僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

山比古湧水山姥の足跡~滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺~

2021-01-29 05:38:38 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県愛荘町に「山比古湧水」と「山姥の足跡」という岩場があると知り、興味本位で出かけてみました。
「山比古湧水」は、昔からお伊勢参りの旅人や山仕事に携わる地元の人々によってひっそりと汲まれてきたといい「平成の名水百選」に選ばれている名水です。

地図上ではここから山越えをすれば三重県いなべ市へ通じているようですが、かなり過酷な道中となるお伊勢さんへの道のように思えます。
奥地にあるのも関わらず「山比古湧水」の周辺は整備された公園となっていたのは予想外で、夏には水遊びのレジャースポットとして人気があるといいます。



宇曽川渓谷の石碑の下には宇曾川が流れ、砂防堰堤から流れ出る水の轟音と渓谷のゴツゴツとした岩は中々の見応えです。
一部に雪だまりのある朝の渓谷は痛いような寒さを感じるが、湧き水を汲みに来られる方もおらず、ただ水音だけが響いている。



堰堤から流れ落ちる水は水量が豊富で、山からの豊富な恵みを感じます。
この先にも道があるようなので進んでみたかったのですが、これより先は自然環境保護のため関係者以外立ち入り禁止の看板と共に鉄柵で閉じられ先へは進めない。



堰堤のすぐ側には赤茶けた色をした巨石が組まれており、上部の巨石の下の隙間から水が流れ出すこともあるといいます。
人工的に作られたものかもしれませんが、目を引くのは確かです。



湖東の山は火山岩の一種である「湖東流紋岩」で出来ているといい、湖東三山から観音寺山・箕作山・荒神山・安土山・八幡山がそれにあたるとされます。
琵琶湖に浮かぶ沖島までもが含まれるそうであり、この渓谷の岩がそれにあたるかどうかはともかくとして、心洗われる風景です。





宇曽川渓谷のすぐ隣に「山比古湧水」があり、「山比古地蔵」と「山姥」にまつわる昔話が残されています。
この昔話に出てくる「山比古地蔵尊」が祀られているそうですが、場所は分からなかった。
もしかすると立ち入り禁止区域にあるのかもしれません。



湧水は何カ所かの取水口から勢いよく流れ出ており、自由に水が汲めるようになっています。
少し飲んでみようと思ったものの、自然の水ですから煮沸してから飲んでくださいの注意書を見て止めておくことにする。



山比古湧水には地蔵さんを彫った岩が祀られており、これは立入禁止区域にある「山比古地蔵尊」を模したものなのでしょう。
神域として祀られていないのは、旅人や山仕事の方の喉を潤してきた歴史によるものかとも思います。



今回楽しみにしていたのは山姥の足跡があるという「山姥の岩めぐり散歩路」でしたが、こちらはどれが足跡なのか分からずじまい。
確かにゴツゴツした岩は多かったとはいえ、渓谷の大岩からすると小ぶりな岩が多い。



苔むした岩が多いことから湿度の高い土地柄が伺え、夏なら足元が気持ち悪いかもしれません。
少し登ると「山姥の足跡」の石碑の後方に大きな岩があります。
おそらくこの岩のどこかに足跡があるのかと考えましたが、落ち葉と苔で見分けることは困難でした。





林道を下って戻る途中、帰り道に立ち寄ろうと思っていた「宇曽川ダム」に寄り道します。
宇曽川ダムは1980年に運用が開始されたロックフィルダムで、過去には宇曽川が氾濫したり決壊することが多い川だったといいます。



宇曽川ダムのリップラップは景観が面白く、ダムの遊歩道の中央に展望所が設けられているのも妙な愛嬌があります。
リップラックの下は整備された公園のようになっていますが、降りるには長い階段を降りていかなければなしませんし、降りても仕方がないか。



ダムの遊歩道から見るダム湖の様子。
オシドリでも浮いてそうな場所だが、水鳥の姿は全く見えない。



麓側を眺めると広がるのは愛荘町の平野かと思います。
奥に見えるのは繖山や赤神山でしょうか。思っていたより高い場所に来ていたことに驚きます。



「山比古湧水」の周辺は整備が行き届いている場所と、自然環境保全のため出入り禁止の場所を分けて管理されています。
こんな冬の季節にも関わらず、渓谷にはペットボトルが捨てられていましたから、マナーの悪い人がいると他の人も出入り禁止にされるということになりますね。


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「繖山 観音正寺 奥之院」の磐座~近江八幡市安土町~

2021-01-24 19:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所の第32番札所である「繖山 観音正寺」は、聖徳太子自らが千手観音菩薩像を彫り、標高433mの繖山の山頂に堂塔を建立したのが始まりとされます。
寺伝によると近江国を遍歴していた聖徳太子が、前世の因果により人魚の姿にされてしまった漁師と出会い、成仏させてほしいと懇願されたという。
聖徳太子はその願いを聞き入れて、千手観音の像を刻み堂塔を建立したと伝えられています。

また、観音正寺には「奥之院」があるといい、聖徳太子が巨岩の岩で舞う天人を見てその岩を「天楽石」と名付け、妙見菩薩を中心に五仏の仏を描いたと伝えられています。
「奥之院」には石窟や磐座、巨石群が祀られているということであり、もう一つの観音正寺の姿を求めて繖山へと向かいました。



「観音正寺」のある「繖山」には、観音正寺以外にも「桑実寺」や「石馬寺」があり、麓には「教林坊」や「奥石神社(老蘇の森)」。繖山から「北向十一面岩屋観音」のある猪子山への縦走も可能だといいます。
この山には磐座信仰や山岳信仰が色濃く残り、古来より山に対する山岳信仰が盛んだった霊山であったことが伺われます。

「奥之院」へは五個荘側から林道 観音寺線で入りましたが、困ったのは入口の係の人に聞いても、参道で出会った巡礼衣装の方に聞いても「奥之院」は知らないと場所が分からなかったこと。
行くだけいってみようということで、裏参道からの緩やかなスローブのルートを石仏などを眺めながら「奥之院」を探してみる。



「奥之院」の鳥居は実際は参道のすぐ脇にあり、圧倒される巨石群は俗世と聖域を切り離す結界のような石造りの鳥居、巨石群へと続く急な石段に緊迫した空気を感じる。
参道から見上げるだけでも巨石が幾つも見え圧倒されますが、石段は登りにくそうであり勾配もかなりきつい。
これは登るより降りる時の方が大変だと思いつつも登ってしまう。



石段を登ると少し平坦な場所となり、山の上方にはさらに巨石群が点在しているのが分かる。
鳥居の正面や横にも巨石がありますが、目を引いたのは訪れる人を拒絶するかのような空気を醸し出す石窟でした。
奥の院には「権現岩 風神雷神窟」という名の石窟があるといいますが、それはここを指すのか。怖くなってくるほどの聖域です。



引き寄せられるように近づいていくと段々と様子が明らかになっていき、聖域に足を踏み入れていく緊張感が高まります。
かつては石窟で修行されていた僧や行者がいたのではないかと想像させるような畏れを感じつつ、とにかく石窟の内部が見える場所まで進んで行く。





「奥之院」には平安時代後期の作とされる磨崖仏5躰が彫られているというのですが、彫が浅いとされていることもあって結局どれが摩崖仏なのかは確認できず。
現在は裏参道が整備されているため奥之院に辿り着くのは容易ですが、かつては山中の難所にある山岳信仰の拠点だったのでしょう。



石窟の上にも巨石が点在しており、さらに上に向かって進んでみます。
ちょうど石窟の上の辺りにも巨石があり、どれが磐座なのか分からなくなりますが、言い方を変えるとこの巨石群全体が磐座として信仰されてきたといっても差し支えはないかもしれません。



さらに上へ向かって登って行っても巨石が平然とした姿で点在しています。
「観音正寺」にある石積み庭園も見事ですが、石積み庭園が造られた要因の一つには繖山の石の多さも影響しているのではないでしょうか。





行き着いた先には目を見張るほどの巨石の上に「佐佐木城址」の石碑が建てられていた。
「佐々木城」は南北朝時代に近江守護・佐々木氏頼が北畠顕家の軍を迎え撃つために築いた砦とされており、室町期~戦国時代にかけては佐々木(六角)氏の居城「観音寺城」へと拡大していったようです。



佐々木(六角)氏は戦国時代に内紛などで弱体化し、織田信長率いる上洛軍に敗れた後、再び挙兵することはあったものの、大名としては歴史の舞台からは消えていくことになります。
観音寺城は城址としてしか残ってはいないものの、まだ各所には城址跡と見られる遺構が残り、参道を歩いていても石垣の一部や砦跡らしき跡地があります。



巨石の多い繖山ですから、巨石を利用してうまく石垣を組んでいるのが面白いところです。
仮に石垣のないところから攻め上がろうとしても、巨石が自然の防御の役目を果たしてくれるのではないかと思えてしまいます。



参道をさらに進むと観音正寺の本堂のあるエリアに近づき、「ねずみ岩」のある所まで辿り着く。
どういう由来で「ねずみ岩」と呼ばれているのか分かりませんが、ねずみの顔かどうかはともかくとして口を開けた顔には見えます。



景観の開けた所から見えるのは八日市や竜王方向でしょうか。
天候には恵まれなかったものの、蒲生野の平野の向こうには山々が見え、気持ちが晴れるいい風景です。



白洲正子さんは「西国巡礼」の中で観音正寺の奥之院のことを次のように書かれています。

奥の院には、びっくりするような大きな石窟があった。
近江は帰化人が住んだ国だから、あるいはその墓だったのかもしれないし、もっと古いものかもしれない。
くわしいことは私には分からないが、ここが信仰の元だったことは間違いない。(白洲正子「西国巡礼」)


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船岡山「阿賀神社」の磐座~滋賀県東近江市~

2021-01-20 06:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 旧八日市の「阿賀神社」といえば霊山・赤神山の中腹にある通称「太郎坊」ということになりますが、「太郎坊」からさほど遠くはない船岡山の麓にもう一つの「阿賀神社」があります。
2つの「阿賀神社」の関係は分からないものの、両社に共通する夫婦岩や磐座があることから、船岡山の阿賀神社は太郎坊宮の里宮のような位置付けだったのかもしれません。

船岡山 阿賀神社の縁起によると“古老の傳言によれば、天正年間より小脇村にて協同祭典守護して...”とあり、御祭神として「猿田毘古神」を祀っているという。
太郎坊権現として祀られる猿田毘古神も鼻が長い天狗の姿なので関連は深いと思われ、滋賀県神社庁では御祭神を太郎坊宮と同じ「天忍穂耳命」としている。



東近江市に入った頃から霧が出ていて視界が狭かったものの、神社に付くころになると少し霧が晴れてくる。
この辺りは修験道の色濃い地域ということもあって、神秘的に霧に包まれた神社に神々しさを感じてしまう。



鳥居の前の道路は車の通行量がそこそこある道でしたが、鳥居を抜けて参道を進むと森に囲まれた静寂の世界が拡がる。
木の下を通ると前日の雨の雫が木々から落ちてくるのが困りものでしたが、朝の冷たい空気が心地よい。



拝殿から本殿へ向かう間には大きな磐座が祀られています。
この一帯には「太郎坊宮」「瓦屋寺」など巨石の多い「赤神山」、聖徳太子が十三体の仏を刻んだといわれる岩戸山十三仏のある「岩戸山(箕作山)」など巨石が多く見られる山が多い。
それゆえ山に対する信仰や磐座信仰の色濃い地方だったのかと思います。



一間社流造のこじんまりとした本殿は、山を背にした境界に建てられており、社を拝むのはすなわち山を拝むことになる。
社殿は明治元年(1868年)に移転するも、本社の改築によって明治31年(1898年)に元の地に戻ったと縁起にあります。



この船岡山 阿賀神社でどうしても見たかったのは、小宮の小さな祠を包み込む巨石で、それらは鳥居のすぐ奥に祀られている。
雲に覆われていた太陽の光が差し込み始めて、清々しい空気が漂い始める。



「赤神山 阿賀神社」と「船岡山 阿賀神社」の関係の深さは、「夫婦岩」のように屹立している巨石から伺えます。
祠へは2枚の大岩の間を通って石段を登り、祠の裏側にも巨石があります。
太郎坊宮の夫婦岩ほどは大きくはないものの、左右後方ともに見上げるような巨石です。





「赤神山 阿賀神社」の夫婦岩は岩と岩の間の約80cmほどの隙間を抜けて本殿へとお参りするのですが、「船岡山 阿賀神社」も岩と岩の間を進んだところに祠がある。
岩の間をすり抜けることで禊をしていると言え、奥に祀られた祠は里で参拝できる里宮として祀られたのかもしれません。





船岡山は、大海人皇子と額田王の有名な相聞歌の舞台となった地とされており、船岡山を少し登ると巨石に埋め込まれた「万葉歌碑」があります。
磐座ともいえる巨石に歌碑を埋め込んでしまったことには賛否両論がありますが、万葉の世界を訴えかけたかったのでしょう。

『あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』(額田王)
『紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも』(大海人皇子)





万葉集は漢字で書かれていますから、現代語訳がないと何が書いてあるか理解できないのが悲しいところ。
かといって、平安期以降の草書体も読みづらい。



歌碑の横にある巨石の上には石灯籠が建っている。
強風とかで倒れないのかと余計な心配をしてしまいますが、大丈夫なのでしょうかね。



船岡山は標高152mの山というよりも丘といった感じで、ここが頂上なのかどうかも分かりませんが、三角点があるのを発見。
途中で「岩戸山十三仏」への分岐があったが、細い石段の道が続き、前日の雨でぬかるんでいたため進まず。



阿賀神社の横には「万葉の森 船岡山」という整備された公園があり、万葉の昔に遊猟や薬草摘みを描いた巨大なレリーフがありました。
蒲生野に万葉のロマンが花開いた時期は、天智天皇の「大津京」の時代。
難題が山積みだった天智天皇にとっての蒲生野は、ほっと気が休まる場所だったのかもしれません。



万葉の森には、万葉集に詠まれた歌碑と植物約100種が植えられた万葉植物園があり、季節柄花は咲いていなかったものの、近くからカッカッカッとジョウビタキの声がする。
木の陰に隠れてカメラを向けると綺麗な姿を1枚撮らせてくれました。



「万葉集」の時代から約1200年も下った「令和」の時代に生きる我々ですが、「令和」は万葉集巻五に収録された梅花の歌の「序」から選ばれたといわれます。
大伴旅人が書いた序文の中にある『初春令月 氣淑風和(新春の令(よい)月、空気は美しく風は和かに)』から「令」と「和」が抜き出されたということだそうです。

『初春月 氣淑風 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香』


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湖東の勧請縄(トリクグラズ) と巨樹2「奥石神社」~近江八幡市安土町東老蘇~

2021-01-15 18:23:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖東地方の「奥石神社」では、12月中旬に勧請縄を作り、参道に吊って新年を迎えるのが伝統行事になっているといいます。
参道には「勧請縄」に大きなトリクグラズが吊るされていると聞きますので、国道を折れ中山道に入り「奥石神社」へ初詣を兼ねた参拝に向かいます。

「老蘇の森」の中にある「奥石神社」は、創建が孝霊天皇5年といいますから紀元前の創建になり、御祭神に天児屋根命を祀る延喜式神名帳にも載せられている古社だとされます。
延喜式神名帳に載せられているのは“繖山を御神体とする最も古く原始的、根元的な神社であったため”と神社の説明書きには書かれています。



社殿が立ち並ぶ境内へと向かう鳥居から参道に入ると、いきなり「勧請縄」が目に飛び込んできます。
参道の横の立木に吊るされた「勧請縄」には、内野の八幡神社と同じように左右6本づつの小縄が吊るされ、中央にはトリクグラズが掛けられています。





トリクグラズは椿で作られているとされ、直径が1.5mほどの輪には御幣が上に3本、輪の下方内側にも1本捧げられている。
老蘇地区ではこの勧請縄を「マジャラコ(マジャラ講)」と呼ぶそうで、その大きさからも見応えのあるものでした。





「勧請縄」を抜けて参道を進むと、参道の左側に摂社「吉住稲荷社」の朱色の鳥居が見えてきます。
石作の鳥居に注連縄が掛けられていますが、こちらはオーソドックスに三本の藁が垂らされたものでした。



「吉住稲荷社」の裏側付近にあるのが「奥石神社」の御神木のスギで、幹周が約4.8m・樹高30m・推定樹齢が400年の真っすぐに伸びたスギです。
奥石神社の周辺に広がる広大な「老蘇の森」は、万葉の時代から歌に詠まれてきた森で、鬱蒼とした森の中には巨樹が何本か見える。
そのため御神木が一際目立つ巨樹といった印象は感じにくいが、古社にある堂々たる御神木です。





不思議に感じたのは、境内の何本かの木に小縄のようなものが勧請縄のように吊るされていたこと。
しかも木の根っこ部分には円錐状の木が紅白の紐で結ばれて捧げられている。

円錐の木には線がひかれていて、これも数えてみると12本の線があります。
この12という数は年間の月数をあらわしているのか、あるいは方位を示すものなのか、意味するところは不明です。





「老蘇の森」への入口にも小縄と円錐状の木が捧げられています。
伝説によると、昔この地方は地裂け水湧いてとても人の住めるところではなかったが、石部大連が樹の根を植え神々に祈願したところ大森林となり、大連は齢百数十歳まで生きたという。
その大連の伝承から「老蘇」(老が蘇る)として、「老蘇の森」の名で呼ばれるようになったとされ、国の史跡にも指定されています。



拝殿へ向かうと周辺に雪が残っていて少し意外に感じます。
近江八幡周辺はあまり雪は降らないと思っていましたが、近江八幡市でも正月の寒波の時には積雪があったのでしょう。



本殿は安土桃山時代の1581年に織田信長の寄進により、柴田家久(勝家の一族)が造営して再建したとされる建築物で国の重要文化財に指定されている。
奥石神社は中世より「鎌宮神社」と称されたことがあったという歴史から、御神紋が「左り鎌」となっています。 
「鎌宮神社(かまみや)」は「蒲生野宮(かなふのみや)」がなまって名付けられたものと考えられていると神社の説明版にはありました。



ところで、奥石神社に過去に参拝した時の写真を見ると、1月の後半頃だったはずですが参道に「勧請縄」は吊るされてはいませんでした。
「勧請縄」がないということは奥石神社の勧請縄は、12月に吊るされて正月期間が終了すると取り外されるということなのか。


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湖東の勧請縄(トリクグラズ) と巨樹1「内野集落」~近江八幡市安土町内野~

2021-01-11 19:50:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖東地方へ行くと、神社の鳥居に掛けられた「勧請縄」の下に何本もの細い縄が下げられて、縄の先にスギの葉などが付けられているのを見ることがあります。
「勧請縄」は、集落に入る道や神社の参道などに飾ることで疫病や鬼が入り込むのを防ぐとされており、結界を張って「道切り」すると共に、五穀豊穣や村中安全の願いをこめる意味があるといいます。

「勧請縄」の中心にはトリクグラズと呼ばれる飾り物を付け、一般的には正月に新しい勧請縄を掛けて年末に取り外すといいます。
近江八幡市安土町内野では毎年新年の3日に集落にある「八幡神社」の境内で縄作りを行い、集落の旧玄関口に掛けられて厄除けとして集落を守る行事が今も続いています。



鳥居の前に来てまず驚いたのは竹で飾り付けがしてあった事で、一見すると侵入禁止になっているようにも見える。
聞いてみると、旗や飾り物を掛けるために設置してあるとのことでしたので、正月三ケ日には何か掛けられていたのかと思います。



鳥居の亀腹には松の枝と祈禱札が供えられており、祈禱札には12本の横線が書かれていた。
札が何を意味しているのかは分かりませんが、12本あるということは12カ月の無事安寧を祈念したものかもしれないと考えてみる。



八幡神社は御祭神に譽田別尊(応神天皇)を祀り、境内社に「井守神社」と「津島神社」が並ぶ。
節分の夜には「豆占い」という1年の天候を占う神事が行われるといい、4月には1311年頃より始まったとされる「内野祭り」が行われ、長さ四メートルの大松明三本に火をつけて献火されるという。
八幡神社のある内野集落は、村社ではあるものの古式ゆかりの神事が守られている信仰深い地といえるのでしょう。



内野集落は岩戸山への登り口になっていて、山の上には「岩戸山神明」や拝観が年に一度の千日会の時しか出来ない「十三仏」があるという山麓にある集落です。
集落の北東にある岩戸山は、箕作山や赤神山と尾根筋でつながり、西には繖山・南には雪野山がある信仰深い地域であったことも信仰が守れれてきたことに影響しているのかも知れません。



本殿の前あたりに瘤の多い御神木を見つけましたので、境内に居られた方に聞くと「梛(ナギ)」の樹だということでした。
この日は神社の祭典があるようで慌ただしそうにされていたにも関わらず、いろいろと教えていただき個人宅に車を停めさせて頂いたのは助かりました。



境内の外れにも御神木があるのを見ていましたので併せて聞いてみると、クリの樹ということでもう一度見に行く。
根っこの部分に空洞が出来てしまっていて、中には御神酒を上げる盃が置かれている。
少し勢いは衰えてきている感じもしますが、見応えのある堂々たる御神木です。



樹の裏側から見ると根が浮き上がるように盛り上がっていて、迫力のある老樹です。
環境省の巨樹・巨木林データベースには内野八幡神社にツブラジイが2本登録されており、幹周3.2mと3.8m、樹高が2本共12mの樹とある。
本殿・境内社の裏は森になっていますから、御神木がそれに該当するかは不明です。



さて、なぜ内野集落へやってきたかというといいますと、実は内野集落の「勧請縄」を見たかったからなのです。
湖東地方の「勧請縄」は集落に疫病や災いが入り込むのを防ぐものとされ、中央に掛けられるトリクグラズはその集落独特の意匠で作られるとされます。



集落の旧玄関口にある5m角の鳥居の形を模した木柱に掛けられた「勧請縄」には先端にスギの葉を付けた12本の縄がぶら下がっており、中央にはスギの葉で作ったトリクグラズが掛けられる。
この「勧請縄」は八幡神社を含めた集落に張られた結界のようなものでもあり、集落の厄除けとして人々を守ってくれるとされます。



奥が神社方向となる側から見たトリクグラズに掛けられた木札には『天下泰平・村中安全・五穀豊穣』の願いが書き込まれて集落の安寧と豊作を祈願します。
反対側から見た木札の裏には月と「大」や「小」の文字が書かれており、大小の文字の意味は月ごとの天候や豊作不作を占ったものなのかもしれません。





「勧請縄」に集落を守るための結界のような役割があるとすれば、それは「野神さん」に近いものなのかと一瞬考えましたが、その考えは見当外れだったようです。
なぜかというと内野集落から西に広がる田園地帯の一角に「西野神」さんが祀られていたからでした。



整地された場所に岩が祀られ、真新しい御幣が捧げられており、おそらくここは隣村との境界になるのでしょう。
ということは湖東地方には「勧請縄」の信仰と「野神」信仰が両立していることになりますから、その信仰形態に深い興味を感じます。



内野集落の「勧請縄」は、昨年リニューアルオープンしたという琵琶湖博物館に原寸に近いサイズのレプリカが展示されているそうです。
実際にくぐることも出来るそうで、内野の勧請縄をモデルにしたのは近江の勧請縄の典型的な形状を伝えていると考えたからだといいます。


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「長浜豊国神社」十日戎 宵ゑびす~滋賀県長浜市~

2021-01-10 14:14:14 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「長浜豊国神社」の十日戎が始まり宵ゑびすへ参拝致しましたが、今年はコロナ渦で参拝者が少なく、コロナ対策の中での静かな参拝となりました。
例年なら開催される福餅まきや甘酒の接待、本戒での宝恵駕篭の行列も今年は全て中止で、静かな境内や街に鳴り響く商売繁盛の囃子も何やら物悲しい。

秀吉(当時は羽柴秀吉)が初めて城持の大名に出世して築城したのが長浜城で、「長浜豊国神社」は秀吉の三回忌にあたる1600年に長浜町民によって建立されたといいます。
それだけ町民の信仰を集めていた秀吉ですが、徳川時代の江戸期に秀吉はタブー。
町民たちは、恵比須神(事代主)を祀る神社としてカムフラージュして裏で秀吉を祀っていたといいます。



鳥居の前の神社の石碑の前にはコロナ対策の看板と消毒液が置かれる厳戒態勢となっており、参拝者の数もまばらで活気を失い、例年なら縁起物を販売しているお店も縮小されている。
その代わりに本殿前には福娘が待機されていて参拝者が来ると参拝している間中、横で「神楽鈴」を鳴らし続けてくれたのは参拝者への心遣いなのかもしれません。



本殿の横にある「出世稲荷神社」にもパラパラと参拝の方が来られており、皆ソーシャルディスタンスを取りながら参拝の順番を待ちます。
参拝者が多いと密になりがちですが、少ないと距離が保てるのが人の心理の面白いところですね。



境内のひょうたん池のそばには「虎石」という石が祀られています。
この石は秀吉が長浜城に庭園を造った時に、加藤清正が寄進した庭石とされ、秀吉没後に大通寺に移設されたところ毎夜「いのう(帰ろう)、いのう」と夜泣きしたといいます。
そこで「虎石」は既に廃城となっていた長浜城内に戻し、その後に豊国神社に移されたという伝承の残る石です。



“商売繁昌で笹持ってこい!”の囃子だけが景気よく流れている十日戎の境内でしたが、そこに運良く「ひでよしくん」が登場です。
例年、十日戎の餅まきの時間帯などには境内はおろか参道まで人が溢れますが、今年は「ひでよしくん」とone to one。



世話方の人が十日戎の縁起物を売っているお店から福娘を呼び出して「ひでよしくん」とツーショット写真を撮られていたので便乗して撮らせてもらいました。
縁起物のテントもコロナ対策でカーテンが掛けられているので、中の縁起物が見づらい状態なのが残念ですね。



縁起物売り場の前でポーズを決める「ひでよしくん」。
金は天下の回り物という言葉がありますが、縁起物はどれも結構なお値段をしていて、ちょっと手が出ない。



境内ではお礼参りで持ってこられた笹やお札のお焚き上げをされていますが、お礼参りに来られる方の数が少ないのか火の勢いが弱い。
コロナも怖ろしければ景気も悪いという今の異常な世相を反映しています。



笹には「節目正しく真直に伸びる」、「弾力があり折れない」、「葉が落ちず常に青々と繁る」という特徴があり、商売繁盛の縁起物になったといいます。
笹や縁起物のお焚き上げの豪火でコロナ渦を焼き尽くして欲しいですね。


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「依智秦氏の里古墳公園」と「豊満神社」~滋賀県愛知郡愛荘町~

2021-01-07 12:58:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県内の神社や寺院を巡っていると渡来人が残した、あるいは渡来人の影響の痕跡が数多く残されていることに驚きます。
渡来人は古代の日本に稲作技術に始まり、灌漑などの土木技術や養蚕による繊維加工、製鉄技術や土器の製作。漢字の流入や仏教公伝、医学の知識などを持ち込んだとされています。

愛知郡愛荘町には渡来人「依智秦氏」の6世紀~7世紀頃に造られたとされる10基の古墳が公園として整備されて残されています。
古墳の正式な名称は「上蚊野古墳群」といい。もとは102基の古墳があったようですが、戦後の開墾などで大部分が壊され公園内には10基の古墳を残すのみとなってしまったそうです。



また、「上蚊野古墳群」は西に196基の古墳がある「蚊野外古墳群」と合わせて「金剛寺野古墳群」と総称され、計298基からなる県下最大規模の古墳群とされている。
1個1個の古墳はそれほど大きなものではありませんが、小山のような古墳が寄り添うように10基並んでいる光景はこれまであまり見たことのない古墳群でした。



解説板によるとここには2種類の異なった構造の石室の古墳があるといい、片や横穴式石室の古墳ともう一方は竪穴系横口式石室の古墳だといいます。
ただし、横穴式石室の古墳は羨道の入口に網が掛かっていて内部を伺い知ることはできませんが、よくある古墳の構造なのかと思います。

 

上の「こうもり塚 3号墳」と下の「百塚 1号墳」は、共に横穴式石室の古墳で羨道内部は全く見えません。
横穴式は羨道床と玄室床が水平となっていることから、家族墓として追葬を可能としていると書かれていました。





これに対して「たぬき塚 7号墳」は玄室床面が羨道より約35センチ低くなっている階段式の石室構造となっているようです。
「竪穴系横口式石室」は滋賀県で安土町・竜王町・水口町に見られるそうですが、全国的には北九州地方に集中しているといい、そのことが渡来系氏族の墳墓と考えられる根拠となっているともされる。



古墳の呼び名に「こうもり」とか「たぬき」とかが付いていますが、これは昔コウモリや狸が住み着いていたことによるそうです。
上蚊野古墳群で羨道や石室に入れるのは「たぬき塚」だけとはいえ、草も生えていますので入口から覗くのみとする。



羨道と玄室は床のたかさが違い、階段状になっていましたので、これが「竪穴系横口式石室」の構造となるのでしょう。
石室の内部の調査では、人骨や棺材は残っていなかったものの、耳環・鉄製刀子・土器(須恵器)などが発見されているようです。



「たぬき塚」は発掘調査の時には既に天井石が抜き取られていて、現在の天井石は公園整備の時につけられたもの。
自然光を取り込むガラスがはめ込まれていて中は明るいので見やすいのですが、少し違和感も感じます。



この古墳群を含む「金剛寺野古墳群」は、この地を治めていた依智秦氏の一族の古墳だとされています。
自治体名としても「愛知(依智えち)」が付き、旧町名は「秦荘」であることから、古代より依智秦氏が勢力を持っていた地と考えてよいのかと思います。

秦氏の起源には諸説ありますが、渡来して勢力を持つと各地に拠点を作って活躍していた一族とされ、その系統の中に依智秦氏は位置するようです。
秦氏の代表的な人物としては聖徳太子に仕えた秦河勝の名が上げられますが、聖徳太子と湖東地方との関係の深さの陰には秦氏の協力があったと考えると、興味が湧いてきますね。

この後、歩いて行ける距離にある「八幡神社」にある4基の古墳を見に行きましたが、草や木の茂り方が凄く、とても入ることが出来なかったため、諦めて引き返す。
さて、せっかく愛荘町にいますので「豊満神社」に参拝してから帰ることにします。



豊満神社は創祀年代は定かではないとされているが、滋賀県神社庁のHPには“この地開拓の依智秦氏が祭祀したと伝えられ...”と書かれている。
御祭神は大國主命・足仲彦命(仲哀天皇)・ 息長足姫命・譽田別尊(応神天皇)とし、勝運・縁結び・美人祈願・厄除などの御利益があるという。



鳥居の横には「津島神社」が祀られ、背後には竹林がある。
この竹林は、神功皇后「勝運伝説の竹藪」と呼ばれ、神功皇后が朝鮮征伐の折りにこの辺りの竹で旗竿場に持参したところ見事に勝利を収めたという伝承があるといいます。

そのため、源頼朝や豊臣秀次など多くの武将がこの神社の竹で旗竿を作って戦勝祈願したことから、「旗の宮」と称したといわれます。
また、「旗」と「秦」が同音であることから、「秦の宮」と解し、渡来系氏族 依智秦氏に由来するという説もあるようです。



鳥居から入り直して参道を進むと、檜皮こけら鎧葺の朱塗りの四脚門へと到着する。
四脚門は鎌倉時代末期の建立とされる鮮やかで均整のとれた美しい門です。



社殿は織田信長の兵火以降、幾たびかの火災などにみまわれながらも都度復旧したが安政元年(1854年)火災に遭ってしまったといい、現在の社殿は万延元年1860年に復興したものとされます。
勝運の「旗神さま」の御由緒から武家の信仰を集めただけあって、本殿は力強く猛々しい印象のある本殿です。



「豊満神社」は多くの武将たちが戦勝祈願をしたことから勝運の神として信仰されている反面、「豊満(とよみつ)」名前から、容姿向上や美人祈願の神としても親しまれているようです。
本殿の裏の森には「美人の木」という樹齢300年とされるムクの木があり、長く伸びた根が女性の美脚を想像させることから、美人祈願に訪れる方も多いという。



また、森の中には首長竜を思わせるような「恐竜の木」もあり、訪れる人を楽しませているという。



御朱印には「旗神」の判が押されており、やはりこの神社は勝運の「旗神さま」の神社なのだろう。
確かめようもありませんが、気になるのは「旗」が「秦」のことなのか、依智秦氏とどのような関わりがあったのか、ということですね。




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初詣「長浜八幡宮」と「舎那院」~滋賀県長浜市~

2021-01-02 17:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大晦日から元旦にかけて湖北地方には大雪警報が発令されて吹雪が続いていましたが、午後に一時晴れ間の出てきた間に初詣の参拝を致しました。
お参りしたのは「長浜八幡宮」と境内にある「舎那院」で、地元の人には「八幡さん」「舎那院さん」と呼ばれて親しまれている神社と寺院です。

「長浜八幡宮」の周辺は積雪量も大したことはなかったものの、新型コロナの影響もあって参拝者はやや少なめ。
とはいえ、本殿までの参道には行列が出来ており、露店も出て元旦らしい晴れやかさとにぎわいを見せていました。



「長浜八幡宮」は1069年、源義家公(八幡太郎)が後三条天皇の勅願を受け、京都の石清水八幡宮より御分霊を迎えて鎮座されたのが始まりだとされます。
戦国時代の兵火により社殿のほとんどを消失したものの、長浜城主になった羽柴秀吉よって八幡宮は再興されたといいます。



本殿に祀られるのは「足仲彦尊(仲哀天皇)」「誉田別尊(応神天皇)」「息長足姫尊(神功皇后)」の3柱で、厄除開運・健康長寿・安産守護の御利益があるといいます。
また、日本三大山車祭の「長浜曳山祭」は、秀吉ゆかりの祭りとして長浜八幡宮の春の例祭に曳山を曳き回したのが起源とされています。
長浜曳山祭りでは出番山の曳山が長浜八幡宮に集結して子供歌舞伎を奉納した後、長浜八幡宮の御旅所で最後の公演をしますが、昨年はコロナ禍により中止されました。

長浜八幡宮の一之鳥居を抜けた参道の入口には「賀正」の2つの提灯が掲げられて、勧請縄が掛けられています。
悪いものの侵入を防ぐための結界かと思いますが、湖東地方の勧請縄を比べるとオーソドックスな形となっています。



手水には柄杓は置いておらず手で水を受けるようになっているのはコロナ対策なのでしょう。
鉢の中には色鮮やかな花が活けられており、水を通す竹の上には鶴亀の飾り物が飾られて、正月らしい縁起の良さを表しています。



石畳の参道を歩き、終点で直角に曲がると二之鳥居があり、拝殿が正面に見えてきます。
参拝者の行列が出来ていますが、元旦であることを思えば、やはり人の出は少ない。
新型コロナの影響もあるのでしょうけど、やはり雪で外に出るのが億劫な方も多いのかと思います。



拝殿に祀られているのは氷で作られた今年の干支の丑。
八幡宮では大晦日の夜に翌年の干支を氷の彫刻で作ったり、落語家が来てカウントダウンするイベントがあるそうです。





参拝の順番を待って並んでいる間に、晴れ間のみえていた天気が急変して雪が舞い始める。
順番がきたので帽子を脱いで本殿前に立ち、今年の安寧を祈願する。



長浜八幡宮には摂社の「高良神社」、末社の「天満宮」「地主神社」「熊野神社」「金刀比羅宮」「河濯神社」「末広稲荷神社」の社や祠が並びます。
毎年お盆に「蛇の舞神事」が奉納される放生池の中心には「都久夫須麻神社」が祀られており、これは琵琶湖に浮かぶ竹生島の都久夫須麻神社を模しているものでしょう。



初詣を終えた後、長浜八幡宮と境内でつながっている「舎那院」へと初参りに伺います。
舎那院さんは、真言宗豊山派の寺院で8月の後半から9月いっぱいにかけて咲く芙蓉の寺院として訪れる方の多い寺院です。



「舎那院」は814年、空海が開基したと伝えられており、山号の勝軍山は後三条天皇より賜ったもので、勅願の神宮寺として「勝軍山 新放生寺 八幡宮」となったといいます。
往時は社坊300余りを数える大寺院だったものの、戦乱の兵火などにより衰退の一途をたどり、明治維新の廃仏毀釈によって 「新放生寺」は「舎那院」だけが残ったとされます。





1810年に落慶された本堂内はライトアップされていて、境内にはアンビエントなヒーリング・ミュージックが流れている素晴らしい空間となっていたのには衝撃を受ける。
須弥壇には秘仏本尊の御前立の「愛染明王坐像」と「多聞天」「持国天」を中心に左から「薬師如来坐像と十二神像」「馬鳴菩薩」「大日如来坐像」が並び、右側には「空海像」が祀られている。
「馬鳴菩薩」は聞きなれない菩薩ですが、貧民の衆生に衣服を与える菩薩であるとか「養蚕織物の神」として祀られる菩薩のようです。



寺院の方にお話しを伺うと、寺院には収蔵庫があり、そこには秘仏本尊の「愛染明王坐像(鎌倉期・重文)」や「阿弥陀如来坐像(平安期・重文)」「薬師如来坐像(平安期)」などが納められているそうです。
「阿弥陀如来坐像」には圓常寺に祀ってあった仏像を秀吉が気に入り、 新放生寺(舎那院の前身)に持ち込んだという逸話がの残されている仏像だそうです。

境内に流れていた音楽が気になったものですから「関口 仁」ってどういう方なのですか?と聞いてみる。
関口さんは作曲演奏家で和太鼓奏者でもあるといい、村上ポンタ秀一に師事した後、1980年から喜多郎とシルクロードなどの製作活動を行ってきた方だといいます。

長野県に移住していた20数年間、自己の音楽制作を行いアルバムリリースは13枚を数え、国内外での演奏も多数行われているといいます。
空海の教えに魅かれ、仏教の修行もする中で、宇宙の真理と空海の理の同一性に気付き、音楽や独自の楽器の製作をされていると教えていただきました。
言霊は言葉に宿ると信じられた霊的な力ですが、寺院の方によると“彼は音霊の人なんです。”と言われ、何と秀逸な表現なのかと感心する。


(QRコードからHPへ入れます)

境内には「観音堂」「太子堂」「弁天堂」などがありますが、大晦日から正月にかけて開帳されるのが「護摩堂(不動堂)」で、室町時代後期頃の建築とされる護摩堂は滋賀県指定有形文化財の指定を受けています。
堂内に祀られるのは「不動明王立像」「歓喜天」「大黒天」で、顔をライトで照らし出された不動明王には強いインパクトがあります。
尚、「歓喜天」の厨子はそのエネルギーの強さから開廟されることはないとのことでした。





「舎那院」に宝物が多いのは、廃仏毀釈で廃寺となってしまった寺院に祀られていた仏像等が舎那院に集められたことによるものだそうです。
収蔵庫に保管されている仏像のうち3躰は写真で見ることが出来ますが、開帳されることがあれば是非この目で見てみたい仏像です。

最後に寺院の境内の様子を動画で撮ってみました。
境内を流れる米川は長浜の市街地を曲がりくねりながら流れ、琵琶湖に注ぎ込みます。
舎那院の中と八幡宮の後方を流れる川にはカワセミが来ることもあります。




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