています。
巨石や古墳も多く見られる霊山で、何度も訪れたくなる山です。


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