僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

惟喬親王と木地師の里2「太皇器地祖神社のスギ」~東近江市君ヶ畑町~

2021-05-29 17:38:24 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 木地師の起源とされる小椋谷六ヶ村(君ヶ畑・蛭谷・箕川・政所・黄和田・九居瀬)には木地師の文化が残るとともに、「惟喬親王伝説」が色濃く残る地域とされます。
「惟喬親王」は、第55代「文徳(もんとく)天皇」の第1皇子として生まれながら、皇位継承争いによって皇位につけず、859年から19年間、小椋谷に隠棲したとされる方です。

蛭谷集落には「惟喬親王の御陵」、君ヶ畑には惟喬親王を御祀神として祀る「大皇器地祖神社」や親王の御殿とされる「高松御所 金龍寺」があり、ここにもまた「惟喬親王廟」があります。
「大皇器地祖神社」はスギの巨樹が林立する神社と聞き、鈴鹿山系の山奥の村・君ヶ畑へと向かいました。



君ヶ畑はその立地からもっと過疎化が進んでいるのかと思いきや、人々が生活している空気感は充分感じられ、穏やかな雰囲気に包まれた集落でした。
民家の横の石灯籠に挟まれた道が神社の参道で、中央部だけが滑り止め石段になっているのは、車で登られることがあるからなのかもしれない。



参道の先には鳥居と大きな森。
滋賀県には不便な場所にありながらもしっかりと祀られている神社が多いのですが、大皇器地祖神社も立派な本殿と掃除が行き届いた神社でした。





鳥居まで来て気になるのは、鳥居の向こう側にある朽ちた巨木の大きな切り株です。
注連縄が巻かれていますから御神木だと思いますが、切り株からしてかなりの大木であったことが分かります。
株立ちだった残りのもう1本も巨樹と呼べるレベルですから、それより太いはずのスギはかなりの巨樹だったと思われます。





参道へ入っても幹周5m級のスギが林立しており、どのスギも真っすぐに天に向かって伸びているのはそれだけ管理状態がよかったからなのでしょう。
巨樹に挟まれながらの参拝となり、気持ちが引き締まります。



太鼓橋の向こう側には拝殿・本殿があり、その間にも巨樹が連なります。
橋には滑り止めの蓆が敷いてあるのも細かな気配りになっています。





この神社境内には3~5mを越える巨樹スギが30本近くありますが、見た感じで最も太いのは、太鼓橋の横にあるスギでしょう。
真っすぐなスギですので写真では太さが分かりませんが、幹周はおそらく6m近くはあるでしょう。





本堂へ参拝する前に手水に行くと、勢いよくあふれ出る水量の多さに驚きます。
集落内にも共同の水場があり、勢いよく水が出ており、鈴鹿山系にあるこの地域の豊富な水に感じ入るものも多い。



大皇器地祖神社は「惟喬親王」が亡くなった翌年の898年に神殿を造営したのが起源とし、「大皇大明神」の社号を賜はったといいます。
その後、明治の時代になってから「大皇器地祖神社」と御改謚になったといい、境内社には多賀神社・蛭子神社を祀ります。



君ヶ畑には「惟喬親王伝説」以外にも「さざれ石物語」という伝説があり、惟喬親王の側近であった藤原定勝が岐阜県の春日村という木地師の村を訪ねた際にさざれ石を見つけ、和歌を詠んだとされます。
「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」(『古今和歌集』では「読人知らず」)



境内には「山の神」が祀られています。
元々この場所にあったのか、ある時期に神社の境内に移されたのか。
惟喬親王を祀る前は、山や自然の神への敬いがあっただけなのかもしれません。



大皇器地祖神社の横には「惟喬親王廟」が祀られ、かつて惟喬親王の御殿があったとされる「高松御所 金龍寺」がある。
惟喬親王の墓とされる場所は、この地に何ヶ所かあるといい、京都にもあるといいます。
石塔の後方に墳墓があり、実際には誰が祀られているかは分かりませんが、各地で惟喬親王は崇敬されていたことは確かなようです。



君ヶ畑の集落を歩いている時、生活感は感じつつ誰にも会わなかったのですが、一人だけ他所から来た人に会いました。
挨拶だけ交わすとその方は山の方へ消えていきます。

どこへ行かれたのだろうと見てみると、飛び出し坊やが「天狗堂」という山の登山口を示しています。
「天狗堂」は鈴鹿十座のひとつに数えられる山で、標高988mの急登の多い山だそうです。



東近江市の君ヶ畑は木地師の里と呼ばれますが、多賀町の山奥にも大君ヶ畑という集落があるといい、その地にある白山神社でも惟喬親王を合祀していると聞きます。
一説によると「畑」という字の付く集落は山深い集落に多いとされることや、渡来人・秦氏の「秦」から来ているという言い方をされたりもします。
丹生(水銀)や鉱物・木材を求めて各地の山へ入った渡来人の技術が、その地に住む人あるいは住み着いた人々に伝わり、継承され発展していったという考え方もあるようです。


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惟喬親王と木地師の里1「君ヶ畑のカツラ」~東近江市君ヶ畑町~

2021-05-26 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 白洲正子さんは「かくれ里」のなかで木地師の村として小椋谷を訪ねておられ、木地師や惟喬親王の伝説について書かれています。
“惟喬親王の伝説も、木地師の生活の中に、生まれるべくして生まれたように私は思う。(中略)突然現れたのが、流浪の貴公子である。神話はたちまちにして成った。”

惟喬親王は、平安時代前期の844年、第55代文徳天皇の第1皇子として生まれたものの、皇位継承争いで皇位につけず、859年に小椋谷に隠棲して19年間をこの地で過ごしたという伝説があるといいます。
伝説では、親王は法華経巻の巻軸が回転することから轆轤を考案して、周辺の杣人たちに轆轤の技術を伝授されたことにより木地師が始まったとされます。



小椋谷とは「君ヶ畑・蛭谷・箕川・黄和田・九居瀬・政所」の六ヶ村のことをいい、「君ヶ畑」と「蛭谷」の2つの集落が「木地師の文化」を色濃く残しているという。
小椋谷の木地師は、良材を求めて各地に移り住んで文化や技術を広めていったといい、小椋谷は「木地師発祥の地」として認知されるようになったとされます。

君ヶ畑集落は、奥永源寺から行くと最奥の村となり、鈴鹿山系の山を越えて東に下れば三重県みなべ市となるような場所となります。
当方は、多賀大社前から入ったので、多賀の山や犬上川ダムを越えての悪路を進んでしまいましたが、奥永源寺や百済寺甲町からの道を通ればよかったと気が付いたのは帰り道になってから。



やや道が開けてきたところに現れたのは「洗い越し」と呼ばれる路面上を川が横切って流れている場所でした。
増水して道の上に川が出来ているのは見たことがありますが、この「洗い越し」は最初から道の上に川が流れるように設計されており、珍しい光景に車を停めてしばらく周辺を見ておりました。



「洗い越し」を越えて箕川町に入ろうかという所まで来ると、唐突に「惟喬親王御陵」の鳥居が現れます。
この場所は、山越えの筒井峠の入口にあたり、「惟喬親王幽棲之址」や「御陵」があるといいます。



鳥居の横には大きな「惟喬親尊像」が祀られており、山深い山中にあって怖さを感じてしまう。
小椋谷では惟喬親王を木地師の祖として手厚く祀られていることが伺われ、全国に散らばった木地師からの崇敬もあったのでしょう。
木地師は加工するための木材を求めて山中を移動して生活する集団だったとされ、「7合目より上で伐採自由」という朱雀天皇の綸旨の写しを持った木地師特権を与えられたといいます。(諸説あり)



この坂を歩いて行けば墓碑か石塔があるのかとは思いましたが、進むのが躊躇われてここで諦めます。
かつてこの峠には木地師を管理する筒井公文所が置かれ、筒井千軒と呼ばれるほど繁栄していた地のようですが、今は周辺には何もない山奥の峠道になっている。



「惟喬親王御陵」からすぐのところには「山之神」の鳥居があり、山と森への信仰が今も息づいていることが伺われます。
山之神の鳥居にある石段の上へ行ってみようかと思いましたが、惟喬親王御陵への道と同様に何となく怖くなって諦めてしまいます。



さて、元の道をさらに進むと「蛭谷集落」を経て、「君ヶ畑集落」へと入ります。
集落の入口にある墓地を越えると、君ヶ畑集落の民家が見えてきて、「君ヶ畑ミニ展示館 」に車を停めさせていただきます。
君ヶ畑集落は5年程前の住民基本台帳の調査では世帯数22・総人口34人とあり、廃屋も見受けられますが、寂れた村といった印象は受けず、むしろ心地よい感じがする集落に感じました。



展示館には木地製品や製作工程を紹介するコーナーや古い轆轤や削る道具などが展示されていました。
清貧にはお盆やお椀など生活で使用するものの他に、けん玉やコマなども展示されており、こけし等も含めて全国に散らばった木地師がその地で製品を造ってきたことが想像されます。





君ヶ畑集落の横を流れる御池川の畔に降りてみましたが、透き通るように透明度の高い水に何とも言えない心地よさを感じます。
集落の中にある共同の水場からも水が流しっぱなしになっていましたので、この地域は鈴鹿山系から流れ出る豊富な水に恵まれていることが分かります。



御池川に沿って少し歩くと「君ヶ畑のカツラ」と呼ばれる巨樹がありました。
廃屋かと思われる家と御池川に挟まれた堤防に挟まれるようにしてカツラは立っていましたが、新緑の季節とあってひこばえが美しい。



近づいて見てみると、主幹が川を跨ぐように伸びているが、途中で折れてしまっている。
幹周は8~9m、樹高は十数mでしょうか。川の上に主幹を伸ばした姿が特徴的です。



角度を変えて眺めてみましたが、このカツラはこの位置から見るのが一番いいかもと思います。
カツラの樹は水を好むといいますので、水量の豊富な御池川の畔は環境としては適しているのでしょう。





樹齢は何年くらいか分かりませんが、枝ぶりを見ているとまだこれからも成長し続ける元気さを感じます。
木地師の村にあってカツラの巨樹を見るというのも、変わった体験かもしれませんね。



集落内を散歩がてら見て回りながら、懐かしい山里の原風景という言葉が思い浮かびましたが、そういう場所で暮らしたこともないのにおかしな表現だと思わず笑みを浮かべてしまう。
君ヶ畑には惟喬親王を御祀神として祀る「太皇器地祖(おおきみきじそ)神社」があり、神社にはスギの大木が林立しているといいますので、神社へ向かうことにします。...続く。


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金勝山(旧信楽道)の「泣き地蔵」~滋賀県栗東市荒張~

2021-05-22 13:00:13 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 金勝山(こんぜやま)は、「金粛菩薩」こと東大寺の開山・良弁ゆかりの霊地とされ、金勝山を含めた竜王山・鶏冠山・阿星山・飯道山の山系は湖南仏教圏として栄えたといいます。
また金勝山には摩崖仏や巨石群が数多く残り、奈良から京都東部、湖南地方を経て三重県伊賀方面へと続く「石の文化」の道の中にある地といえます。

金勝山は標高567mの低山でありますが、“こんな所へは、二度とはこんぜ(金勝)と人はいったという”と白洲正子さんは「かくれ里」に書かれているほど険しい山だったようです。
道の駅「こんぜの里りっとう」から林道を進んだところに「泣き地蔵」という阿弥陀如来・釈迦如来・薬師如来の3仏が彫られた摩崖仏があると聞き、金勝山を訪れることになりました。



「泣き地蔵」がある峠は、栗東側から信楽側に抜ける旧信楽道にあり、旅人を泣かせるほどの坂であったといいます。
現在は道路が整備されており、かつて峠最大の難所だったとされた頃の姿を想像できないほどあっさりと到着してしまいます。



林道から階段を降りていくと開けた場所に出て、すぐに「泣き地蔵」が見えてきます。
周辺はよく整備されているのですが、近年まで草や笹が多い茂って埋もれた状態だったそうでしたが、「栗東ふぁざ~ず倶楽部」(退職された方々の同行会)の提案によって整備されたようです。
整備が行き届いたおかげで埋もれていた摩崖仏に出会えるようになったのは、ありがたいことです。



「泣き地蔵」は、幕末にあたる1865年に真海と性隋という2人の僧が、峠を越えていく通行人の道中の安全を祈願して建立したとされます。
この「泣き地蔵」摩崖仏には花崗岩(高さ2.8m、幅4.4m)の巨石に「阿弥陀如来」「釈迦如来」「薬師如来」の三尊が並んで彫られており、刻銘もはっきりと残る。



安全祈願の摩崖仏ですから、道沿いにあったのかと思って道の先を探してみましたが、その先は草が茂っていて道があったようで、なかったようで...といった雰囲気。
当日は金勝山へ登られる方々を何組かお見かけしましたが、ここを歩いていかれた痕跡は見当たらず、もうこの峠道を行く人はないようです。



さて、摩崖仏の正面へ行ってみると、風化が少なくくっきりと仏が残っていることに驚きます。
それというのもこの摩崖仏は1865年に彫られたもので時は江戸時代の最末期。
近代化の始まった時代に山中を歩く旅人の安全祈願で摩崖仏を彫ったというのもある種の違和感を感じますが、それだけ中央と地方では進む時間の速度が違ったということなのでしょう。





「泣き地蔵」を真近で見ると、顔や衣にはほぼ欠損は見られず、光背の梵字もくっきりと残っている。
蓮華座もはっきり残っているのは、やはり150年という摩崖仏にしては短い時間によるものか、草や笹に覆われていて風化から守られていたのか。



三尊は同じような通肩の衣を着ておられますので、薬壺を持った「薬師如来」以外は解説板がないと見分けがつきません。
光背の梵字が読めれば何か分かるのでしょうけど、そもそも梵字は読めないし意味も分からない。
向かって左が阿弥陀定印を結んだ「阿弥陀如来」。



中央には法界定印を結んだ「釈迦如来」で、一番右が薬壺を両手で持った「薬師如来」。
「泣き地蔵」と名が付くにも関わらず、釈迦・阿弥陀・薬師の三尊となっているのも霊山ゆえの信仰なのかもしれない。





「泣き地蔵」の阿弥陀如来の左側には銘刻がはっきりと残り、「元治二 乙丑年 建立之 真海 性随」とある。
銘刻もきれいに残っていますね。



「泣き地蔵」からもと来た道を戻る途中に視界が広がっている場所がありました。
おっ琵琶湖かと思いましたが、金勝山から琵琶湖がこんな近くに見えるはずはありません。
おそらく野洲川なんだろうと思います。



「泣き地蔵」はまさしく草や笹や竹に埋もれていた史跡だったのを、「栗東ふぁざ~ず倶楽部」の方々の手によって階段や参道が整備され、忘れられつつあった史跡を拝むことが出来るようになりました。
整備されたのは2014年春のことで今も整備を続けられているといいますから、“もうこんぜ(金勝)”といわれる金勝山にあって手軽に立ち寄れる史跡ということになります。


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「五百井神社のスギ」~滋賀県栗東市下戸山~

2021-05-19 06:06:06 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 栗東市の安養寺山(標高234m)の麓に「五百井神社(いおのいじんじゃ)」という神社があり、境内の林の中に推定1000年以上という大杉があるといいます。
五百井神社は、古代豪族「蘆井造鯨(いおいのみやつこくじら)」の祖を祀るとされ、その名残か神社の鳥居の扁額には「蘆井神社」とある。

蘆井造鯨は、壬申の乱で大友皇子側の将として活躍した人物とされ、大和の古道で戦って敗れたという。
「蘆井神社」は中世の中頃から「五百井神社」と表記されるようになったといい、1524年の本殿棟札によると下砥山村(現下戸山)の鎮守として篤く崇敬されていたとされます。



鳥居の辺りから遠巻きに見ても並ぶ社は真新しく、近年に建て替えられたものと分かるが、「本殿再建の記」には2013年の台風十八号の豪雨で安養寺山で土砂災害が発生して本殿を飲み込んだとあります。
高さ100m幅30mの土石流により本殿は跡形もなく消失、社務所・神輿蔵も土砂に埋まり全壊と甚大な被害を受けたようです。



翌年の2014年に再建を決議し、地鎮祭、上棟祭を経て、令和元年に竣工祭が営まれたといいますから、数年という短い期間で見事に再建を果たした神社となります。
「五百井神社」の祭神は「木俣の神」。木の神、水神、安産の神として崇敬されている神だとされます。



真新しい拝殿・本殿の裏山には土石流で根こそぎ流されたような跡が未だに残り、何層かの治山施設が造られ、土石流の再発を防止しているようです。
後方にある安養寺山の山頂には磐座があるといいますが、土石流の発生以降は遊歩道がなくなり磐座には行けなくなっているとのことです。



「五百井神社のスギ」は、境内にある林の中にあり、威圧感のある姿で真っすぐに立っていました。
本殿などの社は壊滅的な被害を受けたものの、御神木の辺りまでは土石流は来なかったのでしょう。



玉垣に囲まれて凛とした姿で立つ大杉は、幹周5m、樹高37m、推定樹齢は1000年以上とも伝承2000年とも伝えられているという。
このスギには“壬申の乱の時に大友皇子の息子が馬をつないだ”と言う伝説が残っているといいますが、壬申の乱は飛鳥時代の672年のことですから、あくまでも伝承なのでしょう。



幹の瘤に架けるように注連縄が張られており、日当たりのいい方向には枝が何本も出てきています。
樹にできる瘤は、樹が自分で傷を治しているため出来たものという説があり、樹が持つ自己治癒力を考えさせられることになりました。





枝が出てきている南から上を見上げてみる。
推定樹齢からすると老木になりますが、この枝ぶりを見ていると、まだ血気盛んな力に満ち溢れた樹なんだと思います。



周辺に田圃しかない農道を山に向かって突き当たった場所にあった「五百井神社」からは、災害による不運とすぐに再建した地元の講の方々の尽力が伺えます。
また、真新しく再建された社と、1000年とも2000年とも伝わる御神木からも、幾星霜の年月に渡り守り続け、信仰されてきた人々の気持が伝わってきます。




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「岩尾池の一本杉」と信楽のタヌキ~滋賀県甲賀市甲南町杉谷~

2021-05-16 16:03:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県は周囲を山に囲まれ、雪解け水や地下水などの豊富な水量は琵琶湖へと流れ込み京都・大阪へと水を供給しています。
とはいえ、農耕においてはその土地の立地条件などにより、農業に必要な水が不足する地域では、ため池に貯水して渇水時の農業用水を確保していることがあります。

山に囲まれた地域の多い甲賀市にはため池は多く存在し、甲南町杉谷にある岩尾池には伝承で樹齢千年以上とされる最澄由来の伝説の残る巨樹があるといいます。
岩尾池の畔にある巨樹は「岩尾池のスギ」または「一本杉」と呼ばれ、信楽を舞台にしたNHKの朝ドラの「スカーレット」などのロケ地にもなったようです。



滋賀県と三重県の県境にある岩尾山(標高471m)には、甲賀忍者の修行場として知られ、巨岩・奇岩や巨大な摩崖仏のある山の中腹には「岩尾山 息障寺」があります。
山岳修験が盛んだったこの地は、天台密教と密接に結びついたといい、山を挟んで甲賀と伊賀の境界ともなっています。

伝教大師・最澄は、比叡山延暦寺の根本中堂を建設するための木材を岩尾山から伐り出したとされることから、「池原延暦寺」「比叡山試みの寺」と呼ばれることがあるという。
目的地となる岩尾池までは舗装されてはいるものの、対向車が来たら困るような細くくねった道を進むことになります。



「岩尾池の一本杉」には最澄に関する伝承があり、“最澄上人がこの地で食事された際、使用後の箸を地面に突き刺したものが芽吹き、この巨木になった”と伝わります。
最澄や空海などの高僧や神格化されている武将などが使った箸が巨樹に育ったという話を巨樹を巡っているとあちこちで聞きます。
「箸立伝説」は、箸を神を迎える依り代とする神事の名残りとも言われることがありますが、地域を問わず事例が多いだけに興味深い伝説です。



「岩尾池の一本杉」は池に突き出たような場所にあり、道からだと遠景になりますので近づけないかと道を探すと、道はないもののスギ林を通り抜ければ樹の横に行けそうなので近寄ってみる。
滋賀県の案内板によると、幹周4.7m・樹高15m・樹齢1000年以上(伝承)だとあり、1000年かどうかはともかくとして古木感の漂う巨樹です。



樹の根元に何かありましたので祠かと思って見てみると、養蜂の巣箱が置かれています。
ここに蜂が集まるのか少し不思議にも思いましたが、「岩尾池の一本杉」には祠や注連縄などはなく、信仰の対象となっている巨樹の雰囲気はあまりない。



この樹は池側から見るのがもっとも迫力があります。
ただ池は満々と水を満たしていましたので、ずり落ちないように足元は要注意でした。



ため池は古くは稲作文化が根付いた弥生時代には存在したといい、その7割は江戸時代に築造されたとされています。
ため池の横に巨樹があることが時にありますが、それはため池が水田の灌漑に恵みの水を与えてくれることや、その池を守る神の依り代として植えられてきたのかとも想像されます。



以前に「岩尾山 息障寺」を訪れた時に岩尾山の展望台から見た大沢池と岩尾池の風景です。
山から流れ出る清流を堰き止めて池を造っているようで、大沢池や岩尾池は谷あいにある池なのが分かります。



さて、岩尾池から信楽の中心地まではすぐ近い。
信楽の町まで行ってお土産屋さんへ立ち寄りました。



信楽の町にはどこもかしこも信楽焼のタヌキが並んでおり、縁起物として信楽の象徴になっています。
八相縁起のタヌキの姿は商売繁盛の縁起物であるとともに、人生訓にもなっているとか...。




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「吉槻のカツラ」と「諏訪神社の乳銀杏」~姉川上流の東草野の山村~

2021-05-13 05:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 吉槻のカツラ

米原市の東草野と呼ばれる山村は、「東草野の山村景観」として全国で61ヶ所ある国の重要文化的景観に選定されているといいます。(滋賀県では6カ所が選定)
東草野は伊吹山地の西麓の姉川上流の谷にある山村で、甲津原・曲谷・甲賀・吉槻の4集落の総称とされています。

東草野地域の最奥にある甲津原集落にはグランスノー奥伊吹(奥伊吹スキー場)があってスキーシーズンにはぎわい、スキー場がある東草野地域は西日本屈指の豪雪地帯といわれています。
姉川を上流に向かって遡る県道40号線は探鳥目的で何度か通った道ですが、今回は「吉槻のカツラ」を探しに向かいます。



「吉槻のカツラ」は滋賀県の指定記念物の案内板によると、株立ちの幹周は8.1mで樹高は16m、推定樹齢は1000年だという。
ガードレールのすぐ横の斜面にあるが、斜面の下にはとても降りれそうにもなく、坂の上から眺めることになる。



株は密集し、分岐した枝は各方向に何本も伸びていて新葉が生え揃う頃にはまた違った姿をみせてくれるのでしょう。
霊仙山の山中の廃村にある「井戸神社のカツラ」や、伊吹山山麓の神社にある「梓河内のカツラ」とはかなり受ける印象が違います。
おそらくは集落の入口辺りにあって、身近な樹となっていることも影響しているのでしょう。



横に回り込むとカツラの立つ位置は斜面始まる場所となっていて、姉川まで急斜面が続く。
推定樹齢1000年ということですが、よくこの不安定そうな場所で育ってきたものだと驚きます。



左右どちらから見ても見事な巨樹で、特に姉川方面となる南東方向に何本も枝が伸びています。
幹に苔が生えているのは湿度の高い水辺ならではなのかと思います。





現在も長閑な山村風景の名残りが残る吉槻集落ですが、中世から近世にかけては東西南北の峠道が交錯する交通の要所だったとされます。
東は岐阜方面、西は北国街道方面、南は彦根や多賀なのでしょうか。

米原市のウェブサイトによると、吉槻集落には石造物が多く残るといい、多くは墓標として造られたものだとあります。
峠道には石仏(地蔵尊)が祀られて道行く人の安全を祈願したとされるのは、それだけ人の往来が多くあった時代があり、繁栄していた集落だったということになります。

諏訪神社の乳銀杏

イチョウは、葉や幹の水分量が多いとされ、神社や仏閣で防火の効果があるとして植えられることが多い樹です。
通常は真っすぐにそそり立つ事の多いイチョウですが、まれに枝に気根が垂れ下がり乳のようになるものがあり、乳がよく出るようにと信仰されることも多いといいます。

東草野地区の吉槻集落から姉川を下流方向へ向かうと、上板並という集落があり、諏訪神社の境内に乳銀杏(正式名は「乳公孫」)の巨樹があると聞き、現地へと向かいました。
しかし、探せども探せども樹は見つからず、唯一あった看板の方向へ進むんでいくと姉川の岸部に着いてしまうといった有様。
畑で作業されていた地元の方に教えて頂いてやっと道が分かり現地へと向かいます。



車で行けるところまで林道を進み、山道へと入ります。
その先にあると教えてもらってなければ入ることを躊躇したくなるような鬱蒼としたスギ林です。



途中で道が陥落している場所があって、避けながら進むことになりますが、山道は距離にして数十mといったところ。
すぐに陽の差す場所が見えてきました。



沢に架けられた石橋を渡って石段を登れば、そこは「諏訪神社」の境内地になります。
「諏訪神社」とはいっても祠が祀られているだけでしたが、上板並の大銀杏には武田信玄にまつわる伝承が残されているようです。

戦国時代、武田信玄の乳母の親元が板並で、乳母が郷里の板並に帰ってきた時に杖にしていた銀杏の木を地面に突きさしたものが成長したといいます。
どういう経緯で甲斐の武田信玄の乳母にになったのかは謎ですが、伝承にはミステリアルな逸話が付き物ですから、何か関わりがあったのでしょう。



「諏訪神社」とはいっても小さな祠が祀られているのみで、横には合体樹になりつつあるスギの木がある。
信玄公の崇敬した諏訪大社の分霊というよりも、山を御神体として祀る祠のようにも思えます。



注連縄の巻かれたイチョウの樹は、幹周が6.8m・樹高が30mあるといい、推定樹齢は300年以上(400年以上ともされる)とされます。
枝から垂れ下がった気根は大きいもので長さ2m・直径30cmあるとされており、県内でも有数の大きさとされています。(滋賀県緑化推進会)



気根が垂れ下がっている方から見ると、心なしか巨大な象やマンモスのようにも見えてしまいます。
落葉している季節でしたから、パッと見てイチョウの樹だとはとても思えない神がかった姿です。





乳銀杏のコブは、削って煎じて飲んだり、触ったりするとお乳がよく出ると伝えられ、お詣りする人が絶えなかったといいます。
この話は、日本の乳銀杏の共通に伝わる伝説とされており、情報が伝達されたというより人が垂れ下がった気根を見て感じたことに共通性があったということかと思います。



鍾乳石のように垂れ下がった気根は作為的には造れない自然の造形の不思議さを感じます。
折れた枝の断面が生き物の目に見えてしまうのも、この樹の造形の特殊さからくるものかもしれません。



この上板並集落から姉川沿いに上流を遡っていくと、吉槻→甲賀→曲谷→甲津原の東草野地区になりますが、曲谷集落の白山神社の境内にも乳銀杏の樹があります。
写真は以前に訪れた時のものですが、曲谷の乳銀杏はそれほど老木ではないにも関わらず、大きな気根が垂れ下がっていました。



これは巨樹に限ったことではありませんが、その土地に残された物を見て、少しその土地の歴史や民俗・伝統などが垣間見えると興味が高まってきます。
またそういったものが人知れず残されたり、継承されたりしていることが多いのが滋賀県の風土の魅力になっているのかと思います。


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梓河内「神明神社のスギ」は山の神か?~米原市梓河内~

2021-05-10 05:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 米原市の梓河内は霊仙山にくいこむような谷あいにある集落で、その最奥にある「神明神社」には巨樹のスギがあるといいます。
集落の端は霊仙山へとつながり、獣除けの柵で閉ざされています。

柵は2カ所あってどちらへ入るべきか悩んでいる時、運よく地元の方がおられるのを見つけて道を聞くことができました。
周辺には「クマ出没注意」の看板が何枚も掛けられていたので“クマって出ませんよね。”と聞いてみると、“クマさんは見たことない”。これは安心です。



柵の先は林業用の道となっているようで、地元の人が軽トラで山へ入られるような道。
柵を開けなくても横から入れるので入りましたが、動物というより不審者の侵入を防止するような柵になっています。



年中、獣除けの柵を越えてこういう感じの場所を歩いていますが、野鳥の羽音や水の音しかしないこういう場所は実に心地よい。
多賀もそうですが、霊仙山の周辺には神秘的でかつ霊的な場所が多いなぁと思います。



“橋を渡ったら神社だ”と聞いていましたので、すぐに場所は分かりましたが、この位置から見ても霊的な場所だと感じ取れます。
不思議に思ったのは、醒井養鱒場方向から霊仙山に向かった先の上丹生にも「神明神社」があり、梓河内から霊仙山に向かった先にも「神明神社」がある。
谷間の集落から霊仙山に向かう最奥に同じ社名の神社があるのは何か意味があるのでしょうか。



「神明神社」は同じ集落にある「八幡神社」の摂社となり、オコナイの祭事などでは両社を行き来するそうですが、「神明神社」には山の神のような雰囲気がある。
石段の横には数本の巨樹の前に巨石が舞台のように置かれ、竹で造られた鳥居には御幣が吊るされている。



「神明神社」は一般的に天照大御神を御祭神として祀り、太陽を神格化した神として農耕儀礼の結びつきが深いとされます。
ここでは霊仙山を神として祀り、巨石と巨樹を信仰の対象としており、「八幡神社」を野の神とするならば「神明神社」は山の神とするような印象が頭から離れない。



巨石と鳥居、御幣が奉じているのは御神木の前になりますが、裏側へ回り込むとその姿がよく分かります。
境内にはスギの巨樹が数本あり、もっとも太くて神木とされているスギは注連縄を巻かれた二股のスギのようです。



御神木のスギは幹周が6.7mで樹高は33m。
巨樹ぞろいの境内にあっても一際目立つ巨樹で、角度によっていろいろな表情を見せてくれます。



凄く気になったのは石段を登った先にある石でした。
座ってうつむいて本でも読むような姿をしている人?猿?なにか擬人的な雰囲気の漂う石です。



石垣の上にある本殿の周りにもスギの巨樹が数本あります。
幹周もが数メートルクラスのスギがこれだけ並ぶと迫力も神秘性も凄いとしかいえません。



本殿のすぐ前のスギもこれ以上は根元を広げられないかのように盛り上がり、石段の袖石の上に被さるようになっています。
生命感溢れるといった印象で、まさに神の依り代。「天地神明に誓って」という言葉を思い起こします。



本殿の左のスギ群を離れて見ると、石垣の上の太い根が張り、急な斜面の崖になっているにも関わらずしっかりと根を張っているのが分かります。
崖の手前には「子宝の水」という名水があり、お盆に水を汲んで仏壇に供えたり、飲むと子宝に恵まれると伝わるそうです。



神社から林道へ戻ると道はまだ先まで続いている。
林業用の道かと思いますが、この先はどうなっているのでしょうね。



獣除けの柵まで戻って、車に乗って元来た道を引き返す。
「梓河内 八幡神社」の前を通ると祭典の準備が整い、正装した村の方がぼちぼち集まりかけておられるようでした。


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「梓河内 八幡神社」のカツラ・ケヤキ・イチョウ~米原市梓河内~

2021-05-07 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 米原市梓河内は霊仙山(標高1094m)の麓、山系にくいこんだような谷あいにある長閑な集落で、集落にある八幡神社にはカツラの巨樹やケヤキ・イチョウの大木があるといいます。
集落を流れる梓川は、霊仙山を水源として醒ヶ井の辺りで天野川と合流するとされ、川の流れは穏やかにして水は透き通るように美しい。

集落は国道21号線からさほど距離はないにも関わらず、集落には古き良き山村の風景が連なります。
八幡神社に着くと何やら祭典の準備をされている様子で、忙しそうに準備される地元の方に頭を下げながら境内を歩く。



地元の方に話を聞くと、もう1時間ほどしたら神主さんが来て祭典が始まるとのこと。
拝殿には供物の数々が捧げられており、にぎやかになりそうな様子でしたが、神社の役員しか来ないとポツリと語っておられたのが印象的でした。



カツラの樹へ訪れた時はまだ新緑の季節には程遠く、葉は散って古木感が漂っていますが、雪の多いと思われるこの地域の厳しい冬をじっと耐え忍んできたのでしょう。
カツラの下には折れた小枝が無数にありましたが、暖かくなればまた新しい枝が芽吹いてくると思います。



梓河内八幡神社のカツラの幹周は7.1m・樹高は28m、推定樹齢300年以上とされ、主幹となる3本の幹がしっかりと立ち上がっています。
すでに枯れてしまった幹も2本ほどありますが、主幹に沿うようにして新しい枝が立ち上がってきており、世代が変わりながらも命をつないでいるようです。





境内には大きく傾いたイチョウの樹があり、支えられて立っている状態となっています。
幹周4m、樹高25mとされますが、なぜこんなに傾いてしまったのでしょう。



ただし、傾いてはいても根はしっかりと張っています。
八幡神社の樹の幹は、日当たりの悪い山側の方はどれも苔が生えていて、表裏がはっきりしています。
このイチョウも季節が変われば葉が生い茂り、秋には黄色く色づくことでしょう。



拝殿の右にはケヤキの樹があり、御神木とされているようです。
ケヤキも幹周が約4mあり、樹高は25m。太さはあまり感じられませんが立派な御神木です。





石垣の上に建つ本殿には「譽田別尊」を祀り、立派なたたずまいの社殿です。
創紀の時代は不詳とされていますが、1394年(応永元)社殿再建の記録があることから、創立は当然それ以前とされています。
文明、長享(1469~1489年)の頃は京極氏の崇敬が特に篤かったといいますから、八幡神(応神天皇)を武運の神(武神)として崇敬していたのかと思います。



谷間に流れる梓川に連なる集落は長閑そのものです。
八幡神社で祭典の準備をされていた人から“巨木ならこの先の「神明神社」に大きなスギがある。”と教えてもらって梓川を上流へと向かう。



集落の突き当りまで来ると谷間の集落は終わりとなり、山に突き当たります。
2カ所に獣除けの柵があり、どちらへ入ろうか渓流を眺めながら悩むことになる。



この渓流の先の柵の中には霊仙山への登山ルートがありましたが、陥落したり荒れたりしていて入れない旨の注意書きがあった。
ちょうど地元の人が歩いてこられたので神明神社への道を聞くと、もうひとつ奥の柵から入るとのこと。
では柵の中を歩いて行きましょう。...続く。


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「白龍神社」と平成の名水百選「堂来清水」~長浜市高山町~

2021-05-04 20:05:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県は周囲を山脈で囲まれた県となっており、西には比良山地、東には鈴鹿山脈、北は伊吹山地などが琵琶湖と平野を取り囲んでいます。
伊吹山地には伊吹山は元より、横山岳や小谷山や金糞岳など数々の山があり、なかでも金糞岳は標高1317mと伊吹山よりわずかに60mだけ低い、県下2番目の山となります。

金糞岳は草野川を遡っていき、最奥地になる高山キャンプ場が登山口および林道の入口になりますが、キャンプ場のすぐ手前には平成の名水百選に選ばれている「堂来清水」という湧き水があります。
滋賀県内で名水百選に選ばれているのは、高島市の「針江の生水」、米原市の「 居醒の清水」、愛荘町の「山比古湧水」を含めた4つとなります。



「堂来清水」のすぐそばには、2つの「白龍神社」が祀られており、ひとつは鳥居のある「白竜神社」、もう一方は湧き水のすぐ横に祠のある「白龍神社」となる。
位置的には草野川に沿って連なる集落のもっとも外れとなる金糞岳の麓に位置しています。
金糞岳の頂上は、滋賀県と岐阜県揖斐郡揖斐川町の境界ですから、人が生活している場所としては、この方角では最奥にある神社です。



「白龍神社」は、「高龗大神」を御祭神として祀っており、この神は京都の「貴船神社」や滋賀なら多賀町の「大瀧神社」の御祭神とされており、いづれも水の神として祀られている。
神話での「高龗大神」は、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際、剣の柄に溜った血から生まれたとされており、「高」は山の上を、「龗」は龍の意を示し、「龍」は水や雨を司る神とされています。



神社は山の縁にあり、その反対側には草野川が流れる。
午前中は山の蔭となり、少し怖い感じがするのは前日の雨で増水した草野川の水音が激しいさもあったのでしょう。



「堂来清水」にまつわる伝承では“今から1100年以上前、旱魃で農民が餓死寸前に追い込まれたとき、野瀬集落の草庵の槻之坊という住職が農民とともに雨乞いをしたという。”
“槻之坊と村人が奥の池に住む白龍という竜神に雨乞いをした結果、麓の堂来に清水(湧水)が出るようになった。”と伝えられているそうです。
奥の池とは「夜叉ヶ妹池」と呼ばれていて、福井県と岐阜県の県境にある「夜叉ヶ池」を姉とする金糞岳山中にある夜叉ヶ池の妹にあたる池だといいます。



金糞岳を岐阜県側に越える鳥越林道を使えば「夜叉ヶ池」方面に行くことは出来ますが、はてさて「夜叉ヶ妹池」とはどこにあるのか...。
調べると、鳥越林道の途中の登山道から、金糞岳の南尾根にある「カナ山(標高985.8m)のピークの近くにある池ということで、そこがこの清水の源泉となるようです。
旱魃に苦しむ農民が僧の雨乞いを頼りに白龍の棲む池で雨乞いをし、湧き出た水を山麓に神社として祀って利用してきたということになります。



湧き水がある場所にはそれぞれ独特の雰囲気がありますが、この堂来清水では特に聖域の湧き水のような印象を受ける。
五穀豊穣を願う「オコナイ」神事では、堂来清水を洗米水として活かされているといいます。



さて、この奥にある高山キャンプ場から鳥越林道へ入る道がありますが、通行止めかと思っていたら何と開通しており、久しぶりに林道を進んでみます。
標高1040mとされる鳥越峠まで行って景色を眺めましたが、やはりここは絶景ポイントですね。
この時節でも道路脇や崖下には雪が残り、常緑樹以外の新緑の若葉はまだ少ない。



林道の途中で小さな蛾に出会いました。
草の蔭にすぐ隠れてしまいますが、草を払ってもあまり飛ばないやつでユウマダラエダシャクというらしい。



3羽くらいで飛び回っていたのはウスバシロチョウ。
こう見えてもアゲハチョウの仲間で、アゲハチョウ科の蝶は蛹で越冬するのに対して、ウスバシロチョウは卵で越冬するといい、春だけに現れる蝶の一種になります。



草野川沿いの道を戻ってくると、川の上に鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいます。
5月5日の「子供の日」らしい風景ですね。




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湖北の田圃のシギチとオオヨシキリ

2021-05-01 15:22:22 | 野鳥
 滋賀県では新型コロナウイルスの感染予防のためにゴールデンウイーク期間中、琵琶湖岸の公園の駐車場が閉鎖されてしまいました。これは2020年に続いて2年連続の措置となります。
散歩やジョギングは可能とはなっているものの、公園の入口にバリケードが設置されているとなると、ちょっと入りにくくなるのが心情です。

この時期の琵琶湖岸の公園には夏の野鳥が入ってきているとは思いますが、まぁ今年も見送りということになりそうですね。
では場所を変えて田圃へ行こうかと思い、田植えの人が来るまでの時間帯を狙って田圃巡回となりました。



春のシギチは、南方で越冬して北方の繁殖地へと移動するシギ科やチドリ科の鳥のことをいい、旅の中継地として湖北にもやってきます。
多く見られるのはチュウシャクシギですが、湖北でのワン・シーズンで20種オーバーのシギチを見つける人もおられるようです。
ただ、年々飛来してくれる数が減ってきたと嘆いておられる方も多いようです。



当方の探鳥ジンクスには“タカブシギが多い年はシギチが多い”があったのですが、近年はそうでもないようで見つけるのに苦労します。
タカブシギがいるにはいましたが、遠くに1羽のみ。



鳥見を始めた頃の“シギチが湧いている田圃”なんてのはもうないのかもしれない。
もっとも探し方が悪いのかもしれませんけどね。



さらに遠かったのはアオアシシギ。
もう半ばゴースト状態ですが、どいつも今シーズン初見ですからこんなところでしょう。





他にはコチドリがいたくらいでしょうか。ちょっと寂しい感じです。
帰り道にヨシ原からオオヨシキリの声が聞こえていたので立ち寄ってみます。



ホント野鳥の季節は目まぐるしく巡るなぁと感じるのは、ついこの間までツグミの姿があったのにもうオオヨシキリですか。
冬鳥と夏鳥って緩やかに入れ替わっていくような感じがします。





さぁそろそろ田植えの人が朝食を終えて出てくる時間。
ここらで引きあげて遅めの朝食を頂きましょう。


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