このひと月ほど「丁稚羊羹」にハマってしまい、滋賀県内を出歩く度に丁稚羊羹を買って味比べをしていました。
丁稚羊羹は、丁稚奉公の丁稚さんが里帰りの時に土産にしたもので、どちらかというと庶民的な和菓子のことをいい、お店や地域によって随分と味も価格も違います。
そんな丁稚羊羹行脚の中で見つけたお店が木之本地蔵院の向いにあり、正月用のお茶菓子を買いに行った時に木之本地蔵尊で秘仏御開帳がされているのを見て、そのまま参拝へと向かいました。
木之本地蔵院は、約6mある銅像の地蔵尊と参道に露店が並ぶ大縁日で知られている寺院で、木之本地蔵尊は日本三大地蔵にも数えられているといいます。
木之本地蔵院の本尊は天武天皇の時代、難波の浦(大阪)に地蔵菩薩像が流れ着き「金光寺」を建立して祀ったのが始まりといいます。
その後、この地蔵像を仏法の縁深き地に安置するため、奈良薬師寺の祚蓮上人が北国街道を下る途中、柳の木の下に地蔵像をおろしたところ、そこから動かなくなり前にもまして金光を放つようになったという。
その地が木之本だといわれ、木之本の地に伽藍を建立したのが木之本地蔵院の草創だとされます。
812年になると弘法大師・空海が尊像を拝巡して、霊躯破損おびただしい尊像を修復し、閻魔王と俱正神の御脇士を刻み安置したとの縁起があります。
寺院には空海の他にも木曽義仲・足利尊氏・足利義明らも参拝したといい、菅原道真に関する伝承も残されているようです。
今回の「秘佛展」は、本来は9月14日から12月8日までだったようですが、看板に“拝観期間延長 現在開催中”のシールが上貼りされていたのに偶然気が付きました。
神社では大晦日に「大祓」が行われますが、当方は寺院で今年一年の穢れと罪を祓うことになりました。
木之本地蔵院は正式には時宗の浄信寺といいますが、地元の人が日課のように立ち寄るような親しみ深い寺院で、やはり“木之本のお地蔵さん”と呼んだ方がしっくりとくる。
また、木之本地蔵は眼の神様として信仰を集めていて、“すべての人々の大切な眼がお地蔵さまのご加護をいただけますように”と身代わりの願をかけて片目をつむっている身代わり蛙の信仰があります。
そのため随所にカエルが祀られており、手水で吐水しているのも龍ではなく、カエルです。
梵鐘は自由に撞けるようになっており、撞かせて頂きましたが、撞木が随分とすり減っていて、参拝に来られた方を含めて日常的に撞かれることが多いのかと思います。
梵鐘には昭和22年8月鋳造の銘があり、昭和22年頃は戦後の復興もままならなかった時代かと想像しますが、そんな時代に梵鐘が鋳造出来たのは信仰の厚さゆえなのでしょう。
境内に立つ「地蔵尊銅像」は、1894年に建立されたものだといい、大戦の時には供出命令を受けたとされます。
しかし、当院三十世住職其阿上人学樹足下は拒否し、東條英機の妻・勝子の援助もあって供出を免れたそうです。
尚、この其阿学樹という上人の名は梵鐘にも刻まれていました。
地蔵銅像の周囲には数多くの片目をつむったカエルが奉納されており、中には手製と思われるカエルが奉納されています。
身代わりの願をかけているカエルとはいえ、ウィンクしているとしか見えない姿には愛嬌を感じてしまいます。
本堂の外陣で参拝して、地蔵堂へ入った堂内で秘仏展は行われており、般若心経の一文字を書いて“一字奉納”をしてから中へと入ります。
“来迎讃”の読経が響く堂内でまず最初に会うのは「地蔵銅像」の下型となった仏足木型で、触ると御利益があるとのことで軽く撫でさせて頂きました。
同じ部屋には空海の伝承に由来する「木造閻魔王立像(鎌倉期・重文)」「木造倶生神立像(鎌倉期・重文)が並び、曼荼羅・涅槃図が掛けられている。
次の間には「木造阿弥陀如来坐像(平安期・重文)」、「四天王像画」「稲荷明神像画」があり、阿弥陀座像の前で線香を焚かして頂き手を合わす。
部屋を移動すると「善光寺式阿弥陀三尊」が中心にあり、「一遍像」「千体仏画」「毘沙門天立像」など。
総数30躰の仏が各部屋に展示されているのは読経の響きもあって静かな興奮状態で拝観できましたが、特に仏画の種類と数の多さは見応えのあるものでした。
秘仏展を見た後、本堂の須弥壇の裏側にある「裏地蔵尊」に参り、カエルが吐水する「御香水」に触れてから本堂を出る。
本堂には56.7mの闇の中を歩く「御戒壇巡り」がありますが、今回は遠慮させて頂いて「阿弥陀堂」へと向かう。
木之本地蔵院(浄信寺)の秘仏展で仏像が拝めたのは、偶然が重なってそうなったとしか言いようはありませんが、これも縁だったのだと解釈しています。
2019年の厄を大晦日に落としてから新年を迎える準備が出来たのも仏縁だったのでしょう。
丁稚羊羹は、丁稚奉公の丁稚さんが里帰りの時に土産にしたもので、どちらかというと庶民的な和菓子のことをいい、お店や地域によって随分と味も価格も違います。
そんな丁稚羊羹行脚の中で見つけたお店が木之本地蔵院の向いにあり、正月用のお茶菓子を買いに行った時に木之本地蔵尊で秘仏御開帳がされているのを見て、そのまま参拝へと向かいました。
木之本地蔵院は、約6mある銅像の地蔵尊と参道に露店が並ぶ大縁日で知られている寺院で、木之本地蔵尊は日本三大地蔵にも数えられているといいます。
木之本地蔵院の本尊は天武天皇の時代、難波の浦(大阪)に地蔵菩薩像が流れ着き「金光寺」を建立して祀ったのが始まりといいます。
その後、この地蔵像を仏法の縁深き地に安置するため、奈良薬師寺の祚蓮上人が北国街道を下る途中、柳の木の下に地蔵像をおろしたところ、そこから動かなくなり前にもまして金光を放つようになったという。
その地が木之本だといわれ、木之本の地に伽藍を建立したのが木之本地蔵院の草創だとされます。
812年になると弘法大師・空海が尊像を拝巡して、霊躯破損おびただしい尊像を修復し、閻魔王と俱正神の御脇士を刻み安置したとの縁起があります。
寺院には空海の他にも木曽義仲・足利尊氏・足利義明らも参拝したといい、菅原道真に関する伝承も残されているようです。
今回の「秘佛展」は、本来は9月14日から12月8日までだったようですが、看板に“拝観期間延長 現在開催中”のシールが上貼りされていたのに偶然気が付きました。
神社では大晦日に「大祓」が行われますが、当方は寺院で今年一年の穢れと罪を祓うことになりました。
木之本地蔵院は正式には時宗の浄信寺といいますが、地元の人が日課のように立ち寄るような親しみ深い寺院で、やはり“木之本のお地蔵さん”と呼んだ方がしっくりとくる。
また、木之本地蔵は眼の神様として信仰を集めていて、“すべての人々の大切な眼がお地蔵さまのご加護をいただけますように”と身代わりの願をかけて片目をつむっている身代わり蛙の信仰があります。
そのため随所にカエルが祀られており、手水で吐水しているのも龍ではなく、カエルです。
梵鐘は自由に撞けるようになっており、撞かせて頂きましたが、撞木が随分とすり減っていて、参拝に来られた方を含めて日常的に撞かれることが多いのかと思います。
梵鐘には昭和22年8月鋳造の銘があり、昭和22年頃は戦後の復興もままならなかった時代かと想像しますが、そんな時代に梵鐘が鋳造出来たのは信仰の厚さゆえなのでしょう。
境内に立つ「地蔵尊銅像」は、1894年に建立されたものだといい、大戦の時には供出命令を受けたとされます。
しかし、当院三十世住職其阿上人学樹足下は拒否し、東條英機の妻・勝子の援助もあって供出を免れたそうです。
尚、この其阿学樹という上人の名は梵鐘にも刻まれていました。
地蔵銅像の周囲には数多くの片目をつむったカエルが奉納されており、中には手製と思われるカエルが奉納されています。
身代わりの願をかけているカエルとはいえ、ウィンクしているとしか見えない姿には愛嬌を感じてしまいます。
本堂の外陣で参拝して、地蔵堂へ入った堂内で秘仏展は行われており、般若心経の一文字を書いて“一字奉納”をしてから中へと入ります。
“来迎讃”の読経が響く堂内でまず最初に会うのは「地蔵銅像」の下型となった仏足木型で、触ると御利益があるとのことで軽く撫でさせて頂きました。
同じ部屋には空海の伝承に由来する「木造閻魔王立像(鎌倉期・重文)」「木造倶生神立像(鎌倉期・重文)が並び、曼荼羅・涅槃図が掛けられている。
次の間には「木造阿弥陀如来坐像(平安期・重文)」、「四天王像画」「稲荷明神像画」があり、阿弥陀座像の前で線香を焚かして頂き手を合わす。
部屋を移動すると「善光寺式阿弥陀三尊」が中心にあり、「一遍像」「千体仏画」「毘沙門天立像」など。
総数30躰の仏が各部屋に展示されているのは読経の響きもあって静かな興奮状態で拝観できましたが、特に仏画の種類と数の多さは見応えのあるものでした。
秘仏展を見た後、本堂の須弥壇の裏側にある「裏地蔵尊」に参り、カエルが吐水する「御香水」に触れてから本堂を出る。
本堂には56.7mの闇の中を歩く「御戒壇巡り」がありますが、今回は遠慮させて頂いて「阿弥陀堂」へと向かう。
木之本地蔵院(浄信寺)の秘仏展で仏像が拝めたのは、偶然が重なってそうなったとしか言いようはありませんが、これも縁だったのだと解釈しています。
2019年の厄を大晦日に落としてから新年を迎える準備が出来たのも仏縁だったのでしょう。