僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

『クリムト展-ウィーンと日本1900-』~豊田市美術館~

2019-09-27 19:00:00 | アート・ライブ・読書
 グスタフ・クリムトは19世紀末のウィーンで活躍し、20世紀の始めに生涯を閉じた画家で、「ウィーン分離派」とする新進芸術家のグループを率いた人とされます。
クリムトは博物館付属工芸学校時代から弟のエルンストや友人のフランツ・マッチュと美術やデザインの仕事を請け負っていたといい、卒業後は劇場装飾などの仕事で名声を得ていたといいます。
多くの画家の中にはパン代にも窮した極貧時代が語られることがありますが、孤高の画家とは違い若くして仲間と共に職業としての絵やデザインを成立させていた画家なのかと思われます。

クリムトが多くの人に関心を抱かせるのは、古典的な絵画の高い技術を持ちながらも、時には古典の概念を破壊し、新しい芸術を模索して創造していったことがあるのでしょう。
従来の価値観を崩して新しいモラルを生み出していく行為の中で、クリムトの絵に登場する女性には艶めかしさと怖さが同居し、見る人に驚きを与え虜にしてしまったといえます。



では、“いま、なぜクリムトなのか?”というと、昨年がクリムトの没後100年にあたることからウィーンで回顧展が開催され、2019年になってそれが日本に上陸してきたということのようです。
2019年はクリムトを取り上げた3つの美術展が開催され、年明けの「世紀末ウィーンのグラフィック デザインそして生活の刷新にむけて」を京都近代美術館で開催。
愛知・豊田市美術館では『クリムト展-ウィーンと日本1900-』、大阪・国立国際美術館『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』とクリムト作品が関西・中部にも大挙上陸。



『クリムト展』が開催された「豊田市美術館」に到着した時には「愛知トリエンナーレ2019情の時代」が同時開催だったこともあって駐車場までの道が既に大渋滞。
会場内も人は多かったものの、幸いにして身動きもままならずといった状態ほどではなく、音声ガイドを借りて会場内へと入る。



構成は最初の3つが「クリムトとその家族」に始まり「修行時代と劇場装飾」「私生活」と幼年期から早々に成功した青年期までを展示するいわばプロローグともいえる構成となっている。
若い頃の絵画は古典的な油彩が並び、当方のような素人が見てもとてもよく出来たうまい画家の描いた洋画といった印象。

クリムトは1897年にウィーン分離派を結成して展覧会や出版活動を行っていく訳ですが、1900年にはウィーン分離派会館で「ジャポニズム展」を開催するなど、作品には日本趣味の影響があるといいます。
4の「ウィーンと日本1900」の「女ともだちⅠ(姉妹たち)」では、ムンムンとした色気と芳香が漂ってきそうな女性が描かれ、黒く塗り込められた背景の間には「市松模様」が見られます。
顔を描く精度とそれ以外の部分の曖昧さのギャップが面白く、デザイン的な魅力を感じます。



古典的な絵にジャポニズムの影響を受けた作品「17歳のエミ-リエ・フレーゲの肖像」は、まだ若いエミーリエは古典的な肖像画として描かれていますが、額縁に描かれた絵柄はまさしく日本的なもの。
モードサロンを経営していたエミ-リエには自立した最先端の女性とのイメージがあり、クリムトには十数名の愛人がいたなかで、エミ-リエとは特別な関係(精神的?)だったようです。



構成5は「ウィーン分離派」を特集したもので、黄金様式の時代に突入したクリムトの全盛期になります。
「ユディトⅠ」は約聖書外伝のエピソードが主題となっているといいますが、この恍惚の表情と上半身の裸体はなんと官能的なのでしょう。
金箔に包まれまがらも手に持つのは殺した敵の将軍ホロフェルネスの首。



複製でありながらも圧倒的な迫力があったのは「ベートーヴェン・フリーズ」でしょう。
巨大な壁画を同じ材料を使って復元したという作品で、「交響曲第9番」を絵として表現したものだという。

黄金の騎士が裸の男女に背中を押されてテューポーン(ギリシア神話に登場する最大最強の怪物)に戦いを挑む。
テューポーンの周りにはファムファタール・死・誘惑・怠惰をイメージさせる女たちの姿。
3面の壁画の最後の壁には第4楽章の歓喜の歌。接吻する男女の足が縛り付けられているのはなぜなのでしょう?



意外に感じたのはクリムトの風景画の多さでした。
クリムトの作品の1/4は風景画だといわれており、6の「風景画」では8点の風景が展示されていました。

クリムトはエミーリエとアッター湖畔という場所に訪れていたようで「丘の見える庭の風景」はそこでの穏やかな時間の中で描かれたものかもしれません。
奥行き感がなく平面的に描かれた絵には花が咲き誇り、黄金様式とは全く別の世界観が拡がります。



クリムトは晩年に近づくに従って黄金様式から脱していき、その作品群は7の「肖像画」にまとめられています。
「オイゲニア・プリマフェージの肖像」は裕福な銀行家オットー・プリマフェージの妻に依頼された作品だといい、右上に描かれているのは陶磁器の鳳凰ともいわれている。



最後の8の「生命の円環」には死と誕生を表現した作品が特集されている。
親しき近親者の死を経験したクリムトは死を意識するようになり、「女の三世代」に描いたのかもしれません。



ところで、豊田市美術館では「常設展」「高橋節郎館」も観覧出来ますので、まずは常設展へ入ります。
展示室内に入った瞬間声が出たのは“あっシーレ!”。エゴン・シーレの「カール・グリューンヴァルトの肖像」が目に入ってきます。

シーレは自画像が多いといわれ、描かれる姿からはトンガった性質ながらも繊細な人物との印象を受けます。
シーレって当方の勝手なイメージでは自虐とナルシシズムの世界観を感じていますが、絵の右下に落款がありジャポニズムの影響を受けているようにも思われます。



シーレの作品は他にクレヨン画・リトグラフ・ドライポイントなど計5点の展示があり、オスカー・ココシュカ、ダリや岸田劉生・下村観山など展示作品は多岐に渡る。
想定外なまでの常設展の充実ぶりに驚きながら、人工池や鏡を使ったオブジェのある館内を歩いて次の「高橋節郎館」へと向かう。



高橋節郎という方は漆芸家だといい、展示作品は金箔や金粉を使った美しい作品が多く、特に古墳や埴輪をテーマにした作品には想像力を膨らませる独特の世界観があります。
漆装飾されたピアノ、ハープ、フルート、クラリネットも展示されており、実際のコンサートでも使用されることがあるといいます。



最後に、豊田市美術館への道の角には「拳母城(七州城)址 隅櫓跡」があり、隅櫓だけが復元されています。
拳母城(七州城)が存在した時には本丸から三河国・尾張国・美濃国・信濃国・伊賀国・伊勢国・近江国の7つの州が眺望出来たといいます。



京都近代美術館でのクリムト作品は1918年発行の「グスタフ・クリムト作品集」からの展示のみでしたが、今回の豊田市美術館の「クリムト展」で初めて実物を見ることが出来ました。
大阪・国立国際美術館での「 ウィーン・モダン展」ではクリムト作品は16点、シーレの作品も11点展示されているといいます。
「ウィーン・モダン展」では絵画・工芸・建築・デザイン・インテリア・ファッション・グラフィックデザインなど「ウィーン・ミュージアム」の至宝が公開されており、是非訪れたい美術展です。


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『京博寄託の名宝 ─美を守り、美を伝える─』~京都国立博物館~

2019-09-22 17:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都国立博物館には6200余件もの寄託品が収蔵されているといい、この度「ICOM京都大会開催記念 特別企画」として寄託品の中から選りすぐりの名品の展覧会が開催されました。
展覧会は『京博寄託の名宝 ─美を守り、美を伝える─』と題して“陶磁・考古・肖像画・仏画・中世絵画・近世絵画・彫刻・中国絵画・書跡・染織・金工・漆工”の名品が惜しげもなく展示。

タイトル冒頭の「ICOM(国際博物館会議)」とはミュージアムの進歩発展を目的とした世界で唯一かつ最大の国際的非政府組織とされており、1951年に設立されて3年に一度、大会を開催しているようです。
今年2019年は京都での開催であり、京博ではそれを記念して寄託品の展示会を開催したといいます。



国宝・重文・重美に指定された名品がそれぞれのカテゴリーに分けられた展示品の中でも、個人的に最も関心が高かったのが【彫刻:京都の仏像・神像】の展示室となります。
19仏24躰の仏像はほぼ国宝か重要文化財で、彫刻の展示室へ入ってすぐの場所には京都・浄瑠璃寺の「多聞天立像(平安期・国宝)と京都・光明寺の「千手観音立像(奈良~平安期・重文)」が安置。

浄瑠璃寺の多聞天は、京博に寄託されているため浄瑠璃寺へ行っても見ることの出来ない仏像ですので、ここで出会えたのは嬉しい。
また、光明寺の千手観音立像のお顔のふっくらとした穏やかな表情は平安初期の仏像らしい雰囲気が漂い、2躰とも実に秀逸な仏像です。

展示室の中央に並んでいるのは安祥寺の「五智如来坐像(平安期・国宝)」。
智拳印を組んだ金剛界大日如来像を中心とする5躰の仏像はライティングの良さもあって、その姿を間近に拝観するのは怖れ多いとさえ感じてしまう。



京都・妙博寺の「十一面観音立像(平安期・重文)は三井寺スタイルともいえるずんぐりむっくりした幼児体型の観音さまで愛着が持てます。
その隣に並んでいるのは念願の西往寺「宝誌和尚立像(平安期・重文)」。やっと拝観できた嬉しさと共に、その特異な姿に驚きを隠せませんでした。
京博での宝誌和尚立像は壺はお持ちではなく、胸の内側に寄せた手の位置が特徴的で、しばし佇んでその姿に見とれてしまいました。



その想定外なお姿から最も印象に残ったのは京都・盧山寺の「如意輪観音半跏像(鎌倉期・重文)」になります。
一般的には“繊細で思索に耽っているかのような顔にほのかな微笑みを浮かべた如意輪観音”とは全く違い、力強い姿をされ着衣のヒダは深く折り込まれたように彫られた、まさに強調とリアリズムの世界の仏。
さすが京博といった仏像が並ぶ中、清涼寺式の「釈迦如来立像(文化庁・重文)」や、爪楊枝より細そうな千体仏に囲まれた報恩寺の厨子入千体地蔵菩薩像(鎌倉期・重文)」など素晴らしい仏像が次々と登場する。

ところで「肖像画:京の古寺と大画面の肖像画」のコーナーに神護寺の「伝源頼朝像」と「伝平重盛像」がありましたが、最近になって小学校の頃から親しんできたこの頼朝は別人物だったといわれていますね。
聖徳太子も同様ですが、源頼朝の姿は子供の頃から頭の中に刷り込まれているので今さら変えることは困難です。



「染織:神・人・仏を彩る染織」では友禅染の「束熨斗文様振袖(江戸期・重文)」の金糸の刺繍で縁取りされた艶やかな振袖の美しさに思わずため息。
桃山時代のペルシャ生地の「鳥獣紋様陣羽織(豊臣秀吉所用)」も我々が抱いている秀吉の豪奢なイメージを増幅させるものでした。



会場の廊下では体験コーナーがあり、大垣市で大量に出土された銅鏡「三角縁神獣鏡」に触ってみようの企画があり、手袋をはめて触らせて頂きました。
この神獣鏡は出土品を3Dプリンターによって模型を作り、それを元に銅鏡として再現したもので凸状の鏡と美しい装飾から古代へと思いは飛びます。(実物の展示もあり)
企画があるとすぐに参加してしまうのですが、神獣鏡は1㌔ほどあってずっしりと重く、紋様の美しさもあって実にいい体験をさせて頂きました。


(参考)

「考古:寄託の国宝─出土遺物から」では、今宮神社の「千彫四面仏石(平安期・重文)」も展示されており、四面に線彫りされた珍しい仏石に魅力を感じます。
仏石には1125年の銘があるといい、疫病から忌避するために神を祀り、それでも救われない者は仏に祈るといった神仏習合の想いも込められて彫られたのでしょう。

「中世絵画:初期狩野派の名作」では狩野正信の「竹石白鶴図屏風」などの花鳥図・山水画・八景図が展示。
中世・近世の日本の絵画には鳥を描かれることが多く、絵の鳥をいちいち識別してみるのも一つの楽しみです。



「近世絵画:京都の寺院障壁画」では大迫力の海北友松の建仁寺「雲龍図」がやはり素晴らしい。
寺院用の御朱印を頂き始めた最初の御朱印帳は、建仁寺の雲龍図の御朱印帳が始まりだったので思い入れもある。



京博では膨大な数の国宝・重文の展示品を見ることができて堪能出来て名宝が頭の中を渦巻いていましたが、さらに京博から横断歩道を挟んで向こう側にある国宝の宝庫「三十三間堂」へも参拝致しました。
三十三間堂は仏像の配置変えがされてから初めての参拝となり、中尊の千手観音坐像の横に並ぶ婆藪仙人の姿が特に記憶に焼き付きます。



国宝・重文揃いの京博の収蔵品にはさすが古都の歴史ある博物館と感心しましたが、すぐお隣の滋賀県大津市の「琵琶湖文化館」は今後どうなるのでしょう。
国宝17点、重文89点、県指定文化財3475点を含めて総数約1万1千点の文化財を有するといいますが、既に休館されて11年になる。

本来は仏教美術・近現代美術・アールブリュットを中心とする「新生美術館(近代美術館)」へ移設予定だったのが整備計画は頓挫してしまいました。
このまま保管庫に眠らせてしまうのはもったいない仏像群を是非ともあるべき姿で公開していって欲しいと思います。


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湖南市の磨崖仏を巡る 3~不動寺「岩根山不動明王磨崖石仏」

2019-09-18 06:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖南三山の一つである「善水寺」の参道には巨石に彫られた「不動明王磨崖仏」があり、周辺にも磨崖仏が多い一帯となっている。
善水寺境内にある磨崖仏は過去に拝見しているため、善水寺へ続く林道にある「不動寺の磨崖不動明王尊」へと向かった。

「不動寺」は現在、舞台造りの御堂が残されているのみで磨崖不動明王尊を御本尊として祀る無住の寺院となっています。
不動寺は延暦年間(782~805年)に弘法大師が創立したとの伝説が残り、その後「清涼山」と号した天台宗寺院であったのが1734年に火災で焼失。
1749年の再興後は山号が「岩根山」へと変わり、黄檗宗の寺院となったという経緯があるようです。



善水寺へと続く対向車を避けるのもままならないような狭い林道を走行していると、突如として寺院(御堂)が現れる。
まさに人里離れた山の中にある御堂、聖域の山の結界を示す場所といった印象を受けます。



舞台造りの御堂までの石段を登っていくと、手水の前で道は2ヶ所に分かれる。
右の石段へ先に進んでみると斜面にひっそりと建てられた御堂と磨崖仏を見渡せる場所に着き、見下ろすと周辺を取り囲む緑の木々の豊かさと美しさに和まされる。



御堂の裏(須弥壇側)には何百㌧もありそうな巨石が微妙なバランスで置かれており、巨石に寄りかかるような形で御堂が建てられている。
順番的には巨石があり、磨崖仏が彫られ、御堂が建てられたと考えられ、遥か千年以上も前にはこの位置に巨石があったということになる。



御堂と巨石の隙間から確認すると、不動明王の磨崖仏は御堂の須弥壇の本尊の位置にあることが分かる。
不動寺はこの不動明王磨崖仏を御本尊、あるいは御神体としてお祀りされている寺院ということになります。



御堂の中に入れるかどうかこの時は分かりませんでしたので、二股の石段の所まで戻り、御堂の入口に通じる石段を登ります。
御堂の入口には“火の始末と戸締りをするように”との注意書きがあったのみで、掛け金には鍵がかかっていなかったため、中へと入らせてもらう。



堂内は狭いながらも、外陣と内陣に相当する場所があり、線香も準備はされていたが、火の用心のため手を合わせるだけとする。
内陣の障子にも施錠はされていないため内陣まで入って拝観させていただくと、須弥壇の正面になる所に設けられた花頭窓から不動明王の上半身が拝めるようになっている。



御堂からでは磨崖仏がよく見えないため、一旦外に出て舞台造りの下へ入って不動明王を拝観する。
おそらく磨崖仏が彫られた当初は山の斜面で道行く人からよく見えたと思われ、聖域の山へ入山する人を出迎えたのでしょう。



「不動明王磨崖仏」は鎌倉期の作とされており、尊像には1334年の銘があるといいます。
また銘には「ト部左衛門入道充乗造え」とあるそうで、ト部氏とは代々受けつがれている当寺の住職の姓であるともいわれます。



不動明王は像高が150cm・最大幅(肘の部分)が77cmあり、顔の長さは28cm・顔の幅は30cmの大きさだという。
岩全体を御神体と考えれば巨大な磨崖仏ということになり、彫られてから700年近くの年月を経ているものの姿ははっきりと確認出来る。



巨石の下の場所にはたくさんの石仏や石塔があり、世話をされている方がおられるようです。
おそらくは山中に点在していたものや埋もれていたものが集められてお守りされているのかと思います。



湖南市の磨崖仏を3躰巡ってみましたが、それぞれの磨崖仏には歴史的な背景もあり、興味深い結果となりました。
湖南市に隣接する栗東市の金勝山には幾つかの磨崖仏があるといい、この地域に独特の宗教文化が繁栄したことが伺われますが、まだほんの一部しか見ていない。


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湖南市の磨崖仏を巡る 2~妙感寺「山の地蔵尊磨崖仏」と「十一面千手観音」~

2019-09-14 05:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖南市にある「妙感寺」は臨済宗妙心寺派の寺院として、南北朝期の1336年頃に創建されたといいます。
創建は大本山妙心寺の第二世微妙大師によるものとされ、その微妙大師は南北朝時代の後醍醐天皇の側近だった藤原藤房とされています。

妙感寺には南北朝期の「木造十一面千手観音坐像」が安置されており、奥の院に当たる裏山には鎌倉後期の「磨崖地蔵菩薩像」があると聞きます。
仏像と磨崖仏の両方に拝観出来るとあれば行かない訳にはいきませんが、両仏とも想像以上の見事な姿を拝ませていただくことが出来ました。



藤房卿は三十九歳で出家し、四十二歳の時に公卿時代の知行地であった当地に草庵を結ばれたといい、微妙大師の諡号は昭和天皇によって1927年に送られたものだそうです。
妙感寺は1570年に織田信長の焼き討ちに遭ったといい、寺院には微妙大師の墓所となる南北朝期の五輪塔が残されています。



境内の建造物としては「東福門院御殿」と十一面千手観音を安置する「観音堂」があるのみで、さほど広くはないものの整備された池と緑豊かな境内は清々しい雰囲気があります。
「東福門院御殿」は「後水尾天皇」の中宮であり、徳川秀忠と正室・江夫妻の7番目の子(5女)の徳川和子が上洛・入内する時に築かれた水口御殿の一部を移転した物とされます。



「東福門院御殿」へは入ることは出来ませんが、「十一面千手観音坐像」は開扉された「観音堂」に安置されており拝観可能。
観音堂は昭和12年に建築されたもので、十一面千手観音の他にも閻魔大王などの仏像が安置されています。



「十一面千手観音坐像」は南北朝期の仏像と推定されている像高164cmの大きな坐像です。
何度か修復されているのでしょう、欠損部は見当たらず千手の拡がりも見事なものです。





間近に拝観出来ることがありがたく詳細に渡って観ることが出来ますが、町指定文化財にとどまっているのは室町前後の仏像であることや、修復の度合いによるのかもしれません。
とはいえ、観た瞬間に息を呑むような仏像であることには違いはないと思います。





では磨崖仏を求めて山道を登ります。
登り道の左側のシダの奥には「不老の滝」があり、暗くて裸眼では見えるが写真で撮るのは明暗が強すぎて全体は撮れない。





しばらく山の登り段を登って行くことになりますが、いつもこんな道ばかり歩いていますね。
途中に獣避けと思われるネットが張ってあり、“獣のいる森に入るのか?”と不安を感じながらネットをくぐって山道を進む。





山道を歩いて道が開けている所まで行くと、簡易的な建物があり、その中に通称「山の地蔵尊磨崖佛」と呼ばれる三尊形式の磨崖仏の姿がある。
像の高さは173cmとされ、滋賀県下でも最大クラスに属するといいます。



地蔵尊の両脇に2躰の脇侍が彫られていますが、説明板によると“地蔵経にいう掌善、掌悪の二童子であろうか”とあり、“この形式を「近江形式」という”とあります。
また、この磨崖仏は鎌倉後期の作ともされています。



 

山を降りる帰り道は距離や道筋が分かっているため余裕を持って周囲を見渡すことが出来ましたが、山のあちこちに巨石があるのは湖南地方独特の光景ということになるのでしょう。
巨石に石仏が彫られているように見えるものがあったが、これは見誤りか?磨崖仏や石仏巡りでは見誤りもまた楽しということになります。





「妙感寺」は仏像あり、磨崖仏あり、小滝あり、山道ありと実に魅力的な寺院でした。
当初予定していたのは「車谷不動磨崖仏」と「山の地蔵尊磨崖佛」でしたが、帰り道にもう一ヶ所、湖南の磨崖仏を拝観して帰ることにします。


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湖南市の磨崖仏を巡る 1~車谷不動磨崖仏~

2019-09-10 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀の湖南地方は天台宗の信仰と山岳信仰の影響を受けた地と一般的にされています。
湖南市の「湖南三山」と呼ばれる「常楽寺」「長寿寺」「善水寺」は全て天台宗寺院であり、南には「金勝寺」。北上すれば湖東三山の「百済寺」「金剛輪寺」「西明寺」と天台宗の大寺院が点在します。

湖南市の辺りは良質の巨石が出る土地なのでしょう、磨崖仏や石仏の多い地域と言えます。
これには“山岳信仰・密教文化・修験道・渡来人”などのキーワードが関わりそうで、数ヶ所に現存する磨崖仏を観てみたいと湖南市を訪れました。



磨崖不動明王のある「岩根山(405m)」は別名「十二坊」と呼ばれ、かつては「甲賀山」とも呼ばれていたといいます。
岩根山には湖南三山「善水寺」があり、最盛期には山中に26もの坊舎があったといい、十二坊はそのうちの12の坊舎を指すそうです。

最澄は比叡山を開創する際の用材を甲賀の地に求めたとされますが、町村合併までのこの地が“岩根村”と呼ばれていた事から甲賀五十三家の岩根氏との関係もありそうな地域となっています。
集落に車を停めて、川に沿った道を歩きだすと、要所に道案内の看板があり分かりやすい道となっている。



野鳥の囀りが聞こえてきましたが、どうやら近くでオオルリが囀っているようです。
しばらく見ていると高い木の上に留まって囀りだして視界には入ってはくるものの、デジカメのズームでは撮れない距離で証拠写真のみ。



道は雨上がりでジトジトとしてはいますが、山歩きというほどの距離ではなく、さほど辛いものではない。
磨崖仏がある場所は岩根山の入口に過ぎないと思いますが、修験者は更に山中の奥深くを巡って修行に明け暮れたのでしょう。



足元に蛇でも居たら怖いので足元を見て下向きに歩き、ふと顔を上げるとそこに「不動磨崖仏」がありました。
高さ約6m・幅2mの巨岩に刻まれた磨崖仏は像高約4m・幅2mを越える大きさで、緑の中に忽然と現れて佇む姿には圧倒される迫力があります。



顔幅だけでも幅80cmあるといい、宝剣に至っては230cmのロングサイズです。
江戸時代の作と推定されていますが、なぜここに?誰がいったい?何のために?と興味は尽きません。



いずれにしても、旅行く人や村人を見守るような道祖神のようなものではなく、修験者にとっては霊山の入り口にある結界といったものではないでしょうか。
風雪にさらされながらも風化が少ないのは、江戸期に彫られたとされていることが影響しているのか、石質によるものか。



不動磨崖仏へは段を登ってすぐ手前まで行くことが出来ますが、渓谷を挟んだ位置からも観ることができます。
不動さんの彫られた大岩は単純にビルやマンションの2階相当の高さになりますから実に大きな磨崖仏だと言えます。



訪れた時期には、まだ渓流の上を飛び交うイワツバメの姿が見られ、見送られるようにして山を後にします。
写真奥ににある山は何という山なのか分かりませんが、花園区の集落は昔ながらの農村の雰囲気が残り、村の神社や寺院を祀る穏やかな村といった印象が残ります。



磨崖不動明王尊は通称「車谷不動」と呼ばれており、甲西町には他にも磨崖仏が存在するといいます。
湖南市の山々からは修験道や山岳信仰に由来するものや、奈良時代に創建され平安時代に天台宗へと変遷していった寺院が残り、独特の宗教圏があったことが伺われます。


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丹生谷文化財フェスタ~余呉町上丹生「源昌寺」~

2019-09-06 06:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の北部には「江州伊香三十三ヶ所観音霊場」という観音巡礼があり、今回の「丹生谷文化財フェスタ」では30番札所の「東林寺」と28番札所の「源昌寺」が開帳されています。
28番札所「源昌寺」には札所本尊の他にも、29番札所「西林寺観音堂」の御本尊も安置されており、西林寺の観音像は寺院が七々頭ヶ岳の山頂にあって御堂が老朽化しているため本尊を預かっているとのことです。

上丹生周辺にはかつて「養徳庵」「自在庵」「源昌庵」「清福庵」「永寿庵」「洞寿庵」の六ヶ寺があったといい、少しお金のある人が持つ私庵のようなものを持っていたと思われるといいます。
これらの小寺は経営難となって次々と廃寺になり、現在の「源昌寺」に統合されたため、源昌寺には各庵(寺院)にあった仏像が保管されているとのことです。



案内に従って、上丹生の集落を歩いて行くと「源昌寺」が見えてきますが、寺院というよりも民家のような造りになっています。
集落にある民家はどの家も間口が広く、蔵付きの家も多い。
“丹生”と地名に名が付くほどですから、かつては水銀などが採掘されて潤っていた地なのかとも思われます。



寺院に入って最初の間は田舎の民家に来たような雰囲気があり、近在に住む檀家の方らしき方が受け入れてくれます。
仏間へ入ると、2方向に向かって須弥壇があり、これは各寺院から預かった仏像があまりの多さからなのでしょう。



「江州伊香三十三ヶ所観音霊場」の28番札所「源昌寺」の御本尊は「薬師如来立像」で、秘仏本尊とお前立ちの2躰がある。
秘仏本尊は絶対秘仏となっており、お世話されている方も一度見ただけとのことでしたのでお前立ちを拝観する。



少しややこしいのは源昌寺の御本尊の薬師如来は、かつては丹生神社の神宮寺だった「中林寺」の観音像だったもので、昭和14年の「宗教団体法」により神社に仏像が置けなくなって源昌寺に移されたそうです。
承和2年(836年)伝教大師作との伝承があり、信ぴょう性はどうかと思いますが、東林寺や上丹生観音堂の仏像とは仏師も時代も違う仏像でした。



「江州伊香三十三ヶ所観音霊場」の29番札所「西林寺観音堂」の聖観音菩薩立像も須弥壇に並んで安置されており、こちらは木心彩色の仏像で中林寺(源昌寺)の仏像とは趣が随分と異なります。
西林寺は七々頭ヶ岳の山頂(693m)にある小堂だといい、この地域には菅並に「東林寺」、七々頭ヶ岳に「西林寺」、上丹生に「中林寺」と観音信仰の霊地が形成されていたようです。





須弥壇にはさらに福泉寺の「如意輪観音坐像」が祀られている。
横に“小谷如意輪観世音”とあるが、この小谷は余呉町の小谷のことと想像します。



もう片方の須弥壇には仏像が所狭しと安置されてあり、この仏像群はかつて存在した各庵から預けられたものなのでしょう。
それにしても現在はひっそりとした山里であるこの地域に、これだけの数の仏像を安置する庵があったとは驚くほかありません。



須弥壇の上には小さな「釈迦涅槃仏」も祀られています。
かつてどこかの庵で行われる「花まつり」に使われたものなのかと想像を膨らませます。



仏間の縁側に“壇”があり、桶が3つ置かれていたので不思議に思って聞いてみると“施餓鬼会で供物を供えるための桶なんですよ。”とのことでした。
片付けるのを忘れておられたようでしたが、庶民的な寺院にかえって安心します。

滋賀県の最北部にかくれ里のようにして存在する丹生谷には自然に対する信仰・仏像を守り続ける人々・神事や祭りを続けようとしている方々がいる。
山里の良さに溢れんばかりの魅力のある地域だと感じつつ、「丹生谷文化財フェスタ」を後にする。




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丹生谷文化財フェスタ~余呉町上丹生「上丹生薬師堂」~

2019-09-04 05:45:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「丹生谷文化財フェスタ」では4つの寺院が公開され、そのうちの2つの寺院では特別開帳がされました。
特別開帳の仏像は「東林寺(菅並観音堂)」の観音菩薩像と「上丹生薬師堂」の薬師如来立像となる。

とはいえ、他の2つの寺院も通常非公開で予約拝観のみということですから、一日限りのフェスタではあるものの願ってもない参拝の機会となりました。
福井県側にある菅並から滋賀県側にある上丹生地区には「茶わん祭」という山車を使った祭りがあり、随分と昔に一度見たことがありますので丹生を訪れるのはそれ以来となります。



集落の入口付近に「茶わん祭りの館」という施設があり、そこの駐車場に車を停めて集落の中を歩く。
「上丹生薬師堂」の本尊が御開帳されるのは11:00と13:15からの30分間だけということでしたので早めに到着して、堂内に入ったのは30分前。



観音堂(江戸時代 宝永5年建築)が変わった形をしているのは、観音堂としての役割の他に「茶わん祭り」の山車の収納や集会所としての役割もあるからとか。
観音堂には既に先客が10名ほどおられましたが、御開帳の時間が迫るに連れて堂内は満員となり、後方では立ち見の方もおられたようです。



待っている間に興味深かったのは、脇侍である「木造聖観音座像」が東京の「びわ湖長浜KANNON HOUSE」へ出陣するための準備風景でした。
目の前で行われた入念なチェック作業や養生の丁寧さを見ることが出来たのは運が良かったとしか言えません。
特にチェック作業では、図面と仏像の各部分を照合しながら念入りな確認作業が行われていました。


(びわ湖長浜KANNON HOUSE)

また本来、閉じられている厨子の前に居られるはずのお前立ちの「薬師如来坐像(平安期)」の姿がないため聞いてみると、こちらは京都の美術院で修理に出ているとのこと。
挨拶の中で“今日はお前立ちの薬師さんも聖観音さんも居られませんので御本尊を特別開帳させていただきます。”
とのことで本来は5年に一度の茶わん祭りの時にしか拝めない御本尊の「薬師如来立像」の拝観が叶います。

時間となり厨子の扉が開かれると「薬師如来立像」が姿を現します。
像高は147.8cmの薬師さんは、かつて上丹生にあった長福寺の本尊だったと伝えられている仏像です。
均整の取れたお姿をされており、菅並の東林寺の観音菩薩立像と同様に地元の仏師によって造られたと推定されているようです。



須弥壇には厨子に納められた薬師如来の前に「日光・月光如来(平安期)」を従えた薬師三尊が並び、脇には「持国天」「多聞天」が御本尊を守護しています。
御本尊の薬師如来立像は建保3年(1215年)の銘があるといい、国の重要文化財に指定されている鎌倉期の仏像です。

また内陣の格子には「髪の毛」「箸」「穴あき石」などが奉納されていてこの地元に伝承されていた独特の風習が伺われます。
「髪の毛」は病気回復祈願の女性が自分の髪を切って奉納されたもので、「箸」は子供の歯が痛む時に借りて噛まして治ると12膳作って奉納する。

「穴あき石」は目・耳・鼻・口の病気、または願いが通じるように河原で穴のあいた石を拾って供えるという。
順番に内陣へ入らせていただくことが出来ましたが、中には懸仏が数多く掛けられていたのも特徴的です。
 


「上丹生薬師堂」は元は「医王山 長福寺」といい、隣にある「八幡神社」の神宮寺だったと伝わり、現在も隣り合わせの形で神仏習合した寺社となっています。
「茶わん祭り」の時には山車が八幡神社まで巡行してクライマックスを迎えるようです。



ところで、上丹生観音堂を拝観後はお昼になりましたので、菅並の妙理の里まで戻ってお弁当を買って食べる。
周辺は見渡す限り低山に囲まれ、横に流れる妙理川の渓流からの涼しい風を浴びながら、半ば遠足気分で食べるお弁当はごく一般的な弁当だったにも関わらずとても美味しく感じる。



通行止めになっている北へと向かう高架道路の上には望遠カメラ(大砲)を構えたカメラマンの姿。
猛禽狙いなのだろうと思いますが、ここは鳥見ポイントになっているのかも?



長閑な山里で食した昼食が終わり、再び妙理川に沿って下流にある上丹生の集落へと戻る。
妙理川には名も無き小さな滝がありましたが、山中には大きな滝があるかもしれませんね。





まさに日本の原風景が広がるような一帯に、地元の方が彫った仏像を祀り、守り続けられてきたのはこの地の人々の信仰心の厚さなのでしょう。
仏像は美術品という観点よりも、地元の方々の信仰の上に存在するものだと改めて感じられ、訪れたこちらの方も心が満たされる想いがします。




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丹生谷文化財フェスタ~余呉町菅並「千花山 東林寺(菅並観音堂)」~

2019-09-02 05:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「東林寺」は現在、余呉町菅並の「洞寿院」の飛び地境内となっており、洞寿院から少し離れた「六所神社」の境内に東林寺(菅並観音堂)」があります。
東林寺の創建は1216年、比叡山の僧・泰恒法師によって建立されたといい、同じ敷地内にある六所神社の神宮寺であったと考えられているといいます。
その後、明治の廃仏毀釈によって洞寿院の飛び地境内となり、現在は観音堂だけがかつての姿を残します。



県道285号に面した場所に妙理川に掛かる朱色の妙理橋を目印にして駐車場へと入る。
妙理川は高時川に合流する前の支流ですので大きな流れではありませんが、ここへ至る道中で見た高時川は川幅が広く、水量も豊富に流れていました。

川には鮎釣りかと思われる方が腰近くまで水に入って長い竿で釣りをされており、急流に流されはしないかと心配になるくらい。
鮎釣りもある意味で命懸けだなと感心した次第です。



橋を越えるとすぐに「六所神社」の鳥居があり、多くの巨木が参道に並びます。
生命感の溢れる樹木の下には何やら塚のようなものがあり、近くへと行ってみる。



石碑には「野之神」と彫られてあり、詳しいことは分らないものの、野の豊穣を司る神への感謝と崇拝といった意味があるのかと思います。
中央に祀られている石はヤマドリやニワトリのような姿にも見え、自然崇拝の一つのシンボルとも感じられます。





東林寺のかつての姿は知る由もありませんが、現存しているのは「菅並観音堂」と呼ばれる御堂のみ。
観音堂が単独で建って観音像が祀られているのは湖北にはよくある光景ですが、菅並みの観音堂は豪雪地帯に建つ御堂らしく屋根が急勾配となっている。
急勾配にしておかないと積雪の重みで潰れてしまうのでしょうね。



東林寺の本尊「聖観世音菩薩立像」は秘仏となっており、33年に一度の御開帳となる。
前回の「本開帳」は2016年で、「中開帳」は1999年だったといいます。
2016年の夏には東京での特別展「観音の里の祈りとくらし展II」に出張されたといいますが、聞く限りでは2016年の本開帳以来ということになるようです。



面白いといっては失礼に当たりますが、脇侍の持國天と多聞天の造り方は年季の入った仏師の作とはいえない姿です。
東林寺の本尊の観音菩薩立像も地元の仏師の作と言われており、この粗さからくる素朴な印象はある意味で人を引き付ける魅力があると思います。



御本尊の「観音菩薩立像(重要文化財)」には鎌倉期1216年の銘があるといい、ノミ跡が残る仏像で親近感を感じます。
湖北の仏像にノミ跡が残り、素朴ながらも見る人に伝わるものがある仏像があるのは、地域の市井の人々が信仰を形に残したいという強い意思があったことが伺われます。



東林寺の観音菩薩立像は縁起では東林寺の開基である泰恒法師が自ら刻まれたと伝わりますが、長浜市歴史遺産課の解説では地元の仏師によりこの地域なりの解釈が織り交ぜられたものとあります。
山間の集落に職人集団がいるのは湖北の他の地域にも見られ、菅並や丹生の集落にも存在したのだと思われます。



須弥壇の左には「子安地蔵座像」が安置され、奥から白い目が強い視線を放っています。
壇に掛けられた幕が手作り感に溢れていて、地元の方の気持ちが伺われます。



観音堂の右壁には金ピカの「地蔵菩薩半跏像」が安置されている。
扁額には「地蔵堂」とありますから、かつては境内に地蔵堂があったのかもしれませんね。



不思議だったのは須弥壇の右に並んでいる仏像群でしょうか。
一見、地蔵が3躰あるように見えますが、実際は釈迦如来や薬師如来が地蔵さんの前掛けをされている。
この辺りにも地域の方の信仰の姿が現れていますね。



異質な仏像に見えるのは左から3躰目の地蔵菩薩でした。
頭部が以上に小さく、まるで形代(かたしろ)を立体化したような姿で、ある種異様な姿といえる仏像です。



観音堂を出た後に六所神社に参拝しようと境内を戻ると、「山之神」という祠が変わった形の灯篭の奥に祀られていました。
六所神社の鳥居の所には「野之神」が祀られ、本殿前には「山之神」が祀られているのは、野や山の神々への崇拝や信仰・畏怖の現れなのでしょう。



境内にはもう一ヶ所結界が切られている場所があり、石組みの上に小さな石塔と祠が祀られています。
この祠に何の神が祀られているのかは分かりませんが、苔むした神域には何かの意味があるのだと思われます。
神話に出てくるような神を柱として祀ることが多い中で、もっと原初的な信仰の姿が垣間見えます。



六所神社は、かつてあった六つの神社を合祀して六所大権現と称したとあります。
大昔、丹生川に岩がそびえたつ深い場所があり、そこに住む大蛇が度々被害をもたらしていたといいます。

菅並とさらに奥の六ヶ村(小原・田戸・奥川並・鷲見・尾羽梨・張川)の方々が六所神社に祈ったところ、六人の山伏が現れて大蛇を倒し、山伏は姿を消していったと伝わるようです。
大蛇の被害を川の氾濫と考えると、分らない話ではなく、自然の猛威に襲われないようにこの六所神社に祈られたのでしょう。



少し山側の方を見て回りたかったが、この看板を見ると退却するしかない。



東林寺は無住の寺院で菅並地区の住民の方々の持ち回りで本開帳や中開帳を行ってきたそうです。
現在、36戸のうち28戸が70歳以上の独居世帯になっていて、今後の管理状態を懸念する住民が多いそうです。(産経ニュースより)
今回、自治会・保存会・観光協会等の共催と長浜市の後援があって「丹生谷文化財フェスタ」が開催されましたが、今後も湖北の観音堂を維持していくには官民の協力が必要となります。




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